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メビウスの時間の輪  作者: 六神
1/2

前篇

 ヒコは振り返った。

「……なに?」

 背後に広がる闇に視線がさまよう。

 最初に視線が向かったのは、振り返った廊下の先にある扉。今は鎖と南京錠で閉ざされている。扉には磨りガラスの窓がはまり、そこからぼんやりと外の光が射し込んでいた。

 次に右手側にある被服室。先ほど彼女が出てきたそこもまた、扉に南京錠が下がっている。最後に廊下を挟んで左手側の調理室に視線を移し、さらにそこを過ぎた窓外を通る生徒達の姿を見て、ヒコは息を吐く。

(なんで、振り返ったんだろ? 誰もいないのに)

 この家庭科棟には……少なくとも、一階には今、彼女しかいない。それを確認してから被服室を施錠してきたところではないか。

 それなのに、振り返ってしまった。

「誰か……ううん、呼ぶわけないよね」

 今度は口に出してそうつぶやく。

 ヒコは向き直ると、被服室の札がついた鍵を握りしめ、半ば怒ったようにずかずかと勢いよく歩き出した。

(大体、廊下の両側に教室があるから、外の光が入ってこなくて暗いのよ)

 閉ざされた廊下は、ささいな音でも大きく反響してしまう。だから、ありもしない音を……いや、呼びかけられる声を想像してしまったのだ。

 ヒコは口中でぶつぶつ文句をもらしながら職員室へ急ぐ。被服室の鍵を返却し、職員室から廊下を右に折れてそのまま真っ直ぐ。事務室前を通り抜けて正面玄関へと向かう。

 と、正面玄関からこちらに向かって来る人物に気づいた。逆光で顔ははっきりしないが、自分と同じくらいの少年……つまり、中学生で男子生徒だった。

(あれ?)

 ヒコは、違和感に首を傾げる。だが考える間もなく、すぐに疑問は解消された。

(制服が、違う)

 彼女の通う高陵台こうりょうだい中学校は、男子は濃紺の詰め襟学生服だ。

 しかし彼の制服は、黒かった。

 そのまま少年は、ヒコに一瞥を与えることもなく通り過ぎて行った。

 色々と……想像は巡ったが、ヒコは少年の背中を一瞬見送っただけで、再び歩き出す。

 残った感想は、以下の一言だけ。

(……変なの)

 それが、今にして思えば彼らの始まりだった。



「失礼しまーす」

 ヒコは職員室に入ると、その場でくるりと周囲を見渡す。放課後の職員室は、授業が終わっているせいか、多少は和んだ空気が漂っている。しかしヒコは職員室という、独特の空気をもったこの空間が苦手だった。

(先生、いないわ……)

 そして、この場に目的の人物がいない事に半ば安堵の息を吐く。

(苦手なのよね、あの先生)

