第二百六十二話 嵐渦巻く戦場で吠える獣 その二
「勿論理解していますよ。でも私は……。この世界を壊しても、決して覆せない理に反しても、そして神や悪魔に反逆してでも!!!! ダンさんと共に人生を歩んで行きたいの!!!!」
「そ、そんな事は私がさせない!! 貴女を殺して世界の崩壊を食い止めてみせる!!!!」
「蟻の力で神の力を宿した私に勝てるとでも??」
「奢るなぁぁああああ――――ッ!!!! 創造主様を降誕させる只の道具が!!!!」
「それは此方の台詞ですよ。忌嫌遺物、所詮は創造された物が正答な血統を受け継ぐ者に楯突く事自体が烏滸がましいのよ」
「う、五月蠅い!!!! その口を閉ざせぇぇええええええ――――ッ!!!!」
激昂したイリシアの体から魔力が迸ると反物理結界が展開され、それとほぼ同時に奴の足元に深紅の魔法陣が浮かび上がりそこから大量の触手が首を擡げて出現する。
触手がこれまで以上に苛烈な動きを見せるものの、マリル殿には何も響かぬのか。
「……」
彼女は激しく蠢く触手と相対しても無表情のままでその動きを只々捉え続けていた。
「死ねぇぇええええ――――ッ!!!!」
イリシアの足元、そしてマリル殿の足元にも浮かんだ深紅の魔法陣から出現した触手が奴の叫びと共に行動を開始。
マリル殿は前後左右、そして上下から襲い掛かる攻撃に一切動じる事無く己の体を両断しようと荒々しい動きを見せる触手に対して静かに右手を掲げた。
「反物理結界……」
「「「「ッ!?」」」」
この場に居る全員がマリル殿を包み込む不思議な七色の淡い光を捉えると驚愕の吐息が口から零れてしまう。
それはそうだろう……。これまでイリシアしか詠唱出来ないと考えられていたアノ高硬度の結界を展開したのだから。
「フフッ、貴女に出来て私に出来ないとでも??」
「だ、黙れ!! 私と同じ結界なら相殺させて……。ッ!!」
「クスッ、そこまで理解出来てしまって後悔した様ね?? そう、貴女に出来る事は私もすべからく出来るのよ」
マリル殿が右手に魔力を籠めるとイリシアが展開していた反物理結界が音も無く崩壊。
「さぁ……。風の刃で踊り狂って死ね……」
そして左手を静かに前に掲げるとイリシアの足元に淡い緑色の魔法陣が浮かび上がり、奴はそこから発生した強烈な竜巻に巻き込まれてしまった。
「うぁぁあああああああ――――――ッ!?!?」
局所展開した結界によって致命傷は避けているだろうが、小さくも確実に殺傷能力のある風の刃が奴の体を確実に傷付けて行く。
発生当時の竜巻は塵と砂塵に塗れた茶であったが、今となってはイリシアの体から溢れ出る血液によって得も言われぬ複雑な色となって清らかな森に暴風を齎していた。
「あ、あぁぐっ……。う、うぐぐぅぅ…………」
竜巻の勢力が弱まり血のカーテンの向こう側から俺達の前に現れたイリシアは抵抗する素振を見せる事無く、只々力無く地面に項垂れている。
奴の体は鋭利な刃で切り裂かれた様に傷付き肉の合間からは夥しい量の血液が噴き出しており、その怪我の中で最も目立つ傷は消失した両腕だ。
切断面から覗く白骨は見事に両断され肉の隙間から見える太い血管からは今も激しい出血が確認出来、森の大地を鮮血に染めていた。
俺達が死力を尽くしても傷を与えられなかった敵に対してあれだけの傷を負わせる。
それもたった一人で……。何んと言う力の塊なのだ……。
武の道は終わりの無い果てし無き道。
死が直ぐ近くに存在する道の終わりに何が待っているのかは誰も分からぬが、もしかしたらマリル殿の姿がその答えなのかも知れない。
そう、自我を保てぬ程の力を身に宿して修羅の道に堕ちる事が武の極みとしての正解かも知れないな。
俺もいつかあの様な姿となって愛する者の為に血を流し、魂を削り、命の輝きを明滅させる事が出来るだろうか??
