本の種
縁側に座って、桜の樹が満開になるのを待ちながら、あの本を片手におなかを触った。
よく腹痛になっていた私は、幼いころから祖父の膝の上で日本昔話を読み聞かせてもらいながら、こうしていた。
それが私の幼少期の癖だったのだ。
祖父の低くて太い声は、祖父の体面から私の背中、背中から胃腸へと伝わって響くようだった。
まだ少し寒さの残る三月末になると、桜の樹の芽が吹き、ふっくらと蕾をつけていく。
その度に祖父の皺くちゃな顔と、一緒に過ごした時間を思い出す。
二十年前、祖父は私の前から姿を消した。
祖父がいなくなってしまった数日後、周囲の大人たちが黒装束を身にまとい、私も真っ黒なワンピースを着せられて、祖父の穏やかな笑顔の前で手を合わさせられた。
お花は好きだったけれど、その時だけは、祖父の笑みを縁取るように飾られた花々をきれいじゃないと思った。
「おじいちゃんはどこへいったの?」
また会えると思っていた六歳の私は、首をかしげて、困ったように笑う母親を見上げた。
「ずっと遠いところよ。咲季がもっともっと大人になったら会えるわ。」
優しい母は、そう言って頭を撫でてくれた。
もっともっと大人、というのがどのくらい大人なのか、その時の私には分からなかったが、今では、それが分かるくらいには大人になった。
しかし、どうしても分からないこともあった。
それは葬儀の数日後、つまり庭の桜が、ちょうど葉桜になるころの出来事だった。
町は陽気に満ちていて、春が訪れたことにやっと慣れつつあった。
たまに行き交う自転車に乗った近所のおばちゃんは、いつものように元気にあいさつをしてくれる。自由気ままなのら猫は、つまらなさそうに塀の上に丸まってあくびをしている。
しかし、私はどこかぼんやりとしていた。
おばちゃんにあいさつをされても、返事をするまでに時間がかかり、のら猫の横を通り過ぎても、じゃれて遊ぶ気にはなれなかった。
おじいちゃんはいなくなってしまったのだ。
それだけが私の頭の中を巡って、離れてくれなかった。
おじいちゃんは、散歩が好きだった。
やせ細った肩にまたがって、白髪をいじりながら、散歩中のおじいちゃんを困らせたこともあった。
おじいちゃんに会えないかな、どこかにいないかな。
そういった思いからか、私は近くをほっつき歩いては、うろうろとさまよった。
おじいちゃんとまた会えるかもしれない。
どこかで期待しているのだ。
おじいちゃんはこの町を散歩するのが好きだから、帰ってきているかもしれないと。
そうだ。
私は子どもながらにいいアイデアを思い付いた。擦り切れた運動靴がぴたっと止まる。
おじいちゃんの散歩コースを辿ってみよう。
行きついた場所におじいちゃんがいるかもしれない、歩いている途中におじいちゃんの居場所への手がかりを発見できるかもしれない。
私は家の方へ急いで引き返し、おじいちゃんと散歩した穏やかなひと時を思い返しながら、もう一度足を踏み出した。
まず向かったのは、陽だまり公園。
小さな公園ながら、しだれ桜が有名で、桜の季節になると近所の家族連れがお花見に足を運ぶ。
今はもう葉桜となって、花びらが絨毯をなしていたけれど、いつだってこのしだれ桜の華やかさを思い出せた。おじいちゃんに肩車をしてもらって、高いところにある桜の花を触っては二人で訳もなく笑顔になった。
でも、おじいちゃんはいない。
続いて、空き地へと足を進める。殺風景だが、そこにはいつも同い年くらいの男の子たちが野球をしているから、楽しさで溢れている。
先ほどののら猫も、暇つぶしなのか、野球観戦をしている。
おじいちゃんから野球のルールを教えてもらいながら、男の子たちを応援したものだ。
時々、道路際に飛んでくる野球ボールを投げ返したこともあった。投げ返すたび、おじいちゃんが無邪気に体を揺らすのが、私は好きだった。
でも、おじいちゃんはいない。
昔ながらの中華料理屋さんは、お母さんの味方だった。晩ご飯を食べるために何度か訪れて、餃子をサービスしてもらった。
