第二百五十七話 彼女が取った選択
お疲れ様です。
後半部分の投稿になります。
人が持つ欲の一つ、食欲。
それを多大に刺激する食材の香りがふわりと漂う室内で家事を終えて一段落付いた素敵な溜息を静かに吐く。
私の吐息は目に見えぬ食材の香りの空気と混ざり合いその純度を穢すかと思われたが、お腹が空いてしまう香りは健在であり私達の欲を刺激し続けていた。
「ねぇ、先生。シュレン先生やハンナ先生が帰って来る前にちょっとつまみ食いして良い??」
フィロが火を落とした窯の上にある寸胴の蓋を開き、端整に整った唇の端から透明な液体を零さぬ様にして話す。
御主人が用意した餌に食い付いてしまう様な犬さんみたいな表情ですね。
「駄目ですよ。全員が揃ってから昼食を召し上がりましょう」
今にも寸胴の中に顔を突っ込んでしまいそうになっている彼女の横顔に向かってちょっとだけ声色を穢して咎めてあげた。
「えぇ――。シュレン先生達なら兎も角、ダン達はいつ帰って来るか分からないじゃん」
彼等には食材の御使いを頼んでいますからね。
早朝からの出発でしたので恐らく約一時間後に帰還する予定でしょう。
生徒達の指導と家事と育児で疲労が募る彼にお使いを頼んだ所。
『え、えぇ……。分かりました。他ならぬマリルさんのお願いですからね。う、承りましょう』
山の頂上と麓を沢山の荷物を載せて何度も往復したロバさんよりも疲れ果てた顔でおずおずと、そしてビクビクしながら頷いてくれた。
怖がっていたのは恐らく、指導後の私の顔を捉えたからでしょう。生徒達の横着を叱った後の私の顔はちょっとだけ怖いですからね。
「もう直ぐ帰って来るからそれまでの我慢ですよ。レイド、フィロお姉ちゃんは食いしん坊で困りますよね――」
フォレインの胸の中で静かに眠る我が子の頬を優しく突くと。
「ンンゥ……」
悪鬼羅刹の顔からも笑みを勝ち取ってしまう甘い声を放ってしまった。
ふふっ、本当に良く眠っているわね。
私達がこれだけ騒いでも起きないのは肝が据わっているのかそれとも真に睡眠を求めているのか……。
いずれにせよ大人しい子である事は変わりありませんね。
「おっ!! まだまだ起きないか――。ほれほれっ、超カッコイイ龍族のお姉ちゃんの攻撃だぞ――」
「お止めなさい。彼は静かに眠っているのですよ??」
「別に良いじゃん!! 先生だって突っついたんだし!!」
「ですから!! 赤子の眠りを妨げるのはおよしなさいと言っているのです!!」
龍族の無邪気な手から我が子を守る蜘蛛族との攻防を心休まる光景を見つめていると。
「……っ」
南方向の訓練場からフウタさん達の迸る魔力を捉えてしまった。
「せ、先生。今の魔力って……」
これだけ強力な圧だ。魔力探知な苦手なフィロでも気付きますか。
「シュレンさんとフウタさんのモノですね。問題は何故……、此処まで届く強力な魔力を放出する必要があったのかのです」
イスハ達の指導ならあそこまで魔力を上昇させる必要は無い。手本として魔力を上昇させるのなら一瞬で事足りる。
つまり……。今も継続的に魔力を上昇させているのはそうせざるを得ない状況に陥ってしまったから。
そう考えると矛盾しない、そしてその状況は。
「フィロ、フォレイン。行きますよ??」
食堂の隅に置かれている抗魔の弓と必要最低限の治療薬が詰まっている鞄を背負うと戦闘時と何ら変わりない声色で二人に出立を伝えた。
そう、彼等は強力な敵と対峙したから魔力を上昇させたのでしょう。
「え、えっ?? 急にどうしたの??」
「マリル先生。レイドはどうしますか??」
「フウタさん達は恐らく未知の敵と対峙したから魔力を上昇させたのでしょう。今から彼等の援護に向かいます。レイドは…………」
フォレインの胸元で眠る我が子に視線を送り、暫し考えた後に口を開いた。
「――――。連れて行きます。此処に置いていてはもしもの時に対応出来ませんからね」
