死なないでなんて
カタミチキップとはつながっていますが、こちらを先に読んでも問題ありません。
……温かい。それに柔らかい。とってもいい匂いもする……。
ああ、幸せだ……。頭が蕩けそうになる……。
このまま幸せが続けばいいと思っても、いつか目覚めなければならない。
頭にポンとなにかが置かれて、髪がサラサラ流れていく。
ほら、お迎えだ……。目を開けないと……。
「おはよう」
目の前には女神さまがいた。……つまりはとっても綺麗だということ。
「大好き」
抱きついた。とっても優しい匂いがした。
ああ、いつまでもこの幸せが続けばいいのに……。
無理だとわかっていながらも、願わずにはいられない。
どうか、どうか幸せが続きますように……。
◇
明里といると、私はとっても幸せになれる。
お話し中はもちろん、テレビを見てても、寝る前の沈黙でさえ、私にとってはかけがえの無い彼女との思い出。
……でも、ひとつだけ嫌なことがある。
私は彼女といると、とっても幸せで、楽しいけれど、明里はそうは思ってないみたい。
どんなに私が変顔しても、ふたりで仲良く遊んでも、彼女の好きな料理を作っても。
彼女の瞳には常に寂しさが宿っている。
私はそのたび抱きしめて、すっごく楽しいよって言うけれど、彼女はただ笑うだけ。
寂しさは、どこにも消えてはくれない……。
寂しさなんて、なくなってしまえって願っていても、今のところ効果はない。
……今日はなにをしよう?朝食を食べる彼女を眺めて、その瞳に映る寂しさをどうすれば消せるか考えながら卵焼きを食べた。甘い甘い、卵焼き。
◇
「デート、行こ!」
皿を洗った後のコーヒータイム。
私はブラックコーヒーを一気に飲んだ。
彼女はミルクと砂糖をたっぷり入れながら、目を見開いた。
……当然、瞳に寂しさがいた。
寂しさに宣戦布告をするように、語尾を強くする。
「海に、行こ!」
すでに白いコーヒーに口を付け、彼女はゆっくりうなずいた。
「うん。行こう」
◇
「きれいね……」
あなたの笑顔がねって頭に流れたけれど、頭を振って掻き消す。
頬が少し熱くなった。
「うん。きれい」
小さな波に日光が反射してキラリと光った。
私は悪ふざけをして、心の中で自慢した。
寂しさが消えたらあんたなんかより明里の方がずっとずっときれいなんだからね!
……頬が熱くなった。きっと太陽のせいだ……。
私は熱い顔を冷やすように明里に抱きついた。
胸に顔をうずめた。私の髪がサラサラ流れた。
◇
空がすっかり赤くなった頃。
「つかれたぁ……」
まずいと評判のソフトクリームを買ってバス停に向かう。
ソフトクリームを舐めると、驚くほどまずかった。
「しょっっぱ!」
彼女も私も吹き出して、大きな声で笑った。
……彼女と歩くこの時間は、今日でいちばん幸せだった。
一緒に食べたまずいソフトクリームは、バス停につく頃にはすっかり無くなっていた。
手には紙しか残っていない。
ベンチに座ったとたん、眠くなった。
うつらうつらしていると、プシュッと音が鳴って、彼女に頬を撫でられた。
「バス、ついたよ。行こう」
優しく頬笑む彼女は、やっぱりとっても美しかった。
……ただ、瞳に映る寂しさだけが、異物のように目立っている……。
バスの中、目を閉じていると、隣から死にたいなって聞こえてきた。
……。
繋いだ腕を胸に抱き寄せ、私はここにいるよって伝えた。この気持ちの一パーセントでも伝わればいい……。
死にたいなんて、言わないで。……こんな言葉は絶対に出さない。
出したら最後、私まで彼女に嫌われてしまう。
ゆえに、きつくきつく腕を抱いた。頭を肩に乗せた。
彼女の手の温かさと、髪がサラサラ流れる感覚。
……私は限界だった。腕の力が抜けていく。そのまま意識が闇に飲まれていく。
大好き、ごめんねって聞こえた気がした……。
◆
何度もデートした。
何度も何度も抱きしめた。
何度も何度も何度も死にたいって聞いた。
……そのたびに、やっぱり私はなんにもできなくて。
ただ口をへの字に歪めて、抱きしめた。
……そしてついに来てしまった。
幸せの終わりと、なにかの始まり。
◆
ビルに呼ばれた。十階建ての、人の少ない屋上に。
……なにがあるのか、ちょっとだけ想像して悲しい気持ちになったけど、頭を振って忘れようとした。
「大丈夫……。まだ決まったわけじゃない。大丈夫。大丈夫……」
深呼吸を繰り返し、屋上の扉を開ける。真っ赤な朝日が彼女を照らしていた。その表情は、逆光で見えない。
……でも、なんだかその目の寂しさは。
いつもよりくっきり見えていた。
ああ……。やっぱり……。
私はそれだけで理解した。……できて、しまった。
「……どうしたの?こんなに朝早く」
口を吊り上げた。目はなんだか霧がかかったようにぼやけて見えにくい。
「……別れを。別れを言いたくて……」
……。「死なないで」が喉を引っ掻いた。口を乱暴に叩いている。
口を開け!声をだせ!
