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とある博士とは違い、愛し合う2人

作者: chloe



ねぇ、アンジェ。

僕は君以外に何もいらないと思っていた。


本気でそう、思っていたんだ。





『とある博士とは違い、愛し合う2人』

― Adonis & Angers ―





彼女と会うたびに、ぼくは高揚した。


彼女とは職場が同じ。そして互いにその近くへ住居を構えていたから、近所や買い物の帰り道、散歩する公園などでよく会っていた。


彼女は気さくでよくしゃべる人だったから話は尽きないし、なにより話しているときの笑顔はとても愛らしかった。


少しずつ、また少しずつ仲が深まっていくのを感じていて、それはぼくだけじゃないことも、薄々はわかっていた。



「今度一緒に、どこかへ出かけない?」



そういったのは、彼女。


ぼくは驚いてすぐには返事ができなかったけれど、一呼吸おいてから、『そうだね、どこにしようか』と続けた。


この一件から、ぼくの中での迷いはなくなっていた。




よく晴れ、雲一つない青空のある日、ぼくらは互いがよく散歩をする公園に出かけた。


風が気持ちよくて、そう言おうとすれば彼女の口から同じ言葉がでてくる。


暫くは園内を歩き、よく知った道も新鮮なものに思え、たわいもない話は熱を持ち、意味あるものに変わっていく。


ぼくはただ嬉しかった。彼女を知っていくことが、今のぼくにとって一番の幸福であった。


次第にときも忘れ、徐々に距離も恋仲のようで、それなのに歯痒い。


まなざしが本当にきれいだから、褒めてあげれば恥ずかしがった。彼女に触れたい。


ぼくはどうしてしまったのか、支離滅裂になる思いに、戸惑いを隠せなかった。





わたしにはわかっていました。

彼がどんな思いで見つめているか。


彼の想い人はとても素敵なお方。

到底かなう筈もありません。


わたしにできるのは待つことだけでした。

いつか彼が気づいてしまった時のために。


そのために、今の私がいるということに。





公園を出たぼくらは、カフェテラスで軽く食事をとったあと、そのまま別れた。


それから数日して、職場からの帰り道で僕は彼女に告白した。『うれしいわ』と、彼女は僕の手を取ってくれた。


幸せな日々だった。彼女がぼくの名を呼ぶたび、ぼくが彼女に触れるたび、思いは募っていく。良くも悪くもいつか、なんて考える時間はなかった。今がすべてだった。



「ぼくは幸せだよ、こんなにも君を想えて。」


「わたしもよ、こんなにも貴方を慕えて。」



手を取り合えば、ぼくらは何でもできる気さえした。

それくらい溺れていたのだ、彼女に。



『忘れてしまったの?』



ふとよぎった言葉。しかしぼくはそれが何なのかを思い出すことができなかった。


忘れてしまった?そんなもの、最初から知らない。





制裁はいつか来ると思っておりました。

忘れてしまった代償は大きくて、せつない。


わたしは愛を紡ぐこと。

それから、泣くことしかできません。


ですがこれが本来の形なのです。

あるべき姿は、彼がわたしを忘れること。


失う切なさと、寂しさと、甘え。

彼には乗り越えてほしい、そう思います。





やがてぼくたちは結婚した。

それを機に彼女は退職し、後にかわいい子供も生まれた。


平穏で優しい日々、こんなに安らかな時があるなんて思ってもみなかった。


家族のためなら仕事だって頑張れたし、なにより愛する者のためであって、自分一人のことだけではないという実感もあった。


一日一日が大切で、どうしようもない。


ぼくは調子が良くなったのを機に、常に持ち歩いていたあるものをすべて捨てた。


日常で唯一煩わしかったものだった。ぼくは晴れ晴れとした気持ちで家族のもとへ帰る。





思えば、その頃から少しずつ歯車が狂い始めていました。

私は願いました。彼がそのまま忘れてしまって、勝ち取った日々を生きるように。


ですが、それは叶わぬ夢のようです。





ある日、ぼくたちは喧嘩をした。


些細な喧嘩は日常的にあったが、今回は違う。

こんなに大きくなるなんて思ってもみなかった。


彼女はまだ幼い子供を抱いて家を出て行った。