私の目が離れてしまった所為でレイドの身に何かあれば私は自分の事を一生許さないでしょうから。
「事は急を要します。私の後に付いて来て下さい!!」
「分かったわ!!」
「承知しました」
必要最低限の装備を整えると母屋の扉を慌てて開き今も膨れ上がりつつある彼等の魔力の下へと駆け始めた。
一歩、また一歩とシュレンさん達に近付いて行くに連れて彼等が放つ魔力の鼓動が皮膚を淡く刺激する。私の肌を撫でるのは彼等の魔力だけでは無く……。
とても禍々しい物も含まれている事に気付いた。
何ですか……。この気持ちの悪い魔力の鼓動は……。
森の澄んだ空気に含まれる禍々しい魔力の鼓動は粘度の高い蜂蜜の様に肌に絡みつき、人に容易く嫌悪感を与える物だ。
訓練場に近付いて行く内にそれは粘度を増し、今となっては視認出来てしまいそうな程に強烈に高まっていた。
「先生……。何、この気持ち悪い感覚は」
「強力であるのは理解出来ますが……。それだけじゃない何かを感じますわね」
魔力探知が低いフィロは野生の感覚で、フォレインは持ち前の感覚の高さでこの黒き魔力を捉えたのでしょう。
二人の表情には戦闘に対する闘志よりも未知の敵に対する怯えの文字が浮かんでいる。
「分かりません。シュレンさん達はこの黒き魔力に対抗すべく力を解放したのでしょう。そう考えれば先程の魔力の鼓動は矛盾しません」
私の考えは凡そ正解でしょう。しかし、此処で一番懸念すべきは。
「あの二人が本気を出さざるを得ない敵ですか……。一体どれ程の力を持っているのか……」
そう、フォレインが話した通り。強力な力で対抗しなければならない敵が出現し、彼等は今も己に襲い掛かる死に抗っているのだ。
その証拠に御二人の魔力は収まる処か秒を追う毎に強力になっているのだから。
心急く思いで駆け続けていると正面から三人の生徒が血相を変えて此方に向かって走って来る様を捉えた。
「せ、せ、先生!!!!」
大きな目から涙を流し続けるミルフレアが私の姿を捉えると叫び。
「大変なのじゃ!! フウタ達が!!」
誰かの血だろうか??
イスハがいつも身に着けている道着には出血の跡が。
「先生!! 状況を説明するわ!!」
そして最後方から駆けて来たエルザードの報告を受け取ると私は血の気が引いてしまった。
「――――。と、言う訳で!! フウタ達は私達を逃す為に戦場に残ったのよ!!」
「状況は分かりました。三人とも、良く生き残ってくれたわね」
今も恐怖で震えるエルザードの頭に優しく手を乗せて森の木々の向こう側で死闘を繰り広げているであろう彼等に視線を送った。
フウタさん達は死力を尽くして彼女達を私の下に送り届けてくれた。
その真意は恐らくダンさん達と合流して此処から逃れろ。若しくは自分達の身を無視して完全撤退しろという事でしょう。
彼等の真意や真心の籠った想いを無駄にする訳にはいかない。でも、私の手には赤子の命と血は繋がっていないが血よりも濃い絆で結ばれた家族の存在が居る。
輝かしい命を危険に晒すよりも安全な場所まで避難させて、それからシュレンさん達を救助しに向かうのが凡そ想像し得る最善な選択肢でしょう。だがこの場合、今も戦場で命を削って戦っている彼等の命は保証出来ない。
私はどうすべきか……。
「マリル先生!! シュレン先生をたすけにいこうよ!!」
「あんたは馬鹿か!! 私達はダン達と合流して、それからフウタ達を助けに行くのよ!!」
「先生!! 早く決断しないと!!!!」
フィロに右肩を強く握られ運命を別つ分水嶺に立たされたその数秒後。
「――――。分かりました。シュレンさん達を救助しに向かいましょう」
私は頑丈に閉ざされていた口を開き、彼等を救助するという死の危険を孕んだ選択肢を選んだ。
最適且安全策である逃亡という選択肢を取らなかった最たる理由は、私の命よりも彼等の命を優先したから。
それにダンさんだったら仲間を見捨てて逃げるという選択肢は絶対に選ばないですよね??
