第百六十四話 夏の定番 その二
お疲れ様です。
後半部分の投稿になります。
重病を患った恋人と死に別れた男は夜になると枕を濡らしながら眠れぬ日々を過ごしていた。
女物の櫛、化粧の品、二人の思い出が詰まった土産の品々。
部屋の片隅に残る彼女との思い出の数々を眺めていると胸が締め付けられる様に痛くなる。彼女が残していった品々を整理しようと努力したがそれは叶わず、男の未練を象徴する様に今もその場所に存在し続けていた
どうして君は俺を一人残して逝ってしまったのだ……。
心に大きく空いた隙間を埋めようとして趣味や仕事に没頭し、時には喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていたがそれでも彼女の姿は瞼の裏から消えようとしなかった。
見えぬ鋭利な刃で心臓を傷付けられたかの様に、胸の内に渦巻く漆黒の闇が男の体を蝕む。
男はその痛みを誤魔化す為、或いは飲み込まれぬ様にこの世の非情を怨み万物を司る神々を憎むが闇は男の心に執拗に絡み付く。
このままでは身を包む寂しさと内から湧く憎悪によって心が圧し潰されてしまうだろう。
そう考えた男は心の汚れを落とす為に満月の美しい夜空が広がる海に向かった。
海のさざ波の音を聞けば心が落ち着く筈だ。
怪しい月の光を滑らかに反射する砂浜に腰掛け、闇の先から訪れて来る波の音を聞いていると少しずつではあるが男の心は落ち着きを取り戻し始めた。
それは自然の力も関与しているのだが最もな理由は、生前の彼女と過ごした夜の海の思い出なのだろう。
彼女と共に肩を並べて夜の砂浜に腰掛け、これからの将来や他愛の無い会話を交わしていた輝かしい思い出が闇に包まれつつある男の心を浄化していた。
そう言えば……、あの時は沖に向かって馬鹿げた台詞を叫んだっけ……。
「お――い!! 元気かぁ――!!!!」
男は思い出に残る出来事を模倣する様、夜の海に向かって力の限り叫んだ。
叫んだ後の喉の奥に残る痛みが心地良く再び沖に向かって叫ぼうとした刹那。
『お――い。元気かぁ――』
本当に遠い位置から今叫んだ台詞が山彦となって返って来たのだ。
そんな馬鹿な。
山が連なる山脈ならまだしも声が反響しない海から山彦が返って来る筈は無い。
そう考えた男は今一度、喉の皮膚が張り裂ける勢いで叫んだ。
「誰か居るのかぁぁああ――――!!!!」
夜の海の上で漁をしている漁師が俺の真似をしたのだろう。
きっとそうに違いないと考えた男は叫んだ後も夜の海の沖へと視線を送り続けていたのだが。
『誰か居るのかぁ――』
沖に船の存在は確認出来ないのにも関わらず山彦が返って来たので男の仮説は否定されてしまった。
では一体何故夜の海から山彦が返って来るのだろう??
等間隔に訪れるさざ波の音が響く砂浜の上で腕を組み深く考えていると、ほんの少し前に酒場で聞いた与太話が脳裏を過って行った。
夜の海は光さえも飲み込む闇が支配している。
海の奥底はあの世と繋がっており現世とあの世の境目の役割を担っているのだ。闇に向かって叫ぶのは止せ。
あの世に居る死者を呼び寄せてしまうのだから。
何を馬鹿なと高を括っていたが、いざ不思議な体験を目の前にするとあの与太話は強ち間違いではないのでは?? との考えに至ってしまう。
あの世とこの世を繋ぐ夜の海。
酔っ払いが話した言葉が男にある希望的観測を齎してしまった。
そうだ……。夜の海があの世に繋がっているのなら彼女と会話が出来るかも知れない!!
「お――い!! 俺は元気だぞ――!! 君は元気かぁ――!!!!」
『元気よ――』
や、やっぱりそうだ!!