子供には意味が分からなかっただろう、可哀想なことをした。


ぼくはそれから仕事には行っていたものの、毎晩酒を煽った。尋常な量ではなかったし、家事もしないから部屋はどんどん汚くなっていった。


それからのことはあまり覚えていない。

ただ相変わらず仕事に行っていたのと、毎晩酒を煽ることだけはやめなかった。





次第に崩れていく彼は、ある日ふと思い出したかのように、私に話しかけてきました。

あぁ、とうとうその日が来てしまったと、私は悲しみました。


彼は私の名を呼び泣きました。

しかし私にはどうすることもできません。


ただ優しい言葉と、愛している。そう告げることしかできませんでした。

私と彼は、そうすることしかできないのです。





ちゅんちゅんと鳥たちが囀って、朝がやってきたことを告げる。ぼくはいつのまにか寝てしまっていた。


しかし不思議と心は穏やかで、まるで未だ夢心地といったところだった。

だからだろうか、ふいに名を呼びたくなったのは。



「アンジェ。」



ぼくがそういった途端、自身の右目から熱いものがこぼれた。

一体何故?ぼくは何が起きたのかわからなかった。

しかしひとたび呼んでしまえば、その名を呼ばずにはいられなかった。



「アンジェ…、アンジェ、アンジェ!」



ぼくは泣いた、むせび泣いた。

まるで子供のように、崩れ落ちるようにしてただ喚いていた。



「アンジェ、アンジェ、ぼくは、ぼくは!」



きみがいなければ、なんて。

うっかり言ってしまいそうになる衝動だけは、その身に飲み込んだ。





彼が私のもとを離れたのは何度目でしょうか。

今回のように結婚まではいかないものの、彼は幾重にも恋をし、そして泣いてきました。


原因など大した理由にはなりませんが、それより最も重要なのは彼と私のことでした。


彼が呼ぶアンジェ、それがわたしの名です。

彼と私は愛し合っています。それは今も昔も何一つ変わりません。


ですが、それは彼が毎度恋をする度に浮気につながるのかというと、そうではないのです。

わたしたちは、同じ心を共有しています。


ある有名な博士が猟奇的な相方を持っていたように、わたしと彼は互いを慈しみ、愛したのです。彼が泣けば、わたしは彼を抱きます。本当に抱くことができなくても、わたしは彼の涙を何度でも受け止めることができたのです。


彼は私によくすがるような目を向けてきます。大丈夫なのに。

決してわたしから手を放すことはないというのに。

彼は不安なのです。もしわたしまでいなくなってしまったらと、幸福な間だけはわたしのことを忘れられるのに、いなくなっては、と。


彼が薬をすべて捨てたときに気づいていました。

また悲しいことが起きてしまう、と。折角わたしがいなくなる好機を逃してしまうと。


わたしがいなくなったとき、それは彼が本当の意味で幸福になったということ。

願っていることは、ただひとつ。



『アドニス』



どうか、今ある幸福を感じて。ひとりでも立てるように。

貴方は本当に魅力的で、優しい男性。


もうわたしには、その役目は終わるようだから。

愛しているわ、アドニス。


どうか貴方に、どうか。





「…アンジェ?」



ぼくは不意に顔を上げた。

アンジェがいない、こんなこと今までなかったのに。


恐れていたことが起きてしまった。

彼女は唯一無二の、ぼくの大切な。



「…あなた。」



すると、きぃ、という戸が開く音とともに、出て行った彼女が子供を抱え帰ってきた。

最愛の女性、でも今のぼくにはそれどころではなかった。



「あ、あぁ…アンジェ、アンジェ、アンジェ!」



視界の片隅で、彼女の驚いたような顔をとらえた。

消えてしまった、消えてしまったのだ、ぼくの大切な、本当に大切な。



「アンジェが、消えてしまったんだ…、あぁ…そんな……あぁ…。」



ぼくは文字どおり崩れ落ちた。

彼女は何が起きたのかわからないといった様子だったが、じきに手を差し伸べ、ぼくを抱いた。


その手は、とても温かかった。

それはまるで、まるで。


まるで。










Fin.


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