氷点下273.15度の情火 17話
「了解しました。自然分娩でいきます。それでも耐えられない痛みになったらちゃんと言ってください。一番大事なのは……命ですから」
筒美紅葉は途中まで機械のように抑揚のない喋り方をしていたが、最後だけ自分の話す事に躊躇いのような罪悪感のような感情が籠っていた。
それに反応してか、輝は紅葉に感謝する。
「ありがとね。紅葉ちゃん。貴女は自分の事だけでもいっぱいいっぱいなのに」
「……大丈夫です。問題ありません。ただ……」
「ただ?」
言葉を途中で詰まらせた筒美紅葉の雰囲気が少し別のものになる。
「衿華ちゃんなら『痛み』を伴う事自体が母親になる事では無いって言うと思いますよ。……あの子の考えも少し極端かもしれないけど、『痛み』を伴って産んだ事を"子供に"誇る事やその『痛み』の対価を"子供に"求める事は少し違うと思います」
筒美紅葉の言っている事はつまり『お腹を痛めて産んだのに』という子供を縛り付ける為の呪いの言葉を吐くくらいなら、最初からそんな痛みを伴う方法を取る事はないというものである。
「うん、勿論分かってる。私が自然分娩を選んだのはもっと別の理由だから。これはあの子への『償──ううん、違うの。ごめんなさい。その……今のは忘れて頂戴……」
「そう……ですか……」
輝は話している言葉とは裏腹に、否、話している言葉通りに表情を崩さず優しい声色をだしながらお腹を摩り、筒美紅葉に対して返答した。
その様子を見るに俺が思っていた以上に輝に対して負担をかけてしまっていたのだろう。俺はそれに気付いた瞬間、両手で輝の手を包み込んだ。
すると、輝は此方を見てにこりと笑う。
逆に輝からの回答を受け取った筒美紅葉は表情には出さなかったものの『やり切れない』──そんな声色が伝わってきた。
「はぃはぃ〜空気が重くなる話はそこまでですよ〜くれちゃんも、妊婦さんは覚悟の上なんだからもう良いのよ〜こういう形だとより折り合いが付けやすいって人もいるし〜」
「はぁ……だから紅葉です。間違えないでください」
「はぃはぃ〜わかってますよ〜」
この重い空気に喝を入れる様に文目さんが話を区切ってくれた。やはり、彼女は重要な出産を任されるだけのことはある。
話し合いは終わり、出産に向けて刻一刻と陣痛の頻度や痛みが増して様子が見て取れるようにわかる。何時間、何十時間という痛みとの闘い、それを今輝は経験している。
とても苦しそうな顔。歯を食いしばってでも痛みに耐える彼女。代わってあげられるのであれば、俺が代わりに痛みを引き受けたいと思った。彼女の感じている痛みを消す事ができるのでアレば是非そうして欲しいとも思った。
だけど、そう思うたび輝は俺の顔を見て微笑んだ。叫ぶほど痛い筈なのに。俺が一生のうちで絶対に理解できない痛みを背負っているというのに俺の顔を見て微笑むのだ。
その輝の表情を見るたび心臓の奥が誰かに握り締められたかのような痛みとそれを隠す為にただひたすら輝を応援する為の言葉が口から絶えず出続ける。
輝は何度も痛みと苦しさで意識を失いかけ、またより強い痛みのせいで意識を覚醒させられる。そんな中、俺は手を握ることしか出来ない。その手を繋ぐことすらも、他人から言われて初めてやったことで、自分の意思とは少し別のところにあるのだろう。
そして、とても永遠に続くかと思っていた長い苦しみの時間は甲高く部屋に響く産声と共に終わりを告げた。文目さんは産まれた赤ちゃんを取り上げると諸々の必要な手順を行った後、直ぐに俺に抱き上げるように言ってくれた。
おおよそ3キログラム。たったそれだけの質量にそれ以上に表しようもない重さがあった。俺が抱き抱え『生まれてきてくれてありがとう』と伝えると余計に赤ちゃんは泣いた。俺は困りながら泣かれてしまったことに傷つき、輝に赤ちゃんの顔を見せた。
「ふふっ……元気な女の子……そうだ。氷華くん、名前……決めておいてくれた?」
「あぁ……勿論」
俺は赤ちゃんを輝に抱かせると、紙を取り出しペンで漢字をさらさらと書いた。
「情熱に咲く花と書いて情花。それがこの子の名前だ」
「情花……情花か……良いんじゃない?」
そんなやりとりをしていると突然何かに吸い寄せられたようにこの病室のドアにノックがされた。真っ先に筒美紅葉がそれに反応し、ドアを開けた。
「瑠璃くん……? どうしたの?」
そこに立って居たのは和服を着た少女……もとい戸籍上は男であるのだが、ヒトと表現するのは正確に言えば違うのであろう。だが、その見た目は紫苑や翠に非常に似ており日本人形や座敷童子を思わせるような風貌であった。
少女を模した感情生命体……それが瑠璃の正体だ。しかし、それを知っているのは俺を含めたった片手で埋まるか埋まらない程度。だから、これは輝ですら知らない事だ。
「なるほど……『生存欲』が珍しく沢山で出てると思ったら、てるてるさんの子供が産まれたからなんだね。ごめんなさい、急にお邪魔しちゃって」




