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メビウスの時間の輪  作者: 六神
2/2

後編

 一瞬の浮遊間の後、ヒコは地面に投げ出される。

 勢いがついていた為、叩きつけられた身体は二三度バウンドしてからようやく止まった。

 背中を打ち付けた衝撃で息がつまり、ヒコはあまりの痛みに悲鳴も上げられない。

「う……」

 背中が痛い。地面……それも、大小の石が無数に転がっている為、それらが食い込んでくる。

 ぼんやりとした頭で周囲をうかがう。見覚えのある場所だ。

(ここって、学校だよね……?)

 本棟と家庭科棟の間。渡り廊下のすぐ近く。昨日貧血騒ぎで倒れたのも、確かこのあたりだったはずだ。

 場所はすぐにわかったが、どうしてこんなに暗いのだろう。先ほど授業が終了したところなので、時間的には四時くらいのはずだ。

 記憶をたどり、そこでヒコははたと気づく。

(そうか、あたしはまた繰り返しの中にいるんだ……)

 一体、今度はどれほどの時を逆行したのか。

 半身を起こしたヒコは、すぐ隣に少年が倒れていることに気づく。

 少年は仰向けに倒れ、意識がないのかぴくりとも動かない。

「夢……それとも……」

 思わずヒコは、右手を出し、指先で少年の身体に触れてみる。

 消えない。

 指が少年の身体を突き抜けてしまうこともない。

 触れた指先に、硬めの布地でできた学生服の感触が伝わってきた。

「夢じゃない……」

 口中で、同じ言葉を何度も繰り返す。

 呆然としていたヒコの耳に、ぶぅんと振動音が響く。

 周囲が静かなので、やけに大きく聞こえた音に、ヒコはびくりと肩を震わせ、そしてポケットの中で振動している携帯電話を取り出す。液晶画面に映し出された名前に、ヒコは慌てて着信ボタンを押して携帯電話を耳に当てる。

「もしもしっ、リッちゃん?」

 一瞬の沈黙の後、落ち着いた低音が聞こえてきた。

「ヒコか。お前、今どこにいるんだ。夜遊びもほどほどにしておけ。君のお母さんから行方を尋ねられたぞ。早く帰って来い」

 いつもの調子に、ヒコはようやく身体の力を抜く。

「今は……学校。ねぇ、リッちゃんすぐここに来て!」



「ヒコ。夜遊びはいかんと言っているだろうに」

 それから待つ事三十分弱。リツギは自転車に乗って現れた。

「ねぇ……リッちゃん、今日は、今日よね」

 ヒコは自転車を手で押しながらついて来るリツギに、恐る恐る尋ねる。

「何をおかしな事を……。ヒコ、もしかして、また例のリフレイン現象か?」

 ヒコは頭を振る。そして携帯電話の画面を見た。待ち受け画面に表示されているカレンダーは、四月十六日。時刻は九時四十三分。

「ううん、ちょっと、違うみたい。繰り返していないの。今日は、放課後から、今までの時間を飛び越えたわ」

 ヒコは家庭科棟を示す。リツギは校舎の脇に自転車を止めると、彼女の後を追う。

「時が、進んだ……?」

「うん、それで見て……」

 からりと音を立てて被服室の扉を開ける。外の水銀灯の明かりだけという乏しい室内だったが、それでも物の輪郭程度はわかる。

 そして入ってすぐ、床の上に倒れている者にリツギは気づいた。

「この少年は?」

「例の、リフレインの時だけ現れる人よ」

「……繰り返しではないのにか?」

「そう、本日はまだ一回目よ。……ちょっと、自信ないけど」

「ちょっと?」

「……放課後の話よ。廊下を歩いてたら、繰り返しが来たの。そうしたらこの人が急に出て来て、白い化け物に一緒になって追いかけられたわけ。けど、そこで……急に目の前が光って、校舎の外に放り出されたと思ったら、もうこんな時間だったの」

 そのままあの場に留まっているのも気が引けたので、ヒコは少年を引きずって被服室までやって来た。幸い、ポケットに鍵は入ったままだった。

「ふぅむ、繰り返しから抜け出したということは、つまり、何かが動き出した……」

 リツギは何か考え込むようにつぶやく。

「え? どういうわけ?」

「あくまで、想像だ。固定した状態から、状況が変動するには何かのきっかけが必要だ。今までこの少年は、あくまで繰り返しという特殊な枠の中でしか存在していなかった。それが今、少なくとも僕達と同じ枠の中にいる。つまり、何かの仕掛けを動かしてしまったのだ。それには十中八九お前が関与している。そうなると……何か思い当たる事はないのか?」

 詰め寄られ、ヒコはうろたえてしまう。言われたところでヒコはただ逃げただけだ。

 だが……

 あの白い巨体は、何か自分に向かって言っていた。

「……あの、化け物が言ったわ。輪を壊したって……」

「輪ねぇ……。どんなものかは見当もつかんが、ヒコがそれを何らかの手段で破壊し、この少年を引きずり出してきた、と」

「でも、そんなことあたし……だって、本当に何もしてないのよっ!」

「メビウスか……」

 慌てふためくヒコとは対照的に、リツギはあくまで落ち着いた態度を崩さない。

「え? なにそれ?」

「聞いた事はないか? メビウスの輪。……まぁ、見せた方が早いか」

 言うと、リツギは机上に置き去りになっていたプリントを手に取ると、引き出しに入っていた裁ち切り鋏で紙を切り始める。

「ちょっと、裁ち切り鋏で紙を切ったら切れ味が悪くなる……」

「ふぅむ、まぁ、少しくらいは勘弁してもらおう」

 言いながら、細い短冊状に紙を切ると、リツギはそれの端と端を持つ。

「この紙を、繋げてしまえば普通の輪ができる、だが……」

 リツギは、紙を一度ひねると、その端をセロハンテープで留めてしまう。

「こうやって、一度ひねって輪を作ると、どうなる?」

 彼の手にねじれた輪が出来上がっていた。そしてリツギはボールペンでその輪の内側をなぞっていく。

 内側から始まった線を目で追ううちに、ヒコは奇妙な事に気づく。

「あれ、なんかその線、表側になってない?」

 そう、内側から始まったはずの線は、いつの間にか表側を走り、そして一周した後、元の内側に戻った。

 輪は、裏も表も線を引かれた状態になっていた。

「これが、メビウスの輪。表も裏もない輪だ」

「へぇ……」

 ヒコは物珍しそうにその輪を手に取り、くるくると動かしてみる。指でなぞってみても、リツギがやったのと同じように、いつの間にか表から裏に、裏から表に走って行く。

「だが、その妙な輪も……」

 言って、ひょいとリツギはヒコからその輪を取り上げると、再び鋏を入れて輪を切ってしまう。

「こうやって、切断してしまえばただの紙切れ。一本の線になってしまう」

 リツギはひらひらと紙切れを振ってみせると、そのまま近くのゴミ箱に捨ててしまう。

「で……結局、その変なわっかが今の状況にどう関係があるわけ?」

「ふむ、まぁ、原因はよくわからんが、お前はそのねじくれた時間の輪に亀裂を入れてしまい、この少年を引きずり出してきたのだろう」

「あたしが? どうやってそんなことできたわけ?」

「そこは僕にもわからんよ。そして、当座の問題は、この少年が何者かだ。よし、まずは持ち物を調べてみよう」

 早速リツギはしゃがみ込むと、少年の服に手をかける。しかし、上着やズボンのポケットには少年の正体を示すような物は何もなかった。唯一の所持品は、折れた木刀のみ。腰の後ろ、ベルトに挟むようにしてあった。それも、握りの部分に名前が書かれていたようだが、すり切れてしまって読めない。

「ふぅむ、ならば……」

「ちょっと、なに脱がしてるの!」

 ためらいなく上着のボタンに手をかけるリツギの行動に、ヒコは焦って止めにかかる。

「知らないのか? 男子学生服の内側には、名前を書くところがあるんだぞ」

「……そんなの知るわけないでしょ」

 相変わらず行動が唐突すぎてついて行けない。

 ヒコが頭を抱えていると、リツギが弾かれたように身を退くのが見えた。何事かと思って後ろからのぞき込むと、少年が目を開けていた。

 ちょうど目が合ってしまい、ヒコはしばらく悩んだ後、

「え……と、こんにちは?」

 引きつった笑顔でそう言った。

「ベタだな、ヒコ」

「じゃあ、リッちゃんが聞いてよ!」

 自分でも、なんとなくそう思っていたので、照れ隠しにヒコは叫んでしまう。

 そんなやりとりをしている間に少年はゆっくり起き上がると、不思議そうに二人の顔を眺める。

「……あんた達は?」

 多少うわずっているが、普通の少年の声だ。そのことにヒコは安堵の息を吐く。出会い方が特殊だった為、どこか警戒している部分があったが、こうして見ている限りでは、クラスメイトの男子と変わったところは見受けられない。

「あ、もしかして覚えてない? 荒野で会ったよね。でも、それより前にも何回か見かけたし。さっきも廊下で変なのが来た時とか」

 荒野、という単語に少年が反応し、次いでまじまじとヒコの顔を穴が空くほど凝視すると、ようやく気づいたらしい。

「っ、そうか、あの時の……」

「あ、思い出してくれた? 実はまぁ、なんというか……色々とあなたに聞きたい事があるわけ」

「君は制服から見て、この中学校の生徒ではないようだが、どうしてここへ?」

 リツギは早速どこからか手帳と筆記用具を取り出し、メモを取る構えをしてみせる。

 少年はリツギの質問にしばしぽかんとする。言葉の意味が浸透するまで時間がかかっているのか、ぼんやりと視線をさまよわせ、そして……

「……覚えて……ない。どうやってここに来たのか、わから、ない……」

 そして今さらながら、慌てた様子で周囲を見回す。

「ここ、は……?」

「えーと、高陵台中学校の被服室だけど」

「不法侵入は、こちらも一緒だ。そしてまずは自己紹介だ。僕は久我リツギ、こっちが十河ヒコだ。君の名前は?」

「なまえ……?」

 こくりとリツギはうなずくが、少年はうろたえたように顔を背ける。指先が震えているのが見えた。

「俺の、名前……」

「もしかして、自分の名前がわからないとか?」

 ヒコの指摘に、少年はびくりと身を震わせる。

 どうやら図星のようだ。

「……もしかして」

「ほう、記憶喪失か。初めて見たぞ」

 そこで二人は互いに顔を見合わせると、揃って小さく息を吐く。

「どーする、リッちゃん」

「ふむ、どうしたものかな」



 その後、少年との間に様々な質問が飛び交ったが、結果はあまり芳しくはなかった。

「……これが、記憶喪失……?」

「なにせ、初めて見るからな」

 ヒコはぐったりと作業机に突っ伏してしまう。

 あれから三人とも、床に座っている必要性もない事に気づき、作業台のひとつに集まり少年の身元確認作業を行っていた。

 そして判明した事は……。

 少年は自分自身に関する記憶……名前や過去の経験はすっかり失っていた。自分が何者なのか、まったくわからないのだ。しかもそのことを指摘されるまで、忘れている事にも気づいていない有様。

