少し面倒臭い状況
職員室に鍵を届けてから教室に戻った。
大体の生徒が席についているので、自分もこっそり後ろのドアから中に入った。
授業の開始まであと3分程あったので、授業の準備をしていると突然前の席の男子が振り向いた。何事かと思う僕に、前の男子がニヤニヤしながら喋りかけてきた。その顔を僕は少し不快に感じた。確か名前は坂口健といったか。部活動はサッカー部だったはずだ。
「よう、立花と仲良いのか?」
僕はその質問を疑問に感じた。確かに、さっきまで会話をしていたのは事実だが、何故彼が僕と立花桜を関連付けることができたのかが分からない。僕の記憶が正しければ、さっきの図書室の中には他に生徒はいなかったはずだ。
「何故そんな事を?」
「俺らが飯食ってる時に近づいて来てさ、何の用かと思ったら、お前がどこにいるかって聞いてきてな。他の男子、唖然としてたぜ。いや、鳩が豆鉄砲を食らった顔っつー方が正しいかな」
「言っておくけれど、僕は彼女とは何の関係も無いよ。彼女は、
ただ僕にオススメの本がないか聞きに来てただけだから」
嘘は言っていない。ただ成り行き上、軽く会話をする事になってしまったが、それ以外には何も無い。それは何の変哲も無い、ただのクラスメイトというものだ。
すると、彼はニッと笑って、ただ、そっかと言って前を向いた。表情からは彼がどのように解釈したのかは分からなかった。
翌日、昼休みになるといつもの如く読書を始めようとしたが、教室の中は流石、中だるみする学年という言葉が良く似合うほどに騒がしかった。
誰も彼もが楽しそうに、ただ笑い合って、冗談を言い合っていた。まるでこの時間が、いつか終わりを告げる事を知らない無知な獣の様に。
しかし、これがやはり日常というものなのだろうと僕は思った。
教室にいても読書に集中できそうに無かったので、僕は昨日と同じく図書室に行く事にした。
図書室に入ると、やはりここにも日常があった。
いつも通りの静寂。昨日の出来事がまるで夢幻であったかのように。
僕もまた、いつも通り空いている机の椅子を引いて、座る。栞を挟んでいたところから本を開く。何処まで読んだかを探して、読み始める。
少しずつ現実との境が曖昧になり、本の世界に引きずり込まれていく。
僕はただ、どれだけ時間が経ったかも忘れてその世界を旅した。
身体の感覚が鈍くなり、頭の中には完全に違う世界の像が浮かび上がる。見た事もない人々が頭の中で行動を起こす。その世界を傍から見ている自分。僕は、完全にそこの世界の住人となっていた。
しかし、そこに割り込んでくる現実の音。昼休みの終わりを告げる予鈴だった。頭の中の空想の世界は途端に霧散し、現実世界に引き戻された。
読んでいる頁に栞を挟み、本を閉じた。そこでふと、昨日の出来事を思い出す。彼女が本を探しに来なかった事に。いや、自分が気付かなかっただけなのかもしれないけれど。
やはり僕は昨日の出来事が夢幻であったように感じた。
だが、それは誤りだった事に気付かされる。
翌日、木曜日なので4時限目が終わるやいなや、僕は図書室を開ける為に職員室へ行き、鍵を取って図書室に向かった。
図書室の鍵を開け、中に入ると、図書室特有の本の紙の香りが押し寄せる。
そのまま適当な席に座り、昼食をとった。昼食と言っても購買のパンのみなので、はっきり言うと、味気無い。しかし、素早く済ませることができるので、これといった不満は無い。
昼食を済ませると、いつもの如くカウンターに座って本を開こうとした。
その時だった。
勢いよく図書室の扉が開かれ、図書室において不適切な大きく間延びした声が聞こえてきた。
「佑くーん、本借りに来たよー!」
僕は最初、その声がどこに向けて放たれたものなのか分からなかった。日常生活において、下の名前で呼ばれる事は皆無と言っていいほどだったので、彼女の言った「ゆう」という単語の意味さえも、一瞬疑問を持ってしまった。
