第百五十一話 新たなる試練 その二
お疲れ様です。
聖夜の夜にそっと投稿を添えさせて頂きます。
それでは温かい恰好で御覧下さい。
大空に赤と青が均等に入り混じる頃、訓練を一足先に終えた俺達はなだらかな傾斜で一息ついていた。
空に向かって本日の疲労の塊を吐き捨て体を弛緩させていると。とても女性の声とは思えないドスの効いた声が訓練場一杯に広がる。
「死ねぇぇええ!!」
殺気、憤怒、激怒等々。
敗北の二文字を体に刻み込まれ続け、丸一日溜まり溜まった激情を晴らす為に金色の尻尾を揺らす彼女へ向かって解き放つが。
「遅い!!」
素早く、そして人体の急所である人中に向かって放たれた拳を紙一重で躱す。
歴戦の勇士も尻窄む圧と殺気の拳をいとも容易く回避、ですか。
ふふ……。流石で御座います、師匠。
卓越した体捌きで攻撃を回避して敵を翻弄、素早い身の熟しだけが特筆されるかと思いきや。その拳は激烈。
例え、防御力に特化した敵の装甲でも容易く貫く攻撃力を備えているのだ。
攻守共に完璧。
あの牙城を崩す為には俺達全員で立ち向かわなければ不可能であろうさ。
恐ろしく歪んだ顔の龍と、軽い笑みを漏らして額に汗を浮かべている狐の女王が対峙して激しい攻防を繰り広げていた。
「はぁ……。元気だなぁ……」
俺と同じく傾斜に座っているユウが呆れながら声を漏らした。
「ユウ、師匠から一本取れた??」
彼女と同じ方向を見つめながら、勝敗が気になったので聞いてみる事にした。
「ん――?? 無理に決まってんだろ。いいように殴られて、叩きつけられて。少しは手加減しろってんだ」
愚痴を零し、大の字で地面に転がる。
「まぁ……。そういう時もあるさ」
「そっちはどうなんだ?? あの卑猥な犬との組手は」
「充実した時間を過ごせたよ。力の使い方にも慣れて来たし」
本当はもう少しだけ慣れておきたかったのですが……。
『も、もう嫌だ!! 俺は帰るからなっ!!』
まだまだこれからって時にベゼルが体力の限界を迎え、尻尾を垂れに垂れ。ピスピスと鼻を鳴らしながら御主人様の下へ戻って行ってしまった。
最初は溢れ出る力に困惑し、戸惑い、全力を出すことに億劫になっていたが黒犬を追う度に馴染んで来た。今日一日の収穫は有りとしましょう。
だが、油断は禁物だ。
精神の中で見た龍の力は呆れる程に強靭で強大。
調子に乗ればその力に飲み込まれる。それは火を見るよりも明らかだから。
訓練着の中の右腕は今も燃える様な残火が迸り、悪戯に肉と皮膚を焦がしている。
少しでも気を抜いたら痛みで叫んでしまいそうなのですよ……。
「レイド様」
「ん?? どうしたの??」
アオイが隣に座り、右手を取る。
「御手を見せて下さいまし」
彼女が俺の了承を得る前に裾を大胆に捲ると。
「やはり……」
俺の右腕の惨状を発見すると目を丸くした。
皮膚は爛れ、肉が縦に裂け、至る所から深紅の血液が染み出ている。
心配を掛けまいと隠していたが……。
鋭い彼女には見透かされていたようだな。
「なぁにぃ?? どうした……。うぇ!! すっごい怪我じゃん!!」
ルーが何気なく近寄り、俺の右腕を見下ろすと驚愕の声を上げる。
「主、痛くは無いのか??」
「大丈夫……、かな?? 痛みはあるけど、この力に慣れておかないと」
これが今言える精一杯の強がりです。
表面上の痛みでは無くて、中身が燃える様に痛い。
まるで熱された鉄板を右腕の中に無理矢理突っ込まれた痛みが今も生じているのですよ。
だけど、ここで弱音でも吐こうものなら皆に対して迷惑が掛かる。訓練中の身である彼女達の足を引っ張る真似だけは憚れるからさ……。