 さすがにこれでは話が進まない。ヒコは疲労を覚えながらも質問を繰り出す。

「なんで、その……今、ここにいるのかとか、あの荒野にいたわけとか、わかる?」

 少年は頭を振る。まったく覚えていない、というわけではないのだが、途切れ途切れの夢を見ているように、どうにも記憶の繋がりが曖昧になっているらしい。先ほど、廊下でヒコに向かって叫んだ事も、当人にしてみれば夢の続きのように、ぼんやりとした記憶しかなく、むしろ荒野での出会いの方が印象に残っているようだ。

「覚えてない。何もかも……ぽっかり抜け落ちている。気がついたら荒野にいて、あいつが……クラウンが襲って来た」

「ん? クラウン?」

 聞き慣れない名称に、ヒコは首を傾げ、リツギはふむ、と面白そうに身を乗り出して来る。

 少年は何も置かれていない作業机に視線をさまよわせると、言葉を選ぶようにぽつぽつと語り出した。

「……化け物、幽霊、影、漂うもの……。あれがなんなのかはわからない。けど、あれはクラウンだ。俺はそいつに襲われて……ずっと、逃げていた」

「もしかして、あの白くて大きいの?」

 少年はわずかな沈黙の後、そうかもしれない、とつぶやく。

「あれに、形なんてないんだ。ヒコがそう見えるなら……そうなんだろうな」

 どうやら、あの怪物は見る相手によって形状の異なる存在らしい。

 少年はひどく疲弊したように、重い息を吐く。

「俺は、奴に襲われて逃げる度に、記憶を失ったんだ……」

「え? そんなの、わかるわけ?」

 先ほどまで、自分の名前を忘れていた事すら気づかなかったのだ。

 しかし少年は真剣な面持ちできつく握った自身の拳を見つめる。

「もうずっと、ぼんやりとしたままで、起きているのに眠っているような感覚だったけど、ようやく、少しだけ目が覚めた気分だよ。そうだ……俺は、何かを失った。名前も、過去も、すべてな。気づいたから、わかる。でも、失った何かはどうしても思い出せないんだ」

 ヒコは顔を伏せてしまった少年にかける言葉を見つけられず、代わりに息を吐く。胸の中は鉛を飲んだように重かった。

 記憶を失う。

 それは過去の出来事を忘れてしまう事とどう違うのか、ヒコには今ひとつ理解できず、実感が湧かない。それでも……己の名前すら失う事は、ひどく恐ろしい事のような気がする。まるで、足下が崩れ、その崩壊に巻き込まれていくような不安定さを覚えた。

「そのクラウンに心当たりは?」

 リツギの様子は、シンカの話を聞いても表面上はまったく変化を見せない。その落ち着き払った態度に、少年は自分が慌てても仕方がないと悟ったのか、やや自嘲気味に笑って彼に向き直る。

「……さぁ。……いや、もしかすると最初はあったのかもしれない」

「ふぅむ、こいつはやっかいだな」

 顎に手を当て、リツギはうなる。

 彼も少年の持つ情報を当てにしていたのだろう。だが、当人はそれらをすべて失って白紙状態。これでは事態は進まない。

 ヒコも質問のネタが尽きてしまった。かといって、にぎやかに談笑するような雰囲気でもない。なんとなく手持ち無沙汰になり、丸椅子に座ったまま、足をぶらつかせる。窓の向こうでは、水銀灯の明かりがぼんやりと住宅街を浮かび上がらせている。しかし時間帯も遅く、被服室は表通りからは奥まった位置にある為、通行人にうっかり見つかってしまうという事もないだろう。一応、電灯の類は点けず、今も暗闇の中で喋っているのだが。

 なんとなく、窓外を見ていると、ヒコは視線を感じて顔を動かす。見ると、少年と視線が合った。彼は急にヒコが振り返った為、一瞬、慌てたような素振りを見せる。どうやらヒコを眺めていたらしい。

「どうかしたの?」

 別に、特に不快感も覚えなかったので、ヒコはごく自然に話しかける。

「え、あぁ。こうやって他人とまた話せるなんて思っていなかったから……」

 少年は困った顔をして、指先で頬を掻く。

「え? でも、同じ教室にいたじゃない」

「うん、たまに現実の……学校に紛れる事ができたけど、皆、俺の存在が見えていないんだ。最初は、叫んだりしてどうにか俺を見てもらおうと思ったけど……俺は他の人間に触れる事もできなかった。こう、身体が通り抜けてしまうんだ。自分が幽霊になった気分だよ。けど、俺からすれば、他の奴等の方が幽霊に見えるよ。で、もう近頃じゃあ諦めて、授業中は空いている席に座って話を聞いていたんだ」

 その方が、気がまぎれたからと少年は力なく笑う。

「でも、せめて名前くらいわからないと不便よね」

「そうだな、上着にも名前は書いていなかったからな」

「……リッちゃんてば、見たんだ」

「持ち物には名前を書いておきたまえ。こういう時に困るだろう」

 まず、滅多に記憶喪失にならないと思うのだが。

 それでも妙に説得力のある、静かな迫力に気圧されたか、少年は素直にうなずく。

「そうだな。記憶が戻ったら油性マジックでそこら中に書いておくよ」

「なんでそこで納得しちゃうわけ?」

 同性同士故の、共感とでも呼ぶのだろうか?

 しかしあいにくとヒコにはまったく理解できない感覚だ。

「とにかく、まずは名前よ。なんか思い出さないわけ?」

「そうは言われてもな……」

 思い出せと言われて回復するような代物なら、そもそも記憶喪失ではない。三人は揃って眉間に皺を寄せてうなったが、例え三人の人間が集まっても、事は少年の問題なのだ。リツギなど、一緒になって悩んでいるのかと思いきや、気づけば手帳には〈少年の名前候補〉という文面が書かれ、妙に適当そうな名前がいくつか並んでいた。

(要は、何かきっかけがあればいいのよね?)

 先ほども、少年は曖昧だった記憶が自分達と会話するうちに、多少なりとも回復していた。彼の失った記憶を刺激するような言葉を並べれば、あるいは……

「……シ・ン・カ」

 え、と少年が振り返る。リツギもペンを走らせていた手を止め、顔を上げる。

「クラウンがそう言ったの。何か覚えはない?」

 シンカ、少年は口中で何度もその単語を繰り返す。

「……シン、カ……?」

 聞き覚えがある、いや、そんな曖昧な言葉ではない。もっと自分の奥深くに訴えかける力があった。

 そして、

「……っ!」

 少年が愕然と顔を上げ、立ち上がった。

「えっ? ねぇ、ちょっと。大丈夫?」

 急に椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった少年に、ヒコは怪訝な顔をする。しかし彼はその様子が目に入っても、理解はできなかった。

 鼓動の音がやけに大きく聞こえ、少年は胸元をきつく握りしめる。

 呼吸が乱れる。息を吐く事も忘れるほどの波が彼の中で荒れ狂い……。

 少年の記憶を閉ざしていた闇に、亀裂が入る。

 途端、怒濤のように何かがあふれ出し、目の前が白くなるような感覚を覚え、少年は思わず作業台に手をつく。

 やがて眼前に星が散るような勢いが薄れると、少年は深く息を吐き、どっかりと腰を下ろす。

「あの……どうかしたの?」

 ヒコは不安げに彼をのぞき込む。

 しかし少年は、うつむいたまま……笑っていた。

「思い出したよ」

 顔を上げる。その目の端に浮かぶのは、涙だろう。

「シンカ……俺の、名前だ」

 ヒコは思わずやった、と叫ぶ。そして声を上げたあとで、自分達が不法に学校に居残っている事実を思い出し、口を押さえた。

 少年……シンカも笑っている。

 しかし、リツギだけは妙に冷めた目で少年を見ていたが、二人とも気づいた様子はなかった。

「うむ、名前を思い出せた事は、非常にめでたいのだが……それ以外のところはどうだ?」

 シンカはぱちぱちと瞬きし、それからちょっと待てと言って眼を閉じる。しばらくうなっていたが、やがて諦めたのか息を吐く。

「……悪い、もうちょっと待ってくれ。なんだか頭の中がごちゃついていて、上手く思い出せない」

 どうやらそう都合良くは行かなったらしい。シンカの中では今、失った記憶の欠片が徐々に浮かび上がり、元の形状を取り戻そうと必死に修復作業を進めているのだろう。

「まだぼんやりとしか思い出せない。なんか、こう、一枚布を挟んだ向こうを見ているような……直接触れないもどかしさみたいなものがあるんだ」

「でも、名前を思い出せたんだから、きっと他の事もすぐに思い出せるわよ」

「ならば、とりあえず移動するか。学校内に現象が固定されているのなら、外に出てしまおう」

「それは無理だ」

 強く言い切られ、ヒコは目を丸くする。

「俺も荒野からこの学校に出てくる度に、何回も外に出ようとしたけど、門の外には何もないんだ……。出ようとすると……。まぁ、とにかく出られないんだよ」

「それはシンカのいる世界でしょ。それに、そもそもなんで学校なわけ?」

「そこも疑問だな。相手は相当学校に強い執着があるのだろう。まぁ、ここは実際に出られるかどうか試してみようではないか」



「これはまた、なんというか……」

 リツギはそれ以上、言葉を繋ぐ事ができない。しかし声を出せただけましな方だろう。ヒコに至っては、口と目を丸くしているだけで、シンカは……目をそらしていた。

「外が、ないな」

 端的な説明だが、それで十分だろう。

 中学校の校門……いや、周囲を取り巻く壁を境に、すべてが白く、ぼんやりとした霧のようなものに覆われていた。学校の外には様々な建物があったはずだが、今はその輪郭すら見えない。

 試しにリツギが手を外に出したところ、白い霧に触れた途端に鋭い痛みが襲いかかった。反射的に手を引いたが、霧に触れた箇所は細い針で付いたような傷が無数につき、赤い血の玉が浮き出す。

 石を投げても白い霧の向こうに消えた後は、地面に落ちる音も聞こえない。

「困ったな」

「無表情でそんなセリフを言っても説得力がないんだけど……。で、シンカはどう思う?」

「どうって……これが俺の現実だ。俺は荒野をさまようか、こうして学校に閉じこめられる」

「つまり、シンカの空間に巻き込まれちゃったと」

「多分、な」

「……あぁぁ、何時の間に」

 と、これで何度目になるのか、ヒコは頭を抱えてうなる。もう大抵の状況には慣れたつもりだったが、どうやらまだまだ甘かったらしい。

 それでも……今、ここには自分以外に同じ状況に陥っている人間が他に二人もいる。そのことに対する共感意識がヒコに非常時であるにもかかわらず、不思議と安心感を与えていた。