最近我が家がふさぎ込んでいるからか、中華料理屋さんに行けていないが、また美味しい餃子を食べたいな。ここの前を通ると、様々な料理の匂いでお腹が空いてくる。おじいちゃんも、ここの餃子が世界一おいしいと言っていたっけ。
でも、おじいちゃんはいない。
最後に平和山の高台にのぼった。
ここで、今まで歩いた足の疲れを癒すように大きく息を吸う。隣におじいちゃんがいた時もそうしていた。
「ここに来ると、わしは幸せじゃなあといつも満たされるんじゃ。」
その言葉を聞くたびに、私も幸せいっぱいになるのだ。
こうした日常の小さな場面に、人のぬくもりがあることを、おじいちゃんが散歩を通して教えてくれていた気がする。
でもおじいちゃんはいない。
山鳩が遠く寂しく鳴いているだけだった。
おじいちゃんの散歩コースを辿っても、おじいちゃんはどこにもいなかった。
やりきれなさからか、今までの歩幅が嘘のように、とぼとぼと、夕暮れに陰った道を行く。
本当に、私の知らないどこかへ行ってしまったのだろうか。この世界からはいなくなってしまったのだろうか。
心の中でぐるぐると問い直してみても誰も答えを教えてくれず、鴉が冷たい視線を向けながら帰っていくだけだった。
仕方なく家路についていると、路地裏を発見した。
こんなところに路地裏なんてあっただろうかと思うほど、狭くて薄暗い。下を向いて歩いていないとその入り口に気付けないような陰気くささに満ちている。
私は少々恐れながらも、闇に導かれるようにその路地に入った。おじいちゃんに会えない寂しさに突き動かされるようだった。
数メートル行くと、怪しげな古本屋さんが頼りなさそうに立っていた。かろうじて、古屋を覆うツタが支えているような本屋だった。夕風にきしきしと木造の壁を軋ませている。
「ごめんください……。」
私はまたも導かれるように店内に足を踏み入れた。怖いはずなのに、古本屋さんの奥から手招きをされているように勝手に体が動く。開けただけで傾きそうな扉を震えながら開いた。
外観の怖々とした雰囲気とは異なり、店内はありきたりな古本屋さんだった。
本の種類としては、自伝のようなものが多く、私には分からないものばかりだった。自伝に紛れるようにして、小説や絵本がいくつかあり、私は目をぱちぱちさせながら見て回る。
「何かお探しかな、おじょうさん。こんなに小さい子が当店に来るなんて珍しいねえ。」
背の高いおじさんにぬっと顔を覗き込まれる。
おじさんの頬は骨ばって痩せているが、そこまで年を取っているようには見えない。しかし、目の奥には、まるで何通りもの人生をおくってきたかのような落ち着きがある。
どうやら店主のようだけれど、同じ人間とは思えない不思議な雰囲気をもった人だった。
私は慌てて店主に返事をする。
「えっと……!大好きなおじいちゃんをお散歩しながら探していたんだけど、いなくって……。帰っていたら、この本屋さんに来て……それで、絵本でも読んで寂しさから抜けだそうと思ったの。」
店主は真っ黒な瞳を少し和らげて、目を細めながら言った。
「そうかい。おじいちゃんが見つからなくて、寂しいねえ。そうだ、おじょうさんにぴったりの絵本をプレゼントしよう。おじさんからの特別サービスだよ。」
おじさんは読みやすそうな、桜の樹が描かれた絵本を差し出した。
「おじさん、ありがとう!」
「それから、これもね。」
おじさんは私の右手を取り、握りしめて汗ばんだ指を丁寧にほどいたかと思うと、ころんと小さな粒を乗せた。
「この種もあげよう。いつか花が咲いた時、おじいちゃんと一緒に見られたらいいね。」
おじさんは、私に分かるような分からないようなほほ笑みを見せて私の指をもう一度手のひらへと折り込んでいった。
その種は生きているかのように温かくて、早く成長したがっているように手の中で転がった。
「おじさん、ありがとう。ちょっとだけ、元気が出たよ!また遊びに来るね。」
