啓斗変身不能
「……だから、ねえ、聞いてるの? ミズキ?」
「……う、うん」
ミズキは顔を振った。レイナの声に答えたのか、それとも数メートル先で聞こえた音に反応したのか。その、どさり、という音は、尾行していた男が担いでいたタオルケットの包みを路地の端に放り投げた音だった。投げ出されたタオルケットは解け、中から首が異様な方向に曲がった、ひと目で絶命しているふと分かる男性の体が転がり出た。
一瞬それに目を奪われたかのようにミズキは体を、びくり、と震わせたが、すぐに男の姿を目で追った。男は振り向いていた。その目は真っ直ぐにミズキに向けられている。ミズキは勤めて冷静を保った所作で振り向くと、足早に駆け出した。
「ミズキ? ねえ、聞こえてるの?」
耳に当てたままの端末から聞こえるレイナの声にも答えず、ミズキは駆けた。路地に舞い込んできたビル風がミズキに吹き付け、羽織っていたマントをふわりと翻した。
体格のいい男は、目の前で突然踵を返して駆けだした女性のマントの下にアサルトライフルが提げられているのを見ると、にやり、と笑って女性の後を追い走り出した。
捕らわれていた女性と初老の男性の足から鎖を切り離し、啓斗が女性を、コーディが男性に肩を貸して立ち上がらせた。そのまま地下室を出ようとしたそのとき、階段の向こうに早足で駆ける足音を聞いたコーディは、
「誰か来る!」
そう言って男性を一旦啓斗に預け、アサルトライフルを構えた。
「啓斗! コーディ!」
階段途中の踊り場で、そう叫んだのはミズキだった。
「何だよミズキ」コーディはライフルを下ろし、「脅かすな。来るなら連絡入れろよ」
「出よう! 早く!」
階段を駆け下りたミズキは啓斗から男性を引き取り肩を貸した。
「どうしたんだ、ミズキ」呆気にとられた顔で啓斗は、「あの男は?」
「啓斗! コーディも! とにかく、ここを出るの!」
二人はミズキに急かされながら階段に向かった。コーディが啓斗から女性を引き取り、アサルトライフルを啓斗のハンドガンと交換した。強化外骨格を纏ったコーディとミズキのほうが生身の啓斗よりも力を出せ、負傷者を運ぶのに適していたためだ。ライフルを構えた啓斗は階段を上り外の様子を窺う。
「クリアだ、いいぞ」
啓斗が踊り場で待つミズキとコーディに声を掛けると、二人は、それぞれ肩を貸した救出者を抱き上げるようにしながら階段を駆け上った。
外に出た三人は来た道を引き返す行程を取って走り出した。周囲を警戒しながら早足で進む啓斗と、負傷者を抱えながら歩くミズキとコーディに速度の差はなかった。
「すごいね強化外骨格って。人ひとり抱えながら、手ぶらの俺とほとんど同じ速さで進めるなんて」
啓斗が二人に言うと、コーディは、
「ああ。でも、ブルートが出たら、啓斗、頼むぞ」
「任せてよ」
啓斗は答えたが、
「駄目」
ミズキの声に顔を向けた。
「何だ、ミズキ、駄目って――」
「今、私たちはヘッドクオーターズから一キロ以上離れちゃってるのよ!」
「……何だって?」
「くそっ」と、コーディは、「そこまで考えてなかったな……」
「ミズキ」今度は啓斗が声を掛け、「あの男は? やっぱりブルートだったのか? それに……あのタオルにくるまれて抱えられてた人は……」
「あいつがブルートかどうかは確認していないけれど、間違いないと思う。運ばれていた人のほうは……もう……」
「そうか……」
ミズキの答えに啓斗は顔を歪めた。
「おい」
野太い声が路地に響いた。三人が顔を向けると、そこにはミズキが尾行していた男が立っていた。
「あいつ……」
啓斗は、その体格のいい男を睨む。コーディが抱えた女性は男の声がすると同時に震えだした。
「しっかり。大丈夫だから」
コーディが声を掛け、しっかりと肩を抱くと女性の震えは幾分か治まった。
「お前」啓斗は男にライフルの銃口を向け、「この人たちに何をしたんだ」
「ふふ」男は笑いをこぼすと、「ちょっと尋ねものをな。ところが強情なやつらでね。誰も俺の質問に答えず結局ひとり死んじまった」
「死んだ、って……」啓斗が持つライフルの銃口が震える、啓斗の体の震えが伝わったせいだった。「お前が殺したんだろう……!」
啓斗は男の脚に銃口を向けトリガーを引いた。銃弾の多くは路上に撃ち込まれたが、男の脚に命中した、いや、命中するはずだった一部の銃弾は六角形を密集させた形のバリアによって弾かれた。
「こいつ!」「やっぱり!」
それを見たコーディとミズキが叫んだ。
「……ブルートか」啓斗も呟いた。
「ふふふ」男は笑って、「そうと分かったら、いくら抵抗しても無駄だってことも分かるよな」
「ミズキ」
コーディが言うとミズキは端末のディスプレイを見る。自分たちの現在位置からヘッドクオーターズまで、まだ一キロ以上離れている。