山彦の声色が男のものから女のモノに変わると男は自分の考えが間違いでは無いと確信した。
「君と話せて嬉しいよ――!!!! もっと声を聞かせてくれぇ――!!」
『聞こえないわ――。もっと近くで叫んで――』
「分かった――!!!! 君がいなくなって俺は本当に寂しい思いをしているんだぞ――!!!!」
男は波打ち際まで進み、踝まで海水に浸かって思いのままに叫ぶ。
『私も寂しいわ――』
「ほら!! 覚えているだろ――!? こうして夜の海に向かって一緒に叫んだ事を――!!!!」
『勿論よ――。あの時は小雨が降っていたわよね――』
小雨?? 彼女と共に砂浜に腰掛けていた時は夜空に月の光が輝いていたのに。
「何を言っているんだ――!! 今日みたいに良く晴れていたじゃないか――!!」
『ほら――。もっとこっちにお御出でよ――。私は此処よ――』
女の声が刻一刻と記憶と耳に残る彼女のモノへと変化。
夏の温もりを含んだ海水は人の体温と同程度に温かく大量の海水が男の行く手を阻むが彼はそれをものともせず、彼女の幻影を探し求めるかの様に勇猛果敢に夜の海の沖へと向かって進んで行く。
「君は何処に居るんだい!? 俺はずっと君を探し求めているんだ!!!!」
腰まで海水に浸かり未だ見えぬ女の姿を求めて叫ぶと。
『もう直ぐ会えるわ。ほら、もっとこっちにいらっしゃい』
直ぐ近くの闇の中から記憶の隅々にまで刻み込まれている女性の声色が耳に届いた。
「そこに居るのか!? 俺だよ!! 早く君の姿を見せてくれ!!!!」
闇の中に彼女の幻影を思い描き虚空へ向かって思いの丈を叫ぶ。
『私の姿はこの世界から離れてから変わってしまったわ。貴方が求める私の姿はもうどこにもないの』
「それでもいい!! 俺は君のありのままを愛する!!!!」
『本当に??』
いつしか山彦は恋人同士が愛を囁く程度にまで収まり、女の声はさざ波の音に掻き消されてしまう程に矮小なモノであった。
「あぁ!! その通りだ!! 俺は君と会いたいんだよ……」
彼の両の瞳からポロポロと小さな雫が零れ落ち、頬を伝って海面に落ちると小さな波紋を発生させる。
彼女が居ると思しき場所に涙の波紋が到達すると本当にゆっくりとした動きで黒き塊が海中から姿を現した。
「……」
黒き髪は海水で濡れて顔にへばり付き表情全ては窺えぬが、長年連れ添った彼には数舜で本物の彼女であると理解出来てしまった。
「その顔、姿……。何にも変わっていない。漸く会えたんだね……。っ!?」
彼が髪の濡れた女の頬にそっと手を添えると手に感じたのは氷よりも冷たく、とても温かな体温を持つ人が放つソレであるとは思えなかった。
『私も会いたかったわ……。他の誰でも無い私を呼び寄せたアナタに……』
「ひっ!?」
女が海中から手を出して彼の手に己が手を添えると男は思わず声にならない声を出してしまう。
それもその筈。
本来健康的な肉が付いている腕には腐り果てた肉がへばり付き、その隙間から薄汚れた腕の骨が覗いていたのだから。
腐った腕の肉が放つ腐敗臭は潮の香りを凌駕する程に強烈であり男の鼻腔の奥を強く叩いた。
「その腕……。一体どうしたっていうんだ!!」
『貴方は魂が眠る闇の底で眠っていた私を呼び寄せた。そこは音も、光も存在しない。闇のみが存在するの。その闇は体を蝕み闇はいつしか魂をも飲み込んでしまうわ』
細い骨が一際強い力を籠めて男の手を握ると、彼は顔をクシャクシャに歪めて彼女から離れようとした。
しかし……。
『どうして離れようとするの?? これから貴方は私とずぅっと一緒に居るんだから』
女は更に力を強めて男の手を拘束してその場に留めた。そして女は静かにもう片方の腐った手で己が髪を静かにかき上げた。
「う、う、うわぁぁああああああ!!!!」
彼の目に映ったのは思い出に残る彼女の可愛らしい顔では無く、人の恐怖心を容易く引き出してしまう程の惨たらしく醜悪なモノであった。
目玉が収まっている筈の左の眼窩の中は空洞であり粘度の高い液体を纏った大量の蚯蚓と蛆虫がその隙間を埋めようと形容し難い動きを見せている。
左半分の肉は全て溶け落ち、男の悲鳴を捉えた女がニィっと笑うと辛うじて骸骨に付着している口角の肉がグチャリと嫌な音を立てて上向く。
『さぁ、行きましょう。闇が蔓延る素敵な世界へ……』
女が男の手を取り黒き闇が蔓延る海の底へと引きずり込んで行く。
「い、嫌だぁぁああああ――っ!! だ、誰か助け……。ッ!?!?」
彼は無慈悲に襲い掛かる死に懸命に抗うが闇の力の前では一人の人間等、塵芥に等しい。
