47話 赤い夜の始まり
「運がいい、本当に運がいい……」
ソレはそんな言葉を口にして、踊り狂っているように見て取れました。
ボクはうつ伏せでフローリングに身を預けていマス。どくどくと心臓の音が聞こえてきて、ボクは小さな恐怖を抱くことを禁じ得ません。
同時にたらりと垂れてくる液体が視界を妨げるのが煩わしくて、それを振り払うことすらできない状況にいらだちがつのるばかりです。
そんなボクの前を土足でソレが通り過ぎました。
床が汚れるので、やめていただきたいのですが……。
華奢な片手に握られたものは鈍く光り、ソレが動くたびに赤い色をちらつかせます。
恐ろしいほどの静寂の中で、ソレがくるくるとまわると、その赤が散るのです。
それもまた、部屋を汚していきます。
そして、ついと眼差しが向けられました。
「まず、ひとりめ」
ソレはニタリと音をたてて笑うと、ボクのそばに膝をついたのです。
強烈な痛みがっ。
肉が抉り取られるような、獣に噛み千切られたような痛み。
熱い! 熱い!
思考は千々に乱れ、ボクは痛みにうめき声をあげることしかできなくて……。
「まっず」
立ち上がって、ソレは何かを「ペッ」と吐き出す。
ああ、汚い。
部屋を汚さないでほしい。
そんな思考がボクの頭をよぎりました。
「この隣は留守、202も留守。てことは? あとは三階かな……」
ソレはそんな言葉を歌うようにささやくと、 小躍りしながら去っていきます。
もちろん、土足で。
ボクは痛みに朦朧とする視線を向けながら、心の底から思うのです。
──体に傷をつけるような殺し方はナンセンスです。
◇ ◇ ◇
僕達が201号室にたどり着いた時、まず毒島さんが躊躇なく扉を開けた。
毒島さんの後ろについていた僕は、その部屋の光景に衝撃を受ける。
「なに……これ」
煌々と輝く真新しい照明。その真下、物が殆どない部屋の中央に一人の女性が倒れていた。
彼女の周りに飛び散った赤が恐ろしい空間を構成している。
その光景は僕を硬直させるには十分な破壊力をもっていた。
「潔子!」
静寂を割いたのは毒島さんの叫び声だった。
走り寄った毒島さんの背中を、僕は遅れて追いかける。
足元に散らばった食器を踏みつけないように台所を通り過ぎ、そして僕はそっと潔子さんを抱き上げた。
気を失っている潔子さんは、両腕や足に切り傷を負い、あちこちから血が流れている。
「ど、どうなって……」
混乱の中でどうにか、潔子さんの血を止めようと袖で拭う。
そんな僕の横で、毒島さんが迷わずに潔子さんの着物の裾を切り裂くいた。
「毒島さん何やってるのっ?」
「止血!」
叫んだ彼女の対応は早かった。
ひどい怪我の部分を着物で縛り上げ、場所によっては帯紐で縛る。
そうして簡単な治療を施してはじめて、僕は潔子さんの顔に傷がついていることに気が付いた。
頬につけられた切り傷。
なんて痛々しい。
それも毒島さんが水をつけた襦袢で拭ったことで、それほど目立たなくなる。
でも、女性の顔に傷だなんて……。
きっとあちこち跡が残ってしまうだろう。
いや、それよりも体の傷には深いものもある。すぐに治療しないと、失血死の可能性もあるのでは……。
医療には詳しくない。
僕ではわからない。
ふと、 白塗沢さんが進士くんの腕を治療したという話を思い出す。
医術に長けている人がいる。そう気づいたら僕は毒島さんに向かって叫んでいた。
「毒島さん、白塗沢さんのとこにいこう。病院より早い」
「賛成!」
彼女も負けじと叫ぶ。
僕は潔子さんを背負って、部屋を出た。
再び毒島さんを先頭にして、僕たちは階段を慎重に下りていく。
錆びれた鉄の階段がカンッ……カンッ……という音を響かせる。嫌な音だ。
また、とてもいやな予感がする。
そう思った。
それが当たっていたことに気づいたのは、白塗沢さんの部屋の前にたどり着いたとき。
わずかに空いている扉。その伸びらに血の跡がついているのが、暗闇でもなぜかはっきりと見て取れた。
「白塗沢さん!」
僕たちはおそらくひどく焦っていた。
チャイムをならす精神的余裕もなく、部屋に勢いよく入り込む。
思いっきり扉をあけ放ち、そこにいるだろう白塗沢さんの姿を探そうとして、暗闇に驚く。
「なんで暗いの?」
そう言いながら電気をつけたのは毒島さんだった。
そして、明かりがついた瞬間、僕たちはそろって息を呑んだ。
他の部屋にはない特別に敷かれたフローリング。たくさんの小瓶が並ぶ壁一面の棚。その壁に背を預けて、ぐったりとしている白塗沢さんの姿。
その足元には、血だまりができていて――。
「白塗っち!」
そんな呼び方?
と一瞬意識がそがれる。
知らなかった。そんな呼び方で呼んでいたのか……。
それとも今呼び始めたのだろうか。
──じゃなくて!
僕もあわてて駆け寄る。
潔子さんの部屋と同じ、足元にはガラスの破片や何かの液体が散らばっていた。しかしこちらは食器ではない。
おそらく壁の小瓶が床に落ちて砕けたのだろう。何が入っているかも定かではないから、液体を踏まないようにするのも忙しい。
僕の背中には潔子さんがいるから、避けるのは一苦労だ。
それにしても……。
この様子では治療はできそうにない。
白塗沢さんの様子は、明らかに彼自身にこそ治療が必要だと物語っていた。




