第百五十二話 疲労が目立ち始める訓練四日目 その一
お疲れ様です。
本日の投稿になります。
それでは御覧下さい。
この世に生を受ける全ての者が見る悪夢を濃縮した禍々しく、人の正気を容易く狂わせてしまう夢。
正にその一言に尽きる悪夢を越える悪夢が俺の体を襲った。
黒き龍が俺の右腕の内部で暴れ狂い、肉を食い尽くし萎んだ皮膚を引き裂いて恐ろしい姿を現すと。恐怖によって身動き一つ取れない俺の体へ向けて灼熱の炎を口から放出する。
『止めてくれ!!!!』
喉が張り裂けそうな勢いで叫ぶが黒き龍は口元を歪に曲げて嘲笑い。黒炎に焼かれて悶え苦しむ様子を満足気に眺めていた。
体が黒炎に包まれると皮膚をドス黒く焦がし、口から炎の熱を吸い込むと肺が焼け落ちて呼吸が出来なくなる。
右腕、全身。
余す所無く体が焼き尽くされて行く様を只茫然と見つめる事しか出来なかった。
俺は……。
このまま死んでしまうのだろうか??
光さえも届かないこの漆黒の闇の中、誰にも看取られずにひっそりと一人で。
『い、嫌だ!! 俺は死にたくない!!』
無慈悲に迫る死に抗う為、右腕をがむしゃらに動かしていると右の五指が何かを掴む。
それは柔らかく、そして闇を打ち払うには頼りなく細い物であったが。何かを掴んでいないと正気を保てないと考えた俺はそれを握った。
爪を突き立て、全ての指が己自身の力で千切れ飛ぶかと思われる握力で。
『…………だい』
何だ??
漆黒の闇に包まれた空間に柔らかい声が降り注ぐ。
『…………大丈夫』
誰……、だ??
矮小で拙かった声が徐々に大きくなり、体を包んでいる黒炎の熱を和らげて行く。
『…………。大丈夫だよ。私が傍にいるから』
右腕に光が届き、痛みを、そして熱を払う。
黒き龍が温かい光に抗う様に咆哮するが……。
強烈に光り輝く光が龍を包み込み俺の体の中へと押し戻して行った。
あぁ……。
何て……。優しい光なんだ。
俺は上空から降り注ぐ光を、目を細めて眺めていた。
体に降り注ぐ光は長きに亘って大地を濡らし続けている梅雨空に現れた束の間の太陽の様な安らぎを与えてくれる。
全てを包み込む母性さえも感じられる光に問うた。
温かい光に身を委ねても良いのか?? と。
息も絶え絶えに放った俺の問いに対し。
『握ってもいいんだよ??』
光はそう答えた。
その言葉を受け取り強張っていた体の力を弛緩させ暫くすると俺の意識は光の中に吸い込まれて行った。
――――。
ふと目を覚ますと、幾つもの矮小な染みが目立ついつもの天井が無表情な面持ちで俺を見下ろしていた。
「……。夢、か」
そりゃそうだろう。
右腕を食い破って出て来た黒き龍の黒炎に焼かれてしまう夢が現実であって堪るか。
余程の悪夢だったのか。全身が汗でずぶ濡れ、喉も酷く乾いていた。
悪夢で魘されるのは子供の時以来、か。
まるで成長してない精神力をまざまざと思い知らされ。小さく舌打ちを放ち、窓へふと視線を移すと太陽が本日の始まりを告げようと柔軟体操をしている所であった。
「もう起きなきゃいけないな……」
痛む上体を起こして額の汗を右手の甲で拭う。
布団の上に置いた右手へ何気なく視線を送るが当然黒き龍は見当たらない。
畜生……。
絶対飲まれてやるもんか。お前には負けないからな!?
