深夜の逃走
後部ドアの窓からカスミの顔が見えなくなってから、ミズキはミサとコトミを呼び耳打ちした。車のエンジン音や走行音、直後に始まった男とカスミとの銃撃戦の音のため、その声が荷台部から運転席にまで漏れることはなかった。
ミズキの指示で、ミサとコトミはミズキの足の拘束を解く作業に二人で協力して取りかかった。コトミが石でロープを切断しつつ、ミサは切断位置の左右からロープを引っ張り、切断面を広げていく。
銃撃音はすぐにやみ、バンの後方で何かが転がる音が聞こえた。窓から身を乗り出していた男は運転席に戻る。バンの屋根にワイヤーのようなものが当たる音が聞こえる。それきり窓の外にカスミの顔を見ることはなくなり、ミズキは表情をさらに引き締めた。何が起きたかを悟ったような顔だった。
バンの車窓から夜空が消えた。町中に入り、そびえ立つビル群に夜空が遮られたためだった。
それからしばらくバンは走行し、速度を緩めて停車した。運転席から男が降りバンの背面に立ってドアを開ける。
同時にミズキが跳びだした。手首は後ろ手にロープで拘束されたままだったが、自由になった足で荷台部の床を蹴って跳びだしたのだった。その背中にはコトミがしがみついている。ミズキはビルの角を曲がり、すぐに見えなくなった。
「何? 女! どうやってロープを?」
フードの男は立ち尽くしたが、それは僅かの間だった。舌打ちをすると、すぐに駆け出しミズキを追った。
「ガキを背負ってたな。あのガキがロープを? どこから紛れ込んだ? 最初からいたのか?」
男は走りながら呟いた。
背面ドアが開け放たれたまま放置されたバンの後部座席下から、もぞもぞと何かが這い出てきた。ミサだった。ミサはバンから降りて、明かりひとつ灯っていない暗闇に包まれた街並みを見回した。ミズキと男の足音も、すでに聞こえなくなっていた。足を踏み出すと、じゃり、とアスファルトに散らばった砂を靴底が踏む音がした。
数分前、まだ走行中のバンの車内。
ミサとコトミはミズキの足を拘束していたロープを切断した。コトミは石でロープを切り続け、ミサも左右から渾身の力でロープを引き続けていたため、二人の表情には安堵よりも疲労の色合いが強く見られた。
「ありがとう。ミサ、コトミ。よくやったわ」
三人が顔を寄せると、ミズキがミサとコトミを労った。二人の表情から疲労の色が消え嬉しそうに微笑んだ。さっそく手首の拘束も切断にかかろうとした二人をミズキは止めて、
「駄目。多分、手首のロープまで切ってる時間はない。二人の体力も限界でしょ」
ミズキの指摘は正しかった。ミサとコトミの手は震え、十分な時間があったとしても手首のロープまで切断出来るかは疑問だった。さらにバンが町中に入ったことにより、目的地に停車するのも近いとミズキは踏んだようだった。
「二人とも聞いて」ミズキは囁くような声で、「コトミは私の背中に負ぶさって。車が止まって、後ろのドアが開いたら私が一気に跳びだすから、しっかり掴まっててよ」
コトミは頷いた。
「ミサは、そこの座席の下に潜っていて。完全に影になるから気付かれることはないわ。私が跳びだしたら間違いなくあの男も追って走る。ミサは、その隙に車を出て逃げて。端末は? 持ってきてない?」
二人は首を横に振った。
「そう、まあ、私もなんだけど。じゃあ、車を降りたら発信機を探して」
「発信機?」
と、ミサは小さな声で聞き返した。ミズキは頷いて、
「カスミなら車に取り付いたときに発信機を仕掛けたはず。多分、屋根の上よ。それを取り外してしっかりと持ったまま、どこかに隠れて明るくなるのを待つのよ。いい、絶対に無茶しないで」
それを聞くと、ミサは首を横に振って、
「ううん。私、すぐに助けを呼びに行く」
「駄目よ」
ミズキの言葉に、ミサはもう一度首を横に振り、
「私だって、ヴィーナスドライヴの一員なんだもん」
「ミサ……駄目、発信機の位置はレイナたちが捕捉してる。安全な場所で動かないほうが発見される確率は上がるわ。そのほうが全員の安全に繋がるのよ、分かった?」
ミサはミズキの説明を聞くと頷いた。
バンの速度が落ちブレーキ音が鳴ると、「急いで」とのミズキの声に、コトミはミズキの首に腕を回して背中にしがみつき、ミサは後部座席の下に体を滑り込ませた。座席下のスペースはミサひとりが入ると、それで一杯だった。
運転席ドアが開く音がするとミズキは片膝を突き、跳びだす体勢を備えた。コトミはミズキの首に回した両手を強く組み両脚をミズキの腰に回す。