 それは、ヒコの所属する家庭科部顧問の女教師だ。

 四十代半ばで、どうにもきつい印象を与える上に、あまり部活動に熱心なタイプでもなく、むしろ面倒がっているふしがある。

 ……最も、現状を考えれば、それも無理からぬ話なのだが。

 とにかく、彼女は被服室の鍵を借りに来たのだが、顧問の教師はあいにく不在。鍵の場所はわかっていても、黙って持ち出すわけにはいかない。

 さて、どうしよう、と考えていると、教師の一人が入り口に突っ立ったままのヒコに気づいて声をかけてきた。

「どうした。十河とがわ、何の用事だ?」

「え、と。被服室の鍵を借りに来たんですけど、安藝あき先生がいないみたいなんで、どうしようかな~なんて」

 ははは、と力無く笑うと、その男性教師は、そうか、というと壁の作りつけのフックにかかった鍵束の中から被服室の鍵を取ってくると、あっさりとヒコの手にそれを落とす。

「安藝先生には言っておくから、行きなさい」

「あ、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げ、回れ右をしかけたヒコに声がかかる。

「どうだ、部員は?」

 一瞬でその意味を察し、ヒコは引きつった笑みを浮かべる。

「あはは……相変わらず一人ですね」

 そして、かくりと肩を落とした。

 顧問が部活動に対して投げやりになるのも無理はない。

 今現在、家庭科部で実際に活動している人間は、二年生のヒコ一人だけなのだ。

 外から、カキンと小気味のいい音がした。

 そして

 盛大な音と共に窓ガラスが砕け、その床をごろごろとソフトボールが転がる。

「こらぁっ! 誰だ!」

 先ほどヒコに鍵を渡した男性教師がすかさず走り出し、窓から身を乗り出すようにして叫ぶ。その向こうには、小グラウンド……単に、二階建ての体育館の下にある、空いた小さな空間だが……に集まってソフトをしていた女子の、わっと叫ぶ声がする。

 どうやら打ったボールの軌道がそれ、ここに突っ込んできたらしい。

 あらら、とヒコは慌ただしくほうきやちりとりを持って騒いでいる教師達を、少し離れて眺める。

 と、その時……

「え……」

 ふっと、足下が揺れた。

(---なに、貧血?)

 ぐにゃりと視界が歪む。

 まるで、周囲の時間が間延びするような感覚がヒコを襲う。

 音が、遠ざかる。

 思わず、どこかに手をついて身体を支えようとしたが、次の瞬間にはその奇妙な感覚は消え失せ、音が耳に飛び込む。

「どうだ、部員は?」

 教師が、言った。

「あ、あの……?」

「まだ一人なのか? いかんぞ」

 言葉の割りに、軽く笑いながらその教師は自分の席に戻っていく。

 いや、それより……

(どうして、同じ事を聞くの? でも、窓ガラスが……)

 つい一瞬前まで、教師は窓の外に向かって叫んでいたはず。

 思わず顔を上げ、そこでヒコは驚愕する。

(窓が、割れてない……?)

 思わず、一歩踏み出そうとしたその時、窓外を一人の少年が行き過ぎた。

(……あの人……)

 その向こうで、聞き覚えのある音が響き、ソフトボールをやっていた女子が小さく叫ぶ。そして飛んできたボールが窓を突き破った。

 先ほど見た光景のままに。

(なんで、窓が二回も割れるの?)

 ヒコは一瞬呆然となったが、すぐ我に返る。

 割れた窓は先ほどと同じ位置ではないか。

 ごくりと息を飲む。ヒコは、自分の身体が微かに震えているのを感じる。

(……違う)

 窓ガラスは、二度破損したわけではない。

(二回割れたんじゃない。元に戻った。それで……また、割れた……。それに、さっきの人……)

 慌てて周囲を見回すが、そこにはざわめく教師の姿と、窓外には何事かと集まってきた生徒達がいるだけで、どこにも少年の姿はない。

 焦ってヒコは外に飛び出したが、その姿を見つける事はできなかった。



(絶対、何かがおかしい!)

 ヒコは頭を抱える。

 いや、そもそも最初から妙だったのだが。

 理解できなかったというか、信じたくもなかったというか……

「でね、ヒコってば聞いてるの?」

「はいはい、わかってますよ」

 昇降口で、あこがれの先輩とすれ違ったという話だ。

(もう、聞いた)

 あれから……窓ガラスが割れた件から、日付で三日が経過していた。だがそれからも彼女の周囲に不可解な現象……一度あった事が二度繰り返す……は続き、そして今は級友が、朝のホームルーム前に語った内容を、二時間目の授業中に喋っている。

 正確には、二時間目の数学の授業を受けていたつもりが、いつの間にか朝に戻っていたのだ。

 もう何度も同じ目に遭い、ヒコも状況に慣れ慌てふためくような醜態は見せなかったが、それでも頭の中では必死に考えを巡らせていた。

 学校内で何度も繰り返される会話、授業。そして様々な事柄。

 繰り返す時間もタイミングもバラバラで、まったく規則性のようなものはつかめない。

(どうなってるの?)

