人の道
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
トモキは涙と鼻水でくしゃくしゃにした顔を歪めて泣きじゃくっていた。その体はロープで縛られ近くの電柱に括り付けられている。兄のカズヤは弟から遙か上空にいた。
カズヤは男の左手に体を鷲掴みにされ、徐々に地面から遠ざかりつつあった。男は左手にカズヤを掴んだままビルの壁面を上っていた。その両手足先端の肥大化した五本の指をビルの壁につけると、指は壁面に密着し、体を持ち上げると離す。その動作を繰り返して、男はビルの壁をどんどんと上っていた。
男の体は、すでに痩せぎすの人間のものではなかった。一文字の縦長の瞳孔がある巨大な目はマイナスネジの頭を思わせる。細かい鱗に覆われた体からは尻尾が生えていた。
「坊主、俺はな……」男、いや、ブルートは左手に握ったカズヤに顔を向けて、「人間を高いところから落として殺すのが大好きでね。手足をばたばたさせて悲鳴を上げながら落ちていくんだよ。面白いぜぇ」
ブルートは舌なめずりした。カズヤはブルートから目をそらし、地上に残した弟の顔だけをずっと見つめていた。ブルートが一歩、また一歩と壁面を上っていくたび、弟トモキの顔が見る見る小さくなっていく。
「トモキは……」カズヤは振り絞るように声を出して、「弟だけは、助けてくれ……」
それを聞いたブルートは、「んー……」と唸ってから、「無理だね。あの小坊主は、お前が地面に叩きつけられてバラバラのぐちゃぐちゃになった姿を見てもらったあとに落とす」と言って笑った。
ブルートの右手がビルの屋上に掛かった。
ブルートは屋上の縁に立ち、左手を屋上の外に突き出していた。その手にはカズヤが鷲掴みに握られている。カズヤは涙を流し嗚咽していた。
「いいねえ、その顔」ブルートは笑みをこぼすと舌なめずりをして、「覚悟は決まったか?」
カズヤは答えることなく嗚咽しているだけだった。
「いいか、三つ数えたら離すからな」そう言ってブルートは、「いちにさん」と早口で言い終えると左手を離した。カズヤは唖然とした顔で足を下にして落ちていった。
「ふひゃひゃ! あの顔!」
ブルートは大声で笑いながら地面に吸い込まれていくカズヤを指をさして見下ろした。
ブルートがいるビルの隣に建つ、低いビルの屋上を走る人影があった。人影は加速しながら屋上の床を蹴って跳び出した。その軌道上には落下していくカズキの体があった。
「タイミングぴったり!」
跳んだ人影は、そう叫びながら空中でカズキを抱きとめると、
「ナイスキャッチ!」
と、さらに叫んだ。強化外骨格を纏ったコーディだった。コーディは左腕だけでカズヤを抱きかかえ、右手をビルの壁面に向けると、腕アーマーから何かが射出され壁面に突き刺さった。射出されたものはアンカーだった。壁面にしっかりと撃ち込まれたアンカーは射出したコーディの腕アーマーとワイヤーで繋がれている。振り子運動でコーディは一旦最高高度にまで到達すると、ワイヤーを伸ばして振り戻し運動の最中に地面に足を付け、ブレーキを掛けて止まった。
地上のトモキは、ミズキの手ですでに解放されていた。
「な、何?」
ブルートは屋上から、その一部始終を見下ろしていたが、「!」何かを察知したように真横に跳んだ。そこを連射されたライフル弾が飛び抜ける。ブルートは身構え、銃弾が飛んできた方向に大きな目を向けた。そして自分の肩口を見る。避けきれなかった弾が掠り血筋が滲んでいた。
「何者だ」
ブルートは、ライフルを構えて立つ強化外骨格を纏った男に向けて言った。
「レイナさん。俺のカメラで確認出来ますか」
ウインテクターを纏った啓斗は、そう言ってライフルの銃口をブルートに向けて構え直した。
「見えているわ、啓斗」ヘッドクオーターズ指令室でレイナは答えると、ウインテクターヘルメット搭載カメラが送る映像を見て、「交戦中のブルートを、〈ゲッコー(ヤモリ)〉と呼称する」そう通達した。
兄弟の父親の転落死に疑問を抱いたレイナは、ミズキたちとともにビルの壁面を監視し続け、壁面を上るブルートの姿を捉えた。登坂途中で攻撃を加えては捕まったカズヤに危険が及ぶと考え、救出体制を整えて待機していたのだった。
ゲッコーは自分の肩口に滲んだ血を指で拭い、
「おい、これは何だ? どういうことだ?」
と啓斗に向けた。
「お前の汚い血だろ」啓斗は静かに返した。
「お前が、43を殺ったのか?」
「フォースリーって、何だ?」
啓斗が言った直後、ゲッコーが跳びかかった。