「余り無理はなさらないで下さい」
アオイが手を翳すと淡い光を放つ魔法陣が浮かび、傷を癒してくれる。
剥がれた皮膚が再生を続け痛みが徐々に引いて行く事に驚きを覚えた。
おぉ……。凄いな……。
「アオイ、代わろうか??」
カエデがちょこんと座り、怪我の様子を伺う。
「大丈夫ですわ。もう直ぐ終わりますので……」
「そう」
「お。あっちも決着つきそうだぞ??」
ユウの声を聞き、訓練場に視線を移す。
「でやぁぁああ!!」
マイの常軌を逸した速さの拳が師匠の頬へ目掛け放たれる。
「ふん。愚直過ぎじゃ!!」
「ン゛ッ!? いでっ!!!!」
上半身のみの動きで拳を躱し、背後の尻尾がマイの顎を下から跳ね上げ。
「くそっ……!!」
脳を縦に揺らされて足に力が入らないのか、地面に膝を着いて勝敗は決した。
うへぇ。
今の痛そう……。
「速さは合格じゃ。じゃが、動きが直線的過ぎる。容易に軌道が読め、そこから繋がる行動も十手先まで丸分かりじゃ。工夫せい、工夫を」
「あいたっ」
一本の尻尾がぴしゃりとマイの額を叩く。
「工夫してるわよ」
「それは工夫と言わん。惰性で体を動かし、瞬時に体が動いているだけじゃ。儂は常々言うておろう。相手の動きを……」
「……。己の澄み渡った水面に、鏡の様に映せ」
師匠の言葉に続く文字を小さく呟き、己に強く言い聞かせた。
師匠、有難う御座います。自分達の様な若輩者に態々指導して下さって……。
「攻撃を読み、躱し、反撃する。簡単じゃろうて」
「はいはい……。はぁっ……、つっかれたぁ」
体の力を弛緩させ大地に横たわり、疲労と敗北で募った負の感情を空へ解き放った。
師匠の眼前でみっともないからおよしなさいよね……。
「返事は一度じゃ。良し、本日はここまで。夕飯にしようかの」
そう話すと、モフモフの金色の尻尾を揺らしながら此方へと向かって来る。
額にじわりと浮かぶ汗、道着の合間から覗く女性らしい柔肌の首筋にもうっすらと汗が浮かぶ。一日中傑物達の相手を務めていたのを感じさせない軽快な汗だ。
「お疲れ様でした、師匠」
座ったまま迎えるのは弟子失格。
キチンと両足を大地に突き立て、模範的姿勢と声色で我が師を迎えた。
「うむ。どうじゃった??」
一言に十の意味を込めた言葉を投げかけて来る。
「まだ振り回されていますが、いずれは慣れて来ると思います。只、強大過ぎる力故過信は禁物かと」
「ほぅ、賢しいな。力に飲まれ暴虐の限りを尽くすのは只の阿呆じゃ。力は振り翳す物では無い。努々忘れるではないぞ??」
「了解しました」
力は振り翳す物では無い。
強大な力を好き放題放つのは無頼漢であり、真の強者は立ち塞がる敵に対してのみそれを解き放つ。
うんっ、確かにその通りだ。
師匠の言葉を受け、心の中で反芻し、噛み砕いて飲み込む。
今の言葉、忘れぬよう確と心に刻んでおかなければ……。
「ほれ、行くぞ??」
にぱっ!! と輝かしい笑みを浮かべると俺の肩に飛び乗る。
柔らかい太腿と少しばかりの汗の香り、そして随分と小振りな臀部の感触に肩と鼻が喜んでいますよ――っと。
「ちょっと!! レイド様はお怪我をなさっていますのよ!?」
「ん――?? 痛むのか??」
「……、いいえ。大丈夫です」
ここは逆らわないでおこう。
下手に反論したら頭頂部に踵が襲来する恐れがありますし。ベゼルの二の舞は御免です。
「だ、そうじゃ。ほれ、歩かぬか」
頭をポンっと軽く叩き平屋へ進めと指示を出す。
「畏まりました」
俺は師匠の愛馬ですか??
