第二章:園落聖(そのおち・さとる)(1)
二日後―。
無事無銭飲食の罪から放免となったアラティたちは大きな橋の袂をとりあえずの寝床にしながら毎日鴨になりそうな人間を探して町を彷徨い続けていた。
簡単に契約者が見つかるだろうと高をくくっていたアラティがゲーデの言葉の意味を理解するのに数日とかからなかった。
声をかけるのは問題ではなかった。ゲーデほどまでではないがアラティもそこそこの器量は持ち合わせている。口調が普通の女の子よりちょっと変わっていることに目をつぶれば十分人間として通用するアラティにたくさんの鴨が警戒することもなく足を止めた。だが契約までこぎつくことはただの一度もないままに、二日が過ぎていた。
「一体何が悪いと言うのじゃ」
もう何人目になるかもしれない逃がした人間の後姿にアラティは傍に落ちていた小石を憎憎しげに蹴り飛ばしながら独りごちた。
完璧に人の娘になりすましたアラティに声をかけられた者は皆誰もが立ち止まった。
それなのにだ。アラティが契約の話を始めた途端、ある人はまるで子供のわがままに見せるような笑みを浮かべて、またある人は気の毒な人を見るような哀れみの目を向けてそうそうに立ち去っていくのだった。
何事にも最善の策を持ってあたれば不可能なことはあり得ないとはアラティの持論であるが、今回はいくら敗因を考えてみても一向にその理由がわからなかった。
ほとほと困りきっていたところに冷たい雨が落ちてきた。傍のトロルを見るとふわふわと宙に浮かびながら小さな肩をすくめてみせる。
「仕方がない。どこかで雨宿りでもするか」
アラティは小さくそうつぶやくと、ここ数日ねぐらにしている橋の袂へと戻っていった。雨はどんどんひどくなっていく一方で空には分厚い灰色の雲が垂れ下がっている。目的の場所についた時、二人の体は爪の先までぐっしょりと濡れていた。
「とんでもない降りであるな。まったくひどい目に…おや?」
やっと雨から逃れ愚痴を言うアラティの目が先客を捕らえた。薄暗い橋の下、大きな眼鏡が白く光る。警戒するアラティたちの前にゆっくり現れたのはあの時の少年だった。
「ひどい雨だね。傘を持ってない時に限ってこれだ。まったくついてないよ」
「お主はあの時の…」
「また会ったね。もう仕事は終わったの?…って、こんな雨じゃお客さんも来ないか」
そう言って人の良さそうな笑顔を作る少年からアラティは警戒したように数歩離れた。
あの時少年がくれたたい焼きはアラティたちが売っていたものだった。全部食べ終わった後にしまったと気がついたのだが、アラティたちが口論している間に少年はちゃんと料金を屋台の持ち主に払っていったらしかった。トロルが無銭飲食した代金もおそらくこの少年が持ったに違いない。予定よりも早い時間に仕事から解放してくれた親父の顔がやたらとにやけて見えたのはきっとそういうことなんだろうと、アラティは今この少年の向ける笑顔を見て確信した。
「お主は一体何を企んでおるのじゃ」
アラティの率直な問いに少年は「はて?」と首をかしげてみせる。
アラティたちが何も知らないだろうと白を通すつもりか。さては無垢で親切な少年の振りをして妾を騙し、その目的達成を邪魔するよう上層部から仕向けられた刺客に違いない。
そう考えたアラティは相手の目的など本当はお見通しであると言った風にこう続けた。
「お主が金を払ったと、あの屋台の親父から聞いておる。何の理由もなく妾たちを誰かも知らぬお主がそのようなことをするわけがなかろう」
「別に何もないよ。ただの気まぐれさ」
不審の目を向けるアラティに少年はさらりとそう言うと、また人の良さそうな笑みを浮かべた。
屋台の親父の口から少年のことが出たことはただの一度もなく、アラティが言ったことはハッタリに過ぎなかった。だが、少年が否定しないことから彼がアラティたちの借金を返したのは間違いない。裏もなしに他人を助けるなど魔界から来たアラティには絶対にありえないことであり、魔界からなんらかの邪魔が入る可能性も否定できないことだった。
問題はこの少年がアラティが魔王の座につくことを良しとしない反対派の者なのか、それともただ単に自分に恩を売ったことを餌に後で何かを求めようという考えのどちらなのかということだった。いずれにせよ、なにか隠していることがあるに違いない。きっと今にその性根を表すはずだが・・・。
そう思いながら、じっと相手の様子を伺ってみるが少年は特になにかをするでもなく、じっと降り続ける雨を眺めている。何か感じるところがあるかと横で濡れた体をぶるぶる振って乾かしていたトロルに目配せした。
アラティの考えに気づいたトロルはふわふわ飛んで少年に近づくと、その頭に着地した。こうすることで相手の考えていることを読むことができるのだ。頭に乗られた少年は少し驚いた様子だったがゆっくりとトロルを頭の上から下ろすとその黒い頭を優しくなでた。その感触に思わず目を細めたトロルだったが、人間に優しくされて気持ちよくなっている自分に気づくと大急ぎでアラティの右肩まで飛んで逃げた。