「駄目、まだよ」ミズキは顔をしかめて言った。
「お前たちは、どうしてそう簡単に……」啓斗は銃口を下げ、目に涙を浮かべて、「どうしてそんなに簡単に人を殺すんだ!」
「ああ、簡単だったぜ」男は、ふふ、と笑い、「どうして人間てのは、あんなに簡単に死ぬんだろうな? まったく扱いにくい連中だ」
「お前――!」
「啓斗!」
男に跳びかかろうとした啓斗だったが、ミズキが腕を取ってそれを阻止した。
「冷静になって。今の啓斗は変身出来ないのよ」
「うっ、で、でも――」
「今は逃げるの!」
ミズキは初老の男性を抱えた反対側の手で啓斗の腕を掴んだまま走り出した。コーディも追う。
「ふふふ……」それを見た男も啓斗たちを追って走り出した。
「とにかく、ヘッドクオーターズに近づくぞ!」
コーディが叫んだ。
負傷者を抱えながらも、強化外骨格のパワーアシストのおかげで、ミズキとコーディも啓斗と同じ速度を維持し続けることが出来ていた。追う男の走る速度も啓斗たちとそう違いはないため追いつかれることはなく、十メートル程度の距離を空けて、しばらく逃走劇は続いていた。しかし、徐々に両者の間隔は狭められつつあった。
「コーディ、こっちの人、ちょっとやばい……」
走りながらミズキがコーディに話しかけた。その声は微かに震えている。
「ああ、さっきから全然何も反応してないな……」
コーディもミズキが抱えた初老の男性を見て苦々しく言った。コーディのほうの女性は、抱えられながらも自分の脚でも地面を蹴り、苦しそうな表情だが荒い息を吐いている。だが、ミズキが肩を貸すように抱えられた男性は、ぐったりと項垂れ、ミズキが走るテンポに合わせて、その頭と四肢を力なく揺らしているだけに見えた。
「息はしてるけど……」
男性の顔に耳を近づけてミズキが言った。完全に男性の体を抱えている分、ミズキの速度はコーディよりも遅くなりがちであり、それが男との距離を詰められている原因にもなっていた。
啓斗は振り返って、ライフルの銃口を仰角に向けてトリガーを引いた。放たれた銃弾は、傾いたビルにほとんど千切れかけてぶら下がっているネオン看板の基部に命中し、ビルの壁面から離れた看板は追いすがる男の目の前に落下した。走る勢いのまま目の前に落下してきた看板に激突した男だったが、男は構わず走りきり、看板を突き破って反対側に抜け出た。
男の姿は人間のそれから変貌していた。見上げるような巨躯はさらに頭ひとつ以上大きくなり、面長になった頭部こめかみの左右からは三日月のように湾曲し、先端が鋭く尖った長い角がそれぞれ生えていた。
看板を突き破ったブルートは、その場で立ち止まった。追っていた啓斗たちの姿が見えなくなったためだろう。ブルートは首を左右に振って周囲を見回すと、蹄が付いた丸太のような足を踏み鳴らして歩き出した。
落ちてきた看板が追ってきた男の視界を塞いだ隙に、啓斗たちは手近なビルに入り、いくつかのビルの中を抜けた先の部屋に落ち着いていた。
部屋は一階で外に面した壁には小さな窓がひとつだけ。そこさえ監視していればよく、一階のため、いざというときにはすぐに逃げられる。部屋にはソファもあり、身を隠すには絶好の条件の部屋だった。
ミズキは抱えていた男性をソファに寝かせ、水筒の水を飲ませた。コーディは窓から外を監視し、啓斗はミズキとともに男性を介抱していた。
「しっかりして、しっかりして下さい……」
啓斗は男性の手を握りながら耳元で囁き続けていた。
「啓斗」男性の口から水筒を離したミズキが、「人心地ついたみたい。呼吸も穏やかになったわ」
ミズキの言った通り、男性はソファに横にされて水を口にすると、ぐったりとしていた体に幾分か生気が戻ったように見えた。しかし、相変わらず啓斗やミズキの声には応えない。ミズキがポーチから救急キットを取り出し、消毒液で湿らせたガーゼで目立つ傷口を拭ったときだけ、「うっ」という呻き声を上げただけだった。ミズキは消毒を済ませた傷口に絆創膏を貼っていく。
「いったい何があったんですか?」
啓斗はコーディの救急キットを使って女性の手当を始めながら訊いた。女性は床に座り壁にもたれかかった姿勢だった。
「みんなの食事を作るため、材料を買い求めにひとりで町に出たときだったの……」女性は虚ろな目で話しだした。「掘り出し物がないか、あまり人のいない裏路地に入ったときだった。いきなり背後から、さっきの男に口を押さえられて……そこの方も」と女性はソファに横たわる男性に目を向け、「もうひとり、若い男の人も同じだったというわ。ひとりになったところを、いきなり襲われたと」
「あいつは、あなた方に何を?」
「……きっと、あなたたちのことよ」
女性は啓斗、ミズキ、コーディを順に見た。
「えっ?」啓斗は消毒液を塗る手を止めた。
