第二百六十二話 嵐渦巻く戦場で吠える獣 その一
戦場に渦巻く死と血の匂いが含まれた腐った空気で肺を満たすと体全身から冷たい汗が噴出する。
訓練時の温かな汗とは真逆の意味を含めた汗が額から零れ落ちて頬を伝い、顎先に到達して地面に落下すると微かに震える大地に矮小な染みを形成。
その形跡は震える砂で瞬き一つの間に消失してしまい、大地の震えが陽光差す温もりを与えてくれる日常では無い事をまざまざと俺に知らしめてくれた。
ダンが深紅の触手に胸を貫かれて地面に倒れてしまうと俺の胸に復讐という名のドス黒い闇が波紋の様に広がって行くが、その闇は彼女の変化によって縮小してしまい今となっては拳大の大きさにまで縮まっている。
俺の心の闇が震えて縮小して行った理由は闘志……。違う。
『恐れている』 のはマリル殿から放たれる禍々しい力の鼓動の所為であろう。
マリル殿がイリシアの口から放たれた戯言を受け取ると巨人の心臓の鼓動の様な音がドクンッと一つ大きく鳴り響き、そしてそれから彼女の身に変化が如実に現れた。
「……ッ」
彼女の柔らかな瞳から零れ出ていた温かな涙は冷徹な血涙へと変わり、身を包んでいた深緑を彷彿させる優しい魔力は最低悪の悪魔が纏うべき禍々しいモノへと変化。
「「「「……」」」」
死の匂いが今もそこかしこに漂う戦場に存在する者共は皆一様に彼女の変化に目を奪われ続けておりその場から一切動こうとしていない。
恐らくアレは古代種……、いいや。亜人の力が覚醒しようとしているのであろう。
亜人の悪の心を継承した血筋であるマリル殿は今からそれを解き放とうとしている……。
この星の生命を生み出した超越者である九祖が一人、亜人の悪の心が現代に解き放たれた一体どうなる事か。
それは想像に容易い。
覚醒した力を抑えられず破壊の衝動に駆られ只々自分の思うままに行動するのだ。
俺の場合は九祖から生み出された古代種の力の解放だが、彼女の場合はその規模が違う。
そう……。超越者の力の片鱗を体に宿す彼女が暴走に陥ってしまえばこの森は漆黒の炎に包まれる事であろう。
「マリル殿ッ!! 止めるのだ!! 力を抑えろ!!!!」
「微乳姉ちゃん!!!! 暴走するな!!!!」
「先生!! それ以上力を高めたら駄目ッ!!!!」
俺と同じ考えに至ったフウタとエルザードがマリル殿に叫ぶものの、彼女は地面に倒れる俺の家族を只々見つめているのみ。
恐らく、彼女の耳には闇の声しか届いていないのだろう。
「よぉぉおおおお!! ハンナぁぁああ!! アレ、どうするよ――――!!!!」
マリル殿の体から迸る魔力の暴走によって生まれる強風の音に負けない様にフウタが此方に向かって叫ぶ。
「どうするも……。俺達は何も出来ないと分かっているだろう!?」
そう、秘めたる力の覚醒に他者は干渉出来ないのだ。
古代種の力の解放で俺はそれを痛い程理解している。
「ククッ!! まさか創造主様の心を解放出来る器だったとは!! 丁度良いです。手間が省けましたね!!!!」
「手間?? 貴様……、一体何を考えているのだ」
相変わらず鼻に付く笑い声を放つイリシアに問う。
「創造主様の悪しき心は今現在、彼女の身に宿っています。創造主様の降誕に必要なのは悪の心と善の心の二つと、男と女の体。つまり彼女の命を奪い赤子に悪しき心を継承させるのですよ」
「そんな事させるかクソ野郎がぁぁああああ――――ッ!!!!」
「その通りだ!! 某の力を受け取るが良い風切鎌ッ!! 四連ッ!!!!」
無二の家族の死で零れ出ようとする悲しみの涙を止めろ!! 涙を拭おうとする手を刃に乗せろ!!
この死闘が終わらせてから貴様の為に決して枯れる事の無い涙を幾らでも流してやる!!!!
