学校にて
春休みが終わり、新しい学年が始まった。
僕は春休みの課題をつつがなく終わらせ、提出した。全てにおいてなんの問題も無く、いつもの日常が始まった。
ただ独り、大洋の真ん中に浮かぶ様に生活する。周りには何も無く、遠くに微かに島が見えるものの、そこまで行こうとは思わない。
別に誰が不自由するわけでもなく、僕自身も不自由していなかったからそんな日常を変えようとも思わなかった。
周囲では新しいクラスで新たなグループを作ろうと男子女子共々、相手を探り合うような会話が教室に響いている。初対面の印象は人間関係を確固たるものにしてしまうため、表面上を必死に繕っているのが伺えた。
僕は人間関係ほど面倒臭いものは無いと思っているので、特に喋りかけようとも思わない。僕は周りに壁を作るために本を取り出して読書を始める。
そんな日々を繰り返し、4月も後半に差し掛かった頃、委員会を決める事になった。僕は迷わず図書委員を希望した。小学生の頃から、10年間、一度たりとも他の委員をしたことが無かった僕に、他の選択肢は無かった。
図書委員は本の整理と貸出の手続きだけという簡単な仕事内容にもかかわらず希望する人が少ないという、いわば穴場のようなものだった。
その後も何の問題も無く、僕ただ一人がクラスの図書委員に決定した。
今年は普段よりも図書委員の人数が少なく、僕は週2回、昼休みの担当になった。何曜日であろうと変わらず昼休みに本を読んでいる僕にとっては何の苦痛にもならなかった。
僕は、これからも何の変化も無くこのまま時だけが過ぎていくのだろうと、そう思っていた。
この時までは。
4月の終わり、僕は図書委員の仕事としてカウンターの受付をしていた。しかし、本を借りに来る人は日々5人もいない程度なので、貸出の手続きをする時以外は本を読んでいた。
昼休みが過ぎ去っていくのをしみじみと感じながら本の頁をめくろうとした時だった。
控えめな声で質問をしてくる人がいた。
「何か、オススメの本とかありますか?」
鈴のなるように小さく、軽い声だがしっかりと相手に伝わる芯が通った声だった。
僕は読んでいた本に栞を挟み、本を閉じた。そして顔を上げるとそこには。
山の頂上にいた少女がこの学校の制服を着て立っていた。
「……君は――――」
僕は彼女を知っている。確か立花桜という名前だったはずだ。頂上で彼女に会うよりも前に噂で耳にした事がある。
その時は顔を見たことは無かったが、今年は同じクラスになっていた。
彼女は男子にも女子にも人気があるようで、彼女の事でクラスの他の男子が少し騒いでいたような気がする。
クラスで彼女を見た時には少し驚いたが、やはり自分とは関わりの無い世界の人間だと思い、声を掛けようとまでは思わなかった。
彼女は僕が反応したのを見計らって、
「あの……、覚えてる?」
と、先程よりも少し緊張した声で問いた。
僕は何を答えるでもなく、ただ首を縦に振って首肯した。
彼女は、ほっと安堵したようで、少しはにかんでから、言った。
「あの時登ってきた人がこの学校の生徒だったから驚いちゃったよ」
驚かされたのはこちらの方だ。たった一人の存在で見ている景色の印象が、がらっと変わってしまったんだから。
それにしても今の発言には少し引っかかるところがある。「この学校の生徒だったから」とはどういう事だろう。この学校の人には見られてはいけなかったのだろうか。
いや、難しく考えても仕方が無い。言葉の綾などではなく単にそのままの意味かもしれないから。などと考えていると、カウンターの前にいる彼女は膝を折って、考え込んでいる僕の顔を不安そうに覗き込んできた。
彼女は山頂での哀しそうなイメージとは異なり、表情をころころと変える。
彼女はゆっくりと確かめるように問いかけてきた。
「……あの、桜野くん、でいいんだよね?」
「合ってるよ。立花桜さん」
「えっ!? 私の名前覚えてたの?」
「覚えてるよ。同じクラスなんだから」
彼女は僕が名前を覚えていないと思っていたらしい。既に1ヶ月が経とうとしているのに。僕からすれば彼女が僕の苗字を覚えていた方がよっぽど驚きだ。
彼女はあっけらかんとして、
「いつも一人で本ばかり読んでるから周りの人の名前なんて憶えてないと思ってたのに」
と、言った。
今の言葉には流石に反論せざるを得なかった。