ミサは座席下のスペースで息を殺し、ミズキが跳びだし、男がそれを追うのを見送った。
ミズキが荷台から跳びだし、フードの男がそれを負ってビル街に消え、足音も聞こえなくなると、ミサは助手席側のドアを開けて座席の上に立ち、バンの屋根に上った。
月明かりに照らされた屋根には、吸着したマグネットアンカーと、それに繋がる千切れたワイヤー。そして、その隣、運転席側からはアンカーの影になって見えない位置に小さなメダルのような形をした発信機が貼り付けてあった。
ミサは、それを剥がすと懐に入れ屋根から降りた。
「ミズキ、来る、来るよ……」
ミズキの背中で後ろを振り返ったコトミだったが、振り返った背後にフードの男が追ってくる姿を見ると、そう言ってすぐに正面を向いた。
「しっかり掴まってるのよ」
ミズキは声を掛け、月明かりだけを頼りに瓦礫を避けながらビルの間を走り続けた。
「女……」
フードの男は呟くと、走りながらその姿を変えた。フードの奥にある両目が赤く光ると、体全体がうねるように変化し、体も四肢も何の突出した部分がない、のっぺりとした真っ黒な姿になった。その頭部は首がなく、両肩の間から直接山型の突起が突き出ているような形状と化していた。その表面には目も口もなかった。
「ミズキ! 変身した!」
再び振り返って、男の姿が変化したのを見たコトミは泣きそうな声で言った。
男、変身したブルートは走りながら右腕を後ろに振りかぶり、勢いよく前方に振った。その右腕はゴムのように伸び逃げるミズキとの距離を埋め、先端の手がコトミの肩に届いた。
ブルートの腕は、そのまま伸びたゴムが縮むように戻った。その手にコトミを掴んだまま。
「ミズキ!」「コトミ!」
ブルートによりミズキの背中から引き剥がされたコトミと、自分の背中からコトミが剥ぎ取られた瞬間、足を止めて振り向いたミズキは同時に叫んだ。
ブルートも立ち止まっていた。右肩を掴まれたコトミは足が地面から三十センチほど離れ、宙づりのようにされている。
「い、痛い……」
「離しなさい!」
コトミが苦しそうに声を上げると、ミズキは、すぐそばに立つ大きく亀裂が走ったビルの壁に倒れ込むように背中をつけて叫んだ。その口からは荒い息が漏れ、額には汗が浮かんでいる。
「ふふふ」ブルートは口のない真っ黒な顔から笑い声を発し、「お前と引き替えに、このガキを解放してやる」
ミズキは壁に背中をつけたままブルートを睨んだ。
「ミ、ミズキ……」コトミが、苦しそうな声で、「だ、駄目。私のことは……いいから」
「分かったわ」
ミズキは、そう言うと壁から背中を離してブルートのほうへ二、三歩近づいた。
「そうだろうとも」ブルートは嬉しそうな声で、「こっちへ来い」
「その子を解放するのが先よ」
ミズキは二、三歩進み出たまま、そこから一歩も前へ出なかった。
「……いいだろう」
ブルートがコトミの肩を掴んでいた手を離すと、足が地面に触れたコトミはよろめき、壁に手を突いて体を支えて立った。
「ミズキ……」
ミズキを見上げたコトミの頬は涙で濡れていた。
「さあ、来い」
ブルートが言うと、ミズキは、ゆっくりと近づいていきコトミとすれ違う瞬間、後ろ手にしていた両手を前に回しコトミを抱え上げ、地面を蹴ってブルートの脇をすり抜けて猛然と走り出した。
「何ぃ?」
ブルートは虚を突かれたように振り返りながら叫んだ。
ミズキを後ろ手に拘束していたロープは切断されていた。ミズキがビルの壁に背中をつけていた間、ミズキは壁に走った亀裂の角にロープを擦りつけて切断していたのだった。
「女ぁ!」
ブルートは右腕を振り、伸びた腕の先端の手でミズキを捕らえようとしたが、ミズキはすぐにビルの角を曲がって見えなくなり、ブルートの手は宙を掴んだ。腕が戻るとブルートはすぐに走り出し、ミズキと同じ角を曲がった。
ブルートは立ち止まった。ミズキの姿はどこにも見えない。そこは見通しのよい一本道の通りで、子供を抱えた人間の大人が見えなくなる距離まで走って逃げられるとは考えがたい長さだった。
ブルートは通りを挟んで向かい合った二つのビルの出入り口に目のない顔を向けた。その一方に向かって歩き、黒い手でドアのノブに手を掛け揺すったが、ドアは、ガタガタと音を鳴らすだけで開かなかった。ブルートは反対側のビルのドアに向かい、同じようにノブに手を掛けて引くとドアは開いた。ドアのすぐそばには小さな靴が片方落ちていた。それを見たブルートは表情のない顔面を笑うように歪めると敷居を跨ぎ、ビルの中に姿を消した。