その答えは今の己の姿だ。
俺は命を燃やし尽くして敵を倒すという決意を胸に秘めた彼女と違い、歯痒い思いを胸に抱いて戦場に只立ち尽くしているのみ。
その事に対して憤りを覚えないかと言われればその答えは否。
敵を倒せぬ己の弱さに歯ぎしりをして彼女の強さに敬服している自分に心底嫌気が差した。
マリル殿……。貴女は強い。
だが、それ以上の力の解放は己の自我を崩壊させてしまう恐れがあるぞ。いや、もしかしたらもう既に彼女の自我は崩壊しているのかも知れない。
そうでなければこの常軌を逸した強さは説明出来ないのだから。
「それが痛みよ。でも私が受けた痛みはもっと苛烈で強烈なの。貴女が魔力の続く限り自己再生をするのなら痛みを与え続けてやる。両足で逃げるのなら両足を切断して、空間転移で逃げるのなら地の果てまで追い続けて拷問なんて生温い痛みを与え続けるわ」
「くっ!?」
この戦いが始まって初めてイリシアの目に怯えの二文字が現れると彼女の背後の森から一人の男性と女児が戦場に姿を現した。
「イリシア!? そ、それにその変異した姿は……ッ!?」
此度の事件の首謀者の一人でもある男性が両腕を失い地面に情けなく蹲るイリシアと亜人の力を覚醒させたマリル殿を捉えると驚愕の表情を浮かべる。
「ッ!!!!」
そしてマリル殿が男性を捉えると表情が憎悪一色に染まり、更に体に纏う禍々しい圧が苛烈に上昇した。
「お前が居なければ私達は幸せに暮らしていた筈なのに……。何故私達から幸せを奪ったのか!!!!」
「わぁっ!?」
マリル殿が右手を静かに上げると男性の周囲に結界が展開し、開いた右手を徐々に閉じて行くと結界もまた縮小していく。
ま、まさか。結界内であの男を圧壊させるつもりなのか!?
「や、止めてくれ!! 私達は遠い親戚じゃないか!! そ、それに無力な人間を殺す事に罪の意識は無いのか!?」
「ある訳ないじゃない。貴方は人じゃなくてクソ以下の虫けらみたいな存在なのだから」
結界内から男性のくぐもった悲鳴が届くが彼女の心には微塵も響かず、それ処か更に憎悪の炎の熱を苛烈に上昇させてしまう。
「お、お願いだから此処から出してくれ!!!! わ、わ、私は死にたくない!!!!」
男が結界の内側を何度も拳で激しく叩くと鈍い打撃音が戦場に流れて行くが誰もが恐怖という名の鎖に縛られその場から一歩も動く事が出来ず、刻一刻と確実に迫る生命の光を閉ざす残酷な瞬間を傍観していた。
「その身で己が犯した罪の痛みを噛み締めながら死ね」
彼女の瞳に憎しみの火炎が渦巻き、徐々に閉じて行く右手が完全に閉じられると。
「や、や、やめて……。ギィィヤアアアアアア――――ッ!!!!!!」
男性の悲鳴を最後に、肉が畳まれ骨が折れ曲がり圧縮されて行く耳を疑う残虐な音が森の中に響き。そしてそれが止むと大人の拳大にまで縮小された肉の塊がそこに静かに存在していた。
そして乾いた音を立てて結界が崩壊すると結界内の高圧力から解き放たれた大量の血液が周囲に飛び散り森の清らかな深緑を大いに穢し、血特有の鉄の匂いと臓物から溢れた糞尿の饐えた臭いが鼻腔に侵入。
その得も言われぬ果てしなき異臭が更なる恐怖を生んだ。
「……」
彼の亡骸の直ぐ近くに居た女児は血液を顔面に浴びても何ら表情を変える事無く、己の父親であったモノの塊を無表情のまま見下ろしている。
「「「「……っ」」」」
俺達は戦場に迸った戦慄と恐怖による二つの金縛りによりその場から誰一人として動けず、肉の塊になり果てた男の無残な死を眺めていた。
これは本当に現実なのかという疑念を持って。
「さ、もう一人の人間も始末しましょうか。まぁ此処で殺しても世界の何処かで善の心を継承した亜人の血筋が覚醒するだけですけどね」
一人の男性の殺害だけではマリル殿の復讐の炎の熱量は冷める事無くもう一人の女児を殺めようとして男性の死を無感情のまま見つめていた子供に右手を翳す。
「止めるのだ、マリル殿」
流石にこれ以上の無益な殺人は了承出来ない。
そう考えて相手を刺激せぬ様、彼女の心に響く様な柔らかい口調で話し掛けた。
