どっちが大事?
「仕事と私のどっちが大事なの?!」
ものすごく久しぶりに少しだけ早めに帰宅できた日。
そっとドアを開けると、目が合った妻から飛んできた言葉は強烈なものだった。突然のことに驚いて何も言えずにいると、彼女はため息をついた。
「自分はそういうことを言わないようにしよう…って思ってたんだけど、そう問い詰める世の中の女性の気持ちがここにきて初めてわかった気がするわ」
「…ごめん」
久しぶりの夫婦の会話はこんな調子で始まった。
「私達が結婚してからどれくらい経ったか知ってる?」
「…半年です」
「そのうち、まともに家に帰ってこれたのって数えるほどよね?」
「…そうです」
小声で答える。いや、僕は彼女の寝顔を眺めてはいるんだけどね。
「あのね、もちろん私が寂しいっていうのもあるんだけど、それ以上に貴方の身体が心配なのよ。今はまだ若いから無理もできるだろうけど、ずっとこのままじゃいつか本当に身体を壊すわよ」
「ごめん…」
妻はため息をついた。
「王太子殿下が有能な人材を集めていることは有名で、平民である貴方がそこに加われたことを名誉に思っていることはよく知ってるわ。だけど、長く続けたいのなら無理はしない方がいいと思うのよ」
「わかった。次の殿下への報告時に少し相談してみるよ」
そう答えたのに、なぜか妻ににらまれる。
「ただ、貴方が今の仕事が好きでやりがいを感じていることも知ってるから、間違っても私のために辞めるなんてことは言わないでよね」
「…わかった」
本当は辞める覚悟を決めかけていたことを見透かされたような気がしてドキッとした。
「それじゃ、この話はもうおしまい」
パンッと手を叩く妻。
「もう遅い時間だけど何か軽く食べる?温めるだけだからすぐできるけど」
「ああ、ちょっともらおうかな」
「わかったわ、ちょっと待って…て」
立ち上がろうとした妻がふらついたのであわてて支える。
「だ、大丈夫?!」
「…ごめんなさい、ちょっとクラッときただけよ」
妻の額に手のひらを当てる
「少し熱があるんじゃないか?」
首を横に振る妻。
「これくらい、たいしたことないわよ」
「ダメ!僕の食事なんて自分で何とかするから早く休んで」
着替えさせてベッドに横になった妻を見てふと思い出す。
「そういえば君は昔から季節の変わり目にはよく体調を崩していたっけ」
「そうよ、よくわかってるじゃない。いつものことだから気にしないで。寝ていればすぐに治るわ」
そう言いながらいつもより弱々しく笑う。
彼女が眠りについたのを確認して台所へ行き、鍋のスープを温め直す。具沢山のミルク味のスープは身体も心も温めてくれた。
翌日。
すっかり熱も下がった妻が用意した朝食を食べながら話す。
「一晩考えたんだけど、やっぱり中途半端になるくらいなら辞めた方がいいと思うんだ」
ため息をつく妻。
「貴方ならそう言い出すと思ってたわ。まぁ、贅沢しなければ私の稼ぎだけでもしばらくは食べていけると思うから、貴方の好きなようにするといいわ。でもね」
そこで妻がニヤッと笑う。
「私が殿下だったら貴方を手放さないわね。きっと辞められないと思うわよ」
「そんなことはないさ。僕より優秀な人材なんていくらでもいるはずだしね」
「いいえ、殿下は絶対に引き止めるわよ」
「そこまで言うなら何か賭けようか?」
ああ、いつもの2人のノリだ。
「いいわよ。じゃあ何を賭ける?」
目が合って2人同時に口にした。
「「 噴水広場のレモネード! 」」
そして思いっきり笑いあう。
「私達、学生時代から全然変わってないわね」
「うん、昔も今もずっと変わらず君のことが好きだよ。もちろんこれからもね」
急に真っ赤になる妻がかわいい。
「そ、それはさておき、殿下と進退について話すのなら、ちょっとだけ私の意見も聞いてもらえないかしら?」
僕達は作戦会議を開いた。そして妻の意見を取り入れることにして、僕は王宮へと向かった。
登城して王太子殿下の執務室へ向かう。
「いつものことながらすばらしい報告書だった!これであの政策を早いうちに実行に移せそうだ」
「光栄でございます」
王太子殿下の執務室で頭を下げる。
「さっそくですまないが、次の調査を依頼したいのだが」
「殿下、せっかく私のような者を取り立てていただいたのに本当に申し訳ないのですが、できましたらこの仕事を辞めさせていただきたいと考えております」
無礼を承知で殿下の言葉をさえぎって話すと驚かれた。
「なぜだ?!もしや報酬が足りなかったか?それとも仕事に不満があったか?」
「いえ、報酬には何の不満もございません。むしろ多すぎるくらいでございます。仕事にもやりがいを感じております。ただ、今の状況では妻に負担をかけてしまっていると思いまして」