「引っかかってくれたみたい……」
向かいのビルのドアが開く音と、中に入っていく足音が聞こえるとミズキは呟いた。
ミズキは走りながらコトミに靴を脱がせ、曲がった先にあるビルのドアを開けて靴を放り込み、すぐさま反対側のビルのドアに飛び込み、内側から鍵を掛け潜んでいたのだった。
ミズキは音を立てずにドアを開け素早く出ると、開けっ放しになっている反対側のドアの敷居を跨ぎコトミの靴を回収し、帰ってきてコトミに履かせた。
二人はビルの裏口からすぐに出られる奥の部屋に移動して床に座り込んだ。ミズキはコトミを抱き寄せ、
「ごめんね、コトミ。怖い目に遭わせちゃって」
コトミは首を横に振って、
「ありがとう。でも平気だよ。私だってヴィーナスドライヴのメンバーなんだもん」
そう言って笑顔を見せた。ミズキも微笑みを返したが、すぐに表情を引き締め、
「ねえ、コトミ。あなたに言っておきたいことがあるの。もし、もしもね、私とコトミが……」
「分かってるよ」
「え?」
コトミは、まっすぐにミズキの目を見て、
「ミズキと私が、ブルートに捕まって人質になったら、なったら……じ、自殺するんでしょ」
「……コトミ」
「もし、ミズキと私が人質になって、啓斗お兄ちゃんが脅かされたら、そうなったら……」
コトミは視線を落とした。
「コトミ、あなた……」
「ミサから聞いたんだ」コトミは再びミズキの目を見て、「ヴィーナスドライヴメンバーとしての覚悟。私、ちゃんと知ってるよ」
「そうなの」ミズキはコトミの頭を撫でて、「啓斗をブルートの手に渡すわけには絶対にいかないの。私やコトミが人質になったら、啓斗はブルートの言うことを何でも聞いちゃうと思う」
ミズキが言うと、コトミも頷いた。
「だから、だからね……そんな、最悪な事態にならないように……私は……」
ミズキはそれ以降の言葉を続けることが出来なかった。喉の奥からは、こみ上げてくる嗚咽が漏れるだけだった。
「ミズキ、泣かないで……」コトミは指でミズキの目から溢れてくる涙を拭って、「私、私、大丈夫……だから……」
コトミの声にも嗚咽が混じり始め、二人は強く抱き合って泣いた。
バンの屋根から降りたミサは周囲に目を走らせ、何かに気付くと素早く近くにあったコンクリートの瓦礫の下に体を滑り込ませた。
足音が夜の廃墟に反響しながら聞こえてきた。ひとりだけのものではない。
足音は止まり、バンの横に三人の男が立った。ひとりは背広姿。残る二人は、ともにロングコートを着ており、背広の男に付き従うように、その斜め後ろを歩いてきた。立ち止まってもその位置関係は崩れなかった。
「19が戻ったのではなかったのか?」
背広の男が口にすると、右斜め後ろのコートの男が、
「戻ったはずです。こんな車は夕方までなかった」
左斜め後ろのコートの男はバンのボディに触れ、
「まだ温かい。ついさっきまで走っていたものです」
「どこへ行ったんだ?」
「とっくに〈獲物〉を持って、帰ったのでは? 19は自室以外では〈食事〉をしない」
右斜めの男が言うと、背広の男は、
「ふふ、そうかもしれんな。せっかちなやつだ。最高に好みの女をみつけたと言っていたからな。楽しみで仕方なかったんだろうな」
そう言って笑い、「行くか」と踵を返して来た方向へ戻って歩き出した。コートの男二人も斜め後ろを歩いてついていく。
ミサは瓦礫の下で声を殺して、じっとその様子を眺めていた。左手を地面に、右手は地面から突出したアスファルトの端に置いていたが、緊張から力が入ったのか、押しつけるように右手を置いていたアスファルトが崩れた。元々亀裂が入り壊れやすくなっていたようだったが、闇夜でミサがそれを窺い知ることなど出来なかった。
アスファルト片が地面に落ちる音が廃墟に響き、立ち去りかけた三人のうち斜め後ろを歩いていた二人のコートの男が立ち止まり振り向いた。
「瓦礫が自然に崩れた音だ。よくあることだ」
同じように立ち止まって背広の男が言ったが、右後ろを歩いていたコートの男は、
「人間の声が混じっていたような」
左後ろの男も頷いた。
瓦礫の下でミサは両手で口を押さえている。アスファルトが崩れた際、小さく悲鳴を上げてしまっていた。
「一応、見てくる」
左後ろの男はミサが潜んだ瓦礫に向かって歩きだした。




