500年後の世界
「町……これが……」
啓斗は歩きながら呟いて周囲を見回した。そこは〈かつて町だったもの〉という表現が相応しい場所だった。建物の壁には亀裂が走り、高層の建築物はほとんどが破壊、倒壊の憂き目に遭っており、残された低層部、あるいは最初から低層の建物にのみ人々の姿が確認出来た。
舗装された道路は、やはりあちこちに亀裂が走り、背の低い雑草が顔を出していた。道行くものはほとんどが徒歩の人間や人が引くリアカーばかりで、自動車やバイクといった原動機付き車両の通行は数えるほどだった。使い物にならない建物や、瓦礫が山積みされた空き地も目立った。
「ひどいものでしょ」啓斗の心中を察したようにミズキは言って、「でもね。みんな、頑張ってる。比較的破壊の少ない地域に寄り集まって、こうして助け合って生きてるんだ」
「うん」
と、啓斗は答え、そして表情に笑みを浮かべた。道行く人、露天で品物を並べている人、それを吟味する人、誰も、打ちひしがれたような憂いの表情を浮かべているものはひとりもいない。皆、笑顔や、活気に溢れた表情をしていた。
「ミ、ミズキ、さん……」
「なあに?」
啓斗に声を掛けられ、ミズキは振り向いた。
「ちょっと、話せないかな? 色々と訊きたいことが……」
「……うん、いいよ」ミズキはそう言って、「じゃあ、静かなところに行こうか」
と、啓斗の手を取って、細い路地に入った。
「あ、それと」ミズキは歩きながら振り向いて、「さん、なんて付けなくていいよ。ミズキ、でいいから」
「あ、う、うん……」
「私も、あなたのこと、啓斗、って呼ぶわよ。いい?」
「もちろん、いいよ」
啓斗は微笑み、ミズキも笑顔を返した。
二人は町から外れた倒壊した建物の数が目立つ場所に行き。コンクリートの瓦礫に並んで座った。
「……ねえ、どうして、俺だったのかな?」
空を見上げて、啓斗が呟くように訊いた。
「え?」同じように空を見上げていたミズキは啓斗の顔を見た。
「大体の状況は、レイナさんから聞いた。俺に、宇宙からの侵略者と戦えって言うんだろ。どうして、俺が選ばれたのかな……?」
啓斗は空を見上げたまま、遠い目をしてミズキに訊いた。
「それはね……ねえ、〈タイムパラドックス〉って知ってる?」
ミズキの言葉に、啓斗は顔を向け、
「うん。過去に行って、自分の親を殺す、っていうやつだろ。親を殺したんだから、未来に自分は生まれてこなくなる。でも、自分が生まれなかったら、そもそも過去に行って親を殺す、という事柄自体がなくなる。でも、そうなると、親は健在のままだから、やっぱり自分は生まれてくるはずで。っていう堂々巡りのことだよね」
「そう。詳しいのね」
「そういう小説とか、映画とか好きだから……」
「それじゃ、〈バタフライ・エフェクト〉は?」
「バタフライ、何?」
「〈バタフライ・エフェクト〉蝶〈バタフライ〉が羽ばたいた程度の、ごくごく僅かな効果〈エフェクト〉が、後々、大きな現象を引き起こす、っていうことを表した言葉。例えばね、過去に行って、小さな虫を殺したり、木の枝を一本でも折ったとする。それは、その時点では凄く小さな事だけれど、もしかしたらそれがきっかけになって、後の歴史に大きな変化をもたらしてしまうかもしれない」
「うんうん」
「その二つの問題をクリア出来る人物が、君、結城啓斗しかいなかったってこと」
「……どういうことかな?」
「啓斗の死に方が、これ以上ないくらい理想的だったってことよ」
「死に方……」
俯いて黙ってしまった啓斗に、ミズキは、
「あ、ごめんね」と声を掛け、「でもね……事実なの。ねえ、聞いて」
その声に啓斗は顔を上げ、ミズキの目を真っ直ぐに見た。ミズキも啓斗の目を見て、
「2016年7月16日。午後二時二十二分。高校生、結城啓斗は、友人たちと登山に行った際、突然の火山の噴火に遭い、溶岩の中に落ちて、亡くなってしまうの」
「亡くなってしまう……死ぬ……」啓斗は僅かに視線を下げたが、すぐにミズキの目を見て、「そ、それが、どうして理想的なの?」