慎ましい愚痴を心の中でぼやき、軽い師匠の体を背負うと平屋へと向かい。
玄関口の梁に師匠の頭を接触させぬ様、慎重に潜り抜けて畳を上に到着すると。
「――――。師匠、到着しましたよ」
両足をプ――ラプラと楽し気に揺れ動かしている彼女へ目的地到着を知らせた。
「何じゃ。もう到着か、つまらんのぉ」
早めの到着に大変ご不満な声色が頭の上から降って来る。
「自分は座布団を用意しますので降りて下さいね」
「ふんっ。仕方が無い」
師匠が軽やかに畳の上に着地するとほぼ同時。ふわぁっと花の香が鼻腔を刺激した。
はぁ……。
すっげぇ良い匂い……。
師匠の匂いって独特だよな。
女性らしいとも言えるし、花の精とも言える。きっと師匠の前世は花の女神様だったのだろうさ。
等と頭を傾げたくなる下らない妄想にお別れを告げていつも通りに座布団を円状に並べ置いて行くのだが。
「ボケナス――。ちゃっちゃと用意しろや――」
毎度毎度、こいつと来たら動きやしない。
だらしない恰好で、しかも女性らしからぬ足の広げ方をして座っている。
貴女は御両親からどういった教育を受けて来たのか小一時間程問い詰めてやりたかった。
「これ、レイド。さっさとこっちへ来ぬか」
「畏まりました!! ほれ、受け取れ」
「ブモッ!? ちょっと!! 投げる事無いでしょ!!」
横着者の顔面に向けて座布団を軽く投擲。
「師匠、お待たせしました」
「あぁ――……。腹減ったぁ……」
座布団を枕代わりにして畑の中で腐り落ちた人参みたいな姿で横たわるアイツを反面教師にしてキチンと姿勢を正して座った。
「これ、もっと足を崩せ」
「はい??」
師匠の指示を受けて足を崩すとそれを見届けた彼女が徐に立ち上がり、そして人一人分が腰を下ろせる空間が出現した膝元へ何の遠慮も無しにポスンっと腰を下ろしてしまう。
「はぁ。極楽じゃなぁ……」
金色の髪が眼下に揺れ、師匠の背中と俺の体の合間に収まったモコモコの尻尾からは花の香りが鼻腔を優しく抜ける。
「自分は座布団代わりですか??」
フサフサの尻尾に伸びそうになってしまう手を、理性を総動員させて急停止。一呼吸置いてから口を開いた。
く、くそう……。
時が止まれば好きなだけこの尻尾を触れられるってのに……。
「まぁ、そうじゃの。話は変わるがその力。決して無暗に使うでないぞ??」
首だけを器用に動かして此方へ振り返り、大きな瞳の中に咲く向日葵が俺を捉える。
その瞳は曇りなく、一点を見つめる様に真剣そのものであった。
「分かりました。その御言葉、この胸に確と刻みます」
「うむっ。そうしろ」
そう話すと再び正面を向いた。
「過ぎた力は身を滅ぼす。お主も例外では無い」
何だろう。
ちょっと声に元気が無いような……。
「以前何かありました??」
師匠程の出来た人が萎えてしまう種が気になったので伺ってみる。
「何も無いわ。お主が道を外さぬよう、指導をしているだけじゃ」
「そう、ですか」
詮索は良く無いな。
これ以上聞くのは野暮ってもんだ。
師匠も一人の女性、聞かれたく無い事の一つや二つあるだろう。
「あ、そうだ。昨日エルザードに聞いたのですが、師匠達を鍛えた人物ってどんな人でした??」
少しだけフニャっと折れ曲がった尻尾を元気付けるべく努めて明るい声を上げて話題を振った。エルザードには聞いたが、師匠からはまだ伺っていないからね。
「そうじゃなぁ……。儂の人生の中で、あれ程出来た人物はいなかった。強く、優しく。儂もあぁいう風になりたいと思っておったわ」
ふぅん。
殆どエルザードと変わらない印象だな。
「惜しい人を亡くしましたね」
「あぁ……。本当に、惜しいわ……」
尻尾が垂れ、畳の上に元気無く横たわる。
あぁ、もっと萎びてしまった。
悲しい出来事を思い出させちゃったかな??
「じゃが、今儂達にはお主らがおるから悲しむ暇も無いわ。世話の掛かる者共ばかりで骨が折れるからのぉ」
「なんだかんだでエルザードの事も好きなんですね??」
「はぁ?? いつ儂がそんな事を言った??」
眉間に恐ろしい皺を寄せ、再び此方を見上げる。
「ほら、今『儂達』 って」
「あ……」
頬をぽぅっと朱に染め、正面に顔を向けてしまった。
天邪鬼なのかな??
