fish
白いスカートが目に入った。ひんやりとした冬の陽射しから、暖かな春の陽射しに移ろうとしているある晴れた日。目の前を颯爽と歩く、背の高い女性の白いスカートは、春のやわらかな風に吹かれて金魚の尾ひれのように揺れている。
それを見た途端、私は立ち竦んでしまった。女性が歩く度、その白いスカートは陽の光を浴びて輝いた。それがあまりに眩しくて、同時に胸が締め付けられるように苦しくなり、思わず涙が溢れそうになって、私は俯いた。
泣くもんか。
そう決めていた。視界がうっすらぼやけたが、振り払うように私は前を向いて歩き出した。白いスカートは、もう見えなかった。
「俺たち、別れた方がいいと思うんだ」
キッチンのコンロから、やかんのシューシューという音が響いた。華は立ち上がり、ソファに座っている隼人の前を通り過ぎ、キッチンに向かった。熱湯が溢れ、コンロが濡れていた。華はゆっくりと火を消す。
インスタントコーヒーに湯を注ぎ、100均で買ったプラスチックのトレーで運ぶ。華は極力落ち着こうとしていた。だが、トレーを持つ指は震えていて、冷たくなっているのがわかった。
もしかしたら。
という思いがなかったわけではない。波が引いていくように、隼人からの連絡が減り、会うことも減っていた。たまに連絡がついても「今忙しくて。後で折り返す」と忙しげに切られ、折り返しはない。会っても居心地悪そうにしていて、部屋に寄ることもなく帰っていく。送ることもしない。
付き合って2年。長いといえば長いのかもしれない。付き合いが長くなればなるほど、お互いいい意味でも悪い意味でも惰性が出てきて、相手に甘える部分も出てくる。けれども、隼人のは惰性や甘えできているものではないと、華は気付いていた。明らかに隼人は華を拒絶している。そして、それを気付かせて華から別れを切り出させようとしている。
いっそ隼人の思い通りにしてあげようかと何度も思った。でも、なぜこんな邪険にされ、相手の思い通りにしてやらなければならないの?そう考えると腹立たしく、華は気付かないフリをし続けた。
だが、それは同時にもう隼人から愛されていないのだという現実を自分自身で突き付けていることと同じだった。隼人からメールや着信を無視されたり、デートの誘いを断られたり、忙しげに用が済めば帰っていく姿を見る度、華の心には澱のようなものが溜まっていき、疲れ果てていた。
そんな時だ。たまたま大型ショッピングモールで隼人を見掛けたのは。最近華の前では滅多に見せなくなった、顔をくしゃっとさせる笑顔。その笑顔を向ける先には、オフホワイトのロングスカートを履いた、華も知っている後輩の女の子。自分の感情にとても素直な子で、感情を表に出すのが苦手な華と正反対の可愛い女の子。彼女も隼人を見上げながら、とびきりの笑顔を浮かべている。
歩く度に揺れるスカートからは、甘い香りが漂ってくる気がした。手を繋いだり腕を組んだりしていないのがせめてもの救いなのだろうか。でも、2人の間には特別な空気が薄いヴェールみたいにまとわりついていて、時々ふと触れそうになる指が、繋ぎたくても繋げない、という躊躇いがちな雰囲気を醸し出していた。
華は呆然と2人の後ろ姿を見送っていた。決定的なものを、ついに見てしまったのだと、華は唇を噛んだ。
全身に氷水を浴びてしまったかのように、華の体は冷たくなっていく。私は彼女なんだもの。今すぐ2人を追いかけて、隼人を問い詰める権利はあるはずだ。何なら頬を張ったっていいはずだ。けれど、そんなことをできない自分自身の弱さを知っていた。私は隼人が好きなんだ。そんなことをすれば、きっとまた嫌われてしまう…
けれども、隼人はもう私と同じ思いを持っていない。