 そして誰もそんな状況に気づく様子はない。むしろヒコだけが取り残されている。

 たった一人だけ。

 自分だけが、この繰り返す時間の中にいる。

 それに気づいた時、ヒコは背筋を冷たい指でなぞられたような気分に陥った。

 この三日だけで、一体何度戻ったのか。その度に周囲に尋ねても、返って来るのは怪訝そうな表情だけ。

 だから、もう何も言わない事にした。

 同じように受け答えをしていれば、周囲も同じ言葉を繰り返してくる。

 それでも……ヒコは何か変化はないかとちらちら周囲に視線を配りながら、その奇妙な現象の中にいた。

 そこで予鈴が鳴った。教室内に別のざわめき起こり、生徒達が動き出す。

 もうすぐ担任教師がやって来る。そんな中、遅刻寸前で飛び込んできた生徒。だらだらと机の上に乗って喋っている男子。

(これも、あたしにとっては二回目……。二度目の四月十四日の朝)

 録画された番組のように、すべてが繰り返されていく。

 その時……。

「あ……っ!」

 ヒコは、最初の朝とは違うものを見つけた。

 彼女の席は窓際の二番目。その位置とはほぼ対角線上にある場所。

 廊下側の、一番後ろの席。

 なぜかそこは、二年の進級時から空席だった。

 片付けられる事もなく、そのまま置かれていた席に、初めて何者かの姿があった。

 男子生徒が座っている。

 もちろんクラスメイトではない。しかしその顔というか、全体的な雰囲気には覚えがあった。

 漆黒の学生服。高陵台中学校の制服ではない。当然、クラスメイトでもない。だが確かに見覚えがあった。

(あの人だ!)

 ヒコは、確信する。

 あそこにいるのは、割れた窓の向こうにいた少年だ。

「ねぇ、あいつは誰?」

 恐る恐る指さすと、それまで先輩の話で盛り上がっていた級友が、何だと振り返ろうとする。

「こらー、いつまで喋っているんだ」

 声と同時に入ってきた担任教師の一声に、彼女は慌てた様子で席に戻ってしまった。

「え……あのさ……」

 結局、そのままなし崩しに授業は始まった。(ちなみに一時間目は国語。そして先ほど板写したはずのノートも真っ白だった。)

 ヒコは自分の気がつかないうちに転校生の紹介を聞き逃したのかとも思ったが、ヒコの記憶だと、確かに〈一回目〉の朝にはいなかった。

 むしろ注目されるはずの転校生の周囲は静かで、一時間目の終了と同時に、少年はさっさと教室から出て行ってしまった。

 思わず級友に、「あれ、誰なの?」と尋ねたが、

「はぁ? 誰の事? 何それ?」

 と、奇妙な顔をされただけだった。

 そして始業のチャイムと同時に戻ってきた少年は、二時限目の途中、ヒコが気づいた時にはすでにその姿は消えていた。

 ちょうど、時間が巻き戻った頃のことだった。



「つ、疲れた……」

 ヒコは両腕を机の上に伸ばし、情けない声を上げる。

 繰り返し分、余計に授業を受けた上、謎の転校生の正体と行方が気になってさらに疲労した。

 放課後、場所はいつもの被服室。そして部活動の時間のはずだが……そこには彼女しかいない。

 ヒコはとりあえず机上に裁縫箱と布を広げてはいるが、とても何かを作る気にはなれず、そのまま作業台に突っ伏してしまう。

 今のところ、顧問の教師も現れる様子はない。

 そう、家庭科部と名は付いているが、実質はヒコ一人だけしかいないのだ。

 彼女が一年生の時は、三年生が五六人、二年生が二人ほどいた。そしてヒコは唯一の新入部員。

 しかし三年生が秋の文化祭で引退し、さらに卒業すると、部長となった二年生の一人はほとんど部室に現れなくなり、もう一人の二年生は……どうやら登校拒否らしい。

 そしてヒコは、一年生でありながら副部長を務める事となり、さらに年が明けて部長が三年生になってからは、当人は受験勉強と称して被服室に顔を出す事もせず、ヒコは文字通りたった一人になってしまい、そのまま現在に至る。

