第一章:人間界とたい焼き(1)
冷たい木枯らしが吹きすさぶ、下町の一角。足早に家路を急ぐ人々にいたいけな少女がか細い声をかけた。
「マッチ、マッチはいりませんか?」
けれど年の暮れもせまるこの時期、みな自分のことに必死で今にも空腹と疲労で倒れそうな少女のことを気にかけるような者などいなかった。あまりの寒さに少女は売り物のマッチをひとつ灯して暖をとる。するとどうだろう。灯りの中にしっぽまであんこがいっぱい詰まった少女の頭ほどの大きさのたい焼きがいい匂いをさせて浮かび上がったではないか。
「あら美味しそう。きっとこれは神様が、がんばるあたしにくれたご褒美に違いないわ」
そう少女はつぶやくと小さな黒い手をその大きなたい焼きに伸ばした。
「いただきまー」
「トロル、いい加減にするのじゃ」
今にも頭からかぶりつこうとしていた少女の頭上から、突然怒鳴り声が聞こえてきたかと思うと、たい焼きをつかんでいた手をばちんとひどく叩かれた。
「なっ…なにしやがるんでぃ、こんちくしょ…」
さっきとはうってかわったダミ声で悪態をつきながら声の主を見上げたトロルは自分を見下ろす冷ややかな目にさっと顔色を変えた。
「おっ…お嬢様…」
黒曜石よりも更に黒い瞳を持つ色の白い少女が腰に両手をあててじっとトロルを睨んでいる。深紅のリボンでたばねた腰まである髪も少女の瞳に負けないほど真黒で、屋台にかかる提燈の明かりに照らされてもその色が褪せることはなかった。
辺りはにぎやかで、トロルが手を伸ばしていたたい焼きを売る屋台のほかにも様々な店が立ち並んでいる。陽はまだ高く、空には目の覚めるような青空が広がっていた。
「なに馬鹿なことをやっているのじゃ、お主は」
お嬢様と呼ばれた少女は大きなため息をつきながら空中にふわふわと浮いている小さな生き物を見た。それは一見リスのような風体でふさふさのしっぽと大きな前歯を二本持っていた。全身は真っ黒な毛に覆われていて、丸く小さな両手のサイドからは一本の太く短い指のようなものが飛び出しており、どうやらこれを使ってうまくものをはさみ取る仕組みのようだった。背中には小さな羽根が一対生えており、それをせわしなく羽ばたかせている。ともするとペットとして流行りそうな風体のそれは短い腕をあごの下に持ってくると、いやいやをしながらぷぅと頬をふくらませた。
「だっておなかがすいたんですもの」
「かわい子ぶっても妾には通じないぞよ」
女の子調の声音で同情を引こうとするトロルを黒髪の少女はにべもなくばっさりと切り捨てた。
「ちぇ。ついてないぜ。ゲーデ様のご命令でなけりゃ、お嬢様についてこんな世界へなんか降りてきやしなかったのに」
「なんじゃ、何か文句でもあるのか」
ギロリと睨まれてトロルは小さく肩をすくめた。
「だってそうじゃないですか。人間界の貨幣が違うってことぐらい先に調べるべきでしょう。お嬢様はいつも行き当たりばったりで…お嬢様のお守りをするこっちの身にもなってくださいよ」
「何を言うか。妾は一人で大丈夫だと言ったではないか。あのような課題、妾にかかればあっと言う間だと言うのに…」
黒髪の少女は大きなため息をつくと店脇に置いてあった小さな丸椅子にどっかり腰をおろした。少女の名前はアラティ。魔界の王、マーラに面と向かって苦言を投げかけられる唯一の存在である。魔界の掟では現王の直血を引く者以外が王座に君臨することは許されないことになっており、三人姉妹の真ん中に生まれ、一番頭が良いアラティは、次期魔王第一候補だと言われている。だが実際は、女であるアラティが魔界の王に君臨するのを快く思わない者も少なくなかった。まだマーラが現役である間は問題ないが、その現王も既に四千歳を超えており、跡継ぎに玉座を渡すのもそう遠くはない。そんな理由で魔界は今揺れに揺れていたのだが、そんな矢先に行われたアラティの魔界学校卒業式。何も波乱が起きないはずがなかった。
新連載、はじめました。まだ試行錯誤なので不定期更新になりますが、よろしくおねがいいたします☆