そして、自分の名前が「佑」と言う事を再認識した時には、彼女はカウンターの前に来ていた。
彼女はいつかと同じく眉をひそめて問いてきた。やはり表情がころころと変わる。
「桜野佑、で合ってるよね?」
僕は肯定する代わりに問い掛けた。
「なぜ君は僕を下の名前で呼んだの?」
別に気になったという事以外に他意はない。
彼女はそんな僕の問いに、僕の顔色を伺うようにして答えた。
何故か、少し哀しそうな表情を浮かべながら。
「呼びたかったから、じゃだめかな?」
「…………」
そんな表情で問われるとはっきりと断る事は出来無くなる。僕としては、変な誤解を生み出す事になりそうな種はない方が良いのだが、それは彼女にも当てはまる事のように思えた。
彼女の真意が読み取れない。小説のように、感情が文章に書いてあれば読み取る事もできるのに。
僕は初めて人の関係について、じれったく思った。言葉で伝えないと相手に伝わることも無ければ、表情から読み取ろうとしても受け取る側の解釈に過ぎず、正解なんて分からない。人間とは、なんて曖昧な関係であろうか。
だが、その中にも1つ疑問があった。それをそのまま口にした。
「君は、クラスでは他の男子を苗字で呼ぶけれど、何故僕は下の名前で呼んだの?」
「……一応、理由はあるんだけど、ね。今は教えられないかな」
彼女は、少し困ったような表情でそう言った。
僕は理由が気にはなったが、そう言われては、追及するのを諦めざるを得なかった。
僕は、理由を追及する事を吐き捨てるように嘆息した。
彼女は僕にもう一度問い掛けた。
「だめかな?」
何がとは言わない。僕はその問いに対する答えの選択肢は1つしか無かった。半分以上やけくそ気味で答えた。
「君が呼びたかったら好きに呼んでくれ。けど、その事で君が変な誤解をされても僕は干渉しない」
自分に対する誤解は無視すれば良いので特に気には留めなかった。昨日、前の席の坂口健から変な質問をされたばかりだというのに。
僕がそう答えた途端、彼女は名前にふさわしく、花の咲いたような表情で言った。
「ありがと。じゃあ、これからもよろしくね、佑くん」
僕は彼女の表情を見て思った。彼女が笑った事が素直に嬉しいと。もしかすると、僕は彼女に哀しい顔をして欲しくなかっただけなのかもしれないと。
僕は少し気恥ずかしくなった。それを隠す為なのか、僕は彼女に疑問を問い掛けた。
「それで、君は本を借りに来たんじゃないの?」
「あっ、そうだった!」
彼女は、以前の如く、また忘れていたらしい。しかし、今日はまだ時間は残っていたので、そんな彼女に問い掛けた。
「読みたい本がどんなジャンルなのかは決めてきた?」
「うーん、ジャンルっていうのがどんなのかは分からないけど、何ていうのかな、人生を考えさせてくれる本? みたいなの有る?」
「…………」
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
はっきり言って、意外だった。日常において明るく振る舞っているように見える彼女が、そういったジャンルの本を読もうと思う事が。いや、これは僕の彼女のいつもの印象に対する偏見に相違ない。
僕は気を取り直して、答えた。
「いや、何でも無い。そういった本も有る事には有るよ。もっと細かくジャンルに分かれるけど」
「ふーん、どうせ私みたいなのがそういった本を読むのが意外、とか思ってたんでしょ。別にいいよー、よーく言われるし」
彼女はそっぽを向いてそう言った。
完全に図星だった。ここまでピタリと当てられるとは思わなかった。ひょっとしたら、表情に出ていたのかもしれない。
僕は、ここは素直に謝罪した。ただ一言で。
