心の力
心――それは、人の内部の奥深くにあるもの。精神。中心。心臓。多くの意味を持っている精神的概念。それを物理的に証明するのは可能であり、不可能だ。
何故、矛盾した言葉になるか――それは物理的証明をする為に、真っ先に出るのは感情だからだ。感情は心の現われとも言う。だがしかし、感情がそのまま心を表しているとは誰も証明できない。例えそれが自分自身だとしても。
一つ例を上げるならば笑い。その人が笑う感情をしていたとしても、心の奥では笑っていない可能性はゼロでは無い。周りに合わせて、もしくは胸の内に笑いとは違う何かを秘めてそれを隠すために笑っているだけなのかもしれない。
人の心と言うのは暖かく、優しくもあるが……冷たく、残酷でもあるのだから。
だから俺は心の断片を物理的に証明出来てしまうこの世界に存在する力が好きでは無い。人の心から生まれる力は……いつか必ず、誰かを傷つけてしまうのだから――――
「ちょっと智守!! 何しているのっ!?」
少女の声に現実へと引き戻され、閉じていた瞼を開ける。すぐ傍には肩甲骨辺りまで伸びる栗色のサイドポニーを揺らす少女――愛葉 汐璃が、二つの白銀の剣を手に構えながら険しい表情を浮かべていた。
汐璃から視線を逸らして、視界に目の前の光景を映す。広がる景色は荒れた荒野。起伏が激しく、見通しが悪い。
「智守先輩……ど、どうするの!?」
前の方で二つに括られた長い金色の髪を揺らす少女――弓來 愛乃が後方から駆け寄って来た。愛乃の小さな手には自分の背丈よりも一回りも大きい鋼鉄のライフル銃が支えられている。
「………………」
二つの視線に見つめられながら、冷静に現状を判断していく。
今、俺達は岩陰を背に隠れている。岩陰から顔を覗かせれば、一つ奥の山の頂上から拳銃、槍、楯を持った三人の生徒がこちらへと突っ込んできている。
高低差はあちらが上で、こちらが下。つまり不利。そして岩陰に隠れているが故に、あちらに対して直線的には動く事ができない。つまり一旦、移動を挿む必要がある。それには大きな隙を晒す事になる。
だがあちらには遠距離からの攻撃手段を持たない。正確には拳銃と言う射撃武器はあるのだが拳銃と言えど、移動しながらの正確な射撃は達人でも厳しい。その証拠に楯を持つ奴が先陣として突っ込んで来ている。
だが……こちらが動かなければ岩陰の頂上――つまり真上からの連撃を行われてしまう。そのまま反撃したとしても楯に阻まれてしまう。動いたとしても移動と言う大きな隙が発生する事により、拳銃の牽制から楯と槍の挟撃。
相手の動き、特性、こちらの選択肢――それらを噛み合わせながら脳内で動きを描いていく。
「…………愛乃はここから飛び出して、ライフルで拳銃を持つ奴を狙撃。汐璃は愛乃が二回射撃後に、双剣を利用してこの岩山を登って楯へ突っ込め」
「はぁっ!? 無茶言わないでよ!!」
「だがこのままではこちらが負ける」
導かれた選択肢は相手の裏を掻くこと。動かないままで居ると不利ならば、動いて少しでも最善の結果を引き寄せる。
指示に対して汐璃が不満をぶつけて来るが、俺の言葉を前にして口を噤む。
「あぁ、もう……分かってるわよ! このままジッとしてたら負けるんでしょ? やればいいんでしょ? やれば!」
「智守先輩、その後はどうすればいいの?」
「いつも通り、自己判断で行動してくれ」
「わ、分かった! それで、智守先輩はどうするの?」
「…………いつも通り、結果を見届けるだけだ」
「っ、だから何度も言っているけど――」
「押し問答は後だ。今は、目の前の相手に専念する――違うか?」
「…………終わったら覚えておきなさいよ!!」
愛乃への答えを前に汐璃が怒りを露にするが、切羽詰っているこの状況を前に、文句を投げ捨てて汐璃は行動に移った。
「いっけえええええ!!」
汐璃が動いてすぐに愛乃は岩陰から飛び出した。轟音の射撃音と共に音速の弾丸が、拳銃を持つ生徒へと突っ込んでいく。
予想通り、弾丸から仲間を守る為に楯が弾丸を防ぐ。続く二射撃目も難なくといった様子で防ぎながら前進してくる。音速で飛び出す大口径の弾丸を受け止めて、怯まないあの楯には素直に賞賛を送りたい。
だが賞賛を送るのは楯の強度のみだ。それ以外――周囲の状況に対する即興の判断や行動に対しては無しだ。
「はぁっ!!」
「っ!?」
唯一の遠距離攻撃を持つ愛乃が岩陰から飛び出した今、何か動きがあるまで行動出来ない筈――と相手は考えていただろう。だから相手は愛乃へと専念する為に、こちらが隠れていた岩山から愛乃へと進行方向へ変える。
だからこそ――双剣を足場として岩山を登り、頂上から飛び出してきた汐璃に対して、楯を持つ生徒は目を見開いて驚愕していた。
横から飛び出してきた汐璃へと対応する為に、相手は楯で汐璃の双剣を受け止める――だがそれは失敗策だ。汐璃に対して対応したという事は、味方への防衛を御座なりにすることに繋がる。
「きゃぁっっ!!」
それを狙ったように愛乃の弾丸が拳銃を持つ生徒を捉え、強大な威力を持つ弾丸は、その生徒を後方へ吹き飛ばす。
「なっ……しまっ――」
味方への被害を前にして楯が狼狽する。そして、一気に突っ込んで来ていたあちらの連携が崩れる。
「くっ……!!」
体勢を立て直そうと、楯のすぐ後ろに居た槍を持つ生徒が、汐璃へとその槍を突き出す。リーチが違う槍と双剣。それだけで考えるならば、圧倒的に槍が有利ではあるが、それは一対一のみでの話。
「遅いっ!!」
汐璃は突き出された槍に対して、楯へと斬りかかっていた双剣の片方を移動させて弾いた。槍はリーチがある。更にはその形状上、有効な攻撃部分は先端のみ。それ故に連続的な攻撃が出来ない問題点がある。ならばそこを突く他は無い。
側面から大きく弾かれた槍は切っ先の向かう先を強制的にずらされる。それは次の攻撃態勢に移るどころか体勢を崩す結果となる。その隙を汐璃が逃す筈も無い。跳躍し、楯を飛び越えて止めの斬撃を食らわす。
「あがっ……!!」
そして、汐璃へと向いた楯も背後からの愛乃の狙撃により行動不能となる。
『演習終了。全員行動不能により、チームBの敗北。チームAの勝利です』
その瞬間、機械音が響き渡り目の前に広がっていた荒野が消え去る。次に現れたのは無機質な淡い水色をしたコンクリートの一室。足元には機械で円の外枠が作られ、その中はうっすらと光輝いていた。それが等間隔で五つ並んでいる。
これ等は先ほど戦っていた演習場への転送装置。一般的に考えるならば、普通に移動すれば良いのではと思う。
だが演習場には心力を流用し、特別な保護を行わせている。その保護があれば演習で大怪我を負っても実際には怪我を負っていない事にはなる。この装置は転送装置でもあり、同時に転送者に対して保護も行う装置である。
しかし、保護があるとは言え痛みを全く感じないという訳でもなく、肉体の疲労や損傷は存在する。一歩、足を踏み出すと身体に疲労が圧し掛かって来る。演習とは言え、数十分にも及ぶ戦闘後は、戦わずともそれなりの体力を消耗してしまう。戦いの中に存在する独特の空気に触れるとはそういうものだ。
「ちょっと待ちなさいよ!!」
休息を取る為に部屋から出ようとした瞬間、汐璃の声によって止められる。振り向けば両手を腰に当てて仁王立ちになっている汐璃と、あわあわと慌てふためいている愛乃の姿があった。
「何だろうか?」
「終わったら覚えてなさいって言ったでしょ! 忘れたとは言わせないわよ!!」
「あわわ、汐璃先輩落ち着いて!!」
つかつかと汐璃が俺に歩み寄って来る。愛乃はどうすればいいか分からないといった様子で行き場の無い両手を空に揺らしながら一緒に歩いて来ていた。
「どうしてゼロ・オブ・ハートブレイドを使わないのよ!? これは力を使いこなせる様になる為の演習なのよ!?」
「別に強制して使えと言われてる訳じゃないだろう。それに力を使う事だけが全てではない」
「それはそうだけど、だからって使わなかったらいざという時、使いこなせないかもしれないじゃない!!」
「そのいざという時に合わない様に行動はしている。自分に不向きな事に足は突っ込まないのが心情だろう」
「あぁもう、どうしてあんたってそう淡々としてるのよ!!」
「…………すまない。性格なものだからな。気を悪くしたなら謝る」
「あ……べ、別に悪いって言ってる訳じゃないけど……もっとこう……明るく行こうよ。愛乃みたいにさ」
「えっ、私?」
きょとんとしている愛乃を少し見つめてから結論はすぐに出た。俺に愛乃の様な明るさや元気を真似するのは不可能だと。だが馬鹿正直に告げてしまえば、また面倒事になる為、遠回しに答えるとしよう。
「気が向いたら努力はしてみよう」
「そう言って、智守が努力した験しが無いんだけど?」
自分が出来る事は努力しているつもりだ。だが汐璃の眼にはそうは移らないという事か。まだまだ努力が足りないという事だろう。もしくは自分が出来ない事は一切努力しないが為に、その部分が目立ってしまっている可能性もあるか。
「ねぇねぇ、智守先輩。その……ゼロ・オブ・ハートブレイドを使わないのに理由があるなら、相談に乗るよ?」
「その気遣いだけもらっておく」
「何か私と愛乃の対応に温度差が感じられるんだけど?」