「続くぞッ!!!!」
激昂したフウタの後に続き、シュレンの素晴らしい魔力の攻撃の合間を縫ってイリシアの首を断つべく強力な想いを乗せた刀を振り下ろすが。
「アハはは!!!! 迷いを乗せた攻撃では私の結界を打ち破る事は出来ませんよ!?」
反物理結界では無く、通常の結界が俺達の攻撃を容易く弾いてしまった。
「チッ!! 今の角度では無かったのか。答えろ!! 月下美人ッ!!!!」
彼女の間合いから離れて右手に持つ刀に問うが、刀は只々震えるのみで俺の問いに応える事は無かった。
この震えは一体何処から生まれるのだ。
イリシアに対する怒りなのか将又……、俺達の後方で今も常軌逸した力を解き放ち続けるマリル殿に対する恐怖なのか。
それは定かでは無いがマリル殿が暴走に陥る前に……。貴様の命を絶つッ!!!!
「ハァァアアアアッ!!!!」
濃霧に包まれて行く先が見えぬ道に立たされ彷徨う思いを抱く刀の柄を強烈に握り締め、敵の胴体を両断するという断固たる強靭な意思を籠めて力を揮うが。
「だから何度も同じ事を言わせないで下さいよ!! そんな太刀筋じゃあ私の結界は破壊出来ないと!!」
俺の刃はイリシアの堅牢な結界に塞がれてしまい奴の体に敗北の二文字を刻み込む事は叶わなかった。
くそ!! 俺は一体今まで何をして来たのだ!!
俺達の前に立ち塞がる敵を屠る為に鍛えて来たのではないのか!?
「はぁっ……。はぁっ……」
体全身から吹き出る汗が体の動きを鈍らせ、今もマリル殿の体から放たれる禍々しい魔力の波動がそれに拍車を掛ける。
このままでは……、平和が蔓延る森に漆黒の炎が渦巻く事になってしまう。
マリル殿達が愛した土地を守る為にも今俺が動かなければならないというのに……。
敵を倒せぬという忸怩足る思いが胸に募り、愛する者を守れなかったという不甲斐ない膂力に打ちのめされそうになっているとマリル殿から放たれる負の魔力の鼓動が不意に止んだ。
「……」
彼女は俺の家族の亡骸から視線を外すと血涙に塗れて感情が欠如した顔でイリシアのみを捉えた。
只そこに立っているだけでも他者を圧倒する力を纏い、体の中心から溢れ出る潜在魔力によって森の中に漂う清らかな空気が微かに震える。
アレを言葉で表すのなら、修羅の道に堕ちた復讐に燃える一体の闘神だ。
一歩進むだけで復讐の炎によって身を焦がし、二歩進めば修羅の道に生える茨によって身の奥まで決して完治する事の無い傷を負う。
常人が足を踏み入れるべきでは無い修羅の道に今、彼女は己の足を乗せている。
それが意味するのは己自身を形成する精神の破壊若しくは身体の終焉。
心の底から愛する者を奪った憎き敵を屠る為にマリル殿は自分の体と精神を犠牲にしてでも厭わないと判断したのだ。
俺はその強烈な意思と精神を深く理解する一方で僅かばかりの嫉妬心を抱いてしまった。
もしも俺が彼女と同じ立場に立たされたのなら果たしてあれだけの力を発揮する事が出来るのだろうか?? 自己犠牲という他者から見れば尊敬に値する行動に至れるのだろうか??
それは分からない……。いいや、理解する方が無理だ。
何故なら彼女が持つ潜在的な力は俺のソレよりも掛け離れた場所に存在するのだから……。
「貴女の力は理を越えた領域に存在する生命体と何ら変わりのない、不可能を可能とする力を持った一体の疑似神とでも言いましょうかね。最悪の終焉と破壊を齎す魔なる女性……。魔女とでも呼ぶべきか。ようこそ、此方側へ。如何ですか?? 神に等しき力を持った感想は」
「……」
イリシアの言葉を受け取ってもマリル殿は微動だにせず、今も他人に嫌悪感を与える薄ら笑いを浮かべている彼女の憎たらしい顔を捉え続けている。
「「「「……」」」」
俺達は何も言わずマリル殿から放たれる空気に含まれた切れ味鋭い刃を吸い込み悪戯に喉を傷付けていると、無言無行動の彼女が不意に右手を掲げた。
「――――。死ね」
いつもの全てを包み込む優しい声色とは真逆。
地獄の底で亡者達に惨たらしい仕打ちを仕掛けている悪魔でさえも涙を流し、頭を垂れて許しを請うであろう低く怒気の含まれた声が放たれるとほぼ同時。
