スキャーリィ編 18話 エリカ7
衿華に迫りくる触手、しかし自身の身体はふわりと宙に浮きそれを難なく回避する。そして、背中にある感覚だけを頼りに蛾のように羽を羽ばたかせる。
蚕は本来なら羽が退化して飛べない虫の一種。それは人間にずっと家畜として品種改良を繰り返された結果起きた事。
しかし、お婆ちゃんが衿華に向けて言っていた『天蚕』という種類の蚕は空を飛ぶことができる。それは人間家畜として飼われてきた虫ではなく、野生で自分だけの力で暮らし生きてきたから。
「飛べた……!」
衿華達人間は筒美流奥義の舞空術でも使わなければ、滞空すらできない。衿華にはもちろんそんな事は出来なかった。
だからこそ、この局面で飛べた奇跡に感謝するとともに、舞い上がる蛾のように飛べる喜びが衿華を突き抜けていく。
しかし、いくら特異能力の出力が上がっても、アイツには再生能力が有る。だから、衿華は現状持ち得る手札を全て使おうともどれも決め手がないから死に至らせることはできない……
それに関しては周囲を吹き飛ばし、再生させる隙を与えない程の大火力を放てる薔薇ちゃんがここにいれば、きっと何とかなる相手だったんだろう。
少し距離を取りつつ、ギリギリ触手の攻撃範囲であろう位置で挑発をする。コイツがもしまだ奥の手を隠していたら、幾ら精鋭を集めても難しい……だから、全部引き出して潰してやる……
「!gnikcuf&gnikcuf/『*scimanyd#diulf』」
「『流体力学』……? 特異能力か……!」
上手く挑発に乗ってくれたのか、悔しがりながらアイツは水を操る特異能力を発動させる。
空中にいる衿華に向けて、周囲の海水を使い無数の数の水の刃を飛ばす。音速を遥かに超えた速さで飛ぶ水に当たれば一溜りもない……だけど、今の衿華は動体視力も筒美流奥義で強化出来ており、それに反応して避ける事ができる。
羽を少し閉じ、身体を筒美流奥義で強化し、縦横無尽に駆け回る。
感情生命体は衿華に攻撃は当たらない事が分かると直ぐに諦め、唸りながら特異能力を解除した。
「……unununug」
「やっぱり特異能力の使い方を隠していた……最初から特異能力で攻撃しなかったのは感情生命体としての本能を優先させたかったから、それに衿華達は敵とすら認識されていなかった……ただの餌だとでも思ってたのか……」
でも、特異能力がこの程度なら黄依ちゃんや天照大将補佐の特異能力で何とかできる……!
できれば、この事を自我が有る状態でみんなに伝えたいけど、この半分感情生命体で半分人間の状態がいつまで続くのか分からない……
それに、もう決まっているじゃないか……あそこには戻れないって……
「とっくに覚悟決めたのに……人間って……本当に酷い」
「!serutaerc#ylgu¥era€snamuh$,sey」
衿華が悲しみ少し後悔する中、『そうさ、人間は醜い生き物だ』と言わんばかりの同情が目の前の感情生命体から放たれる。
「でも、アナタにそんな事言う資格はない! 何も分かってない……アナタは何も分かっていないのよ! アナタは衿華の仲間を沢山殺したッ! 沢山の人から人生を奪ったッ! そして、今から衿華の人生さえ奪おうとしている!」
そんなの当たり前だ……
衿華が憂いたのは人間という種に対してではなく、衿華が人間だった頃の残してきた感情が切なくて酷くて耐え難かったから……衿華が決めた事なのに今更こんな後悔が出てしまう衿華を許さなかったからだ。
感情生命体から触手が放たれるが、あえて避けようとしない。
捕まり、貫かれ、拘束され、手加減なく特異能力で血流を操作される。
痛みと苦しさが凝縮したものが衿華の身体を突き抜けていく。
