失われた心
「良いか、智守。力を使いこなすには、強くなる必要がある」
気がつくと俺は広い和屋の一室に立ち、誰かと向かい合って立っていた。目の前には見上げるほどの大きな男。最低限しか手入れをしていないのか、髪はボサボサ。無精髭も生えている。柔らかそうな表情をしているが、真っ直ぐで強い瞳は俺を見据えていた。
この顔は覚えている――忘れもしない、親父の顔だ。
「心から生まれる力――ゼロ・オブ・ハートブレイド。しかし、心故に自身も強くならなければならない」
「自分の意見をしっかりと持てばいいんじゃないの? 学校の先生だって、力の扱い方しか教えてくれないよ?」
「一般的にはそうだ。だが、心だけが強くなった場合……その心が捻じ曲がってしまった時はどうする?」
「心が捻じ曲がるってどういう事?」
「自分の力を過信したり、飲まれるという事だ。分かり易く伝えるならば、悪に手を染める奴になるという事だ」
「俺はそうはならないよ!」
「あぁ、俺の息子だ。ならないと信じている。だがな、人の心ってのは些細な事で変化してしまうものだ。しかし、もしもの時――心だけではなく、体も強ければそれは防ぐ事はできる可能性はある。心技体、という言葉があるだろう? 心は技術と体と繋がっている。それらを強くしていれば、どこかが崩れたとしても耐えられる……と俺は考えている」
「んー、よく分かんないけど……心も体も強くすればいいんだよね!」
「その通りだ。では智守。今日は俺と勝負だ!!」
「えー!? 父さんに勝てる訳ないよ!!」
「やってみなくちゃ分からないだろう? 手加減はするさ」
懐かしい会話だ――俺がまだ小学低学年の頃の話。つまりこれは俺の思い出であり過去――夢だ。
親父が手加減をすると言って、手加減した試しは無かった。良くも悪くも真っ直ぐで真面目な人だったからだ。だから小さな頃の俺に親父は目標だった。いつか絶対越えてやると――そう誓っていた記憶は確かにある。だが、その誓いはすぐに壊された。
「逃げろ、智守!!」
「で、でも父さん!!」
「行きなさい!! 智守だけでも!!」
「母さん!!」
父さんと母さん、二人が俺に向かって叫ぶ。周囲は溶鉱炉に入れられたみたいに灼熱。目の前にはボロボロで血を流す父さんと母さん。その奥にはゆらりとはためく黒いローブの影。
「う、う、……うわあああああああああああ!!」
逃げ道など無い。子供心もあった俺には、父さんと母さんを傷つけたあいつは敵――許せる事など出来なかった。
がむしゃらになって、心を解放して突っ込んだ。次に訪れたのは心が粉々になりそうな痛み。そこで俺の意識は途切れた。
耳元から聞こえるけたたましい電子音で目が覚める。開けた視界に映るのは和室ではなく、見慣れた寮の自分の部屋だ。
「…………懐かしい夢だな」
もう何年も見ていなかった昔の夢。全てが壊される前の思い出。何故今になってまた昔の夢を見たのだろうか。
原因は恐らく昨日の件だろう。俺はまた力を暴走させて、傍に居た人を傷つけた。一度壊されて不安定になった心は制御出来ない。そうなったのは全てが壊されたあの日が原因。あの時も、昨日も俺が未熟故に、傷つけて失うだけとなった。自分に対する負い目があるからこそ――自分がこうなってしまった原点でもある昔の夢を見たのだろう。
右手を空へ向かって伸ばす。手を開いたり握ったりすれば、思うとおりに指は動く。だけどこの手はもう温もりを掴む事も、感じる事も出来ない手だ。
そう言えば夢で見た黒いローブの影――何かに似ているかと思えば亡霊そっくりだ。まさか亡霊が俺の両親を奪った?
「起きるか。学校に遅刻してしまう」
どれ程の思念が自分の中で渦巻こうと、時間は止まる事も戻る事も無い。今日も変わらない一日が流れていく。余計な思考を振り払う為、勢いよく体を起こして登校の準備をする。
「ん…………?」
迅速に準備を終えて、男子寮の一階へ降りると妙に騒がしかった。
男子寮の一階は寮の出入り口でもあるが、待合室も兼ねていてテレビや本棚、新聞等が揃っていて寛げる場所となっている。それ故に騒がしいのは日常茶飯事だ。
しかし、今朝の騒がしさは普段と少し違っている。いつもは五月蝿い騒がしさならば、今朝のはどこか浮いている騒がしさ。それに一箇所に男子生徒達が何かを囲うように集まっている。
予測するならば何か普段と違った事が起こったのだろう。何にせよ俺には無関係の事だ。何に騒いでいるか興味を持っていてはキリが無い。無駄と言う話。こんな騒がしい場所からは早く退散して、静かな食堂に行って朝食を取るとしよう。
「あっ、と、智守先輩!!」
手鞄を背中へと回して、集団を通り過ぎて外へ退散しようとしたら、背後から聞き覚えのある声が俺の名を呼んだ。振り向くと男子生徒に囲まれて小柄な為、言葉通りに埋もれている愛乃が集団の間から顔を出していた。
朝から明るくて小動物の様な愛乃が男子寮の一階に居れば騒ぎにもなるだろう。男子生徒が一箇所に集まったのも納得がいく。
「………………」
いや、待て。何故、愛乃がこんな時間から男子寮に居るのだろうか。思わず前に進めていた足を止めて考え込んでしまう。用でもあるのならば、学園で済ませれば良い話だ。なのに何故、こんな早朝から……考えられる理由としては昨日の件くらいだ。