右手の先に淡い緑色の魔法陣が浮かび上がりそこから薄い風の刃が放出された。
大人の上腕程度の狭い範囲の刃厚の薄い風の刃は空気を撫で斬る甲高い音を奏でつつ一直線にイリシアの下へと向かって行く。
「クスっ、そんな普遍的な魔法で私の結界が破壊出来るとでも??」
その速度は普段見るソレと何ら変わりのないものであり風の刃本体から迸る魔力の圧と、空気を撫で斬る音からしてイリシアの結界は到底破壊出来ない。俺も彼女と同様に判断していたのだが……。
「ギィィイイヤァァアアアアアア――――――ッ!?!?!?」
「ッ!?」
極少の範囲に絞られた風の刃はイリシアの結界を容易く切り裂き、無防備で構えていた彼女の右腕を容易く切り裂き森の奥へと姿を消して行った。
「わ、私の右腕がぁぁああ――――――ッッ!!!!!」
切断された右腕から増水によって荒れ狂う濁流の川の如く噴出する深紅の血。
奴は喪失した右腕を天に向け乍ら絶望に塗れた絶叫を放った。
す、凄い……。単純且基本的な放射系の魔法があれ程までの威力を放つというのか……。
彼女の魔力に対する畏怖では無く素直な尊敬の念が胸に湧くがそれは瞬き一つの間に消失してしまった。
「ぐ、ぐぐぅぅうう……!! わ、私が右腕を失っただけで戦意を失うと思ったら大間違いですからね!!!!」
もう何度目か分からない常軌を逸した魔力が戦場に迸るとイリシアの失われた右腕に新たなる骨が形成され、そこから真新しい肉が失われた右腕を再形成して行く。
「お、おいおい。嘘だろ……。撥ね飛ばされた右腕が再生してんぞ」
俺と同じく呆気に取られているフウタが口を開いたまま話す。
「自己再生とでも呼ぶべきか。どうやら奴は俺達が想像する領域よりも先の存在らしいな」
普遍的な物理と摂理で構築されたこの世界に身を置く者共はあの様な芸当は不可能だからな……。
「負けない!! 私はぁぁああ!! 絶対に負けないッ!!!!」
復讐の禍々しい漆黒の炎を瞳に宿すイリシアがマリル殿を捉えるが、彼女は無表情のままで奴の再生して行く右腕を見つめている。
無警戒とも捉えられる余裕を持った態度によってイリシアの復讐の炎の熱量が更に苛烈に増して行った。
「マ、マリル先生……。だいじょうぶなの??」
戦場に生まれた刹那の時間にミルフレアの心優しい声色がそっと鳴る。
恐らくその囁く声は彼女の心に届かぬだろうと判断していたが。
「大丈夫よ、ミルフレア。私が全てを壊して元通りにしてあげるから」
マリル殿はミルフレアの言葉を素直に受け入れ、頑是ない子供を愛しむ優しき心を乗せた言葉で彼女の言葉に答えた。
もしかしてミルフレアの言葉が彼女を正気に戻したのか??
「こ、こわす??」
「えぇ、そうよ。そうすれば貴女が大好きなシュレンさんの左腕も私の……。私のぉぉおおおお!! 大切なダンさんも元通りになるのよ!!!!」
「せ、先生。全てを壊すと言ったけどさ……。一体どうするつもりなの??」
声色は正常でも真面な精神では無いと判断したであろうエルザードが変異してしまったマリル殿に問うと。
「この大陸……、ううん。この星全てのマナと生命力を使って時間逆行の禁術を発動すれば過去に行く事が出来るのよ」
彼女は耳を疑う発言をさも当たり前の事の様に軽く答えた。
じ、時間逆行だと?? そんな話はお伽噺や小説の中で出て来る絵空事の様な事象だぞ。
マリル殿はそれを可能であると判断したから答えたのか、それとも傷付き失った家族を取り戻す為の願いを唱えただけなのか。
俺がその判断に迷っていると。
「そ、そんな事!!!! 創造主様達でさえも禁じていた大罪だぞ!! それに!! そんな事をすればこの世界は!!!!」
マリル殿の言葉を聞いたイリシアが激昂して叫ぶのを捉え、机上の空論が現実の世界で起こり得るであろうと判断した。
亜人の血の覚醒が神の理に触れようとは誰が考え付こうか……。
もしもマリル殿が時間逆行の禁術を発動すればこの世界は終焉へと向かい、彼女は過去の世界へと赴く。
数千、数億の命を犠牲にしてでもたった一つの命を取るべきだと考えた彼女の答えに俺は肯定すべきなのだろうか??
この迷いが俺の剣を鈍らせない事を願うばかりだぞ。