 一人では悲鳴を上げて逃げ回るか、どこかの隅で震えているくらいしかできなかっただろう。

「抜け出すには、その原因……クラウンとやらをどうにかしないとな」

「そうよ、あれはどこにいるわけ?」

 ヒコは焦って周囲を見回すが、どこにもあの巨体は見えない。シンカも同じように顔を巡らせると、やれやれと腰に手を当てる。

「あれは、最近はあんまり襲って来ないんだよ。俺が襲撃に慣れたせいか、趣向を変えてじわじわ迫って来る作戦にしたらしいぜ」

「うわ、やな性格」

「とにかくこうしていても始まらん。移動するぞ。シンカ、隣の高校へは行けるのか?」

 リツギは指で高校側を指し示す。

 どうやら学校という空間に閉じこめられた際、その範囲は隣の高校にも適用されたらしく、中学校の校舎の向こうにぼんやりとその姿が見えた。

「多分、な」

 シンカはちらりと高校側に視線を向けたが、それだけだった。

「行った事がないのか」

「何回かは、あるよ。けどあっちに行くと、気分が悪くなるから、その……あまり、行きたくない」

 どうやら、高校に何か嫌な思い出があるらしい。思い出せないが、とシンカは苦笑気味に言った。

「だが、ここは無理をしてでも行ってもらう。向こうでちょっと調べたい事があるのだが、ここで互いが離れるのは得策ではない」

 シンカは黙って拒絶の態度を見せていたが、最後にはヒコに押し切られる形になって移動することになった。

 高校側には、例の第二グラウンドから入る事ができた。そしてリツギはそのまま高校側のグラウンドを横切り、辿り着いたのは二階建ての、校舎と呼ぶには少々こぢんまりとした建物だった。

「ねぇ、ここは?」

「情報棟だ。情報処理関係の授業を行う為、パソコンが大量に置いてある」

 一階入り口には、南京錠がぶら下がっている。しかしリツギは慌てず騒がず……どこからひろってきたのか、拳大の石を握りしめると……手近の窓に向かってぶん投げた。

「ぎゃ---っ! ちょっと、リッちゃん何してんのっ!」

 ヒコの悲鳴と共に窓ガラスは砕け散る。

 割った当人は涼しい顔だ。

「何と言われてもな。もちろん、中に入る為だ。僕は鍵を開けられるような技術もないし、ここには南京錠を壊せるような道具もない。多少見栄えは悪いが、窓を破るしかないわけだ」

「でも、ほらっ! あそこにどっかの警備会社のマークがあるわよっ! もしばれたら大変な事になるっ!」

「そりゃあ、ここには金のかかった機材が大量に置いてあるからな、一応学校側も警戒はするだろう。しかし、その警備員はどこから来る?」

 その指摘に、ヒコはぴたりと動きを止める。

「あ-……確かに、誰も来ないわ」

 ここでの行動が現実にどういった作用をもたらすのかは不明だが、少なくとも、大挙して押し寄せてきた警備員に取り囲まれる、という事態だけは避けられそうだ。

「そういうことだ。よし、中に入るぞ。ガラスに気を付けろ」

 そしてリツギは不安顔のヒコとシンカを置いてとっとと不法侵入を果たし、二人がまごつきながら室内に足を踏み入れた頃にはしっかり電灯まで点けていた。

「……外はないのに、この電気ってどこから来てるわけ?」

 うっかりしていたが、確かに学校内に設置してある水銀灯はしっかり点灯しているし、校舎内の非常口を示す電灯もぼんやりと光っていた覚えがある。

 その疑問はシンカも同じらしい。しかし彼の場合は多少、思うところは違ったが。

「俺も電気が使えるなんて考えてもみなかったよ。最も……クラウンに追い回されていたから、そんな余裕もなかったけどな」

「明かりがあったらそのクラウンに集中狙いにされそうだけど……リッちゃん、そこまで考えてないのかな?」

「いや、あの様子を見ると、来るなら来いっていう感じじゃないのか」

「……そうかもね」

 リツギについてきたのは、失敗だったかもしれない。

 声には出さず、二人揃ってそんな事を思ってしまった。

 そして当のリツギは二人の懸念などどこ吹く風。まるで常習者のような手際の良さで教室のドアを破って中に入ってしまった。

 情報棟の一階は三部屋あり、ひとつが準備室、残りが教室となっている。

 教室内は情報棟という名の通り、部屋中がパソコンとそれらの周辺機器で埋まり、一人一台ずつ機材が行き渡るようになっている。

 リツギは第一と書かれた教室に入ると、正面奥にある教師用とおぼしきパソコンを立ち上げる。そして近くの生徒用パソコンも同じように電源を入れた。

 低いファンの回る音が聞こえ、ディスプレイに文字が大量に浮かび上がる。

「ねぇ、リッちゃん。こっちの先生用のパソコン、パスワードを入れろって出てるけど?」

「む、わかった」

 そしてリツギはキーボードを叩くと、当然のようにパスワードは承認され、さらに何かを読込み始める。ヒコは画面を眺めていたが、標示される言葉はまったく意味がわからない。携帯電話の操作は慣れていても、パソコンに関してはどこか苦手意識があった。逆にリツギはそういった方向に詳しいらしく、自室には自分専用のパソコンがあり、本棚には専門書が並んでいた。

「ここのパソコンは。全部この親機に統括されているからな、こいつを立ち上げない事にはネットワークに繋げないのだよ」

「……理屈はよくわかんないけど。まず最初の疑問として、なんでリッちゃんがパスワードを知ってるわけ?」

 恐らく、生徒が勝手にパソコンを使用できないようにする為の措置なのだろう。だからこそ、生徒らにはパスワードなどは漏れないようにしているはずだ。

 しかしリツギは作業の手を止めず、あっさり一言。

「僕にはパスワードなんて設定するだけ無意味だ」

「……えーと」

 答えにはなっていないが、ヒコはそれ以上突っ込む気力を失い、リツギの作業を黙って見ている事にした。

 ヒコは手持ち無沙汰になり、あたりを見回す。

 青白い蛍光灯に照らし出された室内は、パソコン等の機材で埋まっているはずなのに、妙に寒々しい印象を覚える。最初は机やパソコン本体が白いせい、とも思ったが、すぐにそれだけではないと気づく。

 ここは、ヒコのいた教室とは違う。

 誰かがいたという、痕跡……。生活感のような物がまるでない。もちろん精密機械のある部屋だから、生徒が常にたむろしている教室のようには行かないのだが。

 それでも……

「不安、か?」

 突然かけられた声に、ヒコはわずかに身を震わせたが、内心の動揺をなるべく表に出さないようにして、近くに立っているシンカに向き直る。

「そうね」

 一番痛いところをつかれた。

 それでも、隠したところでどうしようもないので、ヒコは素直に自分の心情を吐露する。

「ものすごく、怖いわ。だって……得体の知れない化け物が襲って来るのよ。これからどうなるのかわからなくて……怖い」

 顔を上げれば、窓外の闇が否応なく目に入る。室内が明るいせいか、窓はそこだけが黒く切り取られたように塗りつぶされ、逆に不安をあおる。

 シンカはヒコの視線を追いかけ、自分も窓に顔を向ける。二人とも、教室の真ん中あたりに立っていた。どうにも窓際には近づきたくなかった。

 闇の中から何かが……クラウンが、忍び寄ってくる。

 そんな妄想が脳裏から離れない。

 不安に心細くなっている二人の口数は、自然と多くなる。

「俺も、ずっとそうだった……。クラウンは俺を襲うけど、何が目的なのかわからない……。いや、忘れているだけかもな」

「あ、そうか。記憶、まだ全部は戻らないわけね」

「もうちょっとだと思う。けど、何を忘れているのかもわからなくて、そのくせ、焦ってばかりで……。もう、どれだけこの空間に閉じこめられているのかもわからなくなったよ。日付なんて数えても無駄だろうけどな。そもそも、いつからいるのかがわからないわけだし。……もしかすると、同じ時間を繰り返しているだけなのかもな」

 繰り返し……。

 思わずヒコはシンカに向き直る。

「そうよっ。あたしもそう。繰り返しの中にいるの!」

 時間を跳び、この空間に閉じこめられてからは収まっているが、そもそもあの奇妙なリフレイン現象からすべてが始まったのだ。

 ヒコは必死で言いつのる。

「馬鹿げているみたいに聞こえるかも知れない。でも、あたしは時間を繰り返すの。でもその現象はこの学校の中だけ。……シンカを見たのも、その繰り返しの中なの。これってどういう意味があるのか今はわからない。けど、絶対にあのクラウンや、今の状況に関係があると思うの」

 シンカは驚いたように目を瞬いていたが、ヒコの意を飲み込めたのか、真剣な面持ちになる。

「……そうだ。俺は、今まで誰とも話したりできなかった。周りには俺が見えていなかったんだ。それをヒコ、お前が初めて俺を見つけてくれた。そして荒野に落ちて来たんだ」

「あたしがシンカを見つけて……シンカのいる場所に引き込まれた」

「そして、また戻って行った。あの時、ヒコは俺の目の前から消えたんだよ」

 荒野から戻った瞬間。まるで弾き出されるような唐突な帰還だった。シンカの視点では、それこそ消えたようにしか見えなかっただろう。

「そうよ、入れてしかも出られたって事は、この時間の迷路にも出口があるのよ。今なんてリッちゃんも入って来てるし。あ、でも、その前にシンカも一度出ていたのよ。それであたし、びっくりして思わずリッちゃんを呼んじゃったわけ」

 ヒコはその時の慌てふためいていた自分を思い出し、思わず笑ってしまう。

「二人とも、俺が巻き込んでしまったんだな……」

 不意にシンカは沈み込んでしまう。

「シンカ……」

 確かにシンカとこうして話をする前は、なぜか自分だけがこんな目に遭うのだと憤っていたが、今はそこまで怒りを覚えない。むしろこの少年の現状を何とかしてやりたいとさえ思っている。

「……リッちゃんの言う通りね」

 すっかり落ち込んでしまったシンカをなだめるように、ヒコはなるたけ静かに話す。

「あたしね、どうして自分がこんな目に遭っているのか、少しだけわかったわ。さっき、リッちゃんがメビウスの輪っていうの作ってくれたの」

 こんなの、と指で宙に描いてみるが、やはり実物がなければ上手く伝わらないらしく、シンカは首を傾げる。

「メビウス……。表も裏もない、不思議な輪。それと同じように、あたしのいる現実と、シンカのいる現実には違いなんてなかったのよ。だから……あたしはあたしの時間を過ごし、そして輪の向こう側にいたシンカのところへ跳んだの」

 双方が、真実の時間。

 そう考えると、奇妙な繰り返し現象も、辻褄が合うような気がする。

 繰り返していたわけではなく、同じ時の表と裏を過ごしていただけ。だからヒコの時間にシンカの姿はなかったのだ。

 シンカは床に視線を落とす。

「けど、表も裏もないって事は……いつまで経っても、俺はヒコのいる現実と交わることができない。それじゃあ何も変わらないじゃないか」

「ううん、違うの。輪は、断ち切ればいい。そうすればねじれた輪も、一本の線になるわ。そこから、始まる。あたしはそう思うの」

 断ち切った後の現実……ヒコとシンカの時間が交わった後どうなるのか、それは誰にもわからない。

 それでも……。

「きっと、大丈夫よ」

 ヒコは笑った。

 つられてシンカも、ぎこちなくだが笑みを浮かべる。

「そこから始まるのか。俺の、時間が……」

「うん、そうよ。だから、がんばりましょう!」

 ヒコの力強く……その声が、態度が空元気だとわかっていても……シンカは胸の中が暖かくなるのを覚え、久しぶりに笑った。



「ねーリッちゃん、調べ物ってまだ終わらないわけ?」

 この情報棟にこもって三十分ほどだろうか。すでにヒコは退屈しきっていた。

 ヒコは手持ち無沙汰になり、携帯電話を無意味にいじっている。試しに家にかけてみたが、呼び出し音すら鳴らない。そしてこの閉鎖空間だが、なぜか時計だけはしっかり動いていた。すでに十一時を回っている。

 ……最も、その時計も当てにはならないのだが。

「リッちゃん、聞いてるの?」

 リツギはどうもインターネットを使って何か調べているらしく、話しかけても生返事しか返ってこない。

「もう少しだ。色々と面白そうな事になってきたぞ」

「さっきからそればっかり……」

 そして、電気といい、インターネットといい、この閉鎖空間は外部に脱出する事ができないだけで、ある程度は現実に繋がっているらしい。

(これが、あたしのいた時間の裏側ってこと?)