同じ方向を見ることも、見つめ合うことも、もうない。
「華が悪いんじゃないんだ。全部俺が悪いんだよ」
長い沈黙の後、隼人は言った。コーヒーからはすっかり湯気も消えてしまっていた。
華は隼人を見つめていた。だけど隼人は華を見ない。
この人は。
この人は最後の最後でも私を傷付けている。せめて私の目をまっすぐ見て。お願いだから。じゃなきゃ、涙が零れてしまう。
「隼人の何が悪いの?」
華は掠れた声で呟いた。隼人はその時初めて華を見た。
華は微笑みたかった。けれど上手くいかない。油断すれば涙が堰を切って溢れ出すだろう。
だけど、本当は。本当は思いっきり泣きたい筈なんだ。なのに自分は感情を押さえてしまっている。いい女ぶろうとしている。
溢れる様々な感情に、華は蓋をしようとしていた。怒りや憎しみや悲しみ。漬物石でも乗せるかのごとく、ぎゅうぎゅうと奥へ奥へと押し込むけれど、器にヒビが入っていることに気付きながら、華は見ないふりをしていた。
「教えてよ。隼人。あなたの何が悪いの?」
「…華。ごめん」
謝って欲しいんじゃない。謝らないで。体がバラバラになってしまいそうな感覚に襲われ、華は右手で左腕を押さえた。
外は群青色のカーテンがオレンジ色の空に降り出す。その空には頼りなく輝く星と、窓の外では彩りの悪いネオンがちらちらと灯り出す。
「華」
華は隼人を見た。隼人もまた、華を見ていた。
「さよなら」
隼人はそう言って、静かに立ち上がり、華の横を通り過ぎた。華は立ち上がれなかった。がちゃりと鍵を開ける音がした後、冬の冷たい空気が入り込み、やがてバタンと閉まる音が響いた。
あの子みたいに笑えたらよかった?
あの子みたいに泣ければよかった?
あの子みたいに甘え上手だったら、今でもそばにいられたの?
華はベランダから外を眺めていた。暖かくなるにつれ、オレンジ色の空の時間が長くなる。うっすらと見える群青色の空には、あの日と同じ頼りない星が見えた。
ふわりと何かが視界に入った。桜の花びらだ。風に任せて、桜の花びらが散っては舞い上がり、雪のように華の元に降る。
「キレイだな」
かつて、隼人はこの舞い上がる桜を見て言った。大きな手が空にかざされる。そんな隼人を、華は見上げていた。
華、華、華………
隼人の低くて、でも澄んだ声で私を呼ぶ声が頭の中を回る。ぐるぐる、ぐるぐると。
「華のそのスカート、好きだな。何か魚みたいで捕まえたくなる」
たまたま見つけた、濃いブルーのペチコートに、薄いブルーのクチュール。履いてデートをしたとき、隼人が言ったあの言葉。
「俺、ブルー好きなんだ。華はブルーが似合うね」
そう言って笑って華にキスをした。
…華、さよなら…
ざぁっと強い風が吹いた。桜の花びらが一気に舞い上がる。隼人が好きだと言った青いスカートも揺れた。
気がつくと、華は泣いていた。堰を切って溢れ出した涙と声が、空に吸い込まれていく。
隼人、隼人、隼人…
泣かないと決めていた。いつか隼人が戻ってくることを祈り、期待していたから。けどわかってる。
あの日のように笑えても、もう横にはいない。いられない。
隼人が好きだと言ったスカートを履いても、もう戻って来ない。
ねぇ、今ならまだ間に合うから。だからお願いだよ。私の肩を抱き寄せて。あの日みたいに笑ってよ。
華………
「隼人…さよなら」
華は小さく、初めてその言葉を呟いた。すると、また目の奥が熱くなり、悲しみの欠片となった涙が溢れ出す。
群青色の空に、黒い空が差し掛かる。頼りなげだった星は、闇の色が深くなればなるほどに輝きを増していく。
華は星を眺めた。
さよならはもう言わない。だから、続きは私の心の奥底にしまっておくよ。
あなたがいつか、私の隣でまた笑ってくれますように。
Fin.