そう心に固く誓うと。
「朝だぞ――!! 起きろぉぉおおおお!!!!」
騒音が堂々と、そして無情に早朝の訓練の始まりを知らせにやって来た。
メアさんも朝から大変だよなぁ。寝起きの悪い方々を毎朝起こしに来るのだから。
彼女に叱られまいとして蓬髪と汗の湿気が目立つ後頭部をガシガシと掻き、布団から立ち上がる。
おっと……。
いきなり立ち上がった所為か、足に力が入らずふらついてしまった。
「レイド!! おき……何だ。起きてたか」
此方の了承も無しに襖を開け、厳しい鷹の目付きをしたメアさんが此方の姿を捉える。
「おはようございます。朝からお疲れ様ですね」
鉄の鍋と鉄製のお玉を持っている彼女に労いの言葉を送る。
「寝坊助共を起こすのが私の仕事だっ」
「あはは。中々起きない連中ばかりですからね」
「今日は珍しく全員寝ているぞ。私も起こし甲斐があるもんさ。おらぁ!! 起きろ!!」
うへぇ。
朝も早くから頭の中に鈍く響く鉄の音を鳴らされたら、例え棺の中で熟睡している死者でも勘弁して下さいと棺の蓋を開いて抗議の声をあげるだろうさ。
「ん――。もう、ちょっと……」
ユウが眉間に皺を寄せて布団へ潜り。
「五月蠅い――」
ルーが耳を塞ぐ。
「起きるからその音を止めてくれ」
リューヴも彼女と同様に耳を塞いでいつもの五割増しで眉を尖らせてしまった。
狼は耳がいいからなぁ、辛さも普通の耳と比べて倍以上に感じるのだろう。
「起きます……」
カエデが行儀良く、すっと上体を起こして驚くべき寝癖を披露。
「喧しいですわねぇ……」
アオイは文句を垂れつつ、布団の中から目元だけを覗かせてメアさんをジロリと睨む。
各々が一日の始まりに向けて少しずつではあるが蠢き始めたのに対し、朱の髪の女性だけは我が道を貫き歩いていた。
「……………………。ふがっ」
おいおい。
嘘だろう?? 何てだらしのない寝相なんだ……。
枕が気に入らなかったのか、将又常軌を逸した寝相の所為で移動したのか知らんが。本来頭の上にある筈の枕はマイの腰の下で此処は己が居るべき場所ではないのか?? と不思議そうに瞬きを繰り返し。
敷布団さんはもう間も無く到達するであろう粘度の高い液体の到着に対して必死に顔を背け、掛け布団さんは寝相の良いユウの上で心地良さそうな寝息をマイの代わりに立てていた。
寝具一式の本来の意味を吹き飛ばす寝相の悪さ。
これだけならまだしも。
「うふぇふぇ……。ユウぅ……。おかずちょぉだぁ――い……」
もう直ぐ女性用下着が御目見えしてしまう位置まで上半身の訓練着が開け、健康的な肌色の皮膚を無意味にガシガシと掻く始末。
マイの御両親がこの姿を見たらきっと咽び泣く事だろう。
あぁ、私達は一体何処で教育を間違えてしまったのだと。
「マイ!! 起きろぉ!!」
耳元で鉄の鍋を叩くが一向に起きる気配は無い。
死んでいるのでは??
そう心配になる程に微動だにしない。
「く、くそ!! 全然起きやしない!! かくなる上は実力行使か……」
メアさんが鉄の鍋を天へ向けて振り上げ、勢い良く鍋の底を悪者へ叩き付けようとしている姿に肝を冷やした。
「ちょ、ちょっと待って下さい!! こいつの起こし方にはコツがあるんです!!」
メアさんの隣に立つ俺に向かって寝惚け眼の龍が襲い掛かって来る最低最悪の事態を想定して彼女の目を疑う行動を御してあげた。
と、言いますか。
就寝中の女性に向かって鉄鍋の底を叩き込む貴女も結構アレですよね??
「コツ??」
「ちょっと待ってて……」
部屋の一角に置かれている荷物の山へ向かって歩き出し、目的の物を手に持ちだらしなく寝ているマイの側に片膝を着いて座る。
「それは……??」
「コイツが先日王都でおやつ様に購入した物ですよ」
さぁって、横着な女性を叩き起こしましょうかね!!
「お――い!! 起きないと……!! このクッキー食べちまうぞ!!」
整った鼻筋にちょこんとクッキーをあてがい、耳元で叫んでやった。
「…………。やらんっ!!!!」
ほぉっら、卑しい口がクッキーへ……。
「っ!?」
し、しまったぁ!!
こいつの呆れた速さを考慮するのを忘れていた!!
「いっで――――――!!!!」
生温かい感触が過ぎ去るとほぼ同時、指先に激痛が走る。
痛みから逃れる為に威勢よく馬鹿野郎の口から指を引き抜いてやった。
お、俺の指は!?
引く抜いた勢いで千切れ飛んだかと思いきや……。
「はぁ――……。良かった」
右手に五指が生え揃っている事に安堵の息を漏らした。
「ふぁむ!! …………、あり?? ボケナス、どうしたのよ」
寝惚けながら、そして咀嚼を続けながらまだ眠そうな瞳で涙目の俺を見つめる。
「あ、朝だぞ。起きて走り込みの時間だ……」
「もう朝ふぁ――。ってか、何で私クッキー食べてるんだろ??」
「枕元にでも置いていたんだろ」
「ふぉうだっけ?? まあいいや。美味しいから」
人様の指を食いちぎるつもりか!!