 今さらながら、窓を割っての進入は失敗だったのでは、と思いたくなる。もしかすると、現実では今まさに、犯人を捜して警備員がうろついているのかも知れない。

 ヒコはどうにも落ち着かなくなり、椅子から立ち上がると、所在なげに歩き回る。本来、情報棟は埃や泥を持ち込まない為に、出入り口で上履きに履き替えてから入って来るのだが、ヒコ達は土足のままだ。リノリウム張りの床の上には、よく見ればうっすらとヒコ達の足跡が残っている。

(……足跡から犯人ってわかるのかしら?)

 もちろん、指紋もしっかり残っているだろう。ヒコはテレビの特集番組で、警察が現場で足形を取ったりする場面を見た事があった。

(えーと、誰に謝ったらいいのかわかんないけど……ごめんなさい……)

 ちくちくと、罪悪感が胸を刺す。

 しかし彼女の葛藤など知らないリツギは、まったく見当違いの言葉を投げてよこした。

「どうしたヒコ、トイレか?」

 言葉の衝撃に、思わずヒコは何もないところで転倒するところだった。

「   っな!」

 振り返ると、リツギは画面から目をそらさず平然とした様子でさらに言った。

「我慢は身体に良くないぞ」

「……っ、こんな状況で行けるわけがないでしょ!」

 机を両手で叩き、ヒコは顔を真っ赤にして怒鳴る。

「ちなみに情報棟にトイレはないぞ」

「…………」

「ヒコに残された選択肢は、教室棟に不法侵入その二。もしくは、元いた中学校の家庭科棟に戻るかだ」

 さぁ、どうすると問われても、これではまるで、よっぽどトイレに行きたくて切羽詰まっているようではないか。

 だがしかし。

(そんなの絶対に嫌っ!)

 一人になりたくないし……何より、恥ずかしい。

(リッちゃんって……案外デリカシーないよね……)

 もう少し、微妙な乙女心とか、状況を考えて欲しいものである。

 そしてヒコの沈黙をどう受け取ったのか、シンカが立ち上がった。

「俺が一緒に行くよ」

「え……?」

 しばし重いのか軽いのかもよくわからない沈黙が満ち……その間を、リツギのマウスをクリックする音が、妙に場違いに聞こえた……ヒコは先ほどの怒りとはまた違う感情で顔を真っ赤にし、その様子を見たシンカは、さすがに失言だと気づいたのか、これまた顔を赤くしてうつむく。

「……家庭科棟に戻るわ」

 やがて、ヒコはぽつりとそれだけ言った。



 ヒコとシンカは、最初の進入路とは別の窓から外に出た。もちろん、今度はガラスを割るような真似はせず、内側のクレセント錠を外して窓を開ける。

 グラウンドを横切り、中学校の第二グラウンドに向かって歩を進める。情報棟を振り返ると、そこだけぽっかりと明かりが点き、窓が闇の中に浮かび上がって見えた。足下すらもよく見えない場所では、その明かりはひどく暖かく思え、今さらながら不安が募る。

(戻った方がいいのかも……)

 そう思った途端、急に周囲が明るくなった。

 グラウンドの向こうにある校舎の電灯が一斉に点いたのだ。

「電気が……」

 互いに顔を見合わせる。と、すぐにシンカは意を決したように歩き出す。

 校舎に向かって。

「ねぇ、ちょっと。どこに行くわけ?」

「もちろん、校舎だ。あいつは……あそこだ。来いって誘いをかけているんだよ。こうなったら、危ないのはどこにいても一緒だ」

 ヒコはリツギを呼びに戻るか、シンカと一緒に行くかどうか迷ったが、結局……シンカの後を追った。

「ま、待ってよ!」

 シンカの足は速い。すぐに一番近くの校舎に向かうと、ためらいなく扉を開けて中に入ってしまう。

「鍵とか……かかってないみたいね」

 窓はすべて閉ざされていたが、出入り口の鍵だけは開いているようだ。

 ヒコは出入り口からこそこそと中をのぞき込む。外から見た通り、すべての照明が点灯し、内部は明るい。シンカはすでに階上に向かったのだろう、階段を登る足音が少しずつ遠ざかって行く。

「もうっ! あたしの事、すっかり忘れてるでしょ」

 口では軽く言いながらも、ヒコは不安だった。照明がちらちら揺れる度に落ち着かず、窓外の闇や角の向こうから何か迫って来るのではないかと思わず想像してしまう。

 実際、クラウンは唐突に現れるのだ。

(どうして夜の学校ってこんなに怖く感じるのかしら)

 恐る恐る、それでもやや早足にヒコは階段を駆け上がり、踊り場でそっと呼びかける。

「シンカ?」

 返事はない。

 二階の廊下に出て、左右を見回すが、そこには誰の姿もなかった。

「ちょっと、勘弁してよ。どこにいるのシンカっ!」

 思わず廊下を走り出したが、教室の扉はどれも閉ざされている。そのまま反対側の端まで駆け抜け、さらにそこにあった階段を使って一気に三階まで突っ走る。

「シンカっ!」

 走りながら呼びかけたが、返事はない。そして三階の廊下も、二階と同じくまったく人の気配はなかった。

「そんな……」

 ヒコは肩で息をしながら、壁に手を這わせてゆっくりと廊下を進む。

(リッちゃんの所に帰ろう……)

 鼓動が早く、呼吸が乱れる。それは階段を駆け上がった事だけが原因ではないだろう。

 廊下の真ん中当たりまで進むと、あろうことか急にすべての照明が消えてしまった。

「ひっ!」

 ヒコは思わず悲鳴を上げそうになる。急に闇の中に突き落とされた為、ほとんど夜目が利かない。自然、歩みも止まってしまう。

 そして……。

 聞きたくない音を聞いた気がした。

「やめてよ……」

 足音が、する。

 ヒコは身を隠す場所を探して周囲を見回すが、ここは廊下の真ん中。隠れる場所などない。教室の中に逃げ込もうかと思ったが、手近なそこはしっかり施錠されていた。

 がたがたとドアを揺すってみたが、ドアは頑として開かない。

「シンカ? シンカなの? だったら返事をしてよっ!」

 恐怖と焦りにヒコの声は悲鳴のようになる。

 突然、ぱっと廊下の照明がついた。

 まぶしさに、ヒコは思わず顔を手で覆う。

 そして、顔を伏せたヒコに声がかかる。

「こんな所で、どうしたんだい」

 優しくかけられた声に、ヒコは二重に驚く。

 その声は、シンカでも、リツギでもなかった。

 ここはクラウンによって閉鎖された場所だ。故に、シンカと……そして、自分達しかいないはず。

 ヒコはおずおずと顔を上げ、その人物の姿を眺める。

「もう下校時間なんてとっくに過ぎているよ」

「あ、あの……」

 廊下の向こうから歩いて来るのはリツギと同じ……つまり、この高校の制服を着た青年だった。

 彼は廊下の真ん中でしどろもどろしているヒコを見て、あぁ、とつぶやく。

「君は、隣の中学校の生徒だね。肝試しでもしているのかい?」

「いえ、その、あの……えーと、つまり……」

 続く言葉が出てこない。

 もしかして、空間に閉じこめられた事が錯覚で、偶然居残っていた生徒に見つかったのかとも思ったが、ちらりと窓外に視線を向けても、見えるのは闇ばかり。いくら住宅街の真ん中に学校があるとはいえ、まったく明かりが見えないという事はないだろう。

(それともこの人……閉じこめられた事に気づいていないの?)

 ヒコとリツギが気づかないうちに引き込まれたくらいだ、その場にいた男子生徒も同様にその犠牲となってしまったのだろう。

 そうやって結論づけると、途端に慌てふためいていた自分が馬鹿らしくなる。

(でも、どうやって説明しよう……)

 この状況に何の不自然さも抱いていないような人間に、一体どうやってシンカの事を説明し、彼らの置かれた状況を伝えればいいのだろう。

「ヒコ、電気がついたのか……」

 その時、角を曲がってシンカが現れた。

 だが彼は、廊下に立っていた人物を見た途端、その場で硬直する。

「シンカ……どうしたの?」

「お前……」

 シンカは、ヒコを見てはいない。その向こうの存在に気を取られている様子だ。

「あ、この人も閉じこめられたのかな、と思って……」

 だがシンカは男子生徒から視線を外さないまま、じりじりと後退していく。

 その顔に浮かんでいたのは、驚愕と……恐怖。

「離れろ、ヒコ。そいつは……そいつはっ!」

 え? とヒコは首を傾げる。何が起こっているのかわからず振り返ると、男子生徒の姿はそこになく、代わりに白く膨れあがったあの巨体があった。

「クラウンっ!」

 ヒコは反射的に走り出す。背中に、あの奇妙な笑声が届くが、相手の様子まで見ている余裕はない。

 そして逃げるヒコを追うように、彼女の間近の窓ガラスが割れた。思わず足を止めかけたが、ヒコを追いつめるように次々と窓ガラスが見えない手で打ち砕かれていく。

「いやっ、もうやめてっ!」

 ヒコの悲鳴を打ち消すように、ガラスの砕ける音が重なる。何度もガラスの細片をかぶったが、もう構わず走り抜ける。

「ヒコっ!」

 近くまで走って来たシンカに追いつき、思わずその腕にすがりつく。

「まだ走れるか? ここから逃げるぞ」

 ヒコはうなずき、シンカの腕を離さないままちらりと振り返った。

 クラウンは先ほどの位置からまったく移動していなかった。廊下に散ったガラス片が、蛍光灯に照らされて光をまいたようだ。

 と、破裂音がして蛍光灯のひとつもまた、砕け散る。途端に廊下の一角が暗くなり、クラウンの姿が闇の中に隠される。だが相手はゆっくりと歩みを進め、すぐに明かりの中に姿を見せる。

 今度は、あの男子生徒の姿をしていた。

「……あの人は、一体誰なわけ?」

 階段を駆け下りながら、ヒコはシンカに問う。答えが返ってくる事は、期待していなかった。

 だが、シンカは前方に視点を据えながら一言だけつぶやく。

「クレハ……」



 情報棟へ駆け戻った二人に、リツギは驚いたような顔を向ける。

「急に校舎の電気が点いたかと思えば、消えたりする。お前達はなかなか戻って来ないし、心配したぞ」

 それでも、入れ違いになるのを恐れてリツギは動かなかったらしい。息を切らし、ぺたりと床に座り込んでしまった二人に彼は安堵の息を吐く。

「リッちゃん~怖かったよ~」

「よしよし。その様子だと、何かあったな」

「あったなんてもんじゃなかったわよ。クラウンが出たのよっ!」

 勢いを付けて立ち上がると、制服の至る所からガラス片がこぼれ落ちる。幸い、傷は負っていない。

「ボスは出て来たが、どうにか逃げ帰ったと」

「うん、そう。急に男の人が出て来たんだけど、化け物に変身したのよ。その後はガラスは割れるし、あれが追っかけて……来たかどうかは見てないけど。あ、シンカ、さっき言ってたクレハって誰の事?」