しかし、昨日の件を考えるなら、俺は愛乃に襲い掛かった。言うなれば、知り合いがいきなり凶器で襲い掛かったのと同等の事をしている。そんな相手にわざわざ朝から会いに来る理由も無いだろう。
「蒼月に用事だと……?」「おいおい、愛乃ちゃん。あんな奴相手にしない方がいいぞ?」「待て……もしかして弱みを握られているんじゃ……」
愛乃が俺を呼び止めた事で、囲っていた男子生徒達がある事無い事を言い出し始めた。中には愛乃を説得しようとする奴まで居る。
「私は蒼月先輩に用があるの! ごめんなさい、通して!!」
愛乃は大きく叫んでから小柄な体を生かして、男子生徒の包囲の隙間から縫うように飛び出してきた。
「行こう、智守先輩!」
「…………分かった」
逃がさないよと愛乃は俺の右手をしっかりと握って外へと連れ出そうとする。愛乃の力では引っ張られる事も無いのだが、何を言っても放してくれそうにはない。ここは大人しく従っておく事にしよう。
手を引かれて寮からしばらく歩くと、ようやく愛乃は掴む手を放してくれた。しかし、その顔はとても不機嫌であり、ムスッとしている。
「…………言いたい事は色々とあるのだが、何故そんな不機嫌なのだ? 俺が遅くて、囲まれたからなのだろうか?」
「違うよ! 皆、智守先輩の事を悪く言うからだよ!! 智守先輩は優しくて良い人なのに……勝手なことばかり言うから!!」
思わず自分の耳を疑った。俺が優しくて良い人? そんな事を言われた試しが無い。その上、愛乃は俺の評判やイメージを言う男子生徒達に対して怒っている。一瞬、まだ夢の中に居るのではないかと思ってしまった。
「不機嫌な理由は分かった。次に言いたい事は、何故朝から男子寮に居た?」
「智守先輩を待つためだよ」
「何故だ? そもそも、愛乃は俺が怖くないのか? 俺は昨日、愛乃と汐璃に襲い掛かった。その包帯だって俺が昨日傷つけてしまったからだ。なのに何故――今までと同じ様に付き合うのだ?」
制服から覗く細い小さな右の二の腕には痛々しさを思わせる包帯が巻かれていた。あの場所は昨日、愛乃が血を流していた部分。昨日の事は現実。一般的に考えるならば、もう関わろうとも思わない筈だ。
「それだよ!」
故に、愛乃がそう言った理由が理解できなかった。
「智守先輩、真面目だから昨日の事を気にして、もう私達と一緒に居ないつもりだったでしょ?」
真面目かどうかはともかくとして、愛乃の言っている事は当たっていた。普通ならば避けられる相手にわざわざ会いに行く理由も、一緒に居る理由も無い。
「だからこうして朝から会いに来たんだよ。あれでお別れだなんて、私は嫌だから……」
「…………愛乃は、俺が怖くないのか?」
「そんな事無いよ? だって昨日、亡霊と戦ってた智守先輩はかっこよかったし、頼もしいよ?」
俺が質問する度に愛乃は予想の斜め上の返答を返してくるので、毒気を抜かれているような気分になる。
「それに……昨日のは智守先輩の意思とは違うって分かってる。だから怖がる理由なんて無いよ」
続いた言葉に足が止まった。急に立ち止まった事で、愛乃は不思議そうに振り返って俺を見つめてくる。その目は真っ直ぐで純粋。今までの言葉も嘘ではなく本心だという事が分かる。
「…………強いな、愛乃は」
俺とは違って、真っ直ぐな心を持って自分を誤魔化さない。羨ましいと思えるほどに眩しい。
「そうなの? 智守先輩や汐璃先輩の方がもっと強いと思うよ?」
「違う。愛乃は俺にも汐璃にも無い強さを持っている。だから――その強さと心を見失わないでくれ」
「わわっ!? あ、あぅ……」
ポンッと愛乃の頭に手を乗せて、撫でてやる。愛乃は突然の事で慌てていたが、やがて恥ずかしそうにして、されるがままになっていた。
単に親が子供に対して偉いと褒めるのと同じ事をしたのだが、何故恥ずかしそうにしているのだろうか。これも神代が告げた恥ずかしくなる行為の一つなのかもしれない。
「それと……ごめんなさい。昨日、智守先輩を撃っちゃって……」
「気にする理由など無いだろう。襲われたことに対して、愛乃は防衛行動を行っただけだ。それに、万が一の場合は攻撃しろと言っただろう? むしろ普通は怒って、俺に理不尽をぶつけるべきだ」
「で、でも……やっぱり…………えっと、撃っちゃった右腕、大丈夫?」
本当に珍しいくらいに純真な子だと思う。俺なんかと友人だとしても釣り合わない。
「気にするなと言っている。それに関してはお互い様という事にして、終わらせよう」
「…………うん、分かった」
不服の様だが納得はしてくれたようで何よりだ。気にされすぎて、今後もこの件で付き纏われるとなれば面倒な事この上ないからな。
「へぇー、朝からイチャイチャなんて良いご身分ね」
「…………イチャイチャなどしていない。俺は単に褒めただけだ」
目の前から掛けられた声に対して飽きれながら返事をする。
「あ! おはよっ、汐璃先輩!!」
いつの間にか目の前には汐璃が歩いて来ていた。先ほどの言葉から察するに少し先からこちらの様子を見ていたのだろう。