そう言いたいのをぐっと堪え、モックモックと顎を動かす女性を一つ睨み。悲しみの涙をそっと拭って、頼りない歩みで平屋の玄関へと向かった。
ふぅっ……。
初秋に似合わない陽射しが今は辛いですよ。
悪夢に苛まれていなければ気分爽快で走り込みに向かい、気持ちの良い汗をかくことが出来るのだが今はそんな気分では無かった。
惰眠を貪り尽くし、墓場で横たわる屍様もウンウンと頷く姿勢で横になっていたい気分だ。
「レイドおはよ――!!」
「ん――。おはよう」
頭上に光輝く太陽より眩しい笑顔でルーがこちらを迎える。
「顔洗うと気持ち良いよ!!」
彼女の足元には空気よりも透き通った水が桶に張られているので。
「ありがとうね」
澄んだ水へ右手を豪快に入れそのまま暫く動かないでいた。
ふぅ。
右手の熱が抜けていくな。
「ん?? 顔洗わないの??」
「――。今から洗う所だよ」
不思議そうな彼女の声を受け、器用に水を掬って顔にかけてやる。
冷たさが惚けた頭と体を現実に戻し、ついでに乾いた喉も潤す。
「ふぅ……」
「はい、手拭い」
この声は……。カエデか。
「助かるよ」
いつもの様にこれぞ男の洗顔だと言わんばかりに手拭いをクシャクシャにして顔を拭く。
「もうちょっと優しく拭きなよ――」
「一番目が覚める拭き方なんだ。はい、ありがとう」
カエデへ手拭いを渡すと。
「……。どうも」
ん?? 何だ??
カエデの声に覇気が無い事に気付く。それに寝不足の所為か。目元に浮かぶ青いクマさんが元気良く此方へ向かって楽し気に両手を振っていた。
「カエデちゃん。寝不足??」
「えぇ。夜中まで本を読んでいまして……」
「駄目だよ――。目が悪くなっちゃうよ??」
「安心して下さい。光の魔法で視界は確保していますから」
そういう問題では無くて、訓練中なので夜更かしは良くありませんよ??
「何?? カエデ睡眠不足なの??」
「ふぁあ――。女の子は睡眠を取らないと肌が悪くなるぞ――」
「ユウ、あなたは摂り過ぎですわ」
「マイ、貴様は鼾が五月蠅い。残された者の事も考えろ」
「あぁ、わりぃ――。わりぃ――」
太陽の下で光り輝く花達が続々と集まると静寂が恐れをなして退散。代わりにいつもの謙遜が勢い良く合流して一気に喧しくなる。
朝に不釣り合いな賑やかさですが、こちとら悪夢から覚めたばかりですからね。
いつもなら顔を顰めて自然と静寂を求めるのだが、今だけは心地良い。
「気を付けます」
カエデがそう話すと誰も居ない訓練場へ向かって藍色の髪を揺らして向かって行く。
小さな背中を何とも無しに見つめつつ、ふと彼女の左腕に視線を向けると。
頼りない細さの左腕には見慣れない五つの小さな痣が刻み込まれていた。
お、おいおい。まさか、アレって……。
五つの痣が忘れてしまいたい夢の内容をまざまざと俺に思い出させた。
「カエデ、ちょっと待って」
慌てて歩み出し、彼女を呼び止める。
「何??」
俺の言葉を受けて足を止めると、普段通りに此方を見上げた。
『……カエデ、だよな??』
皆に聞かれないように小さな声で、耳元で話す。
「え??」
『死ぬかと思ったけど。カエデのお陰で楽に眠れたよ。ありがとう。』
俺の言葉を聞くと目元のクマさんが熱がってしまう熱量が頬に発生。徐々に広がりつつある朱の顔のまま俯いてしまった。
「い、いえ。当然の事かと」
『腕痛く無い??』
「平気です。ですが、もうちょっと優しくして下さい。私はそこまで頑丈に出来ていませんから」
「ごめんな?? 次からはもっと優しくするよ」
お道化て言って見せると。
「宜しくお願いしますね??」
彼女は口元に軽い笑みを浮かべて俺の顔を見上げてくれた。
何んと言うか……。
やっぱりカエデの笑顔って……。可愛いよな。
「おら!! さっさと行くぞ!!」
彼女の軽い笑みに見惚れていると、後頭部に鋭い衝撃が走る。
「いって。おい、人の頭を許可無く叩いたら駄目と教わらなかったのか??」
「叩いても宜しいでしょうか??」
丁寧語で理不尽な暴力の許可を取ろうとしても駄目ですからね。
「駄目に決まってんだろ。はぁ……分かった。行くとしますかね」
「しゃきっとせい!!」
「はいはい……」
もう少し静かに出来ないものだろうか。
まぁ……。こいつにそれを注文しても無駄だろうけど。
カエデから元気を貰った事だし!! 今日も一日頑張りましょうかね!!
「おらぁ!! さっさと来い!! 私の家来共っ!!」
「いつからあたし達がお前さんの家来になったんだ??」
「そうだよ――。どちらかと言えば、マイちゃんが私達の家来じゃないの――??」
「聞こえてんぞ!? お惚け狼がぁ!!」
「うっわ……。すっごい地獄耳……」
意気揚々と訓練場に到着し、悪戯に鼓膜を震わせる雄叫びを放つアイツの姿を見下ろしていると少しばかり明るい気持ちが生まれた。
あの底抜けに喧しい姿も偶には役に立つんだな。
なだらかな斜面に併設された階段を下りながらそんな事を考えていた。
最後まで御覧頂き有難うございました。
後半部分は現在編集作業中ですので、投稿まで今暫くお待ち下さいませ。