「過去から誰かをサルベージしたら、〈タイムパラドックス〉と〈バタフライ・エフェクト〉この二つが必ず未来に影響を及ぼすわ。普通に生きている人間をタイムサルベージしたら、その人がそれ以降生きるはずだった人生が丸ごと失われてしまう。木の枝を折るどころの騒ぎじゃない。確実に歴史が変わるわ。それを回避するには、死ぬ直前の人間を、死んでしまうその瞬間直前でサルベージするしかない。分かる?」
ミズキの言葉に啓斗は頷いた。ミズキも頷き返し、
「で、もうひとつ。人は死ねば死体が残るわ。その死体は通常であれば火葬や埋葬され、その手続きが成される。誰も知らないところでひっそりと死んだとしても、死体は腐敗して、それは様々な虫や動植物の養分となる。骨も残るわ。それらが丸ごと失われるの。これだって、小さな事かもしれないけれど、未来にどんな〈バタフライ・エフェクト〉をもたらすか分かったものじゃないわ」
「た、確かに……」
啓斗は、ゆっくりと頷いた。
「それらを回避するために、サルベージされる側の人間が満たさなきゃならない要件は、二つ。まず」ミズキは広げた片手を上げ、親指を折って、「死ぬ直前であること、そして」人差し指を折って、「死後、死体がまったく残らない死に方であること」
「溶岩の中に落ちて跡形もなく溶けてしまえば、ってことか……」
啓斗が静かな声で言うと、ミズキは頷いた。
「本当は〈質量保存の法則〉があるから、厳密に全くの安全とは言えないんだけれどね」
「何、それ? あ、いや、質量保存の法則、は知ってるけど、どうしてそれがタイムサルベージに影響するの?」
「だって、溶岩に落ちて跡形もなくなってしまっても、厳密に啓斗の体を構成している物質が消えてなくなるわけじゃないのよ。形を変えて、この地球上のどこかに必ず漂ってるはず。それがなくなる影響もあり得るわ。それに、そもそも、啓斗をタイムサルベージするこの世界、啓斗が死んで、もう何百年も経っている世界だけど、啓斗の体を構成していた物質は、散り散りになってどこかにある。そこに過去からまた啓斗ひとり分の質量が加えられるのよ。このこと自体、質量保存の法則に反してると思わない? 啓斗ひとり分の質量が今の宇宙には余計に存在するってことなのよ」
「言われてみれば……そうかもしれない……」啓斗は両手を開いて、自分の掌を見つめて、「俺、ひとり分の質量……余計な質量……」
「そんなに考え込まないで」ミズキは笑って、「サルベージの瞬間、この世界に大きな変化が起きるかもしれない。その可能性はあった、私たちは、その覚悟もしていた。まあ、私たち以外の普通に暮らしている人たちには、いい迷惑だったかもしれないけどね」
「はは、確かに」
啓斗は笑った。ミズキも微笑んだが、すぐに真面目な表情に戻り、
「でも、それでも、私たちは、あなたを呼ぶことに賭けたの。この世界を救ってくれる、救世主を呼ぶことに……」
「救世主……」
「そう、啓斗、あなたは救世主なのよ」ミズキは、二本の指を折ったままだった手をもう一度挙げて、「それにね、要件はもうひとつあったわ。それは、戦える人間であること」そう言って中指も折り、「前の二つの要件を満たしていても、体も満足に動かせない老人や、年端もいかない子供だったら、意味ないでしょ」
「確かに、そうかも」啓斗は納得した表情になり、「あ、ミズキ、薬指も曲がってるよ。要件は四つになっちゃうよ」と、ミズキが上げている手を指さした。
「あ」ミズキは、自分の手を見て、「仕方ないわよ。だって、中指を曲げると自然に薬指も曲がっちゃうじゃない」
「そうなの?」啓斗は自分の中指を曲げ、「あ、本当だ」
「でしょ」ミズキは笑って、「でも、四つ目の要件を付けてもいいかな」
「え? 何?」
「かっこいい男であること」
そう言って、中途半端に折れていた薬指を完全に倒した。
「何だよ、それ……」
「啓斗は、全部満たしてるよ」
「えっ?」
目を丸くした啓斗を見て、ミズキは、ふふ、と笑うと、
「どう? 疑問は解けた?」
「ああ、うん。大体は。あとは……」
啓斗が何か言いかけたそのとき、ミズキの懐から電子音が鳴った。
「ちょっと待って」啓斗の言葉を切って、ミズキは懐から携帯電話のような端末を取り出して耳に当てた。「ミズキよ」
「ミズキ、結城くんと一緒なの?」
スピーカーからレイナの声が聞こえた。
「ごめん、レイナ。勝手に連れ出して――」