「言われた通り、ちゃんと連れて来たよ」
「ありがとう。手間を掛けさせてごめんね、愛乃」
「うぅん、大丈夫だよ」
言われた通り――つまり朝、寮に愛乃が居たのは汐璃の指示だったという事か。
「あっ、えっと……言われたのもあるけれど、私の本心で待ってたからね?」
俺の考えを読んだかのように愛乃は慌ててフォローを入れてきた。どうあっても嘘や誤魔化しは出来ない子である。それはともかくとして、目の前の問題をどうするかだ。
愛乃とは違って、汐璃の目には敵意――というより訝しげである。その原因は勿論、昨日の件でだ。
「おはよう、智守」
「おはよう」
「どうして私が愛乃を智守に会わせにいったか分かる?」
「さてな。俺のあんな姿を見た普通の奴は、俺と関わろうとしないからな」
「ふ、二人共! 喧嘩はダメだよ! 他の人も居るんだから!!」
険悪な雰囲気に愛乃が慌てて入ってくる。まだ早い時間の学園敷地内とは言え、俺の様に食堂に朝食を取りにいったり、部活動や日直がある奴も居るので登校している生徒がちらほらと居る。
とは言え、少しこちらをチラッと見るだけですぐに視線を戻してさっさと先に行く奴が大半だ。主に原因は俺にあるので、今更と言った所ではあるが。
「ごめんね、愛乃。でもこればかりはハッキリさせて置きたいから」
「うー……分かった。でも、約束どおり、喧嘩はダメなんだからね?」
分かってるわよと汐璃は愛乃に告げて、一歩前に近付いてきた。
「私が怒ってるの分かるよね?」
「無論だ。俺がした事は誤魔化しが効くものではない。怒りをぶつけて気が済むならば、好きにしてくれ」
「そう。じゃあ覚悟しなさいよ!」
「っ…………」
肌を叩いた甲高い音が鳴り響くと同時に、左頬に熱い痛みが走った。
「汐璃先輩っ!!」
愛乃が再び間に入って来ようとしたが、汐璃はそれを手で遮る。
「これは勘違いしている智守の目を覚ます為にしたのよ。確かに、私は怒っている。だけど、昨日の事に対してじゃない。何も喋らずに一人で抱えようとする智守に怒ってるの」
「意図が理解出来ないのだが……」
「そんなに私達信用ないの? 友達でしょ? 一人で勝手に完結して、終わらそうとしないで! そりゃ話せない事もあるかもしれないけど……少しは頼りなさいよ」
「…………汐璃」
「昨日は確かに驚いたけど……でも智守が理由も無しにあんな事をする人じゃない事くらい分かってるわよ。だから私も愛乃も智守から離れていく事なんてしないわ」
恐らくこれが優しさ、思いやりという奴なのだろう。違っていたとしても、汐璃も愛乃も俺を信用してくれているというのは理解出来た。
「だからこれだけは聞かせて欲しいの。昨日の件は智守の意志とは関係なく起こった事?」
愛乃にも言われた事を、改めて汐璃に問い質された。ずっと俺と過ごしてきたからこその言葉だろう。でなければ、この様な言葉が出てくる事は無い筈だ
「そうだ。幾ら俺でも、無差別に誰かを襲うという事はしない。するつもりもない」
だからこそ、嘘偽りのない意志を汐璃に伝えるのだった。
「智守の口から聞けて安心したわ」
「…………昨日は本当にすまなかった」
「謝るのは禁止。私も愛乃も責めてる訳じゃないんだから」
「――そうか。あの後の処理はどうなった?」
「えっと、あの後すぐに見回りをしてたチームの人達が駆けつけて、女の子は無事に家に送り届けたよ。ただ、精神状態が不安定だから通院が必要みたい。男の人達は――」
「あの後、応援が来て現場検証後に学園に引き渡したわ。でも三人共、心は無傷でもゼロ・オブ・ハートブレイドは破壊されていたわ」
男達はやはり亡霊に襲われていたか。女子生徒も精神的には傷を負ってしまっている。万事解決とは言えない結果だが最悪の結果――汐璃と愛乃の力が破壊されなかっただけでも良しとするしかない。ここで俺が暴走せずに、亡霊の動きを封じれていれば最善の結果だったが、贅沢は言えない。
「後は亡霊に襲われたって報告したら、学園からの事情聴取を受けたけど……智守の事は伏せておいたわ。報告は以上よ。この件はもうお終い。食堂へ行きましょう。誰かさんのせいで家で朝食を抜いたからお腹空いたわ」
冗談交じりで汐璃はくるっと回りながら、俺の隣に並んだ。
「お詫びが欲しいわよね。女の子にとって朝食抜きは大変だもんね、愛乃?」
「え、え? そ、そうだけど……私は我慢できるよ?」
「我慢する必要はないでしょ。ねぇ、智守」
「…………代金は俺持ちでいいのだろう? どうせ俺も食堂で朝食をとる。ついでに好きなものを何でも頼んでくれ」
やれやれと肩を落としながらそう告げると、汐璃はグッとガッツポーズを取った。
「やった! 私、一度食堂で朝食食べてみたかったのよねー」
「え、えっと……智守先輩に悪いよ」
「気にしないでいいのよ、ね?」
「そうだ。むしろ愛乃は俺の財布を搾り取っても良いくらいだ」
「そ、そんな事出来ないよ!?」
「…………何か私と対応が違う。やっぱり、意図的に私と愛乃で対応変えてるんじゃないの!?」
「俺がそんな器用なわけないだろう」