「妻?…ああ、そなたは結婚したのだったな。少し前に祝いの品を送ったが」
「はい、その節はありがとうございました。ですが結婚して半年、外国への出張が多く、戻ってきても資料作成のため遅くまで王城にいたりと、妻が起きている時間に家へ帰れない状況が続いておりました」
殿下はハッと何かに気づいた表情になったが、すぐにその表情が曇る。
「妻は『自分のために辞めるな』と申しておりましたが、仮に仕事を減らしていただけたとしても、そのために誰か他の方に負担をかけるのは心苦しく思うことになりましょう。ですから次の方が見つかり次第、辞めさせていただければと」
「すまない…私のせいだな。有能なブレーンが揃って物事があまりに順調に進むものだから、調子に乗りすぎていた。そなた達にも家庭や家族があり、休暇も必要だということが頭からすっぽりと抜け落ちていたようだ。本当に申し訳ない」
殿下が僕に頭を下げてきたのであわてる。
「殿下!どうか頭を上げてください。無理を申しているのはこちらの方なのですから」
「いや、無理をさせていたのはこちらだ」
しばらく押し問答が続いたが、結局仕事は継続することになった。そして今後は休暇等も十分に考慮するということでなんとか話は落ち着いた。
「この機会だから、他に気にかかっていることや言いたいことがあったら遠慮せず言ってほしい。言われなければ気づかぬこともあるというのは、この一件でよくわかったからな」
殿下にそう言われたので口を開く。
「私も妻も平民で、いざとなれば王宮を辞しても市井でなんとかやっていけるでしょうが、貴族出身の方々は殿下からの依頼を断ったり、ましてや辞めたりするなどそう簡単には出来ないでしょう。ですから、どうかそちらの方々にも十分なご配慮をいただければと」
「わかった、そうしよう」
殿下は真剣な顔でうなずいたが、ふと何かに気づいたように表情が変わった。
「もしかして、そなたは自分が辞めることより、こちらの方が本題だったのではないのか?」
「ああ、バレてしまいましたか。実は私も当初は自分のことしか考えておりませんでした。ですが、妻に『うちは平民だから逃げ道は作れるけれど、きっと貴族の方々はそう簡単にいかないだろうから、どうせならそちら方面にも話を振った方がいい』と言われたのです」
殿下はしばし考えていたようだったが、真っ直ぐに僕を見て言った。
「わかった。そして、そなたの細君に私が心から感謝していたと伝えてくれないか」
「かしこまりました」
そして僕は翌日から5日間の休暇を言い渡され、久しぶりに妻と2人きりの時間を堪能した。
それからしばらく経った頃。
殿下はご自分のブレーンとその家族を王宮に招待して慰労会を開いた。あらたまった食事会ではなく、立食形式で各家族の交流の場にもなった。はしゃぐ子供達のにぎやかな声と見守る家族達の笑顔で雰囲気のよさがわかる。
ふと見ると殿下が近付いてきたので妻を紹介する。
「夫がいつもお世話になっております」
「いや、世話になっているのはこちらの方だ。そして、いつぞやは迷惑をかけてすまなかった」
「実は夫の同僚である貴族の奥方とは旧知の仲でして、我が家と似たような状況であることを知りました。うちは平民で、いざとなったら辞めることになってもどうにかできますから、進言させていただいた次第でございます」
殿下を真っ直ぐ見つめて話す妻。
「そなたのおかげで少しは視野を広げて考えられるようになったつもりだ。ああ、この慰労会もそなたがきっかけだったとも言えるな。本当に感謝している」
「もったいないお言葉でございます」
妻が頭を下げる。
「ところで予定日はいつ頃かな?」
妻は目立つようになったお腹をなでながら答える。
「初夏の頃には家族が増える予定でございます」
「その頃にはそなたの夫君には出張を控えさせて休暇も取らせるつもりだ。元気な子の誕生を楽しみにしておるぞ」
「お心遣い本当にありがとうございます」
妻はニッコリと笑った。
奥方同士の話が盛り上がっている頃。すっと殿下が僕に近寄ってきた。
「そなたの細君だが、子育てが落ち着いたら私のブレーンに加わってはもらえないだろうか?聡明で有能な女性が加われば実に心強いのだが」
僕はニヤッと笑って答える。
「私でも御しきれないのに、はたして殿下に御しきれますでしょうかね?」
おどけた表情でお手上げという仕草をする殿下。
「遠慮しておこうか。どうやら私にはまだ難しそうだ」
僕は殿下の肩にポンと手を置き、笑顔で進言した。
「殿下も早くご結婚なさって夫婦の機微というものを実地で学んでくださいませ」