第二章:園落聖(2)
雨は降り止むどころか益々ひどくなり、川の水かさがみるみるうちに上がっている。いつものアラティならここで少年をその中に突き落としているところだが、試練達成には「相手と契約を交わす」という条件を満たしていなければならない。
ここ数日で、それがいかに面倒極まりないことかアラティには十分わかっていたが、おそらくはどこかアラティに気づかれないところに監視の目が送られているだろうから、ずるをしてもすぐにばれてしまうに違いなかった。
いっそのこと、こやつが誘いに乗ってくれればいいのに―。
そう思いながら隣にいる少年のほうをそっとうかがうと、その視線に気づいた少年がこちらを振り向いた。分厚いメガネのせいで瞳までは見えないものの、少年の顔はあまりにも無垢でアラティの顔は意味もなく赤くなった。
なぜこのような子供に妾が意味もなく動揺せねばならんのじゃ。
自分の体が示した奇妙な反応に半ば困惑し苛立ちを感じているアラティの額にそっと少年の冷たい手が触れた。
「なっ、何をする」
アラティはうわずった声をあげるとばっと少年の傍から離れた。次期魔王の座をかけて降臨してきた自分がこうも簡単に動揺させられていることにアラティはくやしさと恥ずかしさでその顔を益々紅潮させながら文句を言ってみる。だが少年は全く気にも留める様子もなく、
「顔が赤い。少し熱があるんじゃないのか。こんな寒空の下にずっといたから風邪を引いたのかも…」
と言いながらおもむろに着ていたジャケットを脱ぎはじめると唖然とするアラティの肩にそっとそれをかけた。
少年の体温で温まったジャケットがアラティの冷え切った肩を包み込んではじめてアラティは自分の体が冷え切っていることに気がついた。アラティが生まれ育ってきた世界はいつも地獄の業火に焼かれているため、この地上に比べるとその気温がかなり高い。慣れない環境でろくな食事も取らず屋外で夜を過ごしたアラティの体は本人が気づかぬうちにすっかり疲れ果てていたのだった。
妾自信が気づいておらんかったことをこんな小童が見抜いたというのか。
地上で暮らす人間にはごく普通にわかることだが、魔界の王マーラの第二皇女として数百年を過ごしてきたアラティにはまったく不思議なことだった。
こやつ、人の子にしては頭の切れる奴かもしれぬ。容姿だけではそう見えぬが…。
『そんなに気になるなら試してみてはどうです?』
一人、考えているとトロルがアラティの頭の中に入ってきてこう言った。
気がつくとアラティの頭の上にちんまりと座っている。いつもならトロルが自分の頭に触れて考えを勝手に見透かさないよう、十分注意しているのだが、今のアラティは目の前の少年のことでいっぱいいっぱいでトロルが傍にいたことにさえ気づいていなかった。それでもいつもの勝気なアラティなら無断で自分の考えを読んだことに大激怒するところを、今日は素直にトロルの言葉の意味を聞き返していた。
やれやれ、こいつはとんだ厄介ごとに絡まれたものだ。
そうあきれながらも、ただのくだらないお守りと思っていた今回の任務がなにやら面白いものになりそうな予感にトロルは一人ほくそ笑むと、やたらと神妙な顔つきをしてこう答えた。
『こいつがお嬢様の思っている通りの切れものかどうか、例の契約を持ちかけてみればわかるってことです』
この提案にアラティはなるほどと思った。どうして今まで気がつかなかったのか。ここまで意味もなく自分にかかわってきた人間だ、この男が本当に何の目的もなく今ここにいるのなら、もしかしたら今まで遭遇したどの人間どもよりも簡単に落とせるかもしれない。もし落とせなければ観察するに興味深いだろうし、落とせればそれこそこちらの思う壺。アラティの試練は達成され、意気揚々と魔界に戻れるということである。
しばらくぼーっとしているのは熱のせいだと思い込んでいる少年にアラティはこほんと一度咳払いをすると、いつもの落ち着いた声音で切り出した。
「お主、何か望みはないか」