友達
5月に入って一週間が過ぎた。
その間の図書委員の当番はいつもと変わらず、鍵を開けて、昼食をとり、たまに訪れる本の貸し出しをし、それ以外の時間は読書にあてるといったものだった。
今日は何を読もうかと悩み、家から持ってきた1冊の本。それを開こうとした瞬間、図書室の扉の開く音がした。図書室に似つかわしく無い騒がしさで。その音が既に,来客が誰なのかを明示していた。
「久し振りだね、祐くん! 本を返却しに来たよー」
「そんなの見れば分かるよ。あと、君はここがどこか分かってる?」
「……? 図書室でしょ?」
「そうだね、君は図書室ではお静かにって小学生の頃、習わなかった?」
「だってここ、祐くん以外誰もいないじゃん」
彼女には何を言おうと無駄らしかった。小学生の言うような屁理屈だったが、彼女の言う通り、他に人はいないのだから、まぁ、良しとしよう。その騒がしさが彼女らしいといえば、そうなのだろうし。
「で、ちゃんと読んだの? その本」
「うん! もう一ページずつしっかりと」
「その割には明るいね。感想とかないの?」
そう問い掛けると、彼女の表情から笑顔が消え、時折見せる表情に変わった。いつもの彼女とは別人と言える程までに表情が変わる。それがどんな感情からくるものなのかは僕には分からなかった。
「そうだね、君の言う通りだった。どれだけ足掻いても、周囲の人々がその人を作るって言葉通りだった。でも、主人公が人と違う事を悟られないように演技をしていたっていうのは誰にでも当てはまるような気がする。他人から人間として失格とまではいかないけど、何らかの烙印を押されないように」
「…………」
彼女は言った。誰にでも当てはまる気がする、と。それならば、彼女もやはり表面上貼り付けているものがあるのだろうか。僕が指摘した、彼女の態度。明るいけれど一歩引いているように見えるのは、あの態度が彼女にとっての演技だからなのだろうか。それとも、今の表情でさえも彼女の表面上のものなのだろうか。
そんな風に、彼女の在り方についての思考を重ねていると、彼女はまた明るい表情に戻って、少し恥ずかしそうに言った。
「っていうのが感想なんだけど、自分の考えをはっきり言うのって、やっぱりちょっと恥ずかしいかな」
「君は見た目によらず、物事をしっかり考えるんだね。」
「見た目によらずって一言余計。まぁ、でもそれが君から見た私なんだね。一応、褒め言葉としてとるけどいい?」
「どうぞ。僕もそのつもりで言ったんだ」
本当に。明るく振る舞っているように見えて、その実、人をしっかりと見ている。彼女に対する違和感はそこから来ているのかもしれない。
「そういえば、祐くんってずっと本読んでるよね」
「うん、そうだね」
唐突に彼女は質問、というよりは確認をしてきた。事実だったので、何の意図かも考える事なく肯定した。
その時、不意に違和感が訪れた。明るいように感じるのに、その中に混じった異物。真っ白な絵の具の上に黒色の絵の具をほんの一滴落としたような。
「本ばっかり読んでたら人生、勿体なくない? せっかく人間に生まれたのに」
たった1つの質問だった。しかし、その質問に真面目に応えてはならないと、本能的とでも言うのだろうか、自分の奥底から警告が発される。先の一滴の黒色の絵の具が真っ白な絵の具を濁してしまうように、違和感が溶けて、混ざって、ぐちゃぐちゃになる。
僕は、ふざけた持論の暴力で質問ごとその違和感を叩き潰す。
「残念ながら、少なくともこの場においては人間じゃないんだ」
すると彼女は本当にきょとんとして、彼女もふざけた答えに対して問い掛ける。ふざけた答えに対しての問いなのだから、それもやはりふざけたものだった。
「? え、じゃあ何? 宇宙人とか?」
「地球も星の1つだからそれも間違ってはいないだろうけど、そういうものじゃない」
「じゃあ、何なの?」
話題が逸れたようで、違和感の影も無くなったが、ここで止めるのもどうかと思い、僕は至極真面目な顔で言い放った。
「僕はヒトだ」
彼女は答えを聞いた瞬間、きょとんとしていた。思考に空白が現れ、脳が脳としての機能を果たしていないような顔だった。
しかし、脳が機能を取り戻すと、彼女は砕けたようにけらけらと笑った。ついでに腹も抱えていた。
「あははははは! 何真面目な顔で言ってるのー! 人と人間って同じ生き物じゃない!」
「いや、同じになる人もいれば、違う人もいるっていう持論だよ」
彼女の笑いのツボにはいったのだろうか。自分としては面白くはない持論だと思っていたのだが。
彼女は息も絶え絶えになりながら僕に聞かせてほしいと言ってきた。
僕は、あまり人に聞かせるものでは無いと思いながらも、続きを話し始める。
「人間って言う言葉は『間の人』って書くんだけれど、」
「『人の間』じゃないの?」
「人の話は最後までしっかり聞くって小学生の頃習わなかった? あと、『人の間』の場合、それは世間という意味になる。『人間万事塞翁が馬』とかはそっちの意味。読み方は『じんかん』」
「へぇー、よく知ってるね。じゃ、続けて続けて」
「……で、『間の人』の場合、何の間かっていう疑問が浮かぶけど、僕の場合それは『関係』って捉えてる。だから、人間も色々分けられる。家族の人間、友情の人間、恋愛の人間と言った風にね。友人とか恋人っていうのはその略語。つまり、教室で独りでずっと本を読んでいるような周囲と関係がない人は、ただのヒト科ヒト属ヒトでしかないって事」
「ふーん、難しく考え過ぎだと思うけどなぁ。それに私と話してるし人間で合ってるんじゃない?」
「君と僕の間にどんな関係があるの?」
この言葉は実際、他の人に言ってはいけない言葉であるということを重々承知している。
しかし、そう問い掛ける以外の方法を僕は拒否した。僕とただ図書室で会話するだけの彼女。その間にどんな関係があるのか。僕は以前、彼女をただのクラスメイトと判じた。ただ、偶然彼女が本を借りに来て、偶然会話する事になっただけだったから。けれど、彼女が2度、3度現れて会話し、挙句彼女は僕を名前で呼ぶ。これをどう判じれば良いのか、教えてくれる人はいなかった。
だから、彼女に問い掛けた。
彼女は軽く首を傾げながら、さも当然のように言い放った。
「友達、でいいんじゃない?」
「友、達……?」
初めて言われたその言葉に僕は、動揺を隠せなかった。
「うん、友達がどんなものかって聞かれると答えに詰まってしまうけど、人間関係って案外そんなものじゃない? どこからどこまでがどんな関係かって線引きは無いけれど、敢えてつけるなら友達って関係が1番しっくりくると思うよ」
「……そう」
そこまで喋った僕たちの会話を遮るかのように予鈴が鳴った。
「あっ、チャイム鳴っちゃった。じゃあ、これからもよろしくね、祐くん」
僕は妙に気恥ずかしくなり、ただ首を縦に振るだけで応えた。
彼女はそんな僕を見て、花を咲かせるように笑ってから図書室から出て行った。
僕は自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。
ただ自分の顔が灼熱に包まれているような感覚だけは確かに在った。この感情がなんと名付けられるものなのか僕は結論付けることが出来ずに図書室を後にした。