男の口の中に海水が入り込み底なし沼の様な柔らかい土の中に爪先が入り、死から逃れようと無意味に四肢を動かすが骸骨の手がそれを阻む。
海面に居た一人の男の姿が見えなくなると東の空から太陽が昇り美しい紺碧の海を照らす。
そこにはいつもと変わらぬ景色があり海は今日もまた陸地へ向かってさざ波を送り続けている。
空に浮かぶ光、地の底に渦巻く闇。
人はいつしか光や闇に飲み込まれてしまう運命にある。
古の時代から続く森羅万象の理の中で人々は決して逃れられぬ定めに従い普遍的な生活を送り続けていたのだった。
◇
「――――。お終い」
「「「はぁ――……」」」
夏の怪談を一気に話し終えて、ふぅっと息を付くと皆が強張ったままの顔で安堵の時を漏らした。
「おやおやぁ?? 皆様如何為されましたか?? 顔色がたぁいへん宜しくありませんわよ??」
話疲れた喉の労を労わる為、グラスに少しだけ残った琥珀色の酒をチビリと飲んでそう話す。
「い、いや。お前のドスの利いた声が迫真に迫る勢いだったと言うべきか……。与太話の一種なのだろうが心に響いたのは確かだっ」
グレイオス隊長がど――頑張っても空元気だろうと判断出来る声色を放つ。
「王都守備隊の隊長という肩書を持っているのですからしっかりして下さい」
トニア副隊長が呆れた瞳を浮かべて彼の肩を少し大げさに叩く。
「実体を持つ相手なら幾らでも相手にしてやるのだが、形無き者が相手ではどうにも出来ないからな!! しかし、必ず弱点はある筈だっ」
「グレイオス殿に俺も同意する。理の外側に存在する相手では俺達の力は無力に等しいが炎、若しくは光が有効かも知れん」
普通の神経を持つ奴なら戦うというよりも逃げの一手を打つってのに、何でこの二人は幽霊若しくは悪霊と戦う前提で話すのだろう??
それは恐らく頭の中まで筋肉が詰まっているのでその考えに至るのだろうさ。
「お前等なぁ……。幽霊が襲い掛かって来ても迎え撃つ真似は止めろよ?? 邪悪な者の恨みを買って取り返しのつかない事になってしまうかも知れないからな」
長々と溜息を吐きながら相棒とグレイオス隊長にそう言ってやった。
「さ――ってと。レシーヌ王女様?? そろそろお外に出る時間ですよっ??」
怪談が終わってから一言も話していない彼女の端整な横顔をじぃっと見つめる。
「へっ!? あ、あぁ。そ、そうでしたね。肝試しに行く予定でしたね……」
此方の予想通り尻窄んで椅子から立ち上がろうとせず、両の瞳を少々忙しない速度で泳がせて話す。
おやぁ?? 先程の勢いは一体何処へ行ったのかしらねぇ。
「んふふぅ。ひょっとして今の怪談が怖かったのですかっ??」
「そ、そんな事ありませんっ!! さぁ皆さん行きますよ!! 私に続いて下さい!!!!」
レシーヌ王女様が双肩からほんの少しの憤りを放ち食堂の扉を勢い良く開けて廊下へ向かって行く。
「あ、はい分かりました。それでは皆さん、常夏の島の涼を堪能しに向かいましょうか」
それを捉えたティスロが、仕方がありませんね。
そんな表情を浮かべて立ち上がるので俺達はそれに続いて闇が蔓延る廊下へと出た。
さてさてぇ、レシーヌ王女様の強がりがいつまで持つのでしょうか。
楽しみである一方、一国の王女に恐怖心を抱かせたという失態を咎められる恐れもある。
恐怖で金縛りにあって動けなくなる前にお母さんが助けてあげましょうかねっ。
「ふ、ふぅっ!! 涼むのに丁度適した暗さですね。これなら寝苦しい夜を迎える事無く朝日を拝めそうですよ!!」
「む、無理は駄目ですからね……」
言葉の端に若干の恐怖心を滲ませて話す彼女の背に向かって話す。
「無理はしていませんッ!!」
俺達の先頭を行く彼女が傍から見ても強がりな台詞を吐き屋敷の裏手の扉を力任せに開ける、その様を捉えると心にある感情が湧いてしまった。
『お母さんみててね!! 今から格好良く泳ぐんだから!!』
『だ、大丈夫かしらね……』
まぁまぁ荒れている水面で覚えたての泳ぎ方を披露しようとする怖いもの知らずの小鴨を見守る母鴨のハラハラとした感情を胸に抱きつつ、六名の男女は怪しい月の光が差す屋敷の裏手へと向かって行ったのだった。
お疲れ様でした。
久々に怖い話を書かなければならなかったのでかなり苦戦してしまい投稿が遅れてしまいました。
大変申し訳ありませんでした。
さて、本日の夕食は冷やし中華だったのですが……。皆様の住む地域ではどの様に食していますか??
私が住む地域ではマヨネーズを掛けて食す文化があるのですけど……。その文化が根付いていない地域の方々には奇抜に映る事でしょう。
機会があれば一度試してみて下さい!! 結構イケますよ!?
それでは皆様、お休みなさいませ。