「では班を分けます。フィロは龍の姿に変わり背にイスハとミルフレアを乗せてダンさん達が向かった街の方向へと飛んで向かって下さい。イスハはレイドをしっかりと抱いて下さいね??」
「もちろんじゃ!!」
「えぇ!? 私は戦闘に参加したいんだけど!?!?」
「続いて、フォレインとエルザードは私の後方から戦いの援護役に回って下さい。シュレンさんとフウタさんを救助した後、私が死力を尽くして戦場に留まり続けますのでその間に彼等を戦場から離脱させます」
戦闘に参加出来ず憤る唐紅の髪の生徒の声を無視して手短に手順を説明して行く。
「これから始まる戦いは彼等の命を守る戦いです。命を守る為の選択肢は決して見誤らぬ様、そして最善な結果を勝ち取る為に甘い考えは捨てて各自やるべき事をやりなさい。此処までで何か質問は??」
これから始まるであろう死闘を想像して乾いた唇を少しだけ潤して生徒達の顔を窺うと。
「「「「「……っ」」」」」
皆一様に真剣そのものの表情を浮かべていた。
うんっ、普段の横着な態度とは真逆の引き締まった顔で先生は安心しましたよ??
「では早速行動に移ります。フィロ、ダンさん達に一早くこの現状を伝えて下さいね??」
「任せて!! おっしゃあ!! イスハ!! ミルフレア!! さっさと乗りなさい!!!!」
フィロが龍の姿に変わると蒼天に向かって逞しい龍頭を向けて叫ぶ。
「わかっておるのじゃ!! フォレイン、レイドを預かるぞ」
「分かりました。空から落とさない様に細心の注意を払って下さいね??」
「……」
フォレインが今も静かに眠り続ける我が子をイスハに渡すと、彼女は慎重な所作で彼を受け取り胸の中へと大事に仕舞った。
「先生!! シュレン先生をたすけてね!!」
「それでは行って来るのじゃ!!」
「私達が来るまで死なないでよ!? それじゃあ……、人生の中で一、二を争う速度でぶっ飛ばすわよ!!!!」
深紅の龍鱗を身に纏う龍が神々しい翼を左右一杯に広げると夏の嵐を彷彿させる強烈過ぎる風を身に纏って空へと羽ばたいて行った。
フィロ、宜しく頼みますよ??
貴女の翼にシュレンさん達の……、ううん。私達の命運が掛かっているのだから。
「先生!! 行きましょう!!」
「分かりました!!」
珍しく声を荒げたフォレインに催促されると私は気持ちを切り替え、今も禍々しい魔力が流れて来る南方向へと向かって駆けて行った。
お疲れ様でした。
最近の夜は漸く過ごし易くなってきましたよね。久しぶりにクーラーを使用せずに眠れる様になって嬉しいのですが、以前も報告させて頂いた通り十月から十一月中旬まで私生活が物凄く忙しくなるので投稿速度が遅くなってしまいます。
読者様にはご迷惑をおかけしますが何卒ご理解を頂ければ幸いかと存じ上げます。
さて、まだ少し先の話なのですが過去編の残り数話に差し掛かりますと話の雰囲気を大切にする為。前書きと後書きは一切書きません。
お礼や報告は活動報告にて書きますので其方の方も御理解頂ければ幸いです。
沢山の応援を、そしていいねをして頂き有難う御座いました!!
本当に嬉しいです!!
それでは皆様、体調管理に気を付けてお休み下さい。




