堕落編 20話 雨の日1
僕……泉沢拓翔にとって『音』は世界に等しい概念だった。盲目である事、趣味である楽器を弾く事、これはきっとそれらが影響して出来た考えなのだろう。僕の中の道標。なくてはならない標。
音は僕の世界の神様だった。
「竜胆柘榴が死にましたか……」
夜の機関の校舎の音楽室でピアノを弾いていた僕は昼間、同期であり親友である要くんの言伝を聴き安堵していた。彼が復讐を果たせた事や百合さんの身体が解放された事。それらが要くんに取って精神的にも良い影響を与える事を僕は信じているのだ。
奏でる曲は鎮魂歌。
アマデウス・モーツァルト作曲の『レクイエム:涙の日』。
「百合さん……聴こえますか? 僕から貴女への鎮魂歌です」
過ぎ去ってしまった青春に想いを馳せる。暗闇だけだった日々に現れた光のように輝く思い出達。
「共に過ごした日々は忘れません。貴女は唯一要くんの心を満たした人だ。そのお陰で彼も救われた。彼も満足そうだ。過ごした日々は戻りません。後悔も沢山ある事でしょう。それでもきっとコレで良かったのかも知れませんね」
ピアノを弾き終えると、正面から拍手の音が聞こえた。校舎の正面の鍵は既に閉めた筈。生徒も寮か家へと戻りそこに過ごしている筈だが。
そもそも演奏を終えるまで気配すら感じなかった。一体何者だ。
「……こんな夜分に護衛軍の敷地へ不法侵入ですか?」
「良い音色ね。コレは……涙の日かしら? だけどその割には悲しそうではない。鍵盤の弾む音がとても嬉しそうね」
聴き覚えのあるその声女性の声は僕を驚嘆させるのには充分であった。
「……随分、久しぶりに顔を見せましたね。10年程ぶりでしょうか……彼岸。貴女なのでしょう?」
彼女が私達の前から姿を消して今年でおよそ10年だろうか。まだ少年だった頃、そして彼女がまだ少女だった頃の話しだ。『漆我紅事件』で発生した行方不明者の一人。
漆我紅の遠縁にして、贄の継承権第2位であった彼女の本名は漆我彼岸。空間に存在するERGに干渉できる特異能力の持ち主。
そして、僕に音楽を教えた張本人であった。
「どうです? ピアノ。久しぶりに貴女の音を聞かせて下さいよ」
「良いわね。拓翔って、リストの『愛の夢』好きだったでしょう?」
「えぇ……特に貴女の弾いたものは」
僕は席を立ち上がり彼女に席を譲ろうとする。すると彼女は後ろから抱きしめて僕を立たせないようにした。
「一緒に弾きましょう。貴方は左手を、私は右手を弾くから」
「えぇ……そうですね」
僕は少し動揺して、鍵盤に左手をかけた。
そして、演奏が始まった。
「……拓翔ってなんでこの曲好きなの?」
「貴女にフラれた次の日、貴女が聴かせてくれたこと忘れましたか?」
「…………え。あの時、私達小学生の4年生とか5年生くらいのだったわよね。そんな事したの? 私」
彼女は申し訳なさそうな声をだすが、内心そういう所だぞとツッコミを入れながら僕達は演奏を続ける。
「えぇ……。お陰で貴女が居なくなってから10年間、ずっと貴女の事を引きずって生きていますよ僕は」
僕は弾いている左手の指の親指で、彼女の右手を突く。
「貴方、私のせいで変な趣味に目覚めてない?」
「えぇ……お陰様で」
「あの時は要のことが好きだったんだから仕方ないじゃない。そういえば要は元気なの?」
「連弾中に他の男の話ですか……。つくづく貴女は僕を……」
「違うわよ。心配してるだけ」
「……そうですか。元気ですよ。彼は。それもビックリするほどに」
その言葉を聴くと彼女は心配そうに僕の顔を覗くように尋ねてきたのだった。
「連弾するの嫌だったかしら?」
「いいえ。夢のようです。親友が復讐を果たしたその日に僕の愛した女性に会えて、一緒にデュエットできるなんて。それがどんな形であろうとも」
彼女は僕の言葉を聴くと思い出したように、こちらへ質問を尋ねてきた。
「ねぇ……今まで私が何処にいたとか気にならないの?」
「気にしたところで無駄でしょう。貴女はそういう事は一切教えてくれ無さそうですし。というか演奏が終わるまでは教えないで下さい。今はこの時を楽しみたいのです」
「貴方も変わってしまったわね」
「変わりますよ。変わってしまったからこそ、これ以上変化を求めなくなってしまう。責任を持たされれば変わる事などなかったのでしょうけど。ただ、こうやってピアノを弾いている時だけが今を忘れさせてくれる」
「なら夢の世界にずっと居ましょうよ」
演奏が終わると僕は次の演奏をしようとした彼女を止めた。
「夢は終わりますよ」
「えぇそうみたいね。残念だわ」
彼女は本当に残念そうに、声を変えながら僕から離れる。
声を変えたのはそういう技術か? それとも、また別の……?
「声は同じでも、心音は違っていましたから。貴女は僕の愛した女性ではない。この心音は……紅葉さんでしょうか? いや、筒美先生が嘘をついていたのなら……。貴女の正体は……」
僕は立ち上がり、指揮棒を構える。
「心音で心を読むとは。その能力この先、生かしておくのには厄介ね。なるべく穏便に済ませたかったのだけど。仕方ないわね。そう、私の名は漆我紅!」
「……?」
彼女の台詞に引っ掛かりを覚えるが、この違和感はどこから来るものだろうか。気になるが、今はそれより周囲に2体の感情生命体の反応の方を気にするべきだ。
「『ジャスミン』、『まりぃ』。三人で相手をするわよ」
「強いわね、この男」
「キシシシシ! デモ、ワタシモ強クナッテル! 堕トス! 堕トス!」
艶やかな女性の声と、舌足らずの少女の声。二人とも特異能力者か。
「援軍ですか。全く油断も隙もない。少しくらい手を抜いて下さっても良いでしょうに。感覚的にはラスボスと中ボスが一気に攻めてきたようなものですよ。ハァ……さて、好意的な勧誘でしたが、お引き取り願いましょうか。僕も仕事でやっている事なので」
僕は指揮棒を振り、音のない曲を奏でる。
「──『波形干渉』:第一楽章、序曲『灯り』。開演です」