「ガハッ……! 確かに人間は酷いわよ……はぁ……はぁ……でも、アナタの方がもっと酷い。アナタは少し人の痛みを知った方が良い……あの子のっ! 紅葉ちゃんの……涙の意味を知った方が良い!」
全部全部衿華自身に言い聞かせている事。
衿華の特異能力の発動と共に、衿華が受けている痛みのおよそ何倍もの痛みを目の前の感情生命体の全身に送る。
「!aaaaaaaaaaaaaaaa」
感情生命体は痛みに叫び、身体をくねらせながら咄嗟に衿華から触手を引き抜こうとする。
「逃げないでよ……折角痛みのなんたるかを教えてるんだから……」
衿華はそれをガシッと手で抑え、抜けないようにする。そしてそのまま上空へと飛び引っ張り上げる。
「逃さないから」
ズルズルと衿華に引っ張られた感情生命体は海の中に隠していた身体の部分をどんどん露わにしていく。
全身が海水から出た時には衿華は既に100メートル位上に飛んでいた。つまり、コイツは約90メートル程身体を海の中に隠していた。
「どこまで奥の手を隠せば気が済むのよ……!」
そのデカすぎる手や足をくねらせながら、蛸のような頭部にあった触手を何本も衿華に向けて放つ。
勿論、避ける気なんてなかった。
グサグサと身体が貫かれる。だが、それだけ感情生命体の方にも比例して痛みが共有される。
「そうか……分かったよ。アナタが奥の手をあれもこれもって隠してる理由。さっきは衿華達の事を餌かなんかだと思ってるって思ってたけど。でも違う、アナタの本質は恐怖を与えるんじゃない」
「!pots&pots&pots&pots&pots&pots/!erom#yna+yas t'nod」
その瞬間、目の前の感情生命体には恐怖の表情が浮かんだ。
「アナタ……本当は人間が怖いんでしょ?」
「!aaaa*aaaa*aaaa*deracs@ma%i」
否定しようと必死で叫ぶ感情生命体。
でも、怖いから実力を隠して、怖いから不意打ちみたいな真似をしようとして、怖いから先に油断させて、怖いから衿華達を恐怖に陥れた。有利になれば油断して、玩具のように人で遊ぶ。
少しでも想定外の事が起きて、不利になればこうして叫び違うと暴力でその場をやり過ごそうとする。
「惨めね……こんなボロボロな衿華を煽って怒らせた癖に震えて、怯えて、恐怖して……だからお返し……アナタに対する最高の侮辱を送ってあげるよ」
「!pooooooots」
嘲笑ってやると言わんばかりに衿華は笑みを浮かべる。
「アナタなんてちっとも怖くない」
怒り狂う感情生命体は身体を無理矢理動かして、衿華を喰おうとする。
だが、それは悪手中の悪手。
「衿華を食べた所でアナタはずっと苦しめられるだけだよ」
触手ごと口に放られた瞬間、衿華は特異能力を全力で解放する。
「せいぜい、永遠に痛みに恐怖しながら紅葉ちゃん達に殺されればいいわ」
四肢を歯に切断され、身体中に壮絶な痛みと感情生命体の口の中全体に大量の血をぶち撒けた。
「『痛覚支配』ーー精神崩壊」
永久に消えることの無い痛み、それを背負いながらコイツはこの先きっと後悔しながら死んでいくだろう。
そして、衿華も。
「さよなら紅葉ちゃん」
それでも、最後には大好きだった人の顔が浮かぶ。
そして、死にたくないという感情と死にたいという感情が衿華を侵食していき、瞼が重くなっていく。
あの子との楽しい思い出の数々。喧嘩も少しした。慰めあったりもした。
そういえば、昔こんな約束をしたな……
『もし、感情生命体になったら衿華ちゃんはどうする?』
その時は、ちゃんと答える事が出来なかったけど、今ならはっきりと答えが出せる。
「折角なら紅葉ちゃんに殺してもらいたかったなぁ……」
掠れた声で見る事の叶わない願いを口に出す。
「幸せになってね。紅葉ちゃん……笑顔でね……」
その言葉を最後に衿華の意識は暗い所へ落ちて行った。