 くるりと振り返ってヒコはシンカに話を向ける。

 だが反応したのはリツギの方だった。

「……クレハだと?」

「そうよ。シンカがね……。あ、あのね。最初にリッちゃんと同じ制服を着た男の人がいて、その人がクラウンだったわけ。それで、変身した人の事を聞いたらシンカがクレハだって言うから……」

 待てと言うように、リツギは片手を上げてヒコの言葉を止める。

 リツギは思い悩むように顎に手を当て、未だに座り込んだまま動かないシンカの側に歩み寄る。

「ここに、クレハがいるのか? 本当に、その人物はクレハだったのか?」

 シンカは答えない。ただ緩慢に首を振っただけで、その態度は肯定とも否定とも取れない。それでもリツギは諦めず、シンカの前に膝をつく。

「シンカ。よく聞け、その男子生徒の名前は、神宮司じんぐうじクレハだろう?」

 ぴくりと、シンカの肩が動く。

「えっ? リッちゃんはその人の事、知ってるわけ?」

「ふぅむ、知っているというか、何というか……」

 リツギは髪をかき回す。その様子は、ひどく途方にくれたように見えた。

「僕の聞いた話では、神宮司クレハは、昨年の春に死亡している」

「そんな……あの人、死んでるの……?」

 ゆるやかに不安がはいのぼってきた。

 閉鎖空間に化け物、さらに死人まで出て来たとくれば、話は本格的にホラーじみてきた。ヒコはある程度そういったネタは好むが、自分から幽霊スポットに足を踏み入れようとは思わない。

 ヒコは背筋が寒くなり、思わず両腕で身体を抱きしめる。

 リツギは動こうとしないシンカの様子を見て、ひとつ息を吐く。

「どうやら、また少しばかり記憶が戻ってきたようだな。ならば話は早い、ここで一気に過去を取り戻すとしよう。異論はないな   神宮司シンカ」

 リツギの言葉に、シンカはゆっくりと顔を上げる。そして毅然とした態度でうなずいてみせた。

「……ようやく頭の中がまとまってきたよ。けど、いざ思い出してみると、どうして忘れていたのか不思議だ」

「どうやら。姓名両方とも判明した事で記憶が連鎖的に甦っているようだな。どうやら君の記憶は失われているというより、一時的に思い出せない状態に陥っているだけのようだ。記憶に繋がる糸の端を見つければ、いずれすべて思い出すだろう」

「難しい事はわからないけど、なんだか一気に色々な事が頭の中を巡っていて……目の前がちかちかする」

 額を抑えながらシンカは立ち上がる。三人は未だに出入り口前にいた為、ひとまずもといた教室内に戻ると、椅子を持ってきて座った。

 シンカは膝の上で手を組み、何から言い出そうか考えあぐねているようだった。だが最終的には悩む事が面倒になったのか、重く息を吐いてから告げる。

「……クレハは、俺の兄だよ」

 反応は、二通りだった。

 リツギは眉ひとつ動かさない。やはりそうかとでも言いたそうだ。しかしまったく事情を知らないヒコは一気に混乱した。

「シンカの兄弟? でも、さっきリッちゃんが亡くなったって言ったし。そもそもどうしてお兄さんが襲ってくるわけ? クラウンじゃなかったの?」

 思いついた端から疑問を並べ立てるヒコに、シンカはわかっていると言う。

「クレハは死んだ。あれは……違うっ!」

 シンカは手近の机を叩く。空の机は妙に音が響き、ヒコはその衝撃にびくりと身を震わせた。

「じゃあ、あたし達が会ったのは何者なの……?」

 そこへ、それまで沈黙していたリツギが割って入る。

「その神宮司クレハだが。彼は自殺した。昨年、この学校の屋上から飛び降りてな」

「この、高校で……? あ、そういえばこの間テレビ局の人が来ていたときっ!」

 リツギは「過去にあった事を振り返っている」と言っていたが、それは暗に神宮司クレハの件を指していたのではないのか。

「リッちゃん、最初から知っていたんだ」

「名前くらいはな。だが事件は昨年の春休みに起こった。だから僕も入学前で、その人物に直接の面識はない。当時、二年に進級を控えた男子生徒が自殺した……それだけしか知らない。最も、その件で入学式は遅れたがね」

 一年前といえば、ヒコも同時期に隣の中学校に入学している。しかし彼女はリツギの入学式が通常より遅い事には気がついていたが、「高校はそんなものだろう」「自分だけ春休みが長くてずるい」程度にしか考えていなかった。

「もしかしてさっき調べていた事って、それなわけ?」

「さすがに実名や学校名を出すようなサイトは見つけられなかったが、掲示板の過去ログをあさってだな……」

「あー、ごめん。ネット関係はさっぱりだから、できたら結果だけ教えて」

「ふむ、そうか。とにかく調べた結果だが、ありがちなオチしかつかなかった」

「と、いうと?」

「男子生徒の自殺した原因として挙げられていたのは、受験、いじめ、家庭問題……まぁ、その辺だな」

「嘘だっ!」

 シンカの突然の叫びに、ヒコは身を縮める。彼は自分の声量が意外だったのか、気まずそうにうつむいてしまう。

「……そんなもの、全部嘘だ」

「ならば、君は真実とやらを知っているのかい?」

「それは……」

 シンカは視線をさまよわせる。その様は、ひどく狼狽いし、落ち着きを失っている。リツギは小さく息を吐き、顔を背ける。その向こうには、先ほど彼が使用していたパソコンがあったが、すでに電源を落としたのか、画面には何も映ってはいない。隣に座っているヒコの耳に、リツギが小さく、尋問しているつもりはないのだがな、とつぶやくのが聞こえた。

「まぁ、ネット上の書き込みなど、匿名性を利用して何も知らない人間が、それこそ面白半分で適当な話をでっち上げてしまう事は良くある。……殺人説なんて代物もあったくらいだ」

 ヒコは弾かれたように顔を上げる。その様子を見ても、リツギは表情を変えない。ずっと感じていたが、リツギはこの異常な状態に放り込まれても、まったく動じていないような気がする。……最も、ヒコと違って表に出ないだけなのだろうが。それでも、先ほどから率先して動いていたのは彼だけだ。ヒコがわけもわからず震えている間に、リツギはシンカの過去を……つまり、クラウンに引きずり込まれた原因を調べていたのだ。

 いや、彼女が相談を持ちかけた時から彼の推理ははじまっていたのだろう。そしてシンカという単語を聞き、そこから情報を集める事で、ようやく彼の中で事実というパズルが組み上がったのだろう。

「殺人って……その人、殺されの?」

 その言葉は自分にとって、一番縁遠いものだ。そしてシンカは、今度は怒りの形相で身を震わせる。

「そうだ……クレハは殺されたんだ!」

 シンカは腰に挿した木刀を取り出す。ほとんど持ち手の部分だけしか残っていない、木片と呼んでも差し支えないような代物だ。

「これは俺の木刀だ。けど、なぜかあの日、校舎の屋上に落ちていた。……真っ二つに折れてな。破片の一部は、真下の植え込みあたりにも落ちていたらしい。相当強い力で何かを殴りつけなければ、こうは折れないだろうな」

「それをお兄さんが使ったの?」

「恐らくな。俺の部屋に置いてあった物だから、持ち出すとしたらクレハしかいない」

「つまり、それは君の兄が屋上で何者かと格闘したという証拠か」

「誰も信じなかったけどな」

 破片を組み合わせるときれいに一本の木刀が出来上がったので、壊れたのは屋上に間違いないだろうという話だったが、その殴った対象が何かは不明のまま片付けられてしまった。

 その場にいたとおぼしき第三者は、最初から存在しないものとされたのだ。

「……屋上に遺書はなかったよ。後で警察が家に来て、部屋中引っかき回して行ったけど、それらしい書き付けもなくてさ。あれこれ振り回されている間に通夜だ、葬式だっていう話になって、それで終りだ。皆、クレハが死んだ理由を知らないまま……そのことに触れるのもタブーだとばかりに、隠してしまった。俺が何度尋ねても、お前が気にする事じゃないの一点張りだ」

 子供に心配をかけまいとする親心。

 いや、彼らもまた、突然の出来事に混乱し、真相を知る機会を与えられないまま、曖昧に逃げる事で誤魔化していたのだろう。

「そしてシンカは一人で原因を探ろうとした、と」

「よくそこまでぽんぽん考えられるな」

「簡単な推測だ。君が兄の死を自殺だと納得できなかったのなら、自分で何とかしようと思うだろう。そして君はここに……兄が自殺した高校にやって来た。そうだろう?」

 シンカは肯定の意を示すように首肯する。

「俺は、クレハが自殺するなんて信じられなかった。だから、この学校に忍び込んだ」

「よく入れたわね。普通、そんな事件のあった場所って人も集まっていそうだけど」

「そんなもの、事件当日くらいだろう。人間の関心なんてうつろいやすいものだ」

 リツギの言に、シンカもうなずく。

「まぁ、遠巻きに眺めているような感じの人達はちらほらいたけど、割とすんなり入れたよ。校舎内も扉には鍵がかかっていなくて、屋上まで……簡単に、入れた」

 シンカは言葉を切ると、木刀を握りしめる。

「だけど、そこにあれがいたんだっ!」

「クラウンね……」

 シンカは自嘲気味に笑う。

「驚いたよ。だって俺は確かに葬式に出て、クレハの棺もそこにあったのに……全部が夢だったみたいに、普通に立って笑っていたんだ。やぁ、シンカってな」

 木刀を握りしめる手が、微かに震えている。ヒコは気づいていたが、無視する。彼は今、過去の体験を必死になって言葉にしようとしているのだ。

「何が起こっているのかさっぱりわからないまま、俺は屋上の端まで追いつめられて……そのまま、落ちた。これで死んだと思ったよ。けど、気づけば、砂漠みたいな場所に転がっていた」

 ヒコも落ちてしまった、何もない荒野。

 砂の一粒に至るまで、生命を感じさせない冷え切った世界。ヒコがそこに入り込んでいた時間はわずかなものだったが、それが延々と続くとなると、想像しただけで身震いする。

「そこからは、延々と奴との追いかけっこだ。時間もわからないし、たまにあの変な場所から出られたと思ったら、誰も俺が見えていなくて……仕方なく、座って勝手に授業を聞いていたよ。どうも、この高校か、中学しか動けないらしくてな」

「なんか、聞いているとクラウンって地縛霊みたいね。ほら、死んだ場所とか、生前に思い入れのあった場所から動かない幽霊。あれにそっくり」

「それで一緒になって俺まで学校に縛り付ける。……たまったもんじゃない」

 学校も、今はもぬけの空だが、日のあるうちは大量の人間がいる。その中を、誰もが自分を見えない者として扱い、さまようことしかできない。

(あたしも、今は幽霊みたいに他の人には見えないのかな?)