「頭ごなしに突っ掛かれれば、さすがに暖かい対応をしろというのは難しいだろう……ともかく、何度も言うが俺は力を――ゼロ・オブ・ハートブレイドを使うつもりは無い。その代わり、二人の足は引っ張らないし、全力でサポートする。それで譲歩してくれないか?」
「嫌よ! 力が使えないって訳じゃないんだから、譲らないわよ!」
「あぅぅ……ま、またこの展開だよぉ……」
このままでは拉致があかない。面倒になる前に退散するとしよう。
「あ、ちょっとどこに行くのよ!!」
「俺たちのチームの演習は今ので終わりだ。一足先に休ませて貰う」
汐璃の引き止める声と、汐璃を落ち着かせようとする愛乃の声を背に俺は部屋を後にした。
◆
静まり返る廊下を一人で歩く。途中で購入したキンキンに冷えたドリンクを喉に流し込むと、演習で火照った身体を冷やしていく。正に至福の瞬間だ。
「静かだな」
汐璃と愛乃が追って来るかと思ってはいたが、追跡は無く一安心だ。恐らく諦めたか、待機室のモニターで他の演習試合を見学でもしているのだろう。そのおかげで俺は一人、静かな時間を過ごせている。とは言え、またお昼時になれば説教をされるのだろう……それを考えると幾分か憂鬱ではある。
「…………力を使え――か」
――――ゼロ・オブ・ハートブレイド。
強き心を持つ者だけが扱える、心から生み出される力。心は精神的概念であり、ゼロの存在とも言える。そこから生み出されるは力……つまり剣だ。心を剣として体現するこの力はそう名付けられたのだ。
力を持つ者には『心力』という力を宿す。心力は単純に言えば、ゼロ・オブ・ハートブレイドから生まれる気みたいな物であり、心と力を繋ぐ回路でもある。その為、ゼロ・オブ・ハートブレイドが何らかの理由により適心者から離れれば回路が断たれた事となり、力は消え去ってしまう。転送装置での保護もこの心力を応用利用している。
回路の役目でもある心力を体内に流していても、格段に身体能力が強くなるわけでもない。ただ普通の人とは違い、あるラインまでの身体の損傷を防いではくれる。
心力は使用者の身体の防護に加えて、そのゼロ・オブ・ハートブレイドと深くリンクする。これにより、多少のダメージは無効化してくれる上で、力に振り回されることも無い。愛乃が自分よりも一回り以上も大きいライフル銃を軽々と扱えていたのもそれが理由だ。
強き心から生み出された力は強大であり、無限の可能性を秘めている。人が心から折れない限り目の前の壁へ何度でも立ち上がるように、この力も心の強さでどこまでも成長する。そして、使用者の心と共にその姿形を変えていく――正に一心同体の能力。
小さな子供がテレビのヒーローに憧れ、自分もヒーローの様になりたいと思っただろう。自分の力で誰かの役に立ちたいと。この力はその憧れを叶えるものだ。身体能力も無く、意気地が無くとも、心の強さがあればそれを力として現せら戦えるのだから。
誰しもが憧れるゼロ・オブ・ハートブレイド。その力にも幾つかの欠点はある。
まず欠点の一つとして、強き心を持たなければ扱うどころか、力そのものが存在すらしないこと。心の強さの境界線は誰にも示す事ができない。
心など、その人が持つ感情であり、世界であり、その人自身なのだ。明確にはこの力が扱える条件など無い。ただ一つ――強い心、意志を持つ人の一部が選ばれて扱えるという曖昧にしか一般的には伝わっていない。
その為ゼロ・オブ・ハートブレイドを扱えるという事は特別な存在となり、力に目覚めた者は『適心者』と呼ばれる。
つまり、心から力を欲しても絶対にゼロ・オブ・ハートブレイドを扱える訳では無い。どれだけ強い心を持っていたとしてもだ。その辺の原因解明は熱心な研究者や野心家のお仕事。俺には無関係の話だ。
そして二つ目の欠点――それはゼロ・オブ・ハートブレイドが心から生み出される力という事実だ。その理由は心にある。
考えてもみて欲しい。世界に生きる人、全員が完全に綺麗な心を持っているだろうか。答えは子供でも分かる――否だ。完全に綺麗な心を持つ人ばかりならば、犯罪などは存在しない。心には綺麗な部分もあれば、汚い部分もある。光が闇無く存在出来ず、闇も光無くは存在出来無いのと同じ様に。
心から生み出される力を目の当たりにして慢心、欲に溺れる奴は少なくは無い。故に力を利用した犯罪は後を絶たない。
その為に存在するのが適心者の登録制度。及び専門教育施設での教育制度だ。ゼロ・オブ・ハートブレイドに目覚めた適心者は国へと登録する義務がある。そして、専門教育施設に入らなければいけない。
適心者を登録管理する事により、犯罪の予防及びゼロ・オブ・ハートブレイドを使用した犯罪者へ対しての迅速な重い罰則。専門教育施設に入る事で正しき心と力の使い方を学ぶ事で犯罪の予防が狙い――と国は掲げている。無論、それだけではイメージが悪くなりかねない。そうならない様、国は登録した者に対して生活の保障や優遇権を与えている。
登録制度はともかくとして専門教育施設は名前だけを聞けば物騒だが、その中身は普通の学園と到って変わらない。
普通の学校と同じ様に同年代の奴と一緒に過ごしていく。普通と違うのはゼロ・オブ・ハートブレイドを正しく扱う為、力に関する授業と、先ほど行っていた演習――実技演習があるという事だ。
俺も義務に従い、全国各地にある専門教育施設の一つ――ここ、七里学園へと入学し、日々ゼロ・オブ・ハートブレイドを正しく使う為に学業に勤しんでいるのだが、力を使わないが為に汐璃に説教される毎日だ。
「そろそろ諦めてはくれないのだろうか……」
溜め息と共に思わず本音が零れてしまう。他人から見れば俺は不真面目な生徒なのだから仕方ないとも言える。
今までは不良の様に、腫れ物の扱いで俺に関わろうとする奴は居なかったのだが……幸か不幸か汐璃と知り合ってしまった結果――ほぼ毎日、何かしらの説教される日々だ。
どうにかならないのかと項垂れながら行く先も決めずにぶらぶらと廊下を歩いていると、不意に何かの音が耳に届く。物が落ちた音でも、授業中の先生や生徒の声でもない。
(これは…………?)
静かな空間に透き通る様な音――歌だ。何故、学内で歌が? 音楽の授業から生まれたのではない。もしそうならば、もっと複数の音で騒がしいものだ。耳にかすかに聴こえる綺麗で吸い込まれそうな歌は生まれない。
気がつけば俺はその歌に誘い込まれるように歩いていた。歌を頼りに歩き続けると中庭へと出た。だが見た限り中庭には人っ子一人居ない。だが歌は先ほどよりも大きくなっている。
「こっち側……か?」
歌が聴こえる方角を頼りに歩くと、中庭の道から外れて茂みの中へ入ってしまった。しかし確実にこっちの方で誰かが歌っている。季節は夏、生い茂る草木を両手で掻き分けながら進んでいくと、やがて開けた場所に出る。
「――――――」
そこには一本の大きな木が生えていて、差し込む夏の日差しを葉が遮り美しいカーテンとなっている。その根元でそよ風に長い銀色の髪をサラリとなびかせる女性が座り込んでいて、静かに歌を歌っていた。正確には鼻歌に近い感じではある。
女性の周りには野生の小鳥達がちょこちょこと跳ね回っていて、一種の演奏会場となっていた。美しいその光景を前に思わず息を呑んでしまった。
「ら~らら~……」
女性は俺に気付いた様子も無く、自分の世界に入って透き通る歌を紡ぎ続けていた。
身に纏うのは純白と蒼に彩られた七里学園の夏制服。胸元にはタイリボン。フリルがあしらわれる蒼のラインが入ったプリーツスカートとニーソックスの間からは眩しい太股が覗いている。
触れれば壊れてしまいそうな――そんな錯覚を覚えるくらいに儚い美しさ。遠い空を見つめながら歌う彼女にそんな感想を抱いたのだった。
それはどこか自分に似ていた。何かを前にして、何かを諦めてしまっている自分と。
「…………誰?」
無意識に一歩、足を踏み出してガサリと大きな音を出してしまった。小鳥達が一斉に飛び去り、女性が歌うのを止めてこちらへと振り向きばっちりと目が合う。薄茶色の瞳は訝しげに俺を見つめてくる
「私に何か用?」
「いや……歌が聴こえきて、それを辿ったらここに辿り着いた。隠し聴きしていた事は謝る。邪魔をしてすまなかった」
「……………………」
俺の弁明に女性は眉を顰めている。どうやら気を悪くさせてしまったのかもしれない。
「どうして歌を辿ってきたの?」
文句を言われると思っていたのだが、飛び出した次の言葉は予想とは違うものだった。呆気にとられるがすぐに彼女の問いへと答える。
「綺麗だと思ったからだ」
「え?」
「綺麗で吸い込まれそうな歌声。不思議と惹き込まれた。誰が歌っているか、正体を知りたかったからだ」
俺の答えに彼女は呆気に取られながら、頬を染めながら目線を逸らした。
「き、綺麗って…………」
「? 素直な感想を言っただけだ。何故、照れる必要がある?」
「男の人にそんな風に言われれば、照れるものよ」
「ふむ、そうなのか? これからは注意するとしよう」
素直に褒められたならば、誇って良いと思うのだが照れるものなのか。男の俺には理解できない代物であり、変に触れてしまえば厄介事になるもの――女心という奴なのだろう。
「そうなのかって……貴方、変わってるわね」
変わっている――そうだ、俺は変わっている。何せ……小さい頃の出来事が原因で心が壊れているのだから。普通の人が当たり前と思っている事も俺には分からない。