 ちなみに、現状を見ればわかると思うが、今年の新入部員はゼロだった。

 一人では調理実習もできず、顧問は部を盛り上げようと何かアクションを起こすような様子もない。

 こうしてヒコは、放課後は一人でぬいぐるみを縫ったり、実用的にパジャマを作成したりしている。

 周囲には同情の目を向けられたり、さりげなく担任からは転部も勧められたが、ヒコはそれなりに楽しくやっていた。

 一人の為、部活動としての盛り上がりに欠ける分、色々と一人故の気楽さと小回りの良さがあるのだ。

 夕方に気になるドラマの再放送がある日は、さっさと帰っているし、部の……というか、被服室の備品は使いたい放題。探せばサンプル用の布地なども大量にあるので、元から裁縫好きの彼女としては、経済的にも非常に助かっていた。

 それでも……校舎の一角に設けられた部活動の予定表に、誰も見ない活動日程を書いている時は多少のむなしさを覚えたが。

(一人だと、気を紛らわせる事とかできないのよね……)

 作業机に突っ伏してぐったりしていると、どこかでぶぅんと微かな振動音が聞こえてくる。

 のろのろとした動作で足下の鞄から取り出したのは、携帯電話。もちろん、学校側からは持ち込みが禁じられている。その為、音は出ないようにしてあるし、授業中は電源そのものを切っている。

 サーモンピンクの二つ折り携帯電話、そのサブディスプレイにはメールが入ったことを告げる標示が出ている。サイドにあるボタンを押して内容を確認すると、ヒコは「あぁ」と小さくつぶやく。

「リッちゃんか……。今日は部活ないんだね」

 発信者は、隣の高校に通う幼なじみのもので、これから一緒に帰らないかという内容だった。

 ヒコは黙って作業台の上に並べられた布や道具を見つめていたが……いくら眺めていたところで、今日は一向に創作意欲が湧いてこない。

「よしっ、今日はこれで終わりっ!」

 相手に高校の正門前で待っていてくれと返信を入れると、ヒコは片付けに取りかかった。



 県立高陵台高等学校は、ヒコの通う中学校の隣にある。

 隣といっても、中学校と併設して建てられているわけではなく、バスのロータリーとちょっとした住宅を抜けなければならない。しかも、これでもかとばかりに急な坂道が待っている。

 直線距離なら、互いの正門まで百メートルも離れていないはずなのだが、さすがに傾斜のきつい坂道を駆け上がると息が切れる。中学校まで来てもらえばよかったと、ヒコは少々後悔したが、今さら遅い。

 ようやく平坦になった道を、息を整えながらやや早足に歩いていると、高校の正門が視界に入る。下校時間から多少外れているせいか、門前の人影はまばらで、目的の人物はすぐに見つかった。

 彼は門のすぐ脇にある植え込みの前に立ち、鞄を肩にかけたまま文庫本に目を落としている。

「リッちゃん、お待たせ」

 気配に気づいたか、彼は顔を上げると、ぱたんと文庫本を閉じ、鞄にしまう。

「ふむ、思っていたよりも早かったな」

 幼なじみの青年……久我くがリツギは、ちょっと感心したように顎に手をかける。

 高陵台高等学校二年生の彼は、紺色の学生服をぴしりと着こなし、ヒコよりも頭ひとつ分背が高い。

 二人並ぶと、小柄なヒコとのっぽなリツギの身長差がさらに際立ってしまう。彼女が小学生に間違えられることもあった。

 それに腹を立てて彼を避けていた時期もあったが、ヒコにとっては小さい頃からの「お隣さん」で、それはどうやっても変えられそうもないから、いつしかあきらめてしまった。

「ヒコ、帰るなら、中学校の方から回ればいいじゃないか。遠回りになるだろうに」

 目立つ外見に反して、リツギは妙に地味なところがあった。周囲の……特に、ヒコの友人達にはその落ち着いた居住まいと、冷静な言動に一部熱狂的なファンのようなものがついていたりするが、読んでいる本が洋書ならまだ格好が付きそうなものだが、徳川家康等の時代劇を好み、必殺仕事人の再放送をきっちり録画までして観ていたりするのが彼の実態だ。