 だとすれば、それはとても……怖い事だ。

 ヒコは服の端を握りしめる。

「どうやら、当たったな」

 想像に沈んでいたヒコを、リツギの声が引き上げる。

「神宮司クレハの件には、後日談がある」

 沈んだ声。それでもリツギははっきりと顔を上げ、碧眼をシンカに向ける。

「二人目の自殺者。その人物は神宮司が自殺した数日後。屋上で後を追うように倒れていたらしい。その人は、死亡した神宮司クレハの兄弟だったそうだ」

 空気が重くなっていくような気がして、ヒコは息苦しさを覚える。

「……俺は、死んだのか?」

 シンカの顔色が、青を通り越して白くなる。

「そこまではわからん。色々と憶測は飛び交っていたがな。服毒自殺だの、手首を切っただの……。ここの備品に、過去の新聞を収録したCDがあったから、それも読んでみたが、何も記事はなかった。恐らく、同時期に某所で大きな事件があったから、掲載のタイミングを失ってそのまま忘れられたのだろう」

「俺は死んだ。それじゃあ……ここにいる俺は何者なんだ? 本当に、幽霊なのか?」

 シンカは自分の手をじっと見る。まるで今にも透けて消えてしまうことを恐れ、救いを求めるように二人の顔を交互に見たが、ヒコはかける言葉を見つけられず沈黙するしかない。

 答えたのは、リツギだった。

「さてね。僕も色々考えてみた。いくつか候補はあるが、どれもこれも穴だらけの推論でしかない」

「推論でもいい、あんたの考えを聞かせてくれ」

 シンカの真剣な様子に、リツギは一度足を組み替えて間を取ると、話しだした。

「ふぅむ、ひとつは、君がすでに死者の列に加わっている場合だが……。これは簡単だ。君が先ほど言った通り、君の存在はすでになく、魂だけが生前の姿をとってさまよっている状態。それなら君が昼間に誰からも顧みられない事も説明がつく」

「生きているって思いこむのも、幽霊の常套手段だからな」

「まぁ、その辺の話は後にして。次に、君が今も生存している場合だが……。君は平行する別世界に紛れ込んでしまっているだけで、肉体と精神は今も立派に活動しているというのはどうだろう。これは周囲にとって、君が見えないというより、君のいる世界そのものを認識できていないと考えられる。僕のいる世界で君の扱いがどうなっているのかは不明だが、行方不明にでもなっているのかもしれんな」

「メビウスから、今度は平行世界パラレルワールド? なんだかホラーからファンタジーになってきたわね」

「呼び名など、この際どうだって構わん。今や僕達もまた、その表でもなければ裏とも呼べない世界に引きずり込まれてしまったわけだ。この不可解な世界を作り出した元凶を、クラウンという存在だと仮定してほぼ間違いないと思う。だが……すべては推測だ。君の生存どころか、僕達もすでに生きているのか疑わしいものだ」

「そんなっ! あたし達も死んじゃったわけ?」

「あくまで仮定の話だ。……だが、ここが死者の世界なら、あり得る話だ」

 言葉を失い、呆然としているヒコに、リツギは不意に笑ってみせた。余裕のある笑みだ。

「それでも、僕は僕が生きていると信じる。もちろん、君達もな」

 しかしシンカは、リツギに疑わしげな目を向ける。

「その、根拠は?」

 問いかけに、リツギはこれは僕の持論だが、と前置きする。

「死人というものは……当たり前だが、動きはしない。身体も……心も。死の瞬間から、時間を積み重ねるだけの過去になる。過去に生きていた時間枠の中で、ただ静かに止まっているだけだ。そして死人の囁く言葉は、常に同じだよ。それ以上、何者にも変える事はできないのだからね」

「そうよ、確かにシンカも……今のあたし達も、ちゃんと言葉を交わして自分の考えを持っているわ」

 シンカが死者だというのなら、彼が見せる感情の揺れはどこから来るのだろう。自分達の意志は……心は、どこにあるのだろう。

「言葉を交わし、感情をむき出しにして怒りを向ける事ができるのは、生きている人間だけだ。シンカは……僕達は、今、他の人間と同じ時間を歩んでいないだけで、生きている人間と何も変わりはしない」

「だから、生きている……帰れるっていうのか?」

「戻れる保証なんてない。それでも、必ず帰るのだよ」

「リッちゃんの言う通りよ。方法なんてわかんないけど、大丈夫だって。だって心臓も動いているし、影も足もある幽霊なんておかしいじゃない!」

 ヒコが明るく笑う。

 と、それを打ち消すように、すべての照明が一度に落ちた。

 突然、暗闇に放り出され、明かりに慣れていた目はとっさに対応できず、三人は文字通り何も見えなくなる。

「きゃっ、ちょっと。何これ、嫌がらせってわけ?」

「恐らく、精神的なイジメだな。相手は相当程度、根性が曲がっていると見た」

「……あんた達、どうしてそう気楽なんだ」

 明かりがなくとも、シンカのあきれている様子が声でわかる。

「別に、僕も何とかなるなどと適当にやっているわけではない。本当は僕も、状況を克服する為の手段がなくて途方に暮れたいところなのだよ。だが、三人も人間が集まってただうじうじ悩んでいるだけなのも、正直耐えられなくてな」

「強いんだな」

「言っただろう。ここには三人もいる。君は一人ではない。少なくとも、ヒコは諦めてはいない様子だぞ」

 ヒコも電気が消えた当初はきゃぁきゃぁと叫んでいたが、すぐにどうこうなるわけでもないとわかると、すぐに大人しくなった。

「さてと、どうするリッちゃん」

「ふむ、仕方がない。その現場とやらに行ってみるか」

「え……屋上に行くのか?」

「どこの校舎の屋上か、僕は知らないからな。案内を頼むぞ、シンカ」



「……星が見えないね」

 ヒコのつぶやきに、他の二人も改めて空を見上げる。彼女の言うように、空には一片の星も見えず、墨を流したようにのっぺりと塗りつぶされた空間があるだけだ。

「あぁ、そうだな。実を言えば、先ほどから時計がおかしい」

 指さす先には、校舎の壁面に取り付けられた時計があった。見ると、七時半を指している。

「え……さっき、十一時くらいじゃなかったけ?」

 自分の携帯電話を見ると、九時と少しだった。リツギに至っては、バッテリー切れなのか、液晶ディスプレイは何も映していない。

「……本格的に異空間じみてきたわね」

 ヒコは息を吐くと、諦めて携帯電話をポケットにしまい込む。次いで顔を上げると、少し先を無言で歩くシンカの後ろ姿が見えた。

 彼はヒコ達を案内し始めてから、一言も口をきいていない。

(まぁ、当然かもね)

 シンカが向かっているのは、実兄が飛び降りた場所であり……今に至る現象の発生地点でもある。シンカが記憶を失っていた頃、気分が悪くなるので行きたくないとこぼしていたが、無意識のうちにその場所を避けていた故の反応だろう。

 ヒコはさらに気分が下降していくのを感じながら、彼の後を追いかけて行く。

 彼が案内する先は、学校の中心となる校舎だった。ヒコも正面玄関前からよく見ている、一番大きな建物だ。しかし実際に入った事はないので、ヒコには内部構造がよくわからない。だが見ていると、ここは生徒用が普段授業を受けるような教室はなく、音楽室などの実習室が占めており、一階部分は教職員関係の場所となっていた。

 そしてヒコ達は屋上に向かって歩を進める。

 一階、二階、そして……三階。

「あの向こうだ」

 シンカは見るのも嫌そうに、顎でその場所を示す。

 階段の上に、屋上へ通じる扉があった。

「あそこね……」

 ヒコはざわざわする胸を押さえながら、ゆっくりと最後の階段を上って行く。

 と、不意に微かな音が聞こえる。それは震動にも似た低い音だ。

「待て、ヒコっ!」

 リツギの声に、ヒコは立ち止まる。

 出し抜けに視界が傾き、足下が大きく揺れた。

 窓枠ががたがたと震え、どこかで物が倒れる音が聞こえる。

「地震?」

 思わず壁に手をつく、とても立って歩けるような状態ではない。

「なんでこんな時にっ!」

「こんな時だからだろう、手の込んだ事をしてくれる」

「おい、外を見ろっ!」

 シンカの声に、二人はどうにか窓の方に顔を向ける。

「空が……」

 それ以上は言葉にならない。

 漆黒の空が、刻々とその色を変えていた。黒を浸食するように、赤が……血のような色が広がり、黒と混ざって奇妙なマーブル模様を作り上げていく。そして赤い空から同色の光が漏れ出して校舎を照らし、世界が赤光に染め上げられる。

「なによ、これ……」

 揺れは収まらない。

「ヒコ、下だっ!」

 かけられた声に反射的に足下を見る、それと同時にずぶりと足が床に埋まった。沼地にでもはまったような、重くて冷たい感覚が広がっていく。

「い、いやっ!」

 腕を伸ばして助けを求めようとしたが、リツギとシンカも同じようにして床に足を取られている最中だった。

 悲鳴を上げる余裕もなかった。ヒコはそのまま何も抵抗もする事ができず、床に飲み込まれ……暗い闇の中に投げ出された。



 ……キィンコォン

「っ!」

 ヒコは音に肩を震わせ、飛び上がる。

 カァンコォン……

 多少間延びした、人工的な鐘の音。

 どきどきと早くなる鼓動を抑え、ヒコは顔を上げた。

 自分は床に飲み込まれたはず。それなのに、今は外にいる。地面も硬い。

「ここって……高校の正面入り口だっけ?」

 あたりを見回す。予想は間違いなさそうだ。高校内に立ち入った事はあまりなかったが、正門の前まではよく来ているのですぐに場所はつかめた。

「リッちゃん、シンカ!」

 呼びかけても、返事はない。その場にはヒコ一人だけだった。

 スピーカーから流れる音は、すでに消えている。

「なんで、突然チャイムが鳴るわけ?」

 そこでヒコは顔を上げる。不気味なマーブル模様の空に浮かぶ、校舎のシルエット。そして三階の壁面には丸い掛け時計が見え、白い文字盤が赤光の中に浮かび上がっている。

「十時、二十五分……あれ?」

 ヒコはふと、足を止める。

 今の感覚に、覚えがあった。

「あたし、ここに……いたの?」

 ずっと以前にも、こうやってチャイムの音に顔を上げ、時刻を確認した事がある。

 そう、あれは……

「……春休みだ」

 ヒコは昨年の春、中学校に出来上がった制服を取りに来ていた。その帰りに一緒に来ていたリツギと共に、高校の敷地内へ入った事がある。

 春休み中という事で、敷地内にはほとんど人影もなく、ヒコは用事を済ませてくると言って校舎内に消えたリツギを待って、正面玄関前のロータリーあたりをぶらぶらしていた。

 手には、制服の入った大きな衣装箱、足下にはビニル袋に入った学生鞄がある。

(なんで春休みなのにチャイムが鳴るんだろうって……)