当たり前に在る物が、俺には存在しない。全てが全てという訳では無いが……それでも、普通の人に比べればおかしい存在。他人から見れば変わっているのも当たり前だ。
とは言え、それを正直に彼女へとそれを説明する利点も理由も無い。ここはそれとなく流す事にしよう。
「よく言われる」
「ふふふ、変な人」
口に手を当てて彼女は小さく笑った。何故笑ったのか……俺には理解出来ない。だが、その笑顔がとても美しいと思えた。世間一般では可愛い、美人と言われるのだろう。
「一つ、お願いがあるのだが……もし良ければ、歌を聴かせてもらえないか? もう一度、傍で聴いてみたい」
「…………えぇ、構わないわよ」
断れるかとも思ったが、彼女は快く頷いてくれた。そして先ほどと同じ様に胸に手を当てて、空を見上げる。
「ら~……ら~……」
静寂の後、流れ出すは透き通る声。そよ風に乗って彼女の歌声が響いていく。それは何もない小さな場所で太陽に向かって歌う一輪の向日葵。聴けば誰もが聴き惚れるだろう。見れば誰もが見惚れるだろう。
しかし、美しさの裏には儚さがあった。先ほど、俺が抱いた感想は錯覚ではない。今、確かに儚さを感じ取れるのだ。何故、美しさの裏に儚さがあるのか理解できない。美しさの裏にあるのは汚さだ――心と同じ様に。
きーんこーんかーんこーん。
「…………あら、そんな時間なのね」
その疑問は鳴り響くチャイムによって終わりを告げた歌と共に消え去った。チャイムが鳴ったという事は授業が終わったという事。つまりは昼休みに入ったという事になる。どうやらそれなりの時間をここで過ごして居た様だ。
「俺の我侭で時間を取らせてすまなかった」
「気にしないでいいわ。私の歌を綺麗って言ってくれたお礼よ」
「そうか。む? しかし、君は何故授業中にも関わらずこんな場所で歌っていた?」
「それを言えば、貴方もでしょう? お互い様という事にしましょう」
さり気なく話題を終わらせたという事は触れられたくはないと見た。ならば彼女の言う通り、お互い様と言う事にしておこう。
「それじゃ、私はこれで失礼するわね」
静かに立ち上がり、彼女がこの場所を後にしようと目の前を横切った瞬間――口を開いていた。
「名前」
「?」
「名前……聞かせてくれないか?」
「神代。三年の神代 榛奈よ」
キョトンとした後、どこか寂しげな眼で神代は答えた。しかし、一つ年上だったとは気が付かなかった。だがどこか大人びた雰囲気を漂わせているの事に納得がいった。
「神代 榛奈か。良い名前だな」
「え……あ…………」
神代は何故か驚いた表情を浮かべていた。何か間違った返事をしてしまったのだろうか。もしかして、神代が言っていた男性に言われれば照れてしまう発言をしてしまったのかもしれない。
「すまなかった。どうやら俺はまた神代を照れさせてしまう発言をしてしまったようだ」
「えっ? ち、違うわ。そうじゃなくて……えぇっと、貴方の名前は?」
「俺は二年の蒼月 智守だ」
「……年下だったのね」
「もしかして言葉遣いが気になるのか? 気になると言うなら敬語や先輩呼びをするが……」
「気にしてないわ。そのままで大丈夫よ」
「そうか。それは助かる。どうにも敬語は使い慣れなくてな」
敬語を意識的に使っても、すぐに普段の口調へ戻ってしまうくらいには苦手だ。
「神代はよくここに居るのか?」
「どうしてそんな事を聞くの?」
「もしそうならば、またここに来ても良いだろうか?」
何故、こんな事を口走ったのか自分でも分からない。だが不思議と神代と話していると自分の中の何かが凄く軽くなる。それに、神代の事をもう少し知りたいと思っていたのも確かだ。
「…………えぇ、構わないわ。私がここに居るって約束は出来ないけれど」
「分かった」
「それじゃあ、私はこれで。またね、蒼月」
小さく手を振ってから、神代は再び背を向けて歩き出して行った。その先には人一人が通れるくらいの小さな道があった。
どうやら神代は茂みを掻き分けてここに来た訳ではなく、あの道を歩いてきたのか。今度からはあの道を利用させてもらうとしよう。
「さて……と」
ポケットから携帯を取り出すと案の定、着信と新着メールの通知が何件も表示されていた。どちらとも汐璃と愛乃からで、大方昼休みになったが為にお昼のお誘いだろう。面倒だが無視をしては更なる面倒になるので、大人しく誘いに乗るしかない。それに、好意を無下にするつもりもない。
肩を竦めてから神代が消えた道を覚えるように歩き、俺もこの場所を後にするのだった。
◆
「遅いっ!!」
多くの学生で賑わう食堂に着いて、丸テーブルに座る汐璃と愛乃を見つけたのだが、飛んできた第一声は怒りの文句だった。
「大体何してたのよ! 連絡しても出ないし、帰って来ないし!」
「すまなかった。少し取り込んでいたのだ」
「大丈夫。気にしてないよ。汐璃先輩が怒ってるのは、皆で一緒に食べたいって思ってるけど、智守先輩が乗り気じゃないかだよ」
「あ、愛乃! 余計な事は言わなくていいの!!」
「はーい」
真っ赤になって怒る汐璃を前に、愛乃は無邪気に返事をしていた。さすがの汐璃も怒りの行き所を無くしたのか、納得がいかない様子ではあるが怒りを鎮めていった。
「待たせたお詫びとして、デザート奢ってよね」
「了解した」
乗り気じゃない理由は事在る毎に説教をする汐璃自身にあるのだが……突っ込めばやぶ蛇になるだろうな。ここは大人しく汐璃の要求に応えてご機嫌を取るとしよう。
それに料理を頼んで待ってくれていたので、料理は少し冷めてしまっている。連絡にも出なかったそのお詫びとしてもだ。
「それじゃ、いっただきまーす!」
「いただきます」
愛乃の元気な挨拶を合図にして、昼食に手を付ける。
「あ、そうそう。忘れない内に伝えておくわね。次のお仕事だけど、二週間後になったから」
「二週間? また随分と間が空くのだな」
「一週間は空いても、二週間以上空くのは珍しいよね」
「何かスケジュールの調整で、幾つかのチームは長い期間を空ける必要があるらしいの」
「なるほど。理解した」
専門教育施設には学業とは別にもう一つの顔がある。それは自警団としての顔だ。
幾ら国が予防策を作ったとしても、犯罪が減る訳では無い。心から生まれる力の前には文章だけの法など無意味に等しい。文字だけで完全に人の心を縛れるならば、この世界はとてつもなくつまらないものになっているだろう。
犯罪の予防策として専門教育施設ではチーム制度がある。三人以上の複数人からなるチームを学生で作り、実技授業や自警団の活動をする事になっている。
自警団の仕事はローテーションが組まれており、どこかのチームが毎日と言う訳ではなく定期的に回ってくるシステムになっていて、学生の体力や精神を考慮している。今回、仕事の周期が大きく開いたのはその辺に調整を加えた為だろう。
チームメンバーは入学時期の四月と半年後の十月にランダム選出が行われ、割り振られる。それで作られたチームが気に入ったならば、固定チームとして活動。気に入らない、もしくはもっと多くの人と付き合いたいという人はランダム選出枠に登録することになる。
俺は力を使わないという事から去年の入学から今年の四月までどこへ行っても煙たがられていた。本心としてはチーム制度など勘弁願いたいのだが、決められたルールには従わなければならない為、ランダム選出枠に登録。そうして今年の四月で選ばれたチームメンバーと言うのが目の前の二人。
四月の選出で知り合い、今は七月頭。知り合ってから三ヶ月近くになるのだが、未だに俺はこの二人に対してよく分からないという感情を抱いている。
「ねぇ、智守。どうしてゼロ・オブ・ハートブレイドを使わないのよ。愛乃も言ってたけど、何か抱えてるなら相談くらいには乗るわよ?」
「…………気持ちだけ頂いておく」
「毎回そればっかじゃない! いい加減、何か解決策くらい取りなさいよ!! 何もしなかったら、何も変わらないのよ?」
汐璃は俺と同い年。チームになってから同じクラスだと言う事を知った。俺よりも少し小さく、女性的に成長している体は一般的な男性にとっては目のやりどころに困ってしまうだろう。
俺自身は特に目のやりどころに困る訳ではない。話す時は相手の目を見て真っ直ぐ見ればいいし、意識をそちらにやらなければ済む話だ。
ただ……俺にとって問題なのは性格だ。一言で言えば生真面目。その性格故に不真面目な俺には納得がいかずに説教の毎日。その結果、今年も去年と同じ様に煙たがられ孤立するのだろうと思っていたが、現実は全くの逆となった。
「…………すまない」
「べ、別に攻めてる訳じゃ無いのよ。ただ、智守はかなりの戦術眼を持っているし、冷静だから……力を使いこなせたら、その手で多くの困ってる人を助けられるじゃない。だから、その……真面目に頑張りなさいよ」
栗色のサイドポニーを揺らしながら、汐璃はそっぽを向きながら呟く。その頬は若干赤みが掛かっており、そっぽを向くのは照れ隠しなのだろう。現にちらちらと深紅の瞳がこちらをチラチラと見ている。
(素直なのかそうじゃないのかどっちなのだ……)
完全に生真面目で堅物な奴ならば、授業以外では付き合うつもりはない。だが、汐璃はそうではなく、ちゃんと人に気遣いは出来るし、機転も利かせられる。説教も人をしっかりと見た上で励ましや後押しとして言っている。今だってそうだ。ただその言葉が率直できついのがたまに傷だ。