私はおじさんから絵本と種と少しの元気をもらって路地裏を駆けながら家路を急いだ。
次の日、私は早速、おじさんからもらった種を庭に植えた。
おじいちゃんが好きだった、桜の樹の隣に。
黄緑色の小さな命の素を、柔らかくほぐした土で包む。
少し錆びたじょうろに水を汲んで、大きく育ってねと願いを込めて盛り上がった土の上に浴びせる。
次の日もまた次の日も、私はいつになったら花が咲くかなと待ち望みながら、その種に愛情を注いでいった。その愛情はおじいちゃんからもらったものでもあった。子どもながらにおじいちゃんからもらった愛情で育てれば、花が咲いた時に、おじいちゃんに会えるかもしれないと思ったのだ。
やがて、半年も経つ頃には、種から太くて立派な茎が伸びていた。天高く、空を突き刺す勢いだった。明日には、蕾が花開くという夜は眠れなくてどきどきが止まらなかった。もうすぐおじいちゃんに会える、その一心だった。
ある朝、パジャマ姿で縁側の戸を開くと、不思議なことが起こっていた。
あの種から蕾ができ、開いたのは花びらではなく、本だった。
朝日を浴びながら真っ白いページが少し肌寒い風にぱらぱらとめくれている。
私は目を見開きながら、つっかけに裸足をつっこみ、その本へと駆け寄る。
背表紙に手を添えてゆっくりと持ち上げると、ぷちっと小さな音をたてた。
縁側に腰を掛けて夢中でページをめくると、そこには、大好きなおじいちゃんと私との思い出が事細かにつづられていた。
神様の観察日記だと思った。
おじいちゃんにこれから会えるかどうかは分からない。が、私はその本を手に取って一文字一文字を目に焼き付けた。下まぶたからあふれるように涙がこぼれてきた。会えなくても、細やかな幸せをもらえた。おじさんが、本を通しておじいちゃんに会わせてくれたのだ。
錆びた鉄の、怪しいにおいに誘われるようにいつかの路地へと入る。今朝咲いたばかりのおじいちゃんの本を、親鳥が雛を温めるように大事に、胸に抱えながら。
「おじさん!」
古本屋さんのドアベルが、私の晴れ晴れとした声とは対照的に、からりと鳴る。
「いらっしゃい、ああ、いつかの。」
店のおじさんは、驚いた顔一つせず、黒い瞳をこちらへやった。
私は興奮しながら、本を差し出して見せた。
「おじさん、見てみて!もらった種から本が咲いたの!読んでみて!」
おじさんは意気揚々と話す私から、そっと本を受け取って、花びらを撫でるようにページを繰った。繰るたびに、闇に染まった目の奥が徐々に光を帯びていく。
ぼろい鳩時計が十五時で声を上げるころ、おじさんは本を包むように閉じた。そして、目の奥に光を宿しながら私に向き直った。
「おじょうさん、おじいちゃんは本当に素敵な人だね。そして思い出したよ。おじいちゃんがまだ、おそらくおじょうさんのお父さんくらいの時、『大切な人をなくした』と言って、この店に訪れたんだ。ちょうど、半年前のおじょうさんみたいにね。おじいちゃんのこと、もっと知りたいかい?」
私はおじさんの光とシンクロするように目を合わせて、大きくうなずいた。
そして、手渡されたおじいちゃんとおばあちゃんの本をのめり込むようにして読んだのだった。
あの本を摘んでから、もうそこから新たに芽が吹くことはなかった。二十年が経った今でも。
いったい、あの古本屋さんは何だったのだろう、あの不思議な種は何だったのだろう。
祖父が天国へ行ったと分別がつくころには、あの古本屋への秘密の路地はなくなっていた。
だから、あの種は一体何だったのかも分からない。
ただ、それよりも大事なことがある。
確かに今でも、あの本の花は私の書斎に大事にしまってあり、そこに存在している。それだけでよかった。
あの出来事は、祖父を亡くし、もう会えないことさえ知らなかった幼い私に与えられた、奇跡なのかもしれない。
うぐいすが遠くで春を呼んでいる。
春は山の端から顔を出して、照れくさそうに控えている。
「はーるよ、こい。」
私は春陽のように温かく、まあるいおなかをゆっくりとさすった。