第一章:人間界とたい焼き(4)
「なっ…なんじゃ」
自分が回想に浸りきっていたことに気づいたアラティは仏頂面で尋ねた。
「ゲーデさまに引き止められたかったんじゃないんですか?」
「ばっ。馬鹿なことを言うな。なんで妾が…」
顔を真っ赤に染めながら必死に言い訳するアラティを、トロルはただにやにやしながら見上げている。そんなトロルの態度に益々腹を立てたアラティだったが急に襲ってきた空腹にへたりこんだ。
「とにかく、おなかが空いているのは妾も一緒。だいたいお主が無賃飲食したせいでこんな屋台でただ働きさせられることになったのではないか。頼むからこれ以上仕事を増やすでないわ」
むっとした顔でそう言う少女をよく見ると確かに店番らしいエプロンをかけている。この辺りは商店街でもかなり賑やかな場所で、周りに立ち並ぶクレープやアイス、たこ焼きなどの屋台にはどれも商品を求めて並ぶ客が長蛇の列を作っている。そんな中でただひとつ、閑古鳥が鳴いているのは二人がただ働きをさせられているというこの屋台だけだった。
「そんなこと言ったって、お客なんてちっとも来ないじゃないですか。売れないまま冷えて捨てちまうぐらいならトロルやお嬢様のお腹を満たしてからあの世に行ったほうがたい焼きファミリーだってうかばれるってものですよ」
トロルの言葉が甘い悪魔の囁きとなって聞こえてくる。いくらお腹を空かせてがんばったって所詮はただ働き。この世界の通貨が手に入るわけでもなく、ただ今日一日の仕事が終われば無罪放免、自由になれるというだけではないか。そう考え始めたアラティの脳裏に最後に見たゲーデの顔が閃いてアラティはぶんぶんと首を振った。
「ええい。何を考えておるのじゃ。このままではあやつの言うとおりではないか。妾は三月のうちに課題を果たさねばならんというのに」
そう自分に言い聞かせてみるが、一度鳴った腹の虫はそう簡単に治まりそうもない。がっくりとうなだれたアラティの目の前に甘い香りを放つ茶色い紙袋が差し出されたのはその時だった。開いた袋の中には、クリーム色をした魚の顔が並んでいる。薄い皮でできた腹の部分にぱんぱんに詰まった甘いあんこがうっすらと透けて見えた。見上げると、顔半分が隠れるほどの大きなめがねをかけた少年がにっこりと笑いかけた。
「なんじゃ、子供」
「これ、食べなよ。お腹が空いてるんだろ?」
「そんなものはいらん」
アラティは威厳を込めた声でそう言った。少年の外見はアラティより少し年上のように見えるが人間は悪魔ほど長生きはできないから、アラティにとっては赤子も同然である。次代の魔王になろうかという者が人の赤子に食べ物を恵んでもらうなどアラティのプライドが許さない。目の前のたい焼きに今にも飛びつきそうなトロルの尻尾をぐっと掴むとアラティはじっと相手の顔を見つめた。大概のヒトならばアラティの瞳を五分とは見つめていられないはずだった。そんなことをすれば精神が病んでしまうからだ。ところがこの少年は平気な顔をしている。
「そんなこと言わないでさ。そっちの小さい子も食べていいよ」
人間には奇妙な生き物にしか見えないはずのトロルの頭を少年はまるでペットの犬か何かのようにそっと撫でるとそう言った。
なんじゃこいつは?眼鏡をかけているからと言ってトロルの姿が見えないわけはあるまいに。
不審に思ったアラティはしばらくいらないと意地を張ってみることにした。ところが肝心の体のほうはそんな主人の気持ちに同情することもなく、ぐう、と小さな泣き声をあげた。目の前の少年にもこの音はしっかりと聞こえていて、はっと見上げたアラティと目が合うとにっこりと微笑みながら紙袋をアラティの手に押し付けると混み始めた夕方の町へと消えていった。