「私たちが、あのバスから降りた人間だと知って掠ったんでしょうね。バスで何があったか、そう訊かれたわ」
啓斗は無言のまま治療を再開した。女性は暗い表情になった啓斗を見ると少しだけ笑って、
「でも安心して。あなたたちのことは何も喋ってないから」
「えっ?」
啓斗は再び手を止めた。女性は、
「ブルートを倒した人間を見た、なんて言えるわけないでしょ。私も他の二人も、あの男はブルートだと確信したから。そんな情報をあいつらに渡してなるものですか。そこの方と、もうひとりの男の人も同じよ。三人とも何も喋っていないわ。安心して。……どうしたの?」
女性の話を聞いた啓斗は目に涙を溜めていた。
「どうしてですか……」
「どうして、って……」女性は困ったような顔になり、「喋りたくなかったから、それだけよ」
「でも、こんなにされてまで……」
啓斗は、女性の白い脚に刻まれている傷口を見て言った。傷の周辺には赤黒く凝固した血がこびりついている。
「だって、私たちに出来る抵抗って、それくらいしかないじゃない」
「ひとりは死んだんですよ? 死んでまで、死ぬような痛みに遭ってまで……喋っちゃえばよかったじゃないですか」
女性は涙を浮かべた啓斗の顔を見て微笑み、首を二、三度横に振った。啓斗は傷口を消毒する作業に戻ったが、その手が震え、うまく消毒液を塗ることが出来なかった。
「貸して」女性は、そう言って啓斗からガーゼを受け取ると、自分で脚の傷を消毒して絆創膏を貼った。
「上手いですね」
それを見た啓斗が言うと、女性は、
「うちの娘がね、やんちゃで、よく怪我をして帰ってくるの。だから、得意なのよ。こういうの」
女性は傷の手当てを終えると、
「ねえ、さっきの写真、見せてもらえるかな?」
啓斗は懐から写真を取りだした。女性は写真を受け取ると、自分の隣で犬のぬいぐるみを抱えた女の子を見て微笑んだ。写真の中で親子は楽しそうに肩を抱いている。
「娘さん、待ってます」
啓斗が言うと女性は、
「ありがとう。ねえ、でも」と真剣な顔になり啓斗を見て、「お願い、私たちはここに置いて、あなたたちだけで逃げて」
「えっ? な、何を言ってるんですか?」
その言葉には啓斗だけでなく、ミズキ、コーディも驚いた表情になって顔を向けた。
「あなたたちだけなら、ここから逃げられるでしょ? あいつに追いつかれることなく。そうしたら、またあの強化外骨格を装備して、あいつを、ブルートをやっつけられるんでしょ? だったら、そうして」
啓斗、ミズキ、コーディは一様に黙った。女性は、さらに、
「死んでしまったあの男の人もことも、私たちをここに残していくことも、あなたたちが何も気に病むことはないわ。だって私たちは、あの日、バスがブルートに襲われたあの日、あなたたちに助けてもらわなかったら死んでいたのよ。あなたたちに助けられたから、今、ここにいるの。一度死んだの、私たちは」
「一度、死んだ……」
啓斗は呟いた。女性は続け、
「本当は私たちは死んでいたはずだったの。あなたたちに救われた命なの。拾った命なの。ここで捨てたって構わない。だから、お願い。ここにいたら全員殺されるわ。あなたたちだけでも逃げて。でも、その代わり約束して、絶対にあいつを倒すって」
「本当は、死んでいた……」
啓斗は、また呟いて自分の胸に手を当てた。心臓の上、埋め込まれた受信機に。
「啓斗!」ミズキが小さく叫び、「何か言おうとしてる」
と横になった初老の男性の口元に耳を近づけた。啓斗も男性の口に耳を寄せ、コーディも外の警戒は緩めないまま男性を見た。
「わしらに、構うな……逃げ……なさい」
低く、か細い声が男性の口から漏れた。ミズキは目を閉じ、啓斗は歯を食いしばった。
「嫌です!」
啓斗は床に向かって叫んだ。女性、ミズキ、コーデイも啓斗を見た。啓斗は顔を上げて、
「ここにあなたたちを残して逃げるのは簡単です。でもそれは、あなたたちを見殺しにして俺たちだけ助かるという簡単な道を選ぶことになります。簡単に人を殺すブルートと同じだ。俺たちは簡単に殺しません。難しくても、みんなが生き残る方法を探ります」
「啓斗……」
ミズキは啓斗を見て微笑んだ。コーディも同じだった。啓斗は、さらに、
「それに、本当は死んでいた、なんて言わないで下さい。『本当』は今です。今、あなたたちは生きている。それが『本当』なんです。娘さんだって生きてあなたの帰りを待っています。これも『本当』です。だから、死んでもいい、なんて言わないで下さい。生きて帰りましょうよ。娘さんに会ってあげて下さいよ……」
喋りながら啓斗は泣いていた。女性も口に手を当てて泣いた。写真に写った自分の娘を指で撫でる。横になった男性の目にも涙が浮かんでいた。
「絶対に、生きて帰る……」涙を拭って、啓斗は呟いた。