左右を汐璃と愛乃に挟まれて、いつもと同じ様に騒がしく過ごしながら食堂へと向かう。また以前と同じ様に一人になると思っていたのだが、この二人は本当にお人好しだと思う。これでは、また騒がしく呆れる日が続きそうだ――だが悪くは無い。
◆
「――で!? どうして力を使わないのよ!!」
今日は三限と四限に実技演習が入っていた。今までと同じ様に俺は戦況を見ながら汐璃と愛乃に指示を出して、難なく演習で勝利を掴んだ。
本日の演習試合が全て終了し、食堂に向かおうと廊下に出た瞬間、毎度の如くでもある汐璃の説教が始まったのだ。
「以前も言ったが俺は力を使うつもりは無い」
「だって昨日使ったじゃん!!」
「最善の結果を出す為には必要があったからだ。特に必要性が無い今、使う意味は無い。そもそも昨日の件はお終いと朝に言わなかったか?」
「それはそれ、これはこれよ! 昨日みたいに暴走……するから使わないのかもしれないけど、使わないと暴走を防止する方法が見つけられないじゃない」
汐璃の言う事も一理ある。何かの危険性があった場合、放置していればその危険性は残ったままとなる。ならば試行錯誤を行い、その危険性を防止または抑制するべきではある。但し、それは誰にも危害が及ばない、もしくは自分にしか危害が無い場合の話だ。俺の場合はそこに当て嵌らないのだ。
「智守先輩……もし、暴走しても私や汐璃先輩が止めるよ? だって昨日だって私の声で元に戻ってくれたんだから」
二人からは俺の力を何とかしようとしてくれている意思が伝わってくる。その気持ちはありがたいのだが、それに応える事は出来ない。
「偶然だ。次もまたそうなるとは限らない。確実では無い以上、演習でリスクを取るわけにはいかない」
「や、やってみなくちゃ分からないでしょ!!」
「ならば聞こう。もし――俺が暴走した時、二人は俺を殺す覚悟で戦えるのか?」
「えっ……」
「迷い無く俺を倒す覚悟で力を向けられるか? 実戦と同じ様に――最悪の場合を想定して、自分が死ぬ覚悟をした上でだ」
「智守?」
「…………すまない、変なことを言った。忘れてくれ。どちらにせよ、俺は必要時以外は力を扱うつもりは無い」
困惑する二人を前にして、言葉を打ち切って視線を逸らす。こんな事を二人に言っても仕方の無い事だ。本当に厄介な問題が絡み合っていると自分でも思う。
「二人を信用していない訳では無い。信用しているからこそ、こう言っている」
「でも、納得出来ないわよ。せめてそうさせない理由くらい教えなさいよ」
「話を聞くくらいなら、私でも出来るよ?」
今回に限ってはしつこいくらいに食いついて来る。昨日の件はそれほど大きな物になってしまっているという事か。
さて、どうしたものか。納得させる理由を教えるという事は俺の過去から話さなければならない。二人にそんな事を話す理由も無いのだが、ここまで食いつかれると納得させた方が効率的ではある。
俺自身、話す事に何らかの意味があるならば問題ない。
ここまで気を使われるなら、いっその事全て話してしまった方が対応も変わる可能性がある。何よりも毎日の説教から逃れられる事が出来るかもしれない。だが、内容が内容だけに一般的には他人に話す部類ではない代物なのだ。
「きゃっ!」
「おっと……!?」
どうするかと悩んでいると、廊下の突き当たりで誰かとぶつかってしまい、ぶつかった相手は急な衝突にバランスを崩して、両手に抱えていた紙の束が辺りに散らばってしまう。
「すまない、考え事をしていてボーっと――神代?」
尻餅を付く相手へと左手を伸ばすと、ぶつかった相手はよく知っている人だった。
「蒼――――す、すみません」
俺の名を呼びかけた瞬間、神代はハッとして散らばったプリントを大慌ててで集めなおして、まるで逃げるように立ち去って行ってしまった。
「智守先輩、大丈夫?」
「あぁ……大丈夫だ」
「全く、気をつけなさいよね!! でも……意外ね。智守があの神代先輩を知ってたなんて。噂話なんて興味ないと思ってたのだけど」
汐璃の言葉が少し気にかかった。あの神代先輩という言葉に加えて、噂話――神代に何かあるとでも言うのだろうか。普段一人で中庭に居る理由も理解出来るかもしれない。
「どういう事だろうか?」
「だって智守、他人に全く興味ありませんって雰囲気オーラ出してるじゃん」
「違う。それではなくて、神代の噂話の方だ」
「えっ? 知らないの? 神代先輩の噂、結構有名よ? 何でも神代先輩って誰も寄せ付けない雰囲気出してて、話し掛けても適当にあしらわれるか無視されるから、氷のお嬢様って言われてるわよ。雰囲気に関しては智守も似た様なものだけどね」
「それだけなのか?」
「それ以外にも神代先輩に近付いたら、偶然か知らないけど亡霊に襲われた人が多いの。仲良くなったとしても、急にその人が神代先輩を避けるようになったり、ある事無い事……尾ひれが付いて今では誰も近付かなくなってる。ある意味、あんたと似ているわね。ていうか雰囲気も合わせてあんたと神代先輩、そっくりね」
「あ、その噂なら知ってるよ。一年生の間でも結構有名だよ。いつも一人で居て何考えてるか分からないとか、神代先輩が亡霊って噂もあるよ」