啓斗はライフルのトリガーを引いた。ゲッコーは空中で体を捻り、表皮を幾筋か銃弾が掠めたが、啓斗へ跳びついて両手でヘルメットを掴み両足をボディに張り付かせた。啓斗のヘルメットに両側から強烈な圧力が加えられる。啓斗はライフルを取りまわしたが、体に密着した相手に銃口を向けることは出来なかった。
「啓斗!」
ヘルメットカメラの前にゲッコーが覆いかぶさったため、映像がほぼ真っ暗になったモニターを見ながらレイナが叫んだ。圧力が加えられているためか映像には時折ノイズも混じっていた。
「カスミからの映像が出ます」
コンソールに向かったサヤが言った。
カスミはカメラを持って、啓斗が戦っているビルからそう遠くない同じほどの高さのビル屋上に上り、啓斗の戦いの様子を望遠で撮影していた。
サブモニターにカスミからの映像が映った。
啓斗はライフルを投げ捨て、ゲッコーの体を押さえつけながら走ると、屋上に出入りするための階段室の壁にゲッコーを叩きつけた。が、ゲッコーと叩きつけた壁との間には六角形を密集させたバリアが発生し、ゲッコーはびくともしなかった。
「そ、そうだった……」
啓斗は呟くと、自分のヘルメットを押さえつけているゲッコーの両手首を掴み握り返した。
ゲッコーは叫び声を上げて両手を離し、両足でウインテクターのボディを蹴って後方に一回転して着地した。その勢いで啓斗の手もゲッコーの手首から引き剥がされた。
啓斗は背中にマウントしていた剣を手にして構えると、振りかぶってゲッコーに向かって走り込んだ。ゲッコーは上に跳んで啓斗の剣のひと振りを躱した。啓斗は振り抜いた剣を往復させるように再び振ったが、そのひと振りも空を斬った。ゲッコーは跳んだまま落下してこなかった。跳んだ頂点の高さで階段室の壁に手足を張り付かせて静止していたためだった。
ゲッコーは尻尾をしならせて啓斗に打ち付けた。吹き飛ばされた啓斗は屋上の床を滑る。
「お前のようなやつがいたとはな……」ゲッコーは立ち上がった啓斗を見て、「対策を練らねば」
そう言うと屋上の床に降り、屈みこんで床を蹴って、隣のさらに高いビルの壁面に跳びついた。そのまま四肢を動かして壁面を上っていこうとするゲッコーに、
「逃がすか!」
啓斗は手にした剣を逆手に持つと走りだした。屋上の床を蹴って跳び上がり、ゲッコーに迫る。ゲッコーは啓斗から逃れようと上に向かって壁面を走り出したが、尻尾の中間辺りに啓斗の剣が突き立ち、ゲッコーはビルの壁面に串刺しにされた。
「ぎひゃぁー!」
悲鳴を上げて体をのたうち回らせるゲッコー。啓斗は剣の柄から手を離して壁を蹴り、もとの屋上に着地すると投げ捨てていたライフルを拾い上げ、
「お前がトカゲだったら、尻尾を切り捨てて逃げられたのにな」
そう言って銃口を向けるとトリガーを引いた。銃弾の雨が浴びせられハチの巣になったゲッコーは、青白い光に包まれて爆散した。
「レイナさん、終わりました」
啓斗の通信を受けたレイナは、
「コーディ、ミズキ、終わったわよ」と二人に通信した。
「了解」同時に答えた二人は、それぞれの腕の中で震えて涙を流すカズヤとトモキに、「もう大丈夫だよ」と、やさしく声を掛けた。
「さて」
と帰ろうとする啓斗に通信が入った、アキの声だった。
「啓斗」
「何ですか、アキさん」
「剣の回収を忘れるなよ」
「……え?」
啓斗は振り返った。自分が立つ屋上から、さらに十メートルほど高い位置のビル壁面に剣は突き立っている。
「回収って……どうやってですか?」
「さっき出来たんだから、またあそこまで跳べばいいだろ」
「い、いや、さっきは必死で……跳んで剣を掴み損ねたら落ちて死にます」
「がんばれ」
「えー!」
啓斗の叫びがビルにこだました。
「早くしろよ」
ぶっきらぼうなアキの声に困惑する啓斗の映像を見て、コンソールに座ったサヤは微笑んだ。
啓斗の立つ屋上から遙か離れた空中に浮かんでいるものがあった。背中から生えた半透明の羽を羽ばたかせて、その場にホバリングしている。その左手は黄色と黒の太い縞模様となっており、先端からは鋭い針が覗いていた。腰は細くくびれ胸には二つの膨らみがある。その顔の半分程度は巨大な複眼となっており、それを使った望遠で啓斗とゲッコーとの戦いの一部始終を見届けていた。
「何だ、あれは……」
口から発せられたその声は女性のもの。裏路地でフードの男らと会話をしていた女性と同じものだった。言い終えると、女性の声を発したそれは羽を羽ばたかせて旋回し飛び去った。