「そんなことはいいの。ねえ、町の近くに〈ブルート〉が出たわ」
「何ですって?」
ミズキは立ち上がった。突然大きな声を出して立ち上がったミズキを啓斗は驚いて見上げる。ミズキは一度啓斗を見下ろしてから、周囲を見回して、
「どの辺り?」
「今、カスミとコーディが向かってる」
「私も行く」
「ミズキは結城くんを連れて戻って」
「……」
ミズキは座ったままの啓斗を見下ろして黙った。スピーカーからは尚もレイナの声が、
「分かるでしょ。今、彼を失うわけにはいかないの。彼は、結城くんは、人類反撃の嚆矢なのよ」
啓斗の耳にまで端末スピーカーから聞こえるレイナの声は届いていなかったが、ミズキのただならぬ表情を見たため、啓斗は立ち上がり、
「ミズキ、何かあったの?」
「……了解」ミズキは通信を切り、啓斗の手を取り、「戻りましょう」
「戻るって、あのトレーラーに? 何? 何が起きたの?」
「いいから、早く!」
ミズキは有無を言わさず、啓斗の手を引いて町の方向へ駆けだした。
町の大通りは、先ほどまで二人が歩いていたときに聞こえていた平和なものとは、明らかに異質の喧噪に満たされていた。足早に駆ける人、露天の並べた品物をまとめにかかる人、道ばたで話をする人、その誰もが不安そうな表情を顔に貼り付けていた。
「ブルートが目撃されたらしいぞ」
「早く逃げたほうがいい」
「ここもおしまいか」
「せっかくここまで……」
人々の話し声が二人の耳に入った。ミズキはそれらから啓斗を遠ざけるように、ことさら大きな声で、
「行きましょう」
そう叫んで再び駆けだした、が、その足は一歩踏み出しただけで止まった。手を引いた啓斗が動かなかったためだった。
「啓斗――」
「ミズキ」
啓斗の声にミズキは一括する声を止めた。啓斗はミズキを見て、
「さっき町の人が〈ブルート〉って言ってた。それって、侵略者の名前だろ。そいつらが近くにいるんだろ?」
ミズキは、ため息を吐いて、
「そうよ……」
「ブルート……侵略者……」
「だから」ミズキはもう一度啓斗の手を引いて、「逃げるの。早く」
「どうして?」啓斗は、またも足を動かさず立ち止まったまま、「俺は、その侵略者を、ブルートを倒すために連れてこられたんだろ? だったら――」
「駄目!」ミズキは両手で啓斗の手を握り、「駄目よ。いきなり何の訓練もなしで、あいつらと戦うなんて……」
「じゃあ、どうするんだ? 侵略者は放っておくのか?」
「今、私の仲間が足止めに向かっているわ」
「え? 何だって? 地球人の武器じゃ、あいつらを倒せないんじゃないのか?」
「そうよ。でも、足止めくらいは出来る。ここにいる人たちが避難する時間くらいは稼げる」
「足止め、って……」
「そう、だから、その間に逃げるの。啓斗! あなたも……」
「逃げる……」
「そうよ。逃げるの。啓斗、あなただけは絶対に死なせない。私たちの使命は、あなたを命がけで守り抜くこと。タイムサルベージは一回しか使えない技術なの。あなたは地球たったひとつの希望なの。啓斗、あなたを守るために私たちは存在している。私たち〈ヴィーナスドライヴ〉は」
「ヴィーナスドライヴ? 守るって、ミズキたちが俺のことを?」
ミズキは黙って頷くと、
「そうよ。私も、レイナも、今、ブルートと戦っているカスミとコーディも、みんな覚悟が出来てるの。だから啓斗、逃げて。レイナのもとで訓練を受けて。そして、あいつらを、ブルートを倒せる戦士になって。お願い、だから、そのために今は……」
「その二人はどうなるんだ? カスミとコーディっていう二人は。ミズキの仲間は」
「……覚悟は出来てるって言ったでしょ」
ミズキは啓斗の顔を見つめる。
「捨て石になるのか? 俺を助けるために? 冗談じゃない……!」啓斗は自分の手を握ったミズキの手を、そっと離させると、「ミズキ、俺は行く。君は逃げろ」
「えっ? 啓斗?」
啓斗はミズキの目を見ると、親指で自分の胸を指して、
「これが何とかしてくれるんだろ?」
きょとんとした表情のミズキに向かって啓斗は微笑むと、「じゃあ」と言い残して走り出した。人の流れに逆らって、流れの上流方向に。
「啓斗!」
一瞬惚けたように立ち尽くしていたミズキだったが、遅れて走り出した。啓斗を追って。