 周囲がどれだけ騒ごうとも、外見と中身のギャップを間近で見てきたヒコは、今ひとつ彼女達と話が弾まない。

 ヒコの中では、時代劇が好きな人間は中年以上と設定されている。つまり、リツギも彼女の中では「精神年齢が老けている」と解釈されていた。

 そして見た目巨人、中身中年以上の高校生のぼやきを、ヒコは手をぴらぴら振ってさえぎる。

「あー、別にいいじゃない、どうせ寄り道するんでしょ」

 そこでリツギは、ふむと考えを切り替え、鞄を背負い直す。

「それもそうか。ならば、行くぞ」

 言って、すたすたと歩き出す。早足で動き出されると、小柄なヒコはすぐに置いて行かれてしまう。

「ちょっと、どこ行くのよ」

「とりあえず、ここから離れる」

 リツギは顔を動かし、門のあたりを示す。

 正門からやや離れた場所で、テレビのリポーターらしき女性が、カメラに向かって何やら熱心に喋っていた。

「なになに? 何かあったの?」

「いや、あった事を振り返っているらしい」

「あったって?」

「一年ちょっと前に、この学校で自殺者が出たからな。色々と、な」

「え? そんなことあったわけ?」

「ヒコが中学に入る前だからな。まぁ、知らんのも無理なかろう。僕だって、入学前の話だ」

「ふぅん……」

 彼らがいる場所から、その集団は離れているので、リポーターの声はここまで聞こえない。それでも妙に熱くなっているのは表情から見て取れた。

「まぁ、それはそれとして。僕は本屋に行くが、ヒコはどこかに用事はあるか?」

「また本……? う…ん、こっちは特に……」

 言いかけて、ヒコは言葉を止める。

(あのこと……相談してみようかな……)

 今日のように、リツギとはしょっちゅう登下校時には一緒に来ているのだが、ここ最近起こった時間巻き戻しの件に関しては、まだ一言も喋っていない。

 そろそろヒコの中で抱え込むにも限界を感じていた頃合いだったし、今までも様々な事柄で相談に乗ってもらった事もある。

(話さないよりはましかな……。リッちゃん、妙に変な事に詳しかったりするし、ひょっとして……)

 淡い希望と、もしかしてという期待をヒコは半歩前を歩く彼に向ける。

「あ、あのね、ちょっと聞いて欲しい事があるの!」

 しかし振り返ったリツギは、半瞬の沈黙の後、むっつりとした顔を向けてくる。

「むう。またそうやって相談を持ちかけるふりしてたかるつもりだな。今度は何だ、クレープか? 饅頭か?」

「話を聞いてって言ってんのに、なんで食べ物の話になるのよっ!」

「なんだ、いらんのか」

 ヒコはうぅっとうなり、逡巡の後、相談もしつつたかる事にした。

「……いる。タイ焼き、栗あん入りのやつ」



「ほぉ、繰り返し現象ねぇ」

 リツギは白あん入りのタイ焼きをぱくつきながら、一応は神妙そうにうなずいている。

 本屋でリツギの新刊漁りにつきあった後、駅前の商店街でタイ焼きを購入。そのまま再び駅まで戻り、バスロータリー付近のベンチに腰掛け、ヒコは今までの経緯を説明する。

「そうよ! おかげで授業は二回も受ける羽目になるし、最悪よっ!」

 リツギはしばらくの間、ヒコの愚痴を黙って聞いていた。特に馬鹿にする様子も、話の真偽を疑うような言動もなく、その間にタイ焼きを三つぺろりと食べてしまった。

 そしてひと通りの文句を連ね、色々とエキサイトしているヒコに向かって、

「その繰り返し、全部覚えているか?」

 と、言った。

「え? 一応……」

「よし、ここに書け」

 鞄から、学校の行事案内が印刷されたプリントを出してくる。ヒコは自分の鞄から筆記用具を取り出すと、言われた通り、自身に起こった事件のひとつひとつをプリントの裏面に書き出して行く。