「力を使うだけが全てではない。それを導く者も必要だ。この学園みたいにだ。そっち方面に力を入れるのは悪い事ではないだろう?」
「そ、それは……そうだけど……」
「もー、二人共! お昼くらいはそんな話は止めようよ! もっと明るい雑談とかお話の方が楽しいよ!!」
俺と汐璃の会話に業を煮やしたのか、愛乃が頬をぷくーっと膨らませて間に入り込んできた。
愛乃は今年から七里学園に入学した新入生で一つ年下。チーム内では明るく元気で素直な性格に加えて、俺の胸くらいまでしかない小柄な身体も相まってマスコット的存在になっている。チームと言ってもこの三人しか居ないのでマスコット的存在も無いのだが、そういった方がしっくりとくる。
今時珍しいくらいに純真で素直な愛乃は俺と汐璃が言い争うのが嫌いで、毎回間に入ってくる。ただ、止め方が分からなくてオロオロとする事も多い。今みたいに、感情を露にするのは珍しいことだ。どちらにせよ、そんな愛乃を前にしてしまうと俺も汐璃も悪い事をしている気分になってしまう。
「ご、ごめんなさい……」
真っ直ぐ見つめてくる碧眼を前にして耐えられず、ばつが悪そうに汐璃は頭を下げて謝った。
「いや、俺も配慮が足りなかった。だから愛乃も落ち着いてくれ。汐璃も俺を思っての事だ」
「うん、分かってる。だから授業以外で言い争いはダメ! 休み時間くらい、楽しいお話しようよ」
「だが……生憎と俺が話せる楽しいことなど無い」
「……智守。もっと学生らしい事に目を向けなさいよ。あんた、私か愛乃が誘わないといつも一人じゃん。本ばっか読んでて根暗だと思われるよ?」
「何を言う。本は知識の宝庫だ。それを閲覧するという事は多くの観点や考え方を知るという事だ。根暗とは失礼な」
先人たちの言葉は役に立つ、立たないよりも、知識の幅となるのだ。今時の学生は本をあまり読まないと聞くが、実に勿体無いと思う。
「でもでも、もっと街に出掛けたりした方が楽しいよ?」
楽しい……か。俺にはよく理解出来ない事だ。いつも一人で居るのもそれが理由だ。自警団としての仕事が無い生徒の多くは放課後に遊びに出かけている。一部は学校に残って雑談をしたり、家に帰って自分の好きな事をしているが――それも楽しみの一つだろう。
一度、どんな感じなのだろうかと一人で街に繰り出してみたのだが、全く面白みが感じられなかった。明確な目的無く街を散策する事は楽しいというよりも、自由な一人の時間で過ごしやすいというのが印象だ。間違いなく愛乃が言う楽しさとは別物だろう。
「俺にはいまいち分からないものだな」
「だったら、今日一緒に三人で遊びに行こうよ!」
「わ、私も!?」
「ダメ? 今日は自警団の仕事は無いよね?」
「だ、ダメじゃないけれど……今日いきなりってのは厳しいわよ」
その場のノリでいきなり遊ぶと言うのも学生の醍醐味だろう。だが、人には予定と言うのも存在する。それが入っているのか、汐璃は渋っていた。
「じゃあ今週末はどう?」
「それなら大丈夫よ」
「智守先輩は?」
上目遣いに愛乃に尋ねられて返答に困った。愛乃の碧眼は期待で水平線の様にキラキラと輝いていて、愛嬌のある笑顔を浮かべている。
断るか誘いに乗るか少し悩んだが、特に断る理由が見付からなかった。それに以前街に出掛けた時は一人だったから理解できなかった。だが誰かと共に行けば愛乃の言う楽しさが分かるのかもしれない。
「構わない」
「ダメよ、愛乃。どうせ智守は断――えぇっっ!?」
俺の返事に何故か汐璃が信じられないという表情を浮かべて驚愕した。
「何故、そこまで驚く」
「だ、だって智守……私が休日に誘っても、一緒に来る事無かったじゃない! ま、まさか愛乃だから良いって言ったの!?」
「落ち着いてくれ」
何やらとてつもない勘違いをしているのか、汐璃は暴走気味になっていた。別に愛乃だからと言って構わないと返事をしたつもりは無い。
俺は七里学園に入る際に故郷を離れた為、学園敷地内の学生用男子寮に住んでいる。その為、家事や掃除もしなければならない。山積みになっている本の消化もしたい。予定が詰まっていたからこそ断っていただけだ。
今回、構わないといったのは山積みの本も家事もある程度片付いているからに過ぎない。後は――一般的には気まぐれという奴だ。それに街に遊びに行くなら新しい本を買う事も出来るからだ。
「今週末は予定に余裕があるからだ。それ以外に理由は無い」
「それじゃ決まりだねっ!! 楽しい事、いっぱい教えてあげるね!」
「当日になって約束破らないでよ、智守」
「俺はそこまで無計画な人間ではない。一度約束した事はしっかりと守る」
それからどこへ遊びに行くかとか、新しい店が出来たとか話が盛り上がったが、一向に俺は付いて行けなかった。だからと言って話題に付いていく為に、わざわざ一般の学生が好む物に目を向けるつもりはない。どうあっても理解が出来ない結果が見えてしまっているのだ。
「あ、新しいことと言えば、最近また亡霊の活動が活発化してきたんだって」
「そうか。もしかするとスケジュールの調整は亡霊が原因なのかもしれないな」
「ねぇ、ねぇ。亡霊ってよく耳にするけれど一体何なの?」
「そっか、愛乃はまだ一年だから詳しくは知らないわね。実はこの街は不定期に亡霊が現れるのよ。夕暮れ以降に現れる正体不明の存在。全身に黒いローブを羽織っていて、人かどうかも分からない」
「そ、そんな人……? が居るんだね。な、何だか怖いよ」
愛乃の気持ちはよく理解出来る。人は、不明確な物に対して嫌悪感を抱くものだ。俺とて例外では無い。
「実際、生徒の間では恐怖の対象になっている。何せ、亡霊はゼロ・オブ・ハートブレイドを使って、他人のゼロ・オブ・ハートブレイドを破壊しているのだからな」
「ゼロ・オブ・ハートブレイドを破壊!? そ、それって……心も一緒に破壊されちゃうんだよね!?」
俺の言葉に愛乃は怯えて泣きそうになっていた。
「智守! 愛乃を怖がらせたらダメじゃない!!」
「…………俺は事実を言ったまでだ」
「あんたは事実を率直に言いすぎなの! 大丈夫よ、愛乃。亡霊に力を破壊されても、心までは破壊されないの」
「どういうこと……?」
「一般的に、何らかの要因で力が破壊されれば、使用者の心も壊されてしまう。けれど、亡霊に力を破壊されても、何故か壊されるのは力だけ。心は無事なのよ」
「……恐らく、ゼロ・オブ・ハートブレイドの能力だろう。亡霊は心とゼロ・オブ・ハートブレイドを繋ぐ心力を壊していると考えられる」
汐璃の説明に補足する様に付け加える。
ゼロ・オブ・ハートブレイドは心を力にするだけではなく、何らかの能力を持っている事がある。例えば、迷い無い強き心を持つ者は、高強度で絶対に壊れない特性を持つ――の様にだ。
「そうなんだ。ちょっと、安心した。心が無くなるなんて……怖いし、嫌だよ」
「………………」
怖くて、嫌――か。俺も心が壊される前はそう思っていたのだろうな。心が壊されてしまった今となっては分からない。壊される寸前までの状況は脳に焼き付いていて今でも覚えている。しかし、その時の自分が何を思っていたのか……全く分からない。
「だが実際、被害は学園の生徒にも出ている。それ以外にも学園を卒業した大人、力を持つ犯罪者等――見境無くだ。学園内では学校の怪談の様な雰囲気で話されているが、警戒しておくに越した事は無い。夕暮れ以降には一人で出歩かない等だ。それに心が無事でも、力は無くなってしまう。そうなれば学園にも居られなくなる」
「そ、そっか……力、無くなっちゃったら、学園に居る意味ないもんね」
「はい、暗い話はここまで。今からはもっと明るい話に戻りましょう」
言い出しっぺは汐璃だろうと喉まで出かかったが、言い留まる。下手に突っ込めば、力とは別の意味で説教をされるだろう。空気が読めないとか気を利かせろとか――分かっているならば踏み込まないのが自分の為だ。
(…………亡霊か)
生きている誰かが姿を隠して亡霊に扮装しているのか、それとも誰かの無念な心が思念となって存在しているのか分からない。だが力を使って、力を滅ぼしている。
どんな意図があっての行動なのだろうか。もしも、意図が聞く事が出来るならば、聞いてみたいものだ――…………。
◆
明くる日、午前の授業が終わってから直ぐに中庭へと向かった。汐璃と愛乃には事前にお昼の断りを入れてある。これで後から言及される事は無いだろう……恐らく、多分。自信が無いのは汐璃のお節介根性があるからだ。物事を断定出来ないと言うのはもどかしいものだ。
中庭の道から外れ、記憶を頼りに茂みの中にある小道へと向かう。小道が見付からずに、少しばかり茂みの前をふらふら歩きながら何かを探し回る不審者となったが、何とか小道を見つける事が出来た。小道を少し歩くと、大きな木が聳える開けた場所に出る。そこには昨日と同じ様に神代が座っていた。
「こんにちは」
「こんにちは。まさか本当にまた来るなんて……物好きも居たものね」
「生憎と、俺はその物好きに属する人だ。とは言え邪魔ならば帰るが……」
「邪魔も何もないわ。そもそも、この場所は誰かのものでも無いわ。だから立ってないで、座ったら?」
「分かった」
「…………隣に座るの?」
「? 問題あるのだろうか?」
「…………特に無いわ」
