とある博士とは違い、愛し合う2人
ねぇ、アンジェ。
僕は君以外に何もいらないと思っていた。
本気でそう、思っていたんだ。
『とある博士とは違い、愛し合う2人』
― Adonis & Angers ―
彼女と会うたびに、ぼくは高揚した。
彼女とは職場が同じ。そして互いにその近くへ住居を構えていたから、近所や買い物の帰り道、散歩する公園などでよく会っていた。
彼女は気さくでよくしゃべる人だったから話は尽きないし、なにより話しているときの笑顔はとても愛らしかった。
少しずつ、また少しずつ仲が深まっていくのを感じていて、それはぼくだけじゃないことも、薄々はわかっていた。
「今度一緒に、どこかへ出かけない?」
そういったのは、彼女。
ぼくは驚いてすぐには返事ができなかったけれど、一呼吸おいてから、『そうだね、どこにしようか』と続けた。
この一件から、ぼくの中での迷いはなくなっていた。
よく晴れ、雲一つない青空のある日、ぼくらは互いがよく散歩をする公園に出かけた。
風が気持ちよくて、そう言おうとすれば彼女の口から同じ言葉がでてくる。
暫くは園内を歩き、よく知った道も新鮮なものに思え、たわいもない話は熱を持ち、意味あるものに変わっていく。
ぼくはただ嬉しかった。彼女を知っていくことが、今のぼくにとって一番の幸福であった。
次第にときも忘れ、徐々に距離も恋仲のようで、それなのに歯痒い。
まなざしが本当にきれいだから、褒めてあげれば恥ずかしがった。彼女に触れたい。
ぼくはどうしてしまったのか、支離滅裂になる思いに、戸惑いを隠せなかった。
*
わたしにはわかっていました。
彼がどんな思いで見つめているか。
彼の想い人はとても素敵なお方。
到底かなう筈もありません。
わたしにできるのは待つことだけでした。
いつか彼が気づいてしまった時のために。
そのために、今の私がいるということに。
公園を出たぼくらは、カフェテラスで軽く食事をとったあと、そのまま別れた。
それから数日して、職場からの帰り道で僕は彼女に告白した。『うれしいわ』と、彼女は僕の手を取ってくれた。
幸せな日々だった。彼女がぼくの名を呼ぶたび、ぼくが彼女に触れるたび、思いは募っていく。良くも悪くもいつか、なんて考える時間はなかった。今がすべてだった。
「ぼくは幸せだよ、こんなにも君を想えて。」
「わたしもよ、こんなにも貴方を慕えて。」
手を取り合えば、ぼくらは何でもできる気さえした。
それくらい溺れていたのだ、彼女に。
『忘れてしまったの?』
ふとよぎった言葉。しかしぼくはそれが何なのかを思い出すことができなかった。
忘れてしまった?そんなもの、最初から知らない。
*
制裁はいつか来ると思っておりました。
忘れてしまった代償は大きくて、せつない。
わたしは愛を紡ぐこと。
それから、泣くことしかできません。
ですがこれが本来の形なのです。
あるべき姿は、彼がわたしを忘れること。
失う切なさと、寂しさと、甘え。
彼には乗り越えてほしい、そう思います。
やがてぼくたちは結婚した。
それを機に彼女は退職し、後にかわいい子供も生まれた。
平穏で優しい日々、こんなに安らかな時があるなんて思ってもみなかった。
家族のためなら仕事だって頑張れたし、なにより愛する者のためであって、自分一人のことだけではないという実感もあった。
一日一日が大切で、どうしようもない。
ぼくは調子が良くなったのを機に、常に持ち歩いていたあるものをすべて捨てた。
日常で唯一煩わしかったものだった。ぼくは晴れ晴れとした気持ちで家族のもとへ帰る。
*
思えば、その頃から少しずつ歯車が狂い始めていました。
私は願いました。彼がそのまま忘れてしまって、勝ち取った日々を生きるように。
ですが、それは叶わぬ夢のようです。
ある日、ぼくたちは喧嘩をした。
些細な喧嘩は日常的にあったが、今回は違う。
こんなに大きくなるなんて思ってもみなかった。
彼女はまだ幼い子供を抱いて家を出て行った。