そんなふうに「死なないで」は言った。
……言うもんか!歯を食い縛り、上を向く。
なにかが溢れてしまいそうだった。
「……。……そっか……。なんとなく、わかってたよ……。やっぱり私がいてもだめだったんだね……」
「……ごめん」
「ううん……。明里は謝らなくてもいい……」
……本当は怒鳴ってやりたかった。
なんなのごめんって!……言いたかった。
でも、言ったら嫌われるから……。
「死なないで」と「なんなの」が混ざって口を攻撃する。唇を噛み締めた。
「……ありがとう。それじゃあ、お別れだね……。さようなら。私の大好きな天使さん……」
彼女は背を向け、虚空に足を掛けようとした。
「……だめ!」
反射的に手と、体を抱きしめた。
彼女の瞳に、軽蔑の色が少し浮かんだ。
「明里……あの……その……」
泣くまいと誓っていたけれど、頬に涙が伝ってしまった。
これでもかってほど「死なないで」と「なんなの」が暴れてる。
……言いたかった。このまま勢いにまかせて口を開きたかった。
……でも。それじゃあだめなんだ……。「死なないで」と「なんなの」を新しい言葉で押しつぶす。
「……もうちょっと。もうちょっとだけぎゅってさせて……。朝起きてすぐにお別れなんて、私嫌だよ……」
軽蔑の色が消えた。かわりに少しの納得がうまれた。寂しさは、映ったまんま……。
抱きついた。抱きしめた。わんわん泣いた。
生まれたときより抱きしめられて、生まれたときよりいっぱい泣いた。今まででいちばん、涙が溢れた。
いやだ!いやだよ……!別れたくない!もっとずっと一緒にいたかった……!
……声には出せない。出したら嫌われる。……言葉のかわりに涙が流れた。
この気持ちが、一パーセントでも、ううん。それより少しだったとしても。伝わればいいな……。
「……ありがとう」
顔を上げる。目が痛い……。
彼女の寂しさは、彼女の涙でいくぶん隠されていた。
「……きれい。とってもきれい……。明里、大好きだよ……」
……初めてキスをした。いつかの卵焼きのように甘くって。でも、いつかのコーヒーとソフトクリームのように苦くて、しょっぱくて。
「……さようなら」
私は今まででいちばん精一杯笑った。
「……ふふっ。……汚い笑顔ね……涙でぐしゃぐしゃ……ふふ。……ふふふ」
私の精一杯は、彼女に笑われた。
「……でも、今まででいちばん素敵な笑顔」
……彼女の目には、少しの寂しさしか映っていなかった。
「……ありがとう。大好きよ……」
彼女は振り返り、虚空に向かって歩き出す。
……まだある。……もう少し。……あとちょっと。
一瞬でも見逃すものかと目を見開いて、ズボンを握ったときだった。
……なにかある。
世界が色褪せて。時間がゆっくり進んで。ポケットに手を突っ込んで引っ張り出す。
紙と一緒に、ポケットはだらしなくベロを出した。
紙は、切符だった。
行き先は書かれていなかったけれど、かわりにこう書かれていた。
どんなとこでも向かいます、と。
脳裏に電流が走った。
「明里!」
瞬間駆け出した。手を引っ張った。足は虚空を踏みつける寸前だった。
「……これ。これ使お……。一緒にさ、苦しみのないところにさ……」
汽車がきた。真っ黒な車掌さんをつれてきた。
「乗りますか?」
「……どこへでも行けるのですよね?」
確かめるように、願うようにそっと呟く。
「もちろんですとも。地球の裏でも、銀河の外でも、宇宙の果てまでも。どこへだって行きますよ」
「……切符が一枚しかないのです!お願いです!私の全てをあげます!ふたりで行かせてください!」
土下座した。手を、コンクリートのざらついた表面が撫でた。地面に額をガリガリ押し付けた。
明里が慌てた。
「ちょっと!顔上げて!別に土下座するほどじゃ……!」
……聞かなかった。さっき私を置いて逝こうとした罰だ。
「お願いです!お願いです!ふたりで乗せてください!」
真っ黒は苦笑した。
「わかりました。特別ですよ?普通はこんなことはしたりしませんよ?」
「!ありがとうございます!ありがとうございます!」
「ところで、行き先はどちらにいたしましょう?もうすぐ汽車は出発しなければなりません」
私は膝と手をついたまま、明里の目を見た。
……それだけで行き先は決まった。
「……苦しまない世界へ。明里がもう寂しくなくなる世界へ」
切符にはいつの間にか二人の世界と書かれていた。
二人は汽車に乗った。
たくさんの景色が流れていったけど、ふたりは終始無言だった。
そしてついに……
「次は二人の世界、二人の世界でございます。お降りの方は忘れ物にご注意ください。ご乗車ありがとうございました」
ついた。
ふたりが汽車を降りると、今まで乗っていたそれはキラキラと、幻のように消えていった。
……周りを見渡す。
一面緑の平原が続いている。
……隣を見た。明里はボーっとしていた。
堪らず問いかけた。
「明里はこのまま、どこかに行くの……?」
「……わからない」
……どこにも行かないって、言って欲しかった。
そのまま私を抱きしめて欲しかった。
彼女の胸で、私は安心したかった……。
「いかないでぇ……」
声がかすれた。
今まで言わないようにしていた言葉が、姿をかえて口から飛び出した。
……私は堪らず彼女に抱きついた。握った切符を投げ捨てて。
彼女の手は、しばらく間を開けたあと、私の頭にそっと触れた。
「……約束は、できない」
胸がきゅっと締め付けられた。声を我慢できなかった。
……でも、と彼女は続けた。
「できるだけ、一緒にいよう」
心地よい涙が彼女の胸を濡らした。温かいなにかが私の髪を濡らした。もう声を我慢する必要はなかった。
読んでいただきありがとうございました。