何故、隣に座った事を疑問に思われたのだろうか。神代は特に問題ないと答えた事を考えると……単に気まぐれの類での質問だろう。
それから暫く静寂が訪れる。ここは校舎から離れている上に周囲が木々に囲まれているおかげか、お昼休みの賑やかなざわめきがほとんど聞こえない。流れる風の音とそよぐ葉の音色だけがあった。こうして静かな自然の音を聞き続けていると、不思議と落ち着いた気分になる。
くぎゅるるるる……。
「………………」
「………………」
自然の音に混じって、力が抜けるような音がすぐ隣から響いた。
「俺が隣に座ったことで、お昼のタイミングを逃してしまったのだろうか?」
「っ、うぅ~~…………」
俺の指摘が当たっていたのか、神代は真っ赤になって唸った。声にならない声とはこういうものを指すのだろう。
「すまなかった。気を利かせられずに、迷惑を掛けてしまった……もう少し配慮するべきだった」
「い、いえ……気にしないで」
「そうか。腹が空いているならば俺に構わず昼食を取っても構わない」
神代が気にし過ぎない様に俺は弁当箱を開けて昼食を取る。それを見た神代は諦めたように溜め息を吐き、傍に置いてあったバスケットからサンドイッチを取り出して、小さく頬張る。
「ずっとチームメンバーと食堂で昼食を取っていたが、こうして静かな自然の場所で食べるのも良いものだな」
「そうね……誰にも邪魔されずに、何も言われないから」
「それは暗に、俺が邪魔で黙っていろと言っているのか?」
「別にそういった意図じゃないわ。ただ単純に、周囲の噂や評価とかが聞こえてこないから良いって言ったの」
神代の表情に影が落ちた気がした。単純に考えてみれば、神代の様な綺麗な女性がこんな場所に一人で居るというのも妙な話だ。神代にも色々と事情があるのだろう。
「俺には神代にどういった事情があるのかは分からない。だが一つ勝手な助言をするならば、他人の評価など気にしなければ良い」
「え?」
「神代は周囲の噂や評価と言った。つまり神代はそれを気にしてここに居るのだろう?」
「………………」
返答は無しか。だが否定をしないという事は肯定したと受け取って良いだろう。
「他人の言葉など、結局はそいつが見た価値観から生まれたものだ。自分と他人――価値観が全部同じというのは有り得ない。どんな事を言われようと、自分は自分でしかない」
周囲から不真面目、怠け者と言われようと、俺は自分を曲げる事はしない。他人がそういった評価を下したとしても、そうならざるを得ない理由や抱える物が存在しているのだから。
「今のは勝手な俺の想像から生まれた独り言だ。全くの見当違いかもしれないその独り言をどう受け止めるかは神代の勝手だ」
「…………ありがとう」
「何故、お礼を言う? 俺は独り言を言ったまでだ」
「さっき勝手な助言って言ったじゃない」
「む…………」
言われて見ればそうだ。俺としたことが誤魔化しを失敗するとは……神代と話していると、どうも調子が狂う。
「他人がどう言おうと……自分は自分か。ふふ、そんな事思いもしなかったわ」
それだけ普段の俺の思考がズレてしまっているという事だろう。もしくは価値観の違いと言える。
「蒼月は左利きなのね」
「……それがどうかしたのか?」
「いえ。左利きの人ってあまり見ないから」
「日本人の大半は右手が利き手だからな。右利きの人が利用する事前提で作られている物も多い。ただ俺は厳密には左利きではなく、両利きだ。特に不便を感じたことはない」
「器用なのね……気になってたけど、その弁当って蒼月の手作り?」
「あぁ。自分で作ったものだ」
「そうなの? 料理が出来るなんて蒼月は凄いのね」
「当たり前の事だ。寮生活とは言え外食や食堂ばかりに頼っていては、家事が疎かになる。規則正しい生活と健康は、自分に合った落ち着いた環境があってこそだ。それに凄いと言っても神代のサンドイッチも手作りだろう」
「でも蒼月に比べたら見劣りしちゃうわ。私も寮住まいだから頑張っているけれど……寮生活をしている人は料理も頑張ってしているの?」
「さてな。他人の私生活にはあまり興味が無い」
さっきから物凄く興味深そうに神代は俺の弁当へと視線を向けている。神代は普通に会話をしていて気付かれていないと思っているかもしれないが、バレバレである。
如何せん、こう弁当に視線を向けられたまま食べ続けるというのは居心地が悪い。
「そんなに気になるなら、一つ摘まむか?」
「えっ!? き、気にしてなんかいないわ」
「視線を弁当に向けているのは分かっている。誤魔化さなくてもいい。それにさっき気になってたと言っていただろう」
「そ、そう……それじゃあお言葉に甘えて――でも私だけというのも悪いから、蒼月もどうぞ」
そう言って神代は俺の方にバスケットが差し出してきた。バスケットの中には色とりどりの具が挟まれたサンドイッチが綺麗に並んでいて、どれもこれも食欲を誘う。
人からの好意は素直に受け取るもの――その中から適当に一つ手に取って、口に運ぶ。
「ど、どうかしら?」
「美味い。少なくとも市販されているものより格段に美味しい」
「そう……良かった。でも褒め言葉としては微妙ね」
俺の感想を聞いてホッとしたのか、神代は肩から力を抜いていた。
「それはすまなかった」
「気にしてないわ」
「では、次は神代の番だ。好きなのを取っていい」
「こう美味しそうだと悩むわね……それじゃあこれを貰うわ」
ふらふらと指を迷わせた後、神代が取ったのは弁当の定番とも言える唐揚げだった。白い指に摘ままれた唐揚げが、その指と共に口の中へ入っていく。
「っ!? お、美味しい!!」
「お気に召したなら何よりだ」
人に自分が作った料理が美味しいと言われると不思議だ。心が温まると言えばいいのか……自然の音を聞いていた時とは違う落ち着いた気分になる。
「ねぇ、蒼月はどうしてこの学園に入学したの?」
昼食を進めていると、不意に神代が突拍子も無い話題を放り投げてきた。意図が掴めずに呆気に取られてしまう。
「あ、答えたくなければ答えなくてもいいの。少し気になっただけだから」
俺の反応を察してか、神代は慌ててそう言ってきた。何故、神代はそんな事を聞いてきたのか。その質問の答えを聞いて、何の意味があるのだろうか。
全く分からないが、神代にとっては何かしらの理由があるのかもしれない。それともただの気まぐれか――どちらにせよ、俺は問われた事に対して率直に答えるだけだ。
「義務だからだ。適心者は教育施設に入る決まりだろう。それ以外に理由は無い」
「それだけなの?」
「それ以外には何も無い。夢も、目的も、意味も……俺には無い」
欲しいと願っても見出せない物――そういった物に対しては興味すら沸かない。理解しようとしても理解できない。言葉での意味は理解出来る。しかし、その言葉に秘められた中身はどうあっても分からない。
「だから俺は――亡霊と同じなのかもしれないな」
「亡霊……」
「すまない、変なことを言った。忘れてくれ」
「…………えぇ」
話している内に弁当もバスケットも空っぽになり、気まずい空気が流れる。こういう所が空気を読めていないと汐璃に言われる原因なのだろう。
「理由など人それぞれ。俺にはその理由が無いだけ。ただ流されるままに生きているだけだ。あまり気にしないでくれ」
「………………分かったわ。そろそろお昼休みも終わるわね」
「もうそんな時間か」
神代の言葉に携帯のディスプレイを見るとお昼休みが終わる寸前の時間になっている。次は普通の座学授業だから多少遅れても問題ないが……それでまた汐璃に文句を言われるのも面倒だ。早目に教室へ戻るとしよう。
「最後、変な空気にしちゃってごめんなさいね」
「いや、大丈夫だ」
その言葉を合図にこの場所から離れて、神代とは中庭で別れる。別れ際、神代の表情はどこか浮かない表情を浮かべていた。それは先ほど影が落ちたのと似ているものだった。
(…………人は誰でも何かを背負って生きている――か)
いつか何かの本に書かれていた言葉が頭に浮かぶ。
神代も人には言えない何かを背負っているのだろう。だからこそ、あの場所に一人で居た。背負う物が為に最後の質問をしたのかもしれない。これは心の問題である上に、確証も無い。うかうかと他人が踏み込んではいけない領域だ。それは自分が一番理解している。
「…………しまった」
そんな事を考えていると無慈悲な機械音が響き渡る。午後の授業の始まりの合図だ。考え事を振り切って、駆け足で教室まで向かう。授業が終わった後、汐璃には遅刻した理由をしつこく聞かれたのは言うまでも無い。
◆
「ふわあぁ……すっかり日が暮れてしまったな」
西の空を見上げると橙に染まる空と地平線の向こうへと沈みゆく太陽が輝いていた。本来ならば既に帰宅している筈なのだが、うっかりと寝すぎてしまって今に至る。
午後の授業は昼食後。午前に実技授業もあったので教師の言葉は子守唄だ。授業内容も退屈で、隠す素振りもせずに机に突っ伏して眠りに付いた。無論、汐璃には何度も起こされたが、妙に意固地になってしまい意地でも寝続けてやろうと思った結果が、放課後になっても放置である。自業自得とも言えるが、仕方ない。
その上で帰り際に中庭に寄ったのも一因だ。案の定、神代は居なかった為、無駄足だったが。
(…………何故、俺は神代に会おうと思った?)