それは知らなかった。どうやら神代は学園内ではかなり有名人物のようだ。それも悪い方向で。だから中庭で一人に居たのだろう。誰にも邪魔されず、何も言われない――そう言った神代の言葉の意味がようやく理解出来た。
だが妙な話だ。その噂と俺が知る神代とは印象が違う。合致しているのは亡霊に襲われたという事くらいだが……偶然だろう。それに昨日の件は俺自身から関わった事だ。明確には襲われたとは言えない。
「………………」
神代が走り去った先を見つめながら考えていた。汐璃の言うとおり、俺と神代は他人にどうこう言われ続ける部分では似ている。だからだろうか――どうしても気になってしまう。
「すまない、二人共。一緒に昼食はキャンセルさせてもらう」
「ダメよ。神代先輩が気になるなら、私達も一緒に居させなさい」
「………………」
拒否から続いた言葉に思わず、目を見開いて驚いた。
「智守先輩、神代先輩を追おうとしたんだよね?」
汐璃の後に続く愛乃の言葉にも驚愕する。この二人は俺の心を読めるとでも言うのだろうか。それとも女の勘という奴なのだろうか。
「何ヶ月一緒に居ると思ってるの? 智守が噂を気にする人じゃない事くらい分かってるわよ。自分に対する噂や評価すら気にしてないんだから」
「それに、勝手な噂ばかり言われてる神代先輩……ずっと一人なんだよね? そんなの寂しくて嫌だよ。だから一緒にお昼に誘って、お友達になってあげたい! うぅん、友達になりたい!」
お人好しもここまで来ると呆れてくる。普通、奇妙な噂に対する人物には近付かないものだろう。いや……この二人がその普通に当て嵌まらないのは俺と三ヶ月も一緒に居る時点で分かりきっている事か。
「分かった。では二人の昼食は購買か食堂で買って行くとしよう」
神代本人は望まない事かもしれない。だが、この二人が友達になりたいと言うなれば、俺はその手助けをするまでだ。特にあの場所を教えるなとか、誰も紹介しないでとかは言われていない。
文句を言われて嫌われたならば、その時はその時だ。潔く、謝って二人を引っ張って連れて帰ればいい。
手軽に食べられるという事で購買でそれぞれの昼食を購入し、中庭へと向かう。昼間の中庭は真夏の太陽がギラギラと輝いていて、ここに居るだけで汗が流れ出てきそうになる。そんな場所に来た事で、汐璃と愛乃は暑苦しそうな視線をこちらへと向けてくる。
「ねぇ、何が悲しくて真夏の中庭に来なきゃいけないわけ?」
「あ、暑くて辛いよぉ……」
「少しばかりは我慢してくれ」
「って、そっち茂みじゃない。道外れてどこに行くつもりなのよ!?」
「神代の居る場所に決まっている」
「はぁ!? バカなの!? 智守、暑さで頭やられたんじゃないの?」
失礼な。俺はいつでも真面目だ。それに暑さでやられるような柔な体にはしていない。ここで押し問答をしても時間の無駄だ。むしろ変な集団と間違われかねない。汐璃の文句を無視して先へと進んでいくと、訝しげではあるが二人も俺の後を追うように付いて来ている。
小道を歩き、既に見慣れた開けた場所に出ると――予想通り、神代はそこに居た。居ない可能性もあったのだが、居てくれて少しばかりホッとした。もし居なければ汐璃と愛乃に何を言われるか分かったものではないからな。
「蒼月……また来たのね」
「先ほどはすまなかった。怪我はしていないだろうか?」
「大丈夫よ。もしかしてそれを言う為にわざわざ来たのかしら?」
「いや、今日は少しばかり物好きが神代に会いたいと言ったからだ」
「誰が物好きよ! 失礼ね!!」
「…………背後からいきなり頭を叩くのは失礼な行為だと思うのだが」
「失礼な発言をしたのは智守の方じゃない! あっ、ごめんなさい。えっと、初めまして。私、二年の愛葉 汐璃と言います」
「え、えっと! 私、一年の弓來 愛乃です!!」
「…………これはどういう事かしら?」
神代は状況を飲み込めていない様で、俺に説明を求めてきた。俺が神代の立場なら、そうするだろう。知り合って間もない奴に、知らない友人を紹介されたのも同然なのだから。
「説明する前に、一緒にお昼構わないだろうか?」
「…………構わないわ」
少し前までは一人、つい先日までは二人、そして今日は四人となり騒がしくなったこの場所でお昼を取る。
「――と言う訳だ」
「そういう事だったのね」
お昼を食べながら事の顛末を簡単に神代へと説明すると、何とか納得はして貰えた。
「智守が神代先輩が友達だったなんて意外だわ。ていうか、そうならそうと言いなさいよ!!」
「聞かれなかった事に答える必要性は無いだろう」
それに友達かと言われれば、微妙でもある。
「わ、わ、喧嘩はダメだよー! そ、それよりも私、神代先輩の事、知りたい!!」
「え……私の事?」
「うん!! だって、噂は知ってるけど、本当の神代先輩は知らないもん! だからいっぱいお話しようよ!」
「弓來さん……」
「愛乃でいいよ! 私、神代先輩と近付きたいから!!」
言葉としてはおかしいのだが、愛乃からは神代と友達になりたいという気持ちは強く伝わってくる。それを前にして神代はどうすればいいか分からない様子だ。その気持ちはよく分かる。俺も初めて愛乃と会った時は真っ直ぐすぎる気持ちを前に戸惑ったものだ。