「お待たせしましたぁ!! 本日の夕飯で――す!!」
「いよぉぉっ!! 待ってましたぁぁああ!!」
遂に来てしまいましたね。
朱の髪の女性の気持ちとは正反対の心持ちでモアさん達を迎えた。
「ほぉっ。今日も美味そうな飯じゃのぉ」
フッサフサと揺れる金色の尻尾の隙間から食材を確かめるが……。
例のモノは確認出来なかった。
人知れずほっと胸を撫で下ろして、献立を確認すると。
本日の夕飯は。
水々しい山菜の漬物、旬の野菜の炒め物にいつもの白米の山脈はどういう訳か本日はお留守番。
その代わりに山を越える高さの蕎麦が御櫃の中に盛られていた。
「御蕎麦用の汁は此方です――。ワサビと葱も御用意してありますので、好きなだけ召し上がって下さいね――」
成程。
趣向を変えて蕎麦を打ったのですね??
米に比べて麺類はスルスルと口に出来ますし、食に対して億劫になるカエデも沢山食べられるでしょう。
少しだけ上半身を反らして左隣の彼女の様子を窺うと。
「……っ」
ほっと胸を撫で下ろして蕎麦の山を眺めていた。
溜飲が下がった理由は米じゃなくて、きっとアノ事だと思うけども……。
「わっ、わっ、わぁぁぁぁいいっ!!!! 無限蕎麦だぁぁ!!」
言うが早いかマイが誰よりも先に蕎麦の下へと駆け寄り、人間の赤ちゃん程度の大きさの蕎麦を皿へ盛り。
「っと……。えへへ、御汁忘れてたっ」
丼に一杯に汁を入れて己の席へと戻って行った。
そして、それを合図と捉えた各々が移動を開始するのですが……。
「イスハ様、どうぞ」
「うむっ、御苦労じゃ」
「えっと、師匠。自分も取りに行きたいので腰を外して頂けませんか??」
師匠の脇へ手を差し込んで、よっこいしょと退かす訳にもいきませんし。
「お主は儂の座布団じゃ。そこから動くな」
え、えぇ――……。
俺も蕎麦を食べたいのですけども……。
「むほほぉぉんっ!!!! 喉越しやっべぇぇええ!!」
「「「頂きます!!」」」
マイの奇声を皮切りに本日の楽しい夕食が始まってしまった。
「もふっ。ユウ!! これ、食え、美味い!!!!」
「色々言葉が抜ける程美味い蕎麦って事は分かったから、こっち向いて叫ぶな!! 色々飛んでくるんだよ!!」
「あぁっ!! リュー、お野菜食べていないじゃん!!」
「狼は草食獣では無いのだ」
いいなぁ。
皆、美味そうに食うよなぁ。
向こう正面で美味そうに飯を食らうマイとユウの食事の光景を羨望の眼差しで眺めていると、我が師が態勢を変えて食事を開始した。
「ほっと。どれどれぇ?? 蕎麦の味はどうかなぁ――」
左足の太腿に腰掛け、足を垂直方向に投げ出して丼の中の蕎麦を美味そうな音を奏でて啜り食う。
「んんぅっ!! 美味いのぉっ!!」
でしょうね。
足をパタパタさせて食べていますもの。
余程味が気に入ったのか、頭頂部からフカフカの獣耳がぽふっと生え。絶妙な柔らかさを誇る臀部を微妙に揺らし、そして丁度良い硬さの脹脛がポンポンと等間隔に俺の右太腿を刺激する。
お行儀が悪いですよと声高らかに叫びたいのですが……。
その、何んと言いますか。ものすごぉく父性を刺激される御顔と姿勢なのですよねぇ。
蕎麦の汁の矮小な液体が鼻頭にちょこんと乗り。
「んふふっ!! 蕎麦の御供においなりさんっ」
師匠の大好物であられるおいなりが運ばれて来るとそれを無邪気に口へと運び。
「んっくんっく……。ぷはっ!! はぁ――。美味いのぉ」
右の口角に無防備な米粒が残れば誰だって父性が湧くとは思いません??
あぁ、ハンカチで師匠の御口回りをグシグシと拭きたい。
「むぅ?? お主も食べたいのか?? ほら、あ――んじゃ」
そして、俺の視線を勘違いした師匠が食べかけのおいなりさんを此方に向かって差し出した。
「後で食べますので……」
と言いますか、父性が暴走してしまいそうなので退いて頂けたら幸いです。
「むぅっ。お主が食べたそうにしておるから、儂が折角運んでやったのに」
師匠から見れば俺はそんなを目を浮かべているのだろうか??