 そしてチャイムに顔を上げたヒコは、屋上で何かを見た。

「……そうだ。動いている人影みたいなのがあったから、もっと近づいてみようと思って……」

 太陽がまぶしくて、よく見えなかったが確かに誰かがそこにいた。

 どうして屋上に人が。そう思っていると、何かが折れるような音が聞こえ……屋上から小さな影が飛び出し……ヒコの側に落下した。

 落ちてきたのは、ヒコの腕ほどの長さがある木片。

 危ない、と憤っていると、戻ってきたリツギに声をかけられ、ヒコはすぐに屋上の影も、落ちてきた木片も忘れそのまま高校から出て行ったのだ。

「  君は、僕を見たんだよ」

 背後からかかった声に、身を震わせる。ゆっくり振り返ると、そこには例の男子生徒が一人立っていた。

 神宮司クレハ。

 よくよく見れば、彼の容姿は見慣れた印象を残している。シンカと並べて立たせれば、誰もが兄弟と納得するだろう。

 しかしその姿も、上辺だけのものでしかないのだ。

「そこから、俺の作った輪はゆっくりと崩壊を始めたんだよ。編み上げた服をほどくように、少しずつだが、確実に布が糸に戻って行くように」

「そんな、あんなの覚えてなかった! 今だって、チャイムの音を聞かなかったら思い出すこともなかったわ。それに、あたしは見ていただけ。なのに、どうしてあたしに空間なんて大それたものが壊せるのよ!」

 思わず叫ぶようにして訴える。

 だが、彼は黙って首を振った。

「輪は、もろい。視線の一本で穴が空き、やがてそこから崩壊する。視線は針のようなもの。特に、人間はな。俺を生み出したのは人間だから、人だけが俺を壊す」

「……クラウンを作ったのは、人間?」

 つぶやきに、彼は……青年の姿を取る存在は、口元を歪め、どこか酷薄そうな笑いを浮かべた。

「そうだ。人間の妄想。幻想。振り返った瞬間に見る、ありえないもの。その狭間に落ちた存在がクラウンだ。けど、ありえない存在は、誰の目にも触れない。だから寂しくてさ、もうずっとずっと……俺を見つけ出せる者を探していたんだよ」

「それが、シンカだっていうわけ」

 シンカ……そして、輪に押し込められた自分。いずれリツギも彼の姿を見出すだろう。

 冗談ではない、とヒコはじりじりと後退る。相手はヒコの事などすでに視界に入っていないのか、くつくつと低い笑声を漏らす。

「そうだろう、シンカ?」

 ぐらり、とヒコの足下が揺れ、倒れ込みそうになる。そのときには周囲の景色が変わっていた。

 マーブル色の空はそのままだが、先ほどよりも近くに感じる。むき出しのコンクリートの床。それを目で追っていくと、向こうはすっぱりと途切れ、先がない。

 高い場所だ。

 隣には、別の校舎の屋根が見えた。

「ここ、屋上だ……」

 瞬間的に、ヒコは場所を移動したらしい。

 そして、ここが……すべてのはじまりの場所。

「ヒコか」

「っ、リッちゃん!」

 声に振り返ると、リツギが眉根を寄せて腕を組んでいた。

「ふぅむ、シンカもここにいるとなると……あそこにいるのが、神宮司クレハか」

 シンカもヒコ達と同じ場所に立っていた。二人とも、ヒコと同じように急に場が変わったのか、驚愕を隠せない様子だ。

 そしてクラウンは……クレハは、自らを哀れむように肩を震わせている。

「ここには俺しかいないんだ。ものすごく冷たくて。寂しいんだよ。だから、ほら……」

 クレハは己の身体を指し示す。身体に染みのようなものが浮かび、瞬く間に身体を浸食し……穴が空いた。いくつもの穴が穿たれ、その向こうにマーブル色の景色がのぞいて見える。

「心が寒いんだ。凍えてしまうよ。ねぇ、シンカ。こんな姿、哀れだと思うだろう? 助けてくれよ、冷たいんだ。こんなにも穴が空いてしまった。ねぇ、シンカ、シンカっ!」

 クレハは悲鳴のような声を上げる。まるで人が見過ごす事を許さないような、切迫した声だった。

「わぁぁぁぁぁぁっ! やめてくれクレハっ!」

 シンカは耳をふさぎ、頭を振って声を閉め出そうともがく。

「こんなのは嫌だ。お前は……お前はクレハなんかじゃないっ!」

 終いには手にしていた木刀をめちゃくちゃに振り回す。無論、届くような距離ではない。不意に汗で木刀が滑り、手から飛び出したそれはそのままクレハの身体の穴を突き抜け、向こう側に落ちた。その異常な光景に、シンカは恐慌状態に陥る。

「いやだぁぁぁぁぁっ!」

「ちょ、ちょっと、シンカ。落ち着いてよ」

 だがシンカはすべてを拒絶するように頭を抱える。

「まぁ、無理だろうな。よし、ヒコ。ちょっとあの木刀を拾ってきて後ろからシンカを殴ってみろ。そうすれば、少なくとも静かにはなるぞ」

「……永眠させてどうするのよ。リッちゃんもこんな馬鹿話やってないで、なんか方法はないわけ?」

「方法といわれてもなぁ。要はあのクラウンだか神宮司兄だかわからない存在を参ったと言わせればいいのだろう。ヒコ、何か弱点を知らないか?」

「あたしにふらないでよ……。でも、さっきあいつはあたしに話しかけたわ。ううん、その前から、ずっと。輪が壊れたのは、あたしが原因なわけだから……」

 言っている間に、リツギはヒコの背中に回り、その肩に手を置くと、ぐぃっと前に押し出す。

「なに……?」

「さぁ、行ってこい。当たって砕けろだ。日本人のカミカゼ精神とやらを見せてやれ」

「……リッちゃんだって、立派な日本人でしょう。しかも趣味がジジくさいし」

「趣味は関係なかろう。とにかく事態に手が出せるのはお前だけだ」

「なんか、上手い事言って、丸め込まれているだけのような……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、ヒコは駆け寄ってシンカの肩に手をかける。彼の身体は情けないほど震え、縮み上がっていた。ヒコは何事かつぶやく頭を抱えているシンカの両肩を抱くように支えながら、きっと青年をにらみつける。

「どうして、こんな事するわけ?」

 彼はシンカと違い、先ほどまでの取り乱した様子もなく、逆に穏やかすぎるほど静かに立っている。その気配に圧迫感を覚えるが、ヒコは気力で踏み止まる。

「あなたはクラウンなの? それとも、本当にシンカのお兄さん……?」

 答えはない。ヒコは微かに苛立ちを覚えながらも次の言葉を考えようとしたが、身を起こしたシンカにさえぎられる。

「シンカ……」

「……いつもそうだ。あんたは俺が聞きたくないような事ばかり囁いてくる。何がしたいんだ、俺はどうすればよかったんだ。俺を殺したいほど憎んでいたなら、なんであの日、俺を屋上から落として……そのままにしなかったんだよ。俺はこんなのは……もう、嫌なんだっ!」

「っ、違う。違うわよ、シンカ。間違えないで、あそこにいるのはシンカのお兄さんじゃないの。クラウンなの。自分でそう言ったじゃない」

 シンカは頭を振り、ため息を吐くようにしてクレハを斜めに見て……苦々しく唇を噛む。

「あぁ、そうだ。クレハは死んだ。あいつに……クラウンに殺されたんだ。きっと俺みたいに記憶を食われて、空っぽになって……それで、消えてしまったんだっ!」

 シンカはヒコを押しのけて、クレハに向かって行く。

「だから、クレハは自殺なんかじゃない。けど、クラウンがクレハの心を食ったなら、こいつもクレハだ。同じ姿をして、同じように喋るだけなんだろうけど、ここにいるのはクレハだって思いたい。俺はもう、あんたが化け物でも何でもいいんだよ。だから……なぁ、クレハ……俺の話を聞いてくれよ……」

 シンカとクレハは、数歩の距離を挟んで対峙する。

「なぁ、クレハ……俺の木刀なんて持ち出して、何と戦うつもりだったんだ? クラウンは、人によって違うものに見えるらしいけど、あんたにそれは、どんな存在だった? 一体、何に怯えていたんだよ」

 ヒコには、シンカの背中しか見えない。それでも、その肩が小刻みに震えているのがわかる。

 神宮司クレハがどのようにクラウンと……顔のない存在と対峙したのか、それは当人にしかわからない。

 ヒコには最初、クラウンは白く不気味な存在に見えた。今は……人に見える。それはヒコの頭がその存在をシンカの兄として認識したからなのかも知れない。

 シンカはひび割れた声で叫ぶ。

「どうして……どうして、あんたは今もここにいるんだ。あんたは……もう、死んだんだよっ!」

 叩きつけられた悲痛な声音に、クレハの表情が歪む。初めて、相手の言葉に反応し、狼狽する様を見せた。

「答えろよ、クレハ」

「シンカ……」

 穴だらけの身体では動きにくいのか、腕を上げる動作すら、ぎこちない。

「俺は消えたくない、死にたくないんだ。ここは、寒い。……シンカ、お前も来てくれ」

 シンカは強く首を振る。

「クレハ、あんたはもう死んでいるんだ。その証拠に、あんたは同じ事しか言わない。……死人には語る未来がないんだ。あんたの言葉は全部、生きている間の後悔だけ。そこには何もない……空っぽなんだよ」

「っ、つらいんだよ、苦しいんだ。シンカ、シンカっ!」

 クレハはだだっ子のように頭を抱えてわめき散らす。それを眺めるシンカの表情が、泣き出す寸前のようになり……わずかなところで踏み止まる。

「……ごめんな、俺はクレハを助けてやれなかった」

 つぶやく言葉が過去形になっている事に、当人も……そして向けられた相手も気づいているのか。

 クレハは怯えたように顔を上げる。追いつめられた目の色だけが、奇妙に生々しい。

「俺はクレハが何に悩んでいたのか気づなかった。自殺なんてありえないって信じたかった。葬式も途中で逃げ出して、ここへ来たよ。……要するに俺も、クレハの死に、ちゃんと向き合ってなかったんだ。だから、俺も後悔してる。でも、これで言いたい事も言えたし……帰ろう、クレハ」

 シンカはクレハに向かって手を差し出し、少しだけ困ったように笑う。

「シンカ……お前も俺を見捨てて行くのか」

「それは、違う」

「俺はお前を、絶対にここからは出さないよ」

 クレハの顔は、絶望の色に染まっている。だがその目だけが異様な光を帯びていく。

「お前も永遠にここに捕らわれるんだっ!」

 唐突に、シンカが自分の胸を押さえて傾く。

「シンカっ!」

 ヒコは駆け寄り、シンカの肩に手をかける。だが声をかける前に異変に気づいた。

「えっ、影が……」

 赤光に浮かび上がるわずかな影。ちょうどシンカの胸に当たる部分が徐々に薄くなっていく。

「なに、これ……」

 慌ててシンカの胸を見て、ヒコは言葉を失う。

 そこには穴が空いていた。

 クレハと同じような、どこまでも空虚な穴が。

「どうやら、本格的にシンカを食い始めたようだな」

「リッちゃん、そんな! ちょっと待って。そんなの駄目だわ、やめて、早くやめさせてっ!」

「ヒコ……」

 弱々しくかかった声に、ヒコは弾かれたように振り返る。

 シンカは冷や汗を流しながらも、声を絞り出す。

「いいんだ。……元いた時間に戻れたって、俺もどうせ死んでいるんだ。それなら……ここで消えたって、一緒だよ」

「違う、違うっ! シンカは生きてる! 絶対に帰れるんだよっ!」

 だが穴はどんどん広がっていく。胸だけではない、腕や足、至る所に空洞が生まれる。

「待ってよ、消えないでっ!」

 悲鳴を上げるヒコの傍らを、リツギはすり抜け……床に転がっているものを拾い上げる。

 それは先ほどシンカがクレハに向かって投げつけた木刀だった。

 リツギはクレハの前に、折れた木刀を掲げる。

「神宮司クレハ、お前はこれでクラウンに戦いを挑んだ。結果はどうあれ、ただ追いつめられただけじゃない、襲い来る悪夢に抵抗しようとした。だが、今はその経緯を忘れ、ただひたすらに己の身を哀れんで他者を苦しめるだけなのか」