「違うでしょ、愛乃。こうして一緒にお昼を食べて、楽しく話しているんだからもう友達よ」
「そっか! そうだよね!!」
「え、えっと……私は……」
勝手に話が進んでいく状況に神代の入り込む隙が無くなっている。こうなってしまえば、何を言っても覆る事は無い。この二人を前にこの流れは俺ですら流されるままになってしまうのだ。
「この二人は見ての通り、お人好しだ。だから純粋に神代の友達になりたいと思っている。それに応えるかどうかは神代が決めるんだ。と、俺が偉そうに言う事でも無いのだがな」
「蒼月……」
「俺は、二人から聞くまで神代の噂の存在すら知らなかった。だが昨日言ったように、他人は他人。自分は自分だ。噂を知ったとしても、俺は神代に対して何かが変わる訳でも、変わるつもりも無い」
「よく真面目な顔でそんな事言えるわね……聞いてるこっちが恥ずかしくなるじゃない」
俺の言葉に何故か汐璃が恥ずかしそうにしながらそう告げたのだった。よく見れば愛乃も頬を赤く染めて俯いている。
「単に俺の意見を言っただけだ」
「と、ともかく!! 神代先輩。私は噂なんて気にしません。智守だって、色々言われてるけど気にせずに付き合ってますし、えぇっと……その上手く言えないけど……ありのままの神代先輩と友達になりたいです」
「私も!! 汐璃先輩と同じ意見だよ!」
「………………ありがとう。私なんかでよければ、よろしくね――愛乃、汐璃」
「うん! 私こそよろしくね! 神代先輩!!」
神代は微笑んでゆっくりと頭を下げた。愛乃は神代の返事を聞いて大喜びだ。だが何故だろう――俺と初めて会った時と同じ様に神代の眼がどこか寂しげなのは。
何か思う所でもあるのだろうか。とは言え、気付いているのは俺くらいだ。汐璃と愛乃は気付いた様子がないなら、無意味に自分から触れにいくものでもないか。
「そう言えば、神代先輩の下の名前って何ていうんですか? 名字じゃなく名前で呼んでみたいです」
「榛奈よ。蒼月には良い名前って言われたわ」
「ちょ、ちょっと智守!! 榛奈先輩に何を言ってるのよ!!」
「率直な感想を言っただけだが?」
「神代先輩。智守先輩と何時どうやって知り合ったの?」
「つい先日よ。気分転換にここで歌を歌ってたら、蒼月がそれを聞いてここに来たの。綺麗な歌って言ってくれたわ。それがきっかけね」
「そうなんだ!」
「ま、またあんたは……どうしてそんな恥ずかしい事をズバズバ言うのよ」
「恥ずかしい事を言ったつもりはない」
「私も蒼月の発言には驚かされてばかりよ」
神代までそう言うのか。さすがにこうも続けて恥ずかしい事を言っていると言われれば、自分の言動を改める必要があるのかもしれない。しかし、どこをどう改めれば良いのかがさっぱり分からない。だからと言って、聞くのもどうかと思う。自分の事は自分でしなければいけないのだから。
そんなこんなで、昼食も終えた頃には神代もすっかり打ち解けたのか汐璃と愛乃と楽しく会話を続けていた。女性が三人寄れば姦しいというが、正にその通りではある。最近のファッションやらで盛り上がってすっかり会話に入り込めなくなってしまっている。少し前にも同じ事があったような気がするな。
「あ、そうだ!」
不意に汐璃が手を合わせて声を上げた。何かを企んでいるのか、俺を見てニヤリとしていた。
「榛奈先輩も智守に何か言って下さい。智守ったら、この学園に居るのに力を使わないのよ」
「…………そうなの?」
「何度説得しても自分で完結させちゃうし、理由を聞いても話してくれないの」
なるほど。先ほどの企みはこれか。神代を使って、俺を説得。もしくは聞き出そうとしたわけか。無関係の神代まで巻き込むことは想定外ではあった。
「そうなんだよ……何か抱えてる問題があるなら、力になりたいのに……智守先輩、いつも言葉だけで終わらせちゃうんだ」
「でも……無理に聞く事では無いと思うわ」
神代も二人に賛同するのかと思いきや、飛び出たのは全くの逆の意見。むしろ俺の意見に近いものだった。
「誰にだって話したくないことはあると思うの。力になりたいという気持ちは分かるけれど、しつこいのも逆効果と私は思うわ。それに、皆が皆……力を好き好んでいる訳ではないわ」
「そう、なの?」
「誰もが望んで適心者になった訳ではないわ。望んでいなくても、適心者になる人は少なからず居る。でも、話すことで楽になる事もあるわ。だから蒼月も話したくなければきっぱりと最初から突き放した方が良いと思うわ」
「突き放したが、この二人は変わる事は無かった」
「あ、あら……?」
神代の意見は間違ってはいない。しかし、それが通じるならば俺もここまで苦労はしていない。何が悲しくて毎日説教をされなければいけないのだ。
(話す方が楽になる――か)
話せば今後、説教をされる事もなくなる。それに力の事で俺に構う事も無くなるだろう。それに廊下で二人と話していた時に話そうかと考えても居た。汐璃と愛乃ならば、他人に言い回す事も無いだろう。
「そうだな。この際ハッキリさせておこう。力を使わない理由――知りたいなら話そう」
「どういう風の吹き回しよ!? 榛奈先輩に言われから?」