ふと疑問が浮かび上がり、動かしていた足が止まる。俺は神代と会ってどうするのだ? これと言って用事も理由も無い。わざわざ自分から会いに行く理由も無い筈だ。今日の昼休みだってそうだ。昨日、また来てもいいかとは言ったが約束したわけではない。
ただ歌が綺麗で惹かれたから会いに行った――違う。だったら昼休みに会った時、昼食を取らずに歌を聞かせて貰えば済んだ話だ。話題が出し辛い空気と言うのもあったが、言おうとすれば簡単に言えた筈だ。
だが、俺は言わなかった。俺らしくない……これが汐璃や愛乃が相手だったならば適当に話題を切って、そう告げていただろう。
いや、そもそも……俺は同じチームメンバーでもある汐璃と愛乃以外の奴には関わりはしない。利点が無く、ただ面倒しか存在しないのだから。今では違うが、知り合った当初はただ同じチームだから会話はしておく必要があるから関わっていただけだ。
つまり何の接点も無く、偶然出会った神代に自分から関わっているという事実そのものが俺らしくない。
「誰だ……汐璃?」
悩みを吹き飛ばすかの様にポケットに突っ込んでいた携帯が震える。手に取ると汐璃から電話が飛んできていた。一体何の用だろうか?
「もしもし」
『もしもし? ちゃんと起きれたのね。寝心地はどうだったかしら?』
「からかう為だけに電話したなら切るぞ」
『待って待って! 切らないでよ!?』
電話越しに慌てた汐璃の声が響いてくる。という事は本題は別にあるという事だろう。
『智守、今どこに居るの?』
「帰り道だ。正確には校舎から数分の場所だ」
『なら良かった。今からこっちが指定する場所まで来て貰える?』
「理由は?」
『ちょっとしたいざこざがあって、解決はしたんだけど人手が欲しいの』
「何故俺に――」
そういう事は警察に任せておけばいいだろう――と思ったが、あの汐璃が通報をしないというのは有り得ない。だがそうせずに俺に連絡して、人手が欲しいと告げた事から考えると……なるほど、力のいざこざか。
「…………今日は見回りの日ではないだろう」
『帰り際に見つけちゃったんだから仕方ないでしょ! それとも当番じゃないから見過ごせって言うの? そもそも自警団だって学生が主なんだから穴くらい出来るわよ! それをフォローするのも私達の役目でしょ?』
「分かった分かった。すぐに向かう。すぐにその場所を送ってくれ」
『あっ、ちょ――』
説教が本格的に始まる前に言うべき事を告げて、問答無用で通話を切る。真面目なのは良い事だが、人が良過ぎてお節介すぎるというのも考えものだな。
少しすると汐璃からメールが届く。中を開くと指定場所が書かれていた。この場所は……商店街から少し離れた路地か。
何故、そんな場所に偶然居合わせたのかという疑問もあるが、これ以上汐璃を怒らせない為にも迅速に向かうとしよう。
◆
「もうっ!」
智守にメール送ってから汐璃は当て場の無い怒りを表していた。どうして智守はいつも不真面目でやる気を出さないのか。頑張ればかなりの力を持っているのは普段の指示や成績からでも容易に想像がつく。だからこそ汐璃は毎日の様に智守にやる気を出させようと説得している。
「お、落ち着いて汐璃先輩……智守先輩だって悪気がある訳じゃないから」
「分かってるわよ……」
愛乃に宥められて少しばかり汐璃は落ち着いた。最早このチームにとって愛乃はマスコット的存在ではなく、欠かせないチームメイトだろう。
今、汐璃と愛乃は商店街から少し離れた路地でゼロ・オブ・ハートブレイドを発動させている。その周囲には良い見た目とは言えない三人の男達が意識を無くして倒れ込んでいる。
二人は放課後、商店街に寄っていた。その最中に見ただけでチャラチャラとしている男達に囲まれた挙動不審な女子学生を見つけた汐璃は愛乃と共にこっそりと後をつけた。そうして辿り着いたのは、人気の無い路地。そこで男達はゼロ・オブ・ハートブレイドで女子学生に対して恐喝を行った。
力による犯罪は力を持つ者でしか解決出来ない。ごく普通の一般人にとって、ゼロ・オブ・ハートブレイドに敵う力は無い。普通の一般人である女子学生は何も出来ずに、男達の要求に従うしか出来なかった。その光景を前にして汐璃はすぐに飛び出して男達に対して説得を行った。が、力を犯罪に使う男達に説得が通じるわけも無く、襲い掛かられる事となる。仕方なく正当防衛としてゼロ・オブ・ハートブレイドで戦って今に至る。
「あ、あの……私はいつまでここに……」
「ごめんなさいね。本当ならすぐに家まで送ってあげたいけど、この男達を放置出来ないからもう少しだけ我慢してね。後ちょっとしたら知り合いが来て、貴方達を送り返してあげれるから」
「は、はい」
不安がる女子学生に対して、優しく微笑みながら汐璃は事情を説明する。意識を失っているとは言え、男達の人数は三人。万が一に全員が目を覚ましたとしても、汐璃と愛乃ならば難なく相手できる人数ではある――が、どちらかが欠けてしまえば厳しいものとなり、女子学生を送る為にどちらかがこの場所を離れる事は危険を晒す事になる。
女子学生を安全の為に家まで送り届ける必要があるが、僅かなリスクを見逃す事はできず男達の傍から離れる事も出来ない。一応、自警団に連絡はして、応援を送ると通達されたが、いつ応援が来るかも分からない。
個人的に他の見回りのチームへと連絡する方法もあるにはあるのだが、仕事用の携帯型無線端末機を持っていないので今日はどこのチームが見回りとしているのかが分からずにこの手段が取れない。
その結果、今取れる最善で最速に人手を増やす策として汐璃はすぐにでも呼び出せる智守へと連絡したのだった。
「それにしても……どうして力を正しく使えないのかしらね。納得がいかないわ。ね、愛乃?」
「………………」
「愛乃?」
「あ…………あぁ……」
返事が返って来ない愛乃を不審に思った汐璃は愛乃の方へ振り向くと、愛乃は信じられない物を見たという目をしながら震えていた。
「っ…………!!」
愛乃の視線を辿っていくと、汐璃はまず自分の目を疑った。目を擦ってもう一度、そこへ目を向けると――ソレは変わらずそこに居た。
ソレはボロボロの黒いローブが全身を覆っており、人の形をしているは確か。だが、まるで生気が感じられず実態があるのかどうか、生きているのか死んでいるのかも分からない。ぱっと見では噂通り、人かどうかなのかが分からなかった。
「…………亡霊」
汐璃自身、いつかは会うかもしれないと覚悟はしていた。しかし、いざ遭遇してみると例え様の無い不気味さが冷静さを無くしていく。愛乃は昼休みに聞いただけで怖がっていたのに、こうして亡霊を目の当たりにしてガクガクと全身を震わせている。それは女子学生も同じで、恐怖で腰が抜けたのか尻餅を付いていた。
「っ!!」
「わぁっ!?」
ゆらゆらとローブを漂わせながら佇んでいた亡霊が汐璃達へと突っ込んできた。汐璃は咄嗟に両手を埋らせているゼロ・オブ・ハートブレイドを解除し、愛乃を抱えて飛び退く。亡霊は二人には見向きもせずに倒れ込む男達へと向かい、どこからともなく現れた剣を男達に突き刺していく。
刺された男達の身体からは一瞬薄っすらと光が浮かんだと思えば、泡の様に弾けて消えた。その光を見て、汐璃は亡霊が力を破壊したのだと理解した。このまま去ってくれれば――と淡い期待を抱くが、ゆらりと振り向く亡霊がその期待を打ち壊す。
「…………愛乃、大丈夫?」
「な、何とか……で、でも……どうするの?」
愛乃に見つめられながら汐璃は必死で頭を回転させる。男達は力を破壊された。だから男達に構う事はもうしなくても良い。今、最優先でする事は女子学生と共に亡霊から逃れて、無事に家まで送り届ける事。しかし、それを行う為の有効手段が思いつかない。
「…………っ」
こういう時、智守ならばすぐに最善の策を告げてくれる。だけど智守はここには居ない。今までどれだけ智守に助けられてきたか、改めて汐璃は実感する。
まだ智守がここに来るまで時間がある。それに自警団に応援が駆けつけてくれている。それまでは自分達だけでどうにかしなければならない。
「…………愛乃、戦うわよ」
汐璃が出した答えは立ち向かう事だった。汐璃は智守の様に正確な判断を下す事はできない。自分に出来る最善の事をする、この選択は正解と言えるだろう。
「えっ、で、でも……」
「戦わないと、次は私達の力まで破壊されるわ。それに、亡霊の目的は適心者の様だから、あの子は大丈夫よ」
いつの間にか女子学生は路地の壁に寄り添うように倒れていた。亡霊がこっちへ向かってきたという恐怖が限界に達して気を失ったのだろう。亡霊は気絶する女子学生に見向きもせず、汐璃と愛乃の方を向いていた。
「戦うって言ったけど勝たなくてもいい。あの子と一緒に逃げればそれで大丈夫。手伝ってくれる?」
「う、うん……分かった」
キュッと拳を握り締めて愛乃は汐璃から離れて、ゼロ・オブ・ハートブレイドを発動する。それに続いて汐璃も二つの剣を手の中に現させる。
「私が隙を見て、あの子を抱えてみせるから愛乃は援護射撃をお願い!」
地を蹴って、汐璃は双剣を構えながら亡霊へと姿勢を低くしながら突っ込んでいく。後方からは愛乃が亡霊にライフルの銃口を向けている。汐璃と亡霊の距離が後少しになった瞬間、愛乃はトリガーを引いた。
「えっ!?」
亡霊の反応を前に愛乃は驚きの声を上げた。狙われた側は普通ならば回避か防御をする。しかし、愛乃のライフル銃の弾丸は目にも止まらぬ速さでもあり、大口径。以前、演習で戦ったガチガチの防御特化の楯でも無い限り、防御するのは難しい。
故に亡霊も弾丸を避けると踏んでいた。避けた所を汐璃が追撃を掛ける。これは普段の演習でも行う連携だった。今回もその連携を狙ったのだが――あろうことか亡霊は軽く剣を振って弾丸を斬った。
普通ならば反動や衝撃があるにも関わらず、亡霊は微動だにしていない。更に低位置から振り上げられる汐璃の双剣を剣で受け止め、力任せに振り払う。低姿勢だった為、耐える事が出来なかった汐璃は振り払われた勢いを利用して後方へ跳躍する。
「な――――」