子供の無邪気な姿を見守るお父さんの瞳なのですけども……。
「食べたら退いてやるぞ??」
「本当ですか??」
「女に二言は無い」
男に、じゃなかったっけ??
まあいい。
細かい事を一々気にしていたら此処での生活は送れないのです。
「あ――んじゃよ――」
「では、頂きます」
意を決し、師匠が直接指で摘まんでいるおいなりさんを食らってあげた。
「どうじゃっ??」
「……。美味しいです」
酢飯に残る微かな御米の甘さ、そして稲荷の独特の味。
食を取る形はどうあれ。おいなりさんの味は最高でした。
「ふふ。良かったのぉ」
俺が咀嚼を終え、素直な感想を述べると眼下で満開の花が咲いた。
口角をきゅぅっと上げ、ピコピコと前後に獣耳を揺らして笑うこの姿。
これが大魔と呼ばれ俺達を指導する者の顔だと思うと、お父さん何だか気が抜けちゃいますよ。
「はい、レイド様。あ――んですわ!!」
朗らかな親子の食事の光景に憤りを覚えてしまった蜘蛛の長女が右腕に絡みついて来る。
「っつ。――――。いや、自分でふぁふぁふぇる……」
アオイの箸を断ろうとすると視界が花の香りが漂う尻尾に塞がれついでに、何故か分からないが右腕に絡みつく女性を尻尾で押し退けてしまった。
「ちょっと!! 邪魔しないで下さりますか!?」
「儂の弟子は儂が面倒を見る。お主は一人で飯を食っておれ」
「それはそれ、これはこれですわ!!」
「喧しい!! こやつは儂の差し出した飯しか受け取らぬのじゃ!!」
売り言葉に買い言葉。
両者の甲高い声が温かい毛越しに鼓膜へと届く。
その間、俺は大地にひっそりと生え伸びる巨木の如く微動だにしなかった。
何故ならこれが、俺なりに生み出した処世術だからだ。
何かを言えばそれが火種となり、大炎となる。そうならぬよう、嵐が過ぎ去るのをじっと待ち被害が大きくならない事を祈るのが最善の答え。
果たして本日の夕食は満足に食べられるのだろうか??
「失礼しますわっ!!」
異常なまでに男心擽る柔らかさを誇るモノが右太腿に乗れば。
「ぬぁっ!! 儂の座布団に乗るな!! 戯け者がぁ!!」
左太腿で丁度良い塩梅の柔らかいお肉さんがポンポンと抗議の為に跳ねてしまう。
馨しい香りを放つ毛に囲まれながら一切身動きを取らず、口を開かず。徐々に首元に絡みついて来た数本の尻尾を指で押し退け気道を確保しながら、只々無心で己の食事の心配だけを続けていた。
最後まで御覧頂き有難う御座いました。
後書きに掲載時のカットシーンを載せておきますので、お時間があれば御覧下さい。
それでは皆様、お休みなさいませ。
~カットシーン~
覚醒とも睡眠とも判断し難い微睡の状態の中、彼が使用していた布団の中で寝返りを打つと。その動きの最中に鼻頭がちょこんと枕に触れて彼の残り香を意図せず嗅ぎ取ってしまった。
あ、はぁぁ……。
この枕に染み込んだ雄の香り。堪らないわねぇ……。
可能であればずぅっと嗅いでいたいけども、鬱陶しい足音が聞こえて来たし。ちょっとの間はお預けね。
ぼぅっとした眼でしっかりと閉じられている襖を眺めていると、けたたましい音と共に開かれてしまった。
「エルザード!! ちゃんと小僧の指導を果たしたぞ!!」
「ん――。ごくろ――」
あらあら……。
体中埃と砂だらけじゃない。しかも、至る所に重傷とまではいかないが怪我を負っている。
流石、私の旦那さん。
初日で力の扱い方を覚えるなんて……。それにまぁまぁの力を持つこの馬鹿犬を辟易させる体力と膂力。
はぁ……。早く私の赤ちゃんの部屋を彼の命で満たしたいわねぇ。
「約束は果たしたっ!! つまり、俺にはエルザードの体を舐め回す権利が与えられる訳なんだ!!」
そんな約束した覚えはないんだけど……。
一々反論するのも面倒だし。ちゃちゃっと片付けますか。
「んっ。良いわよ、ほら……。おいで??」
体の上に覆いかぶさる掛け布団を外し、世の男性が渇望する艶めかしい肢体を披露すると。