 途中でリツギが場所や、巻き戻った時間など細かい部分を尋ね、ヒコはその度に書き出した内容に付け加えていく。

「ふぅむ、回数的には五回ほどか。他に、変わった点は?」

「あ……そうねぇ。クラスメイトが一人増えた」

「……それこそ、一番妙なところじゃないのか?」

「そうね、そーよね……」

 確かにその通りと、ヒコは乾いた声で笑う。

 なんというか、増えたというより通りすがりのその人を偶然ヒコが見ていたとする方が正しいのだが。それでも、誰も気づかない人物が学校内に存在する事は、リツギに指摘されなくとも、十分に異常事態だ。

「その人物が現れた時の状況も書いてくれ。考えてみる。明日……そうだな。昼休みに、第二グラウンドに来てくれ」

「わかった、よろしく。……明日は何回授業を受けるのかな」

 やれやれ、とヒコは肩を落とした。



 そして翌日。

 幸いな事に、一度も繰り返しに遭うことなく昼休みとなった。

 ヒコは急いで弁当を口中に流し込むと、不審そうな顔をする級友を尻目に、第二グラウンドへ急いだ。

 第二グラウンドはその昔、生徒数が今の倍ほどもあった時代に増設されたもので、第一グラウンドの脇から行けるようになっている。

 だがヒコは、その場所があまり好きではない。

 そこはある種、校舎裏のような独特の湿っぽさを持つ場所で、しかも一角がそのまま崖になっている。昼間でも妙に薄暗い為、ヒコだけでなく大多数の生徒からは敬遠されている。

 実際の広さはテニスコート二面分程度で、大した面積はない。

 そして第二グラウンドは、隣の高校とフェンス越しに互いの様子を見る事ができた。一応、間に用水路はあるのだが、その気になればいくらでも乗り越えられる。

 中学と高校は、正面の入り口は離れていても、アルファベットのUの字を描くようにして、実際は繋がっているのだ。

 そしてヒコが走って行くと、リツギはフェンスの前ですでに待っていた。

 片手に牛乳のパックを持っているので、恐らく昼食もその場で摂ったのだろう。しかし高校側のグラウンド裏に当たるその場所も、ヒコの中学と同じように校舎から離れ、木々がうっとおしく茂っている為、あまり食事をするのに適した環境ではない。

 リツギはやって来たヒコに軽く手を振って応えると、開口一番、

「今日は何度目だ?」

 と、問いかける。

 本気なのか冗談のつもりなのか、彼の表情からは読み取れない。

「……ありがとう。幸いな事に、まだ一度目。それより、何かわかった?」

「うむ、わからんな」

「……は?」

 ヒコは思わず間の抜けた声を出す。そしてリツギもまた、まったく表情を動かさずに告げる。

「何を阿呆な顔をしている。こんなデータだけでは資料不足だ」

 ぺしぺしとリツギは昨日のプリントでフェンスを叩く。

「だってぇぇぇぇ!」

「そう情けない顔をするな。いくつか気づいた点がある。この現象には、時間や場所、そして繰り返す長さが異なり、まったくもって不可解な現象に思えるが、意外に簡単なところに共通点がある」