着地の瞬間、汐璃の目の前には亡霊が迫っていた。
「汐璃先輩!!」
愛乃は咄嗟に照準を修正してトリガーへと指をかけるが、それを引く事は出来なかった。ライフルは基本的に中遠距離で有効となる武器。現状では亡霊との距離があまりにも近すぎる。その上、亡霊までの短い射線上には汐璃が居る。迂闊に撃ってしまえば、汐璃への誤射の可能性があったからだ。
幾ら心力の保護があろうと、衝撃までは保護する事はできない。至近距離でライフルの弾丸が当たれば、死にはしなくとも無事では居られない。
「あぅぅっ!!」
亡霊は汐璃の横を通り過ぎて愛乃へと剣を振るう。剣は愛乃のライフルを捉えた。その光景を目にして、汐璃は全身が逆撫でられた様に血の気が引いた。身体を剣に斬られた男達の力は破壊された。
今、亡霊の剣は愛乃の力を確実に捉えた事により、愛乃のバランスは崩れた。ライフルが故にすぐに対応は出来ない。そもそも愛乃は防御も回避も向いている力ではない――このままだと愛乃の力が破壊されてしまう。
「っ……ええぇいっ!!」
汐璃の不安を吹き飛ばすような轟音が響き渡る。零距離で放たれる何発ものの弾丸。さすがに対処しきれないのか、亡霊はふわりと浮かび上がって弾丸を避け、距離を取った。
「あ、愛乃……だ、大丈夫なの?」
「何とか大丈夫だよ……で、でもこのままだと……」
愛乃の不安は、既に汐璃も味わって理解していた。私達だけでは亡霊には勝てない。このまま押し切られて力が破壊されてしまうという不安。不安は本来の動きを乱し、隙を生む要因だ。亡霊はそれを逃す事をせず、未だ態勢を整えられていない汐璃と愛乃に向かっていく。
「くっ……!!」
咄嗟に汐璃は愛乃の前に出て、双剣を交差させる。亡霊の動きを見ていれば、双剣を交差させただけの防御は無いも同然。だが無駄だと分かっていても、心が汐璃を動かした。このまま亡霊の剣が双剣に触れれば壊されてしまうかもしれない。双剣ではなく、通り過ぎに背後から刺されるかもしれない。そんな不安が汐璃を埋め尽くしていく。
亡霊が目前まで迫ろうとした瞬間――ヒュッと空気を切り裂く音が通り過ぎていった。
その直後、汐璃と愛乃に近付いていた亡霊は再び距離を取った。何が起こったか二人はすぐに理解できなかった。
「…………まさか、いざこざが亡霊とはな。さすがに予想出来なかったな」
「そんな訳……無いでしょ」
汐璃は背後から聞こえる声がこれ程頼もしいと思った事は今までになかった。
◆
汐璃の指定場所に近付けば銃撃音が聞こえ、慌てて向かった先には亡霊に襲われる寸前の汐璃と愛乃。咄嗟に傍に落ちていたパイプを拾い上げて投擲。突然の襲来物を前に亡霊が距離を取ってくれた事には感謝しなければならない。
投擲したパイプは亡霊と二人の間に真っ二つになって音を立てて転がっている。距離を取りながらパイプを斬るとはかなりの手練れ。
ゼロ・オブ・ハートブレイドを幾つも破壊しているならば当然といえば当然だ。中途半端な実力ではゼロ・オブ・ハートブレイドを破壊し続ける事など不可能だ。
(ともかく、現状を整理だ)
汐璃と愛乃は亡霊に襲われている。離れた場所にはボロボロになって意識を失う男が三人。同様に壁に持たれる様に意識を失っている女子生徒が一人――着ている制服から考えて一般の学校に通う子が倒れている。
いざこざの中身が力関係という事を考えるならば、男達が力を持っていて女子生徒に何かをしていた。そこを汐璃と愛乃が助けに入った。解決して、俺に連絡をしたのはいいが、待っている間に亡霊が現れた――と。大体こんな所だろう。
幾ら汐璃と愛乃だろうと、亡霊に自ら関わる行動はしない筈だ。予測ではあるが、大まかな状況整理は完了した。
ではこの状況をどう切り抜けるか――今にでも亡霊が向かってきてもおかしくはない。汐璃と愛乃は強い。しかし、その二人が亡霊と戦って押されていた。ここに俺の指示が入ったとしても勝てるかどうかが分からない。むしろ、指示を与えてくれる暇があるかどうかも不明だ。
この現実から最善の結果を出すはどうするべきか。僅かでも危険と思える可能性を除去。尚且つ、迅速な解決を必要とする今――選択肢は一つしか無い。迷いや戸惑いは一瞬――最善の現実を引き寄せる為に行動へと移る。
「二人はそこに倒れてる女子生徒と一緒に下がっていてくれ」
「な、何を――」
「もし俺の身に何かあった場合――迷い無く俺を攻撃しろ」
有無を言わせない強い視線と共にそう告げて、亡霊に向かって足を進めていく。
「ずっと会いたいと思っていた――亡霊」
目の前で揺れる黒いローブの存在に対して言葉を投げかける。言葉にはピクリとも反応せずに佇んでいるだけ。
「何故――お前は力を持ちながら、力を奪う? お前の行動を否定しているつもりはない。ただ、出来るならその意図を聞かせてはもらえないだろうか?」
「………………」
スッと亡霊の剣が持ち上がる。なるほど、それが返答と言う訳か。答える口は持たず……自分はただ目的を果たすのみ。亡霊らしい行動ではある。
こうして近くで見ると亡霊は――確実に生きている人だと理解出来る。注意深く見なければ、確信は得られなかったが体格は人そのもの。剣もしっかりと手で支えられている動きだ。
何だって構わない。話す気が無いと言うならばそれでいい。ゼロ・オブ・ハートブレイドを破壊するというならば抗うまでだ。
(もう二度と目の前で失う訳にはいかない……)
感情と心を失ったとしても、あの時と同じ様に目の前で何かが失われるという現実を繰り返すのはいけない。それだけは体と心が理解している。
だから俺は――心を解放する。
『我が心は――無垢なる祖なり。人が人であるが為に、我が心は一筋の鋼となれ!!』
詠唱の様な言葉を呟きながら、右腕の二の腕を痣ができるくらい強く、左手で握り締める。右手の肘から指先にまで掛けて、雷撃の様な鋭い光が走っていく。光は一瞬で弾け飛び、光の粒子が吹き荒れる。
光が走った部分は焦げたように漆黒の肌へ変化する。それを覆うように美しき銀の姿をした、温もりを持たない鋼鉄の篭手が現れる。先端には鋭利な刃が三方向に突き出しており、ギラリと不気味に輝いている。
こうして誰かの前でゼロ・オブ・ハートブレイドを発動させるのは何時振りだろうか。もう覚えていない。
「………………っ」
心と思考が乱れ始める。ざわざわとした何かが浸食される感覚が全身に回り始める。期待などしていなかったが、やはり俺の力は不完全なままだ。速攻で勝負を決めなければいけない。
「行くぞ、亡霊」
足にグッと力を込めて、一気に解き放つ。力が篭手という形状上、相手の懐ぎりぎりにまで飛び込まなければいけない。故に亡霊にイニシアチブを握らせてはいけない。スピードでこちらがイニシアチブを握って亡霊を翻弄しなければ、リーチの差で圧倒的に不利になる。
「………………」
無論、それは亡霊にも理解している事だろう。素早く正確に俺の接近に対応する。路地という狭い空間の中、最も重要なのはいかにして自分の力を最大限に発揮できる距離を維持出来るかだ。
亡霊は俺に踏み込ませずに、近すぎず遠すぎずの距離を維持して戦わなければいけない。俺はその距離を壊して相手と密着状態になるまで接近し、それを維持しなければならない。
そこから導かれる流れは動きの読み合いだ。一手先、二手先――多くの選択の中から最善の行動を選び抜かなければ、一瞬で追い詰められてしまう。
「っ!!」
振り下ろされた剣を篭手で受け止め、鋼と鋼がぶつかり合う甲高い音が響き渡る。亡霊は剣に体重と力を掛け、そのまま押し切ろうとする。
(――ならば、利用させて貰うまでだ)
全身から一瞬だけ力を抜く。拮抗が突然崩れた場合、力を入れていた方は支えを失う事となる。予想通り、支えを失った亡霊は僅かだがバランスを崩す。
一瞬とは言え、力が抜けた全身は重力に引っ張られ落ちる。そのままの流れに乗って身体を地面へと近付け、左手を地面に押し付け支柱とし、バック転を行う。
足が再び地面が着いた頃には、亡霊は既に態勢を整えて、次なる行動に移り始めようとしていた。さすがだと言いたいが――こちらのスピードを甘く見て貰っては困る。
篭手を最も効果的に使う為に、俺は心力の流れを操作して大半を脚へと集中させている。流れを意図的に操作しているので、本来ある筈の心力の防御は無いに等しいが、密接しなければいけない時点で、心力の保護があっても傷を負うのは承知の上だ。
亡霊が行動を行う前に一気に密接し、亡霊の脚部分へ向かって右腕を伸ばす。
「…………!?」
人体には急所が数多く存在する。しかし、それ以外にも重要な部分がある。それは脚だ。どれだけ鍛えた人間だろうと重心の支えでもある脚を傷つけられれば、痛みにより身体を支える事が出来なくなり、態勢が崩れてしまう。
それは亡霊も同じ筈――そう思っていたが亡霊は態勢を崩す事無く、そのまま自らの行動を行った。
まずい――咄嗟に体を捻り、真上から下ろされる剣を避ける。これにより、こちらの距離を維持出来なくなってしまう。それを亡霊が逃すわけも無く、追撃を掛けてくる。
「くっ……!!」
壁に向かって跳躍。更に壁を蹴り、剣の有効範囲から逃れて戦闘状況をリセットする。先程の感覚からローブの奥に存在する亡霊の脚は傷ついている筈だ。だが亡霊はそんな傷など無いと言わんばかりに佇んでいる。
あれだけ動いても乱れずに、中身を見せようとしない漆黒のローブ。それから考えるとかなりしっかりとしていて、分厚い物と考えるべきだろう。確実に脚を捉えたと思っていたが、脚には届かずローブを斬っただけなのかもしれない。
それに対して俺は左太股と左肩にチクリとした痛みが走っている。目をやるとすっぱりと制服が切れていて、その奥からは赤い鮮血が流れ出していた。恐らく避けきれずに掠ってしまったのだろう。
「………………?」
様子を見ながら、次の行動を考えていると違和感が身体の中にあった。ゼロ・オブ・ハートブレイドが存在する右腕から、何かが乱れている感覚がある。まるで噛み合っている歯車が狂い始めた様な――
(前兆とは違う…………そうか、これは亡霊の力か……!)