「ワ、ワ、ワォォォォオオンッ!!!! いやっほぅい!! 御馳走だぁぁああ!!」
馬鹿犬が汚い涎を垂らしながら予想通り、私に向かって飛び掛かって来た。
「――――。はい、お帰りなさ――いっ」
「げぇっ!?」
飛び掛かって来る馬鹿犬の軌道上に魔法陣を展開。
「お、覚えておけよぉぉぉぉ――……!!」
魔法陣に吸い込まれて行く馬鹿犬を見送ると、再び彼の香りが残る枕に頭を乗せた。
ふぅっ、これで一件落……。
『おい!! 勝手に閉じ込めやがってぇ!! 聞いているのかぁ!?』
五月蠅いわねぇ……。
使い魔って便利な分、たまぁにこうして泣き叫んで来るのが厄介なのよ。
『やい!! 聞こえてんのは分かってんだぞ!?』
『オーウェン、後始末は宜しくぅ――』
『畏まりました、エルザード様。ベゼル、我が主はその時に備えて休まれているのだ。貴様も主の子を見たいであろう??』
落ち着いた口調で馬鹿犬を諭すのは流石古参の一人といったところか。
馬鹿犬とは違って頼りになるわねぇ。
『アイツの子を孕むのなら俺の子を孕め!!』
『いや、それは無理だ。我々は肉体を持てども生殖機能は備わっていない。それに貴様は犬であろう??』
『頑張ればな、何んとかなる筈!!』
馬――鹿っ。なる訳ないでしょ。
さて、これ以上聞いていたら頭痛がしてくるし。強制的に使い魔達の声を遮断して微睡もうっと。
「んっ……。気持ちい良い……」
彼が使用していたかけ布団をきゅっと抱き締めて、微睡を堪能しているとイケイナイ感情が湧いて来るではありませんか。
「はぁっ……」
己の体温で温まった布団を内又で挟み込み、何かを誤魔化す様に擦り合わせていると大変静かな足取りで藍色の髪の女性が訪れ。心地良い時間の終了を残酷に告げた。
「先生。間も無く訓練が終わりますのでそろそろ起きて下さい」
今日もしごかれたみたいねぇ。
可愛い顔が土と埃、そして小さな切り傷で台無しじゃない。
「え――。まだ彼の香りを体内に染み込ませていないからヤ――」
早朝から夕刻の間こうして眠っているけど、まだまだぜぇんぜん足りないもんっ。
「食事が始まりますので起きて下さい」
あら、私の言葉をサラリと受け流したわね。
「カエデもどぉ?? 私の香りが半分混ざっているけど、まだまだすんごい雄の香りが漂っているわよ??」
掛け布団を半分だけ開いて此処においでと誘うのだが。
「――――。先生、どうして下着姿で眠っているのですか??」
大変こわぁい顔で私の寝間着姿を睨んで拒絶されてしまった。
「どうしてって……。冬は流石に寝間着を着るけど、それ以外の季節は大体下着一枚で眠っているわよ」
「そう、ですか。指導者として有り得ない姿ですので服を着用。そして、今から五分以内に布団を片付けて起床して下さい。食後に私が指導を受け賜わりに参りますのでそれまでに先生も……」
うっわ……。うるさっ。
「相変わらず、海竜の一族はクソ真面目なんだから……」
キチンと布団を被り、五月蠅い小言から逃れる為に結界を展開。
そして、彼が私の夢を見られる様に枕を内股に挟んで淫魔の女王の強力な香を染み込ませてあげた。
あはっ、レイド……。今日は良い夢見られるわよ――??
イケイナイ気持ちを抱きつつ私の香りを枕へ譲渡していると。
「――――っ!! ふぅっ、ですから先生」
いやいやいやいや。
私の結界を速攻で破壊するってちょっと凄くない??
「あらぁ……。以前戯れた時よりも随分と腕が上達しているじゃない」
「彼女達と過ごした日々が私を強くしたのです。先生、本日の補習指導なのですが空間転移を軸に進めたいと考えております。つきましては……」
あ――もぅ!!!!
明日も指導があるんだから明日で良いじゃん!!
内股からスポっと枕を引き抜き、いつまでも鳴りやまぬ口撃から逃れる為。俯せの状態へと変化して頭の上から枕を被り避難。
しかし、それでも彼女の口撃はやむ事は無く。挙句の果てには無理矢理枕と布団を引っぺがして私が根負けするまでそれは続けられたのだった。