「共通点……?」

 ヒコは動物園の猿のように、金網に登る勢いで身を乗り出す。

「第一に、繰り返しが起こるのは、今のところは学校内に限定されている」

「そういえば……家だと特に何もなかった気がする。でも、どうして?」

「まぁ聞け。第二に、その謎のクラスメイトだが、繰り返し時にしか存在していない」

「あ……!」

 ヒコは思わず声を上げる。

 なぜそんな単純な事に気づかなかったのだろう。

「単にヒコが見落としている可能性もあるが、この二点だけでも、繰り返し現象にはその転校生が関係していると推測する事はたやすい」

「あの……男子生徒のせいだっていうの?」

「可能性のひとつとしてだ。全部がそうとは言い切れないし、彼もまた、関わっているだけで直接原因には結びつかないのかも知れん」

「う……。うん、そうね」

 冷静な言葉に、ヒコは肩を落とす。

「しかし、こうなってくると僕にできる事は、後ひとつくらいだな」

「え、なになに?」

 ヒコは期待に目を輝かせる。それを見たリツギは、ふっ、と、もったいつけたように小さく笑うと、牛乳パック片手に高らかに宣言する。

「そう、それはこの現象のネーミング決定だ!」

「…………はぁ?」

「新星を見つけた人間には、その人の名前を付けられると聞くだろう。だからここはひとつ、体験者のヒコの名前を取ってだな……」

「絶対にやめてよっ! ていうか、そんな暇があるならもっと別のとこに頭を使ってっ!」

「ぬう、自分の名前を使われるのが気にいらんのなら、横文字で格好良く……」

「だから、いらないって」

 ヒコはこみ上げる怒りを何とか抑えようと拳を握りしめる。

 そう、一件ふざけているように思える彼だが、これも自分を心配するあまりの行動で……多分。

 リツギはそんなヒコの葛藤に気づいていないのか、得意そうに腕を組む。

「まぁ、とにかくネーミングの件は任せておけ」

「あ、あのねぇ……」

 この青年は、実は人の話など聞いていないのでは?

 そんな疑惑に苛まれているヒコに、リツギはさも真摯な顔をして、じっとヒコを見つめる。

「本当に、僕にはそれくらいしかできる事はないのだよ」

「そんな……消極的なこと言わないでよっ!」

 思わずヒコはフェンスをがしがし揺らす。その勢いで派手な音がしたが、そんな事には構っていられない。

「事がお前と、その転校生の周囲で起こっている以上、僕が中学校の校内を調べて回るわけにもいかんだろう。それに、僕に話をする前まで逆戻りしたら、結局は一緒だ」

「いーわよ、そのときは何度でも説明してあげるから。とにかく、明日にでもあいつの首根っこふん捕まえて、リッちゃんの前に連れてきてあげる!」

「過激な行為は慎んだ方がいいぞ。色々と危険だ」

「リッちゃんも、一日に二回も三回も同じ授業を聞いてればやってられなくなるわよ! じゃあ何かあったら即、連絡入れるから、ケータイの電源は入れといてね!」

 ヒコは自分でもよくわからない衝動に突き動かされ、猛烈な勢いで走って行った。

 そして取り残されたリツギは、手に握ったままだったパック牛乳の存在を思い出し、残りを飲み干す。

「……まだ、話は終わっていないのだが……。まぁ、いいか」

 どうせ、何か思いついたらまた自分の所へ走って来るのだろう。

 それまでに、自分のできる事を調べておく事にしよう。

 リツギは飲み終わったパックをつぶすと、自身も教室に戻るべく歩き出した。

 彼はヒコの体験がホラ話の類だとは、欠片も思っていなかった。



 宣言したものの、リツギのいうように、いつ起こるのかわからない繰り返し現象を待つ事もなかなか大変だった。

 昨日のように、数時間分逆行すれば行動も起こせるのだが、その日は六時間目の体育でバレーをしていた際、ほんの数十秒巻き戻っただけで、そのことに気づいて少年を探そうとして……コート内でゲーム中にも関わらず……余所を向いた途端、バレーボールを顔面に喰らってしまった。

 結局、それ以上何