それはいつも誰かと一緒にいる人々の偏見に他ならない。
僕は対抗するように持論を振りかざす。
「それは君の偏見だよ。独りでいる人には幾つか種類がある。大勢の輪の中に入りたいのに喋り掛ける度胸が無い者、ただ単に独りがいるのが好きで他人に興味が無い者、独りでいるのが好きだからこそ変なトラブルに巻き込まれないように必要最低限の情報は把握しておく者、と言った風にね。」
「ふーん。じゃあ、桜野くんはその中のどれ?」
彼女は何か含みのある顔で聞いてきた。
僕はその顔を訝しみながら答えた。
「……最後者だよ」
僕が答えるやいなや、彼女はニヤッと笑って、
「じゃあ問題! 出席番号7番、メガネかけた野球部の真面目君の名前は?」
どうやら彼女は僕がどれくらいクラスの人を把握しているのか試すつもりのようだった。
本来ならば、この時間はほとんど人の来ない図書室のカウンターに座って読書をしているはずだった。そして、昼休みが終わると鍵をかけて職員室に持っていくのが日常だった。
僕はいつもとは違う昼休みに少し疲労感を覚えながら答えた。
「……斉藤司」
「へー、本当に覚えてるんだ」
彼女は感心したようにつぶやく。この子は僕のことを馬鹿か何かだと思っているのだろうか。ころころ変わる表情は見ていて面白いものがあるが、やはり少し違和感を感じる。まるで掴むことのできない水を無理矢理掴もうとしているような。煙の中にあって真実はまるで見えていないような。
と、思考を積み重ねている間にも彼女は、新たな質問を繰り出してくる。
「じゃあ第2もーん! 活発、快活、溌溂! クラスの頼れる姉御的存在、テニス部のエース、出席番号37番。さぁ、誰だ?」
「姉御的って言葉、現実世界で初めて聞いたよ。あと、最初の三つの言葉ほとんど同じ意味なんだけど」
「いーの! 最後の文字をつでそろえて韻を踏んでるの! はい、答えて!」
強引すぎる彼女の言葉に、僕は溜息を吐きながら、
「……山崎楓」
「せいかーい! うーん、じゃあ――」
「……君は本を借りに来たんじゃないの?」
僕は彼女の発言を途中で遮った。このままだとクラス全員答えさせられそうだったからだ。
彼女の質問に答えている間、僕はただ疑問だった。いつもクラスの誰かと一緒にいる彼女が、昼休みに図書室に来て僕としゃべるというこの行動自体が謎だった。ただ本を借りに来るだけであるなら別に僕と会話をほとんどする必要はない。ただ本の場所を聞いて、本をとってきて、手続きをする。これだけで終わるはずだったのだ。
それなのに。
彼女は僕に聞いたのだ。
覚えているか、と。
考えすぎなのかもしれないけれど。彼女は本当は他に問いたいことがあったのではないか。
けれど、その心当たりも無かった。
そんな僕の疑問をよそに、彼女は今思いついたように手を鳴らした。
「そうだった! オススメの本とか――」
と、彼女が言ったところで予鈴が鳴った。僕は図書室を閉めなければならない。
彼女は予鈴を聞いて、眉をひそめた。やはりころころと表情が変わる子だと思った。
「あー、昼休み終わっちゃった。本聞きたかったのになぁ。そうだ、桜野くんの担当日って何曜日?」
「火曜日と木曜日だけど、なぜ?」
「ふっふっふ、それはヒ、ミ、ツ!」
口に指をあててそう言う彼女に、僕には珍しくイラッとした。
腹いせの代わりに1つ忠告をした。僕のような犠牲者を出さないように。そのまま言ってやった。
「次、借りに来るときは読みたい本のジャンルを決めておくべきだと思うよ。あと、無駄話をしないこと。他に僕のような犠牲者を出さないようにね」
「そうだねー、ジャンルは決めておくとして、後者に関しては心配しなくていいよ。あと、私からも。君は無駄を嫌うようだけど本当に無駄と言えるものってあるのかなって疑問に思うよ、私は」
そういった彼女は明るく努めていたけれど、本当に一瞬、目に見えたかも分からないけれど、まるで映画のサブリミナルのように、山の頂上で見た表情が現れた気がした。
その後、彼女は穏やかに笑って図書室を出て行った。
僕は、彼女の雲を掴むような違和感と時折見せる表情と言葉をただ、疑問に思うしか無かった。
僕は図書室を出て、外開きの扉を閉め、鍵をかけるためにドアノブに鍵を差し込んだ。鍵を回した時、普段よりも少し重く感じた。
僕はその2つの疑問に首を傾げながら職員室へ向かった。