「そ、そうだぜ。これ以上は自衛行為じゃなくて無益な殺戮になっちまうよ」
「某も同意しよう。それに……、某の腕の事は気にしなくて良い。これは己の無力から齎せられた傷なのだから」
フウタとシュレンも俺の考えに肯定したのか、俺以上に優しい声色で話し掛けるものの。
「だったら……。だったら!!!! 私を守ってくれたダンさんはどうするのですか!? 彼の居ない世界なんて色が失われた世界なのよ!?!?!?」
憎悪の火炎が渦巻くマリル殿の心には俺達の声は届かず、美しい黒き髪を振り乱して肉塊になった死体と無実な女児へと怒りの視線を向けた。
「誰かを想う温かな心、子の成長を願う母親の愛情、何処までも続くであろう静かなる日常。この世界には小さな幸せが散りばめられて存在している。マリル殿が行おうとしているのはそれら全てを虚無に還して奪う行為なのだぞ」
腸が煮えくり返る程に怒りを覚える事だが、大罪を犯した者にもそこに居る女児にも幸せになる権利が与えられている。
それはこの世界に生まれた者が等しく持つ権利だ。
それを罪だとして一方的に、暴力的に奪取する権利は我々に与えられていない。その権利が与えられているとしたらその者はこの世界を創造した神のみであろう。
そう、創造の唯一神のみだ。
神に等しい力を持つ者にはその権利を、力を付与されていないのだ。
「他人の幸せなんて何の価値も無いわ。私は私だけの幸せを追求する。その為に……、その為にぃぃいい!!!! 私は神が想像した理を破壊する!!!!」
「マリル先生止めてぇぇええええ――――ッ!!!!」
フィロが絶叫を放つものの、マリル殿の心には響かぬのか。
「……っ??」
己の周囲に展開された結界を捉えても只不思議そうな表情を浮かべる女児に対して強烈な殺意を向ける。
「せ、先生止めるのじゃ!! わしらの愛する先生は無益な殺生を好まぬ筈じゃぞ!!」
「その通りよ!! 私が敬愛する先生は本当に優しい心の持ち主なんだから!!」
「先生お止め下さい!! そんな事をしてもダン先生は喜びませんわよ!?」
「せ、せんせい……。ひぐっ……。いつもの優しい先生になってよ……」
生徒達の悲壮な声が静まり返った戦場に響くものの、マリル殿の思考はあの女児を殺害する事だけに傾倒していた。
これ以上の無益な殺人はとてもじゃないが了承出来ぬぞ!!
血の繋がった家族よりも強固な絆で結ばれた家族達の声も届かぬのなら俺がこの剣で彼女の無益な殺人を断つ!!
筋疲労が骨の髄まで残る右足に力を籠め、己の刃に不義を断つ強烈な意思を籠めたその刹那…………。
俺は思わず己の耳を疑ってしまう音を拾ってしまった。
「――――。マ、マリルさん。それ以上は駄目だ……。貴女が貴女でなくなってしまいますよ……」
そ、そ、そ、そんなまさか!?
心臓を貫かれて死した者が起き上がっただと!?!?
「「「「ダンッ!?!?!?」」」」
俺と同じ考えを抱いた者の視線がその場から上体を起こしてマリル殿の背中を見つめているダンに注がれた。
「ダ、ダンさん?? 一体どうして……。う、う、ウグァァアアアアアアアア――――ッ!?!?」
ダンの姿を捉えたマリル殿が両手で頭を抱えるとその場に蹲り喉の奥が張り裂けそうな絶叫を放ち、頭の中で激しく蠢く痛みを誤魔化す様無意味にのたうち回る。
「ぜ、ぜぇっ……。ぜぇっ……。よ、よう。相棒……。あ、有難うな……。あの女児を助けようとしてくれて……」
「そ、それは構わんが……。どうして貴様は動けるのだ。心臓を貫かれたのだぞ」
俺の隣に並び、本当に冷たい手を左肩に乗せたダンに話してやる。
「く、詳しい話は後だ……。い、今は……。そう今はマリルさんの自我が瓦解する前に……。全てに決着を付けようや……」
狐に頬を抓まれるとは正にこの事だ。
俺は今、現実世界に身を置いているのか?? それともここは夢の中なのか??
自分自身の存在すらも怪しいと思える程の事象に苛まれながら、死者と何ら変わらぬ血の気の引いたダンの横顔を呆気に取られたまま只々見つめていたのだった。