「違う。先ほど廊下で話していた時に考えていたことだ。汐璃も愛乃もしつこい程に俺に気を使って構ってくる。だから俺もそれに応える必要があるのではないのかと――な」
「しつこくて悪かったわね……」
「但し、条件がある。今から話す事は二度と触れない事。言い回さない事だ。これから話す事は一般的に誰にも話すべきでは無いものだ」
「分かった。約束する」
「蒼月。私、邪魔だったら先に失礼するけれど……」
「神代が聞きたいと思うならここに居れば良い。神代に限らずだが、もしも聞きたくない、条件を守れないならば今すぐここから去れ」
皆を見回すが、誰一人としてこの場から立ち去ろうとはしなかった。条件を了承したと見ていいだろう。
「まず、俺の力を使わない理由だ。汐璃と愛乃は知っていると思うが、俺は力を使うと我を忘れて暴走してしまうからだ」
「暴走……?」
昨日の事を知らない神代は当然の様に聞き返してくる。神代の為にも一から説明しておく必要があるな。
「ゼロ・オブ・ハートブレイドを発動した場合、俺は常に心と理性を力に蝕まれる事になる。それが一定のラインを超えると、理性が飛んでしまう。これが暴走の原因だ。暴走を止めるには俺の周囲に何も居なくなるか、俺の意識を完全に飛ばすしかない」
「昨日、智守が智守らしくない行動をしたのはそれのせいなのね。暴走を止める方法も分かった。でもそれで使わない理由には繋がらないわよ」
「二つ目の理由としては俺が持つ能力が原因だ。愛乃は疑問に思わなかったか? 何故、自分が傷ついたのかと」
「? それは智守先輩の力が強かったからじゃないの?」
包帯を巻かれている場所を指しながら言葉を続ける。
「通常、適心者が力を扱っている場合は心力で守られて、致命傷を避けるようになっている。つまり鎧を着ているのと同じなのは知っているな?」
「う、うん……授業で習ったよ」
「俺の能力は――それを無視してしまう。触れる物、全てを傷つけてしまう」
「えっ!? じゃ、じゃあ智守の前では心力は無意味って事!?」
「その通りだ。だから暴走してしまった場合、大きな危険性が発生してしまう。これで俺が力を使わない理由は納得してもらえただろうか?」
「理由は分かったけれど……そもそも、どうして暴走するのよ? 適心者になった瞬間から、そんな暴走の危険性があった訳じゃないんでしょう?」
「勿論だ。暴走に至る原因はもう十年以上も前に遡る。とある日、俺と俺の家族はゼロ・オブ・ハートブレイドを扱う何者かによって襲われた。その結果――俺はゼロ・オブ・ハートブレイドと共に右腕と家族を失った」
「「「っ!?」」」
三人が一斉に息を飲んだのが分かる。端的に説明して良かったと思う。もしも、詳しく何が起こったか説明していれば、息を飲むだけではすまないだろう。
「ちょ、ちょっと待って!! ど、どういうことなの!?」
「言葉通りの意味だ。その日、俺は右腕ごと力を破壊されて、両親を失った――探せば当事の詳細が掛かれた事件データが出てくるだろう」
「待ってよ……いきなりすぎて頭が追いついていかないわよ……」
「…………一度、力を壊されれば心も一緒に破壊されて、二度と力を扱えない筈よ」
混乱する汐璃を横目に神代がそう聞いてくる。冷静そうに見えるが、その声は震えている。最年長だからと必死に感情と頭を落ち着かせているのかもしれない。
「そうだ。その筈だった――が、俺の力は存在していた。しかし、俺の力は篭手の形を持つ。その篭手を装備する右手は失われて、すぐに扱う事は出来なかった」
「失ったって……蒼月の右手はそこにあるわ」
「肘から先は義手だ。左手と同じ様には扱えるが、神経や血液は通っていない」
「そうだったの……義手と言う事は頻繁に点検をしているの?」
「いや、これは特別性だ。俺が右手を失った時、偶然にも近くに適心者を診る事が出来る医師が居た。その医師は心力に適合する義手を俺に接合した。だから心力を通じて、ある程度は成長に合わせて義手は伸縮されて、心力に適合するからこそ義手が媒介でもゼロ・オブ・ハートブレイドが扱える」
「……凄い医師も居たものね」
今でもそう思う。その医師が居なければ、俺は力を扱う事も出来ないのだから。一度、会ってお礼を言いたいのだが、連絡先も分からないままだ。その上、あの時の事件に関わった警察等、関係者に医師の事を聞いたのだが誰も知らないと言うのだ。
名も顔も知らぬ相手にお礼を伝えると言うのは不可能に近い話だ。全てが落ち着いた後に探し回ったものだが、今では諦めに近い物となっている。
「…………でっ……何でっ!! 朝、ちゃんと触った時……智守先輩、の……手、暖かかった……っ!!」
神代の質問に答えていると、愛乃は涙を零しながら、俺の右手へと触れてきた。手に触られている感触は分かるのだが、愛乃の小さな手の温もりは感じることは無い。
「二の腕までは血が流れていて、体温もある。熱伝導で暖かくなっているだけだ」
「ぐすっ……智守先輩……っ、悲しく、ないのっ……?」
「分からない」
愛乃の縋るような言葉に俺はそう答える事しか出来ない。否、それ以外に答える言葉を持ち合わせていない。