 静かな口調に、クレハは意識をリツギに向け、そして彼の手の内にある木刀を見て微かに目が泳ぐ。

 そこには何かの葛藤が見えた。

「俺は……俺は死にたくない、帰りたいんだっ!」

「ならばここで兄弟を食ってどうなる。さらに絶望へと落ちて行くだけだ」

 崩れるような音にリツギが振り返ると、シンカが床に倒れ伏していた。それでも蒼白な顔を真っ直ぐこちらに据え、苦しそうに声を漏らしている。

「クレハ、ごめんよ。俺、なんにもできなかった。助けられなかった」

 穿たれた穴は残酷に身体をむしばみ、部分的に残った箇所が、かろうじて人間らしい形状を保っているだけ。

 顔を上げたクレハは、倒れ伏した兄弟の姿に……表情を動かす。

「シンカ……」

 クレハはそこで初めて己がしている事を悟ったのか、呆然とした様子でシンカに近づいて行く。

「帰りたい、俺は帰りたいよ……」

「俺もだ。一緒に帰ろう……大丈夫だよ」

 クレハは起き上がる事もできず、消えていく弟に向かってそろそろと指を伸ばし……その指先が、はらりと落ちた。そして次々に、まるで全身の表皮がはがれるように破片が落ちていく。

「……クレハ?」

 全身に無数の細かいひびが入り、割れてはがれ落ちる。その下からはまた別の、様々な人間の顔が浮かんだ。知らない者や、どこかで会ったような者。

 崩壊は、止まらない。

「クレハ  っ!」

 くしゃりと乾いた音を立て、クレハの身体は崩れ落ちる。そして、さらさらと床に染み入るようにして消えた。

「……消えちゃった」

 ヒコは呆然とつぶやく

 わずかな間の出来事だった。

 そして息を吐く間もなく、異様な軋みがあたりを包む。

 音に耳を塞ぎ、空を振り仰いだヒコが見たのは、

「そんな、空が……」

 空が、裂ける。

 空間が割れていく。マーブル模様の空がガラスのように砕け、細片が校舎に降り注ぎ、砕けて散っていく。

 微かな震動が足下から伝わってくる。ヒコは不安を覚えながらも壮絶な光景に見入っていた。

「空間が……メビウスの輪が、砕けていく」

「クラウンが消えた事で、この場の存在が危うくなったのだろう」

「けど、これで帰れるわ。……ねぇ、シンカ」

 振り返って、ヒコは硬直する。

「シンカ?」

 彼の身体が末端から霧のように溶け、蒸発するようにして消えていく。

「ヒコ……」

 痛みはないのか、シンカは呆然とした様子で、徐々に輪郭を失って行く指先を見つめる。

「そんな、クラウンは消えたのに、どうしてっ!」

「そこだ。この空間にシンカを引き込んだ元凶が消えた為、シンカもまた、元いた時間枠に戻るのだろう」

「戻れる、のか? 俺のいた現実に……」

「僕の予測では、間違いないだろう。しかし……」

 リツギは表情を曇らせる。

「……リッちゃん?」

「あんたの言いたい事はわかっているつもりだ。俺のいる現実に、今も俺が生きて、そこに存在しているかどうかは謎ってわけだ」

「そんなのっ! 大丈夫よ、リッちゃんも言ってたじゃない、シンカは死人には見えないって。戻れるわ、あなたのいる時間に」

 ヒコは必死になって言葉を繋げる。早く、早くと自分を急かす。でなければ、伝えきる前に彼は行ってしまう。

 見えない、現実へ。

「だからね、あたしも戻ったら、シンカの事、探しに行くわ。平気よ、リッちゃんならぱっぱと見つけてくれるから」

「ヒコ、最初から人任せは好ましくないぞ」

「と、とにかく。これで終りなんかじゃないんだから!」

 シンカは、笑った。

 そして彼の姿は、水に溶けるように消えていった。

 音もなく、空気の一筋も動かすことなく彼の存在はこの場からかき消えた。

「シンカ……」

 彼は、行ってしまった。

「ヒコ」

 呆けたように立ち尽くしていたヒコに、リツギが声をかける。

 彼は不安そうに眉根を寄せていた。

「大丈夫よ、リッちゃん。ちゃんとあたし、自分の力で探してみせるから」

 小さくガッツポーズを取った。だがしかし、リツギは微妙に焦ったような表情を浮かべている。

「いや、それより。僕達こそこの空間から出られるのかと思ってな」

「あ……」

 気づけば、崩壊は屋上の出入り口を飲み込み始めている。慌てて屋上の縁まで駆け寄るが、もはや他の校舎は見えず、ただただ暗い闇が広がっているばかり。

「ど、どうしよう、リッちゃん!」

「早速人を頼る」

「揚げ足取ってる場合じゃないでしょ!」

「ふむ、それもそうか。ならばヒコ。お前はどうしたい?」

 ヒコに揺さぶられても、リツギは表情を崩さない。あまりの冷静さに、先ほど見せた焦りはむしろ演技だったのではと思いたくなる。

「どうもなにも、この変なところから出るの、あんなブラックホールみたいなのに飲まれて消えたくないわ!」

「ならば、そうしよう」

「は……?」

 リツギの飛躍した思考は読めないが、なんとなくヒコは嫌な予感を覚え、思わず後退る。

 そして予感は見事に的中した。

「ここから飛び降りるぞ」

「なんですって   !」

 ぎゃぁと悲鳴を上げたが、逃げ出す前にがっちり肩をつかまれ、ヒコは捕らえられた獲物のようにずるずると引きずられる。

「…………もう、勘弁してよ」

 二人は並んで屋上の縁に立つ。ヒコはすっかり血の気が失せ、どこか遠いものを見るように視線をさまよわせる。実際、頭がどこかふわふわして地面を踏んでいる感触はあまりなかった。

 屋上は元々、人が常時立ち入る事を想定して作られていないので、フェンスも手すりもない。一段高くなった縁から一歩踏み出せば、そのまま地面まで真っ逆さまだ。

 しかし今は、その地面も境は判然としない。淀んだ色をした、闇とも呼べない何かが広がっているだけ。

 それでも、三階の屋上に立っているという恐怖が薄れるものではなかったが。

 マーブル模様の空と、腕を伸ばした先も見えそうにない闇とを交互に見て、ヒコは目を回しそうになる。

 そんなヒコを支えるように、リツギはしっかりと彼女の肩をつかんで顔をのぞき込む。

「ヒコ……僕は来世なんて言葉は信じていないが、いつかまた、まみえる日まで健やかにな……」

「リッちゃんもなに爽やかな顔で不吉な事をさらっと口にしてんのっ!」

「ぬぅ、僕はただ、ヒコの緊張をほぐしてやろうとな」

「本気で言ってるなら、グーで殴るわよ」

「それだけ元気なら、大丈夫だろう」

「……一応、今の言葉は元気づけてくれたと思っておくわ。……何が、具体的にどう大丈夫なのかはよくわかんないけど」

「ふむ、いい傾向だ。大分性根が座ってきたな」

「いーわ。こうなったらやってやるからっ!」

 ヒコは視界がぐらぐら揺れるのは、空間が壊れていくせいだと思いこむことにした。

 だがそれで恐怖のすべてが拭えるものではない。

(死ぬ? 死ぬかも知れないわね……)

 それでも、こんな得体の知れない空間に飲み込まれて終わるより、自分で選びたい。

 シンカと約束した。

    また、会おうって。

「そうよ、あたしは帰るのっ!」

 ヒコは勢いよく足場を蹴り、光の届かない闇の中へと身を躍らせた。



 見上げた先には、ぽっかりと浮かんだ銀の月。

(帰ってきた……)

 何の確証もなく、ヒコはそう思った。

 硬い地面、弧を描く月。

 ほうとひとつ息を吐くと、全身が痛んだ。すっかり身体が強張ってしまっている。

「起きたか」

「リッちゃん」

 すぐ側に、リツギがいた。彼の方が先に目を覚ましていたのだろう。上からひょいと顔をのぞき込んでくる。

「帰ってきたな」

「うん、そうだね……」

 無理矢理身体を起こすと、ぎしぎしと音がしそうなほど関節が痛んだ。深い息を繰り返す間に、痛みは少しずつ薄れていく。

 二人がいたのは、あの屋上だった。周囲は崩れてもいないし、空には星がちらちらと明滅している。

 紛れもなく、現実だ。

(あたしは生きているわ……)

 そしてヒコが落ち着いたと見たか、リツギがいつもの、人によっては横柄ともとれそうな態度で口を開く。

「さて、ただいまの時刻は夜の十二時過ぎ。どうやって君のご両親に言い訳しようかね」

「げ……」

 ヒコはさぁっと血の気が引いていくのを覚えた。



 そして……あれから、二ヶ月あまり。

 季節は移り変わり、制服も衣替えを終えた。真っ白なブラウスが強い日差しにまぶしく映える。

 ヒコはぱたぱたと構内に入っていく。日差しから逃れて日陰に入ると、それだけでずいぶん温度が変わる。

 ふと、思う。

(ここって、シンカとすれ違った場所だ)

 事務室前の廊下。

 思い出し、ヒコは足を止めてうつむく。

「シンカ……」

 現実に戻ったヒコは、約束通りシンカを探した。最も、もっぱらその方法を考えるのはリツギの役目で、ヒコはその後ろで右往左往していたのだが。

 本当に、本当にたくさんの時間と労力をかけたが……。

「ごめんね、シンカ」

 シンカの行方は、結局わからず終いだった。

 彼の在籍した中学校を見つけ、自宅を調べ上げ……シンカという名の少年が、確かにそこで生活していた痕跡を見つけ出したが……そこまでだった。

 事件の後、彼の両親は転居し、近隣の住人も引っ越し先は聞いていなかった。

 途方に暮れた彼女に待っていたのは、今までと同じ生活。日々の雑多な事に埋もれているうちに、あの時の事はすべて夢だったのでは、そう思いたくなる瞬間が山ほどあった。

 だが、それでも……ヒコは忘れる事ができず、こうして唇を噛みながらも、再び歩き出す。

 そして……

「   なに?」

 ヒコは振り返った。

 きつくなってきた日差しが出入り口から射し込み、壁面に白っぽく反射する。それとは対照的に、ひんやりと薄暗く、少し湿った廊下。

 その白くまぶしい光の中から彼は現れ、はにかんだように笑いながら言った。

「初めまして……かな?」

「ううん、違うわよ。また、会えたね……シンカ」

 ヒコは彼に向かって駆け出した。


【メビウスの時間の輪 終】


2005年くらいに発行した同名小説の再録になります。

読み返して、いろいろと青いなと反省することが大量です。

これから、このサイトへ小説を掲載していく為の素材(表示がどうなるのか等)として、まずは古いものを引っ張り出して来ました。

古いですが、内容としては気に入っております。

再録にあたり、ごく一部の設定を変更しました。

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