「……ごめん」
人に素直に謝るという事をしたのは何年ぶりだろうか。もしかすると、生まれて初めてかも知れない。いや、それは流石にないだろうか。
僕が謝ると、彼女はころっと表情を変えて満面に笑った。ついでに話題もころっと変わった。いや、戻った。
「うむ、よろしい。で、細かくジャンルに分けるとどんなのに分かれるの?」
「……生きる意味を主題にしたものや、人間関係のドロドロをえがいたもの、人間について主題にしたものとか。病気を持ってる人との恋愛は生きる意味を考えるものが多いかな。これは現代の小説が多い。人間関係や人間についての小説は明治とか大正とか古いのが有名。具体的には夏目漱石の『こころ』とか太宰治の『人間失格』とかが有名だと思う」
「へー、よく知ってるね」
「いや、これは皆知ってるよ。『こころ』は教科書にも載ってるくらい」
「ふーん、じゃあ『こころ』はその時に読むとして、『人間失格』ってどんな本?」
「内容を言ってしまうとつまらないから、自分の感想としては、人間っていうのは自分が作るものじゃないんだな、って感じかな」
思わず少し饒舌になってしまったかもしれない。彼女は僕の感想がいまいち理解できていないようで首をひねっている。
「……?」
分からないようだから、自分の言葉で具体的に補った。
「例えば、君は以前、斎藤司のことを真面目だと評した。僕もそれに同意だ。そうすると、彼は真面目な人間ということになる。彼がそれを否定しようと、彼が真面目な人間という評価には変わりはない」
「なるほどー。じゃあ、君から見て私はどんな人間?」
感心したように言った後、彼女は、少しいたずらっぽく笑って問い掛けてきた。僕は、それにどう答えるか、少し戸惑う。
僕は以前から彼女に少し違和感を持っていた。頂上や時折見せる表情のせいなのかもしれないけれど、学校での振る舞い方に少しズレがあるように感じていた。
僕は彼女に問い掛けた。
「僕のイメージをそのまま言っていいの?」
「うわー、そう言われちゃうと少し緊張するなー。でも、正直に言ってくれないと意味無いし」
「そう……」
彼女はのんきにそう言った。僕は少し息を吐いて、自分が思う彼女のイメージを口にする。
「……そうだね、君はよく笑う。感情表現も豊かだし、クラスの人たちにも好かれていて、よく会話している。だけど、君自身は一歩引いているようにみえる。笑っているのに、その中に少し違う感情が混ざっているような、仲良くしているけど、もう一歩中に踏み込んでいかない、と言ったらいいのかな。仲良くなり過ぎるのを避けているように感じる」
僕は、そう言って彼女の表情を見ると、彼女は少し目を見開いて驚いているようだった。信じられないものを見たような表情だった。そして、少し声を震わせて言った。
「……そ、そんな風に見える?」
「……あくまでも僕のイメージだから気にしなくていいと思うよ」
「……う、うん。そうだね。あ、時間ももう無いし、その『人間失格』っていう本貸してくれる?」
彼女はそう言っている間、下を向いていた。表情が読み取れ無かったけれど、動きそうに無かったので、棚から本を取り出してきて、貸出の手続きをして渡した。
「暗い話だから気をつけてね」
と、一言だけ付け加えた。すると、彼女は一言
「ありがと」
とだけ言って、振り向いて走って出て行った。最後まで表情を見る事はかなわなかった。
僕は彼女の行動に疑問を抱かずにはいられなかったが、その瞬間に予鈴が鳴り、思考の渦から引き摺り出された。
閉める準備をしようと立ち上がると、カウンターの先の方に一滴の雫が在った。室内だから雨が降る筈もないのに、と疑問に思いながら外に出て鍵をかけた。以前と同じく、いやそれ以上に重く感じた。
僕は以前と同じく首を傾げながら職員室へ向かった。