「ゼロ・オブ・ハートブレイドが壊されれば心も壊される。幸いにも全壊で廃人状態にはならなかったが、俺の心は破壊された。その影響で俺には感情と言うものが理解出来ない。無論、全ての感情が……という訳では無いが、それでも多くの部分が失われている。だから今、愛乃が泣いている事も理解できない」
「そんなっ……!!」
「いつも、堅い事ばかり言うのは……それが理由だったのね……」
「俺は感情的に物事を捉える事も、動く事もできない。そうしようとしても、どうすればいいか分からない、結果的にはその場で行える現実的な最善の行動を取る事しかできない」
汐璃も愛乃の様に今にでも泣き出してしまいそうではあった。だがここまで来たら構わずに最後まで話を続けていく。
「心から生まれる力――ゼロ・オブ・ハートブレイド。俺の心は半壊状態のまま。感情も理解できない。一度は破壊された力。力の発動場所は人工物。恐らくそれらが合わさって暴走の理由となっていると俺は考えている」
「……どれだけ……どれだけ背負ってるのよ、智守は。何で、そんな事を……一人で抱え続けて、そんな風に居られるのよ!」
「俺にとってはただの記憶でしかない。過去があったから現在がある――その程度の認識だ。とりあえず一通り説明はし終えた。何か聞きたい事があるならば、今の内に聞いてくれ」
俺の言葉に答える声は上がらず、暗い空気と愛乃が泣いている声だけが辺りに響いていた。そんな中、一番初めに言葉を上げたのは俺の手を握りながら泣く愛乃だった。
「智守、先輩……もう、心……治らないのっ……!?」
「分からない。治るかもしれないし、治らないかもしれない。下手をすれば更に壊れていく可能性もある」
心とは精神的概念。それ故にどうなるかは医者ですら分からないものだ。ただここ十年以上、変化が無い事から見て治る可能性は非情に低いだろう。
「…………決めた」
腕で涙を拭って、真っ赤に腫れた愛乃の眼が真っ直ぐと俺を向いた。
「私っ、智守先輩の心……治してあげたい。だからっ、だから……! 一人で抱え続けないで……!!」
「愛乃……?」
心を治してあげたい――そんな事を言われたのは、初めてだ。今日の朝の会話でも、愛乃は俺が予想していない事ばかりを口にする。
「そうよ……その通りよ。まだ可能性がゼロじゃないなら、治せるわよ!」
「…………汐璃まで」
「一気に衝撃的な事を聞かされて、頭が混乱してまだ現実味が無いけど……智守は智守だから。蒼月 智守って言う人が変るわけじゃないから……だから、覚悟しなさいよ」
理屈になっていない二人の言葉。一体何を覚悟しなければいけないのだろうか。だが……俺に心を取り戻させたいという意志は伝わってきた。
「…………お人好し、お節介焼きにも程があるぞ」
「智守みたいな人は放っておけないの! 今みたいな話を聞いたら尚更!!」
「こういう時、この言葉を使うのだろうな――ありがとう」
「と、智守がお礼を言った!?」
「何故、そこまで衝撃を受ける?」
「あはっ、あはは……だって、智守先輩……いっつも失礼な事ばかり言ってるからだよ」
「む……そうなのだろうか?」
「そうよ! だからまずは言葉遣いから矯正しなきゃね!!」
先ほどまで暗く、辛い空気が一転して笑いに変わった。まだ涙は残っている。だが、そこに悲しみはもう存在していなかった。
「神代?」
視線を感じて、そこへ眼をやると神代がずっとこちらを見つめていた。
「………………あ、な、何かしら?」
「俺の顔に何か付いているのだろうか? 先ほどから視線を感じるのだが」
「あ……ごめんなさい。蒼月の話を聞いて、少しボーっとしちゃってたみたい」
「仕方のない事だ。普通はそう言った反応を示してしまう筈だ」
「………………えぇ」
俺の話を聞いてボーっとしていたと言ったが、未だに神代から意図的な視線を感じるのは何故だろうか。この視線は変な物を見るものでもなく、軽蔑のものでもなく、同情でもない。では一体何の視線なのだろうか……神代の事はよく分からない。
「そろそろお昼休みも終わる時間だろう。教室に戻るとしよう。今日話した事は、引き摺るのは今日までにしておいてくれ。長くとも数日以内だ。ずっと引き摺られて中途半端になってしまうのは好きではない」
今日までや数日以内と言ったのは、頭の整理が出来ていないからと思ったからだ。壮絶な事実を知って、数時間や数分で整理をつけるのは、一般的には無理な話だ。
「蒼月……!」
「何だろうか?」
教室へ戻る為に立ち上がった瞬間、神代に呼び止められる。最初に出会った時とは逆の立場だ。
「…………何でも無いわ。急に名前を呼んでごめんなさい」
開いていた口を紡いで、そう言い残してから神代は先に校舎の方へと戻っていった。何かを話そうとしていたのは分かったが、口に出さなかったという事は改めて俺が聞くわけにも行かない。
気にはなるが、神代が次に話してくれる時まで待つとしよう。
「智守、愛乃。私達も行きましょ」
「了解した」
「うん!」
昨日の件と俺の過去を知っても、変わることの無い距離感。汐璃も愛乃も俺には勿体無いくらいの素晴らしい心を持っていると思う。もしも、俺に二人の様な心があったならば――どうなっていたのだろうか。柄にも無くそんな事を考えてしまうのだった。