カズヤとトモキの母親は、しばらく前から病を患っていたことが分かった。父親が死に、蓄えの中から生活費や薬代を捻出していたが、それも底を尽きかけてきた。兄弟は残りの蓄えを最低限の生活費に充て、母親の薬代のためにスリを繰り返していたという。母親は自分の息子たちがやっていることを知らなかったと言って、涙ながらに詫びた。
「どうして相談してくれなかったんですか」
自警団の係員がそう問うと母親は、皆が一生懸命に働いて頑張っているのに、何も出来ない自分が一方的に助けてもらうことを潔しとしなかったため、と語った。
「あなたのそんな態度が、息子さんたちにスリなんてさせてしまったんですよ」
係員のその言葉に、母親は深くこうべを垂れて詫びた。
さらに係員は、自警団の寄付金の一部を母親の薬代に充てると言ったが、それを聞いた近所の医師が、それならば自分が無料で母親を診察して薬も出す、と申し出た。
それはあまりにも、と固辞しようとした母親だったが、
「こんな時代ですよ。助け合わないでどうするんですか」
との医師の言葉に、親子は肩を抱き合って泣いた。
「どう、啓斗」レイナは自警団からの帰り道に、「私の言いたかったこと、分かった?」と啓斗に向いて言った。
「はい、分かった気がします。うまく言えないですけど、その……人はみんな、やさしいっていうことですよね」
「……ま、いいか」レイナは微笑んで、「さあ、今夜は店を開けるわよ」
「カズヤくんとトモキくん、あのラーメン屋で働くことになったそうですよ」
サヤが言うと、啓斗は、
「そうなんだ。よかった……」と夕焼けに染まりつつある西の空を見上げて、「本当に、よかった」もう一度、そう呟いて笑った。
郊外の近くにレジデンスを移動させ、ヴィーナスドライヴは営業を始めた。開店してから一時間ほどすると、ひとりの女性が入店してきた。
「いらっしゃいませ」
と、カウンターの中でミズキが迎えた。
女性はミズキの顔を見ると頭を下げる。
「あれ? あなたは確か……」
ミズキも、その女性の顔を見て言った。女性はカウンター越しにミズキに話をしだした。
「……バスに乗っていた人が?」
女性の話を聞き終えたミズキは、そう言って腕を組んだ。カウンターの向こうで注文のカクテルを作っていたアキも、手を動かしながらその話を聞いていた。
「分かりました。明日の朝から、こちらでも調査してみます」
ミズキが言うと女性は深く頭を下げて逗留先を書いた紙を渡し、よろしくお願いします、と言い残して店を出た。
「レイナに相談しよう」
アキは、ミズキにそう言って、ミズキも頷いた。
開店から時間も経ち、深夜といえる時間になった。お客の姿もまばらになり、注文されるものも料理から、ほとんどアルコールに変わっていた。
ドアが静かに開いて、ひとりの男が店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
ミズキが迎えると、入店したフードを被った男は一番隅のカウンター席に腰を下ろした。
「何にいたしますか?」
ミズキが注文を聞くと、男は、
「ブラッディ・マリーを」
「承知いたしました」
ミズキは一礼して棚に向いた。アキがすでに注文のカクテルを作り始めていた。
「ブラッディ・マリーでございます」
ミズキが、コースターに乗せた真っ赤なカクテルが入ったグラスを差し出した。
男はグラスに満たされた液体を見て、
「……赤いな」と、呟いた。
「……はい、ブラッディ・マリーですから」
ミズキは、「?」という顔で男を見たが、フードに隠れたその表情を窺い知ることは出来なかった。フードの奥からの男の視線は、服の襟元から露出したミズキの白い首筋に注がれていた。
「ミズキちゃんだっけ? 君も、こっちに来てお話ししようよ」と、テーブル席の男性からミズキに声が掛けられた。数名の男性グループが座るテーブル席にはマリアが一緒に座って接客していた。
「あはは……」と笑ってミズキは男性の声を受け流した。
「お客様」テーブルに注文のビールを運んだアキは、ジョッキを、どん、とテーブルに置いて、「当店では、そのようなサービスは行っておりません」
そう告げて、マリアの肩に伸ばされた男性の手を払いのけた。
「ミズキ」カウンター奥のドアから啓斗が顔を出し、「洗いもの、手伝うよ」と流しに向かった。
「ありがとう、啓斗」ミズキは微笑んで言った。
「いらっしゃいませ」
啓斗はカウンターの横を通る際、隅の席に座ったフードを被ったお客に声を掛けて頭を下げたが、男は無言のままだった。
啓斗は男から視線を外し、流し場で皿やグラスを洗い始めた。