亡霊は心と力の繋がり部分――心力を壊しているという俺の考えは当たっていた。亡霊は繋がりでもある心力を乱して、噛み合わなくなった力と心の歯車の力の方だけをを壊している。接続が不安定になった状態でゼロ・オブ・ハートブレイドを壊されても、その代償は心に繋がらないという訳だ。
(さて、理屈は分かったが……この状況はどうするべき――ぐぅっ!?)
高音波でも聞かされたかのように意識と思考が痺れ始めた。心臓の鼓動が乱れ始め、大きくなっていく。
これは前兆だ――力が暴走する寸前に発生する異常症状。前兆は軽いものであり、すぐに事前に力を止める事も出来たのだが、何故今回に限りこれ程強烈なものが…………そうか――亡霊の力の影響か。乱された繋がりが力の暴走を招いている。
このままでは……意識が。早く、力を解除しなければ。だがここで解除してしまえば――カイジョシテシマエバ、ナンダ?
「――――――」
プツリ――何かが俺の中で切れて、俺の意識は一瞬で闇に落ちていった
◆
「アアアアアアアアアアッ!!」
「…………!?」
目の前の敵を倒す――周りに居る全てを力で飲み込む。それだけが智守の思考と心を塗り潰していく。
(目障りだ、邪魔だ、居なくなれ、鬱陶しい、阻むな、消えろ、キエロ、キエロ!!)
理性など無くなった様に智守は今までとは違い、先読みなど無かったかのように一直線に亡霊へと攻撃し続ける。それは猛攻であり、予測不可能な動き。何故ならば、智守の行動は闘争本能から導かれるもの。地を駆け抜け、壁を蹴り、時には亡霊の剣を防御する。それら全てが最善の行動であり、尚且つ正確さと素早さがあった。
「………………」
少し先で広がる光景を見て、汐璃と愛乃は言葉一つ出せなかった。自分達が今まで見てきた戦いのどれよりも高度な物で、自分達の前では力を使った事すらない智守が簡単に行っているからだ。
突然、様子が変わった智守を前に亡霊は攻撃のタイミングを逃し続けていた。このままでは自分がやられてしまう。一瞬にして戦況が傾き、不利と悟ったのか智守の攻撃を避け、そのまま腕を足場にして高く舞い上がる。更に剣を建物に一瞬だけ突き立てて足場として、建物を乗り越えてこの場からその姿を消した。
「か、勝ったの…………?」
亡霊が姿を消した事で、汐璃が我に帰って言葉を発した。
「智守、凄いじゃない!!」
汐璃が立ち上がって、智守の方へ近付いていく。ゆっくりと智守は汐璃の方へと振り返って――本能だけが存在する視線を向けた。
「汐璃先輩!!」
純粋すぎる心を持つ愛乃だからこそ、心が黒く支配され、智守が普段とは違うという事を感じ取れた。愛乃は汐璃の前に飛び出して、ライフルを本来有り得ない使い方である楯として自分の前に掲げた。
「愛乃!?」
「あっ……うぅぅ……!!」
「智守……あんた一体何をしてるか分かってるの!?」
楯として掲げた瞬間、智守の篭手の刃が襲い掛かる。小柄な愛乃には男である智守の腕力に立ち向かうというのは不可能に近い。その上、篭手の刃が愛乃の右腕を切り裂いた事で、腕に入れていた力が弱まり、吹き飛ばされる。
吹き飛ばされた愛乃を身体で受け止めながら汐璃は智守に怒りを飛ばすが、それは智守の黒い心を刺激する結果となった。
「…………アァッ!!」
「う、くっ……!?」
汐璃の武器は双剣。二つだからこそ意味がある武器だ。愛乃を支えているため汐璃は片手しか使えずに、動きも大きく制限されてしまっている。
一本のみで智守の攻撃を受け止めた剣は後方へと弾き飛ばされ、心力の回路が途切れた事で空中で四散する
「愛乃、ごめん!!」
愛乃を突き飛ばし、汐璃は残された一本の剣で智守の追撃へと斬りかかる。
「智守!! どうしちゃったのよ!?」
汐璃はそのまま篭手を押し返そうとする。しかし、汐璃の中に智守への直接的攻撃は選択肢に無い。だが智守の中にあるのは目の前の物全てを破壊するという黒き心。
攻撃意識の有無は、無意識に力の入れ方も変わってしまう。その差が汐璃を徐々に不利な方向へと追いやっていく。
「っ…………くぅ……!!」
絡み合って拮抗していた力。暴力的とも言える智守の力を前にして、汐璃の剣が震え始める。両手で剣を支えるも、焼け石に水。むしろ隙を作った結果になり、智守を次なる行動へと移させてしまう事となる。
「かはっ……!!」
意識外だった智守の脚が、汐璃のどてっ腹に入った。吹き飛ばされた汐璃は、あまりの衝撃に呼吸が一瞬止まる。すぐに態勢を整える事は不可能。
「っ…………!!」
殺される――汐璃はそう思い、目の前から顔を背ける。だが、智守の攻撃は永遠に来る事は無かった。妨げたのは一発の銃弾音――汐璃から突き飛ばされた愛乃がいつの間にか距離を取り、智守をライフルで打ち抜いたからだ。
ライフル弾を篭手で受け止めた智守は大きな衝撃に真正面から耐えられる訳も無く、路地の奥まで吹き飛ばされていた。
「愛……乃?」
「………………ぐすっ、ひくっ……」
愛乃は泣いていた。智守が告げた、何かあれば攻撃しろと言う言葉に従って、引き金を引いた。それでも大切な友達に向かって撃ってしまった、傷つけてしまったという罪悪感が愛乃の心を悲しみが包み込む。
ライフルを支える両手は震え、照準はブレブレである。もう一発正確な射撃を行うのは不可能だ。
「アァァァッ!!」
吹き飛ばされた智守は雄叫びを上げて立ち上がり、攻撃してきた愛乃へと目標を定めて、高速で接近する。
「っ……智守先輩っ!!」
愛乃が泣き声で智守の名を呼んだ瞬間、地を駆けていた脚がピタリと止まった。
◆
「…………っ!?」
涙声で名前を叫ばれて我に帰ると、苦しげに腹を押さえる汐璃と涙を流しながらライフル銃を構える愛乃の姿が目に入った。それだけで何が起こったか容易に理解した。
俺はまた……力に飲み込まれて暴走してしまった。本能のまま動き続けて、見境無く攻撃し続けた。愛乃の右腕からは痛々しく血が流れている。
本来ならば心力で守られる筈の身体。だが俺が持つゼロ・オブ・ハートブレイドの能力により、愛乃を傷つけてしまった。汐璃こそ目立った外傷は無いものの、苦しげにしている。
「ぐすっ、智守……先輩……?」
「………………すまなかった」
涙目で俺を見上げる愛乃を前にしてだらしなく腕を下げる。右手を覆っていた篭手は光となって消え去り、肌の色も普通の人肌へと戻っている。だが消しても消しきれない、後悔という傷だけはいつまでも右腕に残り続けている。
「立てるか?」
「………………」
汐璃へと手を伸ばすと、無言だったが握り返してくれた。無視されるものだろうと思っていたので、握り返されたことに一瞬戸惑うが、何事も無かったかの様に汐璃の手を引っぱり、立たしてやる。
一人で立てることを確認して、踵を返そうとすると汐璃がそれを遮った。
「待ちなさいよ」
真っ直ぐで強い汐璃の瞳が俺を見つめる。汐璃は怒っている。今までの説教とは違い、本気の怒りで俺を責めている。だがその視線に答える程、今の俺には余裕が無かった。それに――もう二度と同じ関係には戻れないだろう。
「…………先に帰らせてもらう」
だから俺は視線を逸らして、ぶっきらぼうに答えるのだった。
「ま、待って! 智守先輩!!」
「…………今はお互い時間が必要だろう」
呼び止める愛乃に、それだけを言い残して路地を後にする。今、二人と一緒に居たとしても何を話せばいいのかが分からない。むしろ、色々な物が悪い方向に進んでしまうのは明白だ。そうでなくても、先ほどの俺の姿を見た奴は大概近寄る事もしなくなる。
だからこれでいいんだ――そう自分に言い聞かせて夕暮れの道を歩き続ける。夕焼けの明るさはどこか儚い。その儚さがこの力を焼いてくれるならば、どれだけ良いだろうか。右手を夕日へと伸ばしながら、叶う事の無い願いを想うのだった。