子供には意味が分からなかっただろう、可哀想なことをした。
ぼくはそれから仕事には行っていたものの、毎晩酒を煽った。尋常な量ではなかったし、家事もしないから部屋はどんどん汚くなっていった。
それからのことはあまり覚えていない。
ただ相変わらず仕事に行っていたのと、毎晩酒を煽ることだけはやめなかった。
*
次第に崩れていく彼は、ある日ふと思い出したかのように、私に話しかけてきました。
あぁ、とうとうその日が来てしまったと、私は悲しみました。
彼は私の名を呼び泣きました。
しかし私にはどうすることもできません。
ただ優しい言葉と、愛している。そう告げることしかできませんでした。
私と彼は、そうすることしかできないのです。
ちゅんちゅんと鳥たちが囀って、朝がやってきたことを告げる。ぼくはいつのまにか寝てしまっていた。
しかし不思議と心は穏やかで、まるで未だ夢心地といったところだった。
だからだろうか、ふいに名を呼びたくなったのは。
「アンジェ。」
ぼくがそういった途端、自身の右目から熱いものがこぼれた。
一体何故?ぼくは何が起きたのかわからなかった。
しかしひとたび呼んでしまえば、その名を呼ばずにはいられなかった。
「アンジェ…、アンジェ、アンジェ!」
ぼくは泣いた、むせび泣いた。
まるで子供のように、崩れ落ちるようにしてただ喚いていた。
「アンジェ、アンジェ、ぼくは、ぼくは!」
きみがいなければ、なんて。
うっかり言ってしまいそうになる衝動だけは、その身に飲み込んだ。
*
彼が私のもとを離れたのは何度目でしょうか。
今回のように結婚まではいかないものの、彼は幾重にも恋をし、そして泣いてきました。
原因など大した理由にはなりませんが、それより最も重要なのは彼と私のことでした。
彼が呼ぶアンジェ、それがわたしの名です。
彼と私は愛し合っています。それは今も昔も何一つ変わりません。
ですが、それは彼が毎度恋をする度に浮気につながるのかというと、そうではないのです。
わたしたちは、同じ心を共有しています。
ある有名な博士が猟奇的な相方を持っていたように、わたしと彼は互いを慈しみ、愛したのです。彼が泣けば、わたしは彼を抱きます。本当に抱くことができなくても、わたしは彼の涙を何度でも受け止めることができたのです。
彼は私によくすがるような目を向けてきます。大丈夫なのに。
決してわたしから手を放すことはないというのに。
彼は不安なのです。もしわたしまでいなくなってしまったらと、幸福な間だけはわたしのことを忘れられるのに、いなくなっては、と。
彼が薬をすべて捨てたときに気づいていました。
また悲しいことが起きてしまう、と。折角わたしがいなくなる好機を逃してしまうと。
わたしがいなくなったとき、それは彼が本当の意味で幸福になったということ。
願っていることは、ただひとつ。
『アドニス』
どうか、今ある幸福を感じて。ひとりでも立てるように。
貴方は本当に魅力的で、優しい男性。
もうわたしには、その役目は終わるようだから。
愛しているわ、アドニス。
どうか貴方に、どうか。
「…アンジェ?」
ぼくは不意に顔を上げた。
アンジェがいない、こんなこと今までなかったのに。
恐れていたことが起きてしまった。
彼女は唯一無二の、ぼくの大切な。
「…あなた。」
すると、きぃ、という戸が開く音とともに、出て行った彼女が子供を抱え帰ってきた。
最愛の女性、でも今のぼくにはそれどころではなかった。
「あ、あぁ…アンジェ、アンジェ、アンジェ!」
視界の片隅で、彼女の驚いたような顔をとらえた。
消えてしまった、消えてしまったのだ、ぼくの大切な、本当に大切な。
「アンジェが、消えてしまったんだ…、あぁ…そんな……あぁ…。」
ぼくは文字どおり崩れ落ちた。
彼女は何が起きたのかわからないといった様子だったが、じきに手を差し伸べ、ぼくを抱いた。
その手は、とても温かかった。
それはまるで、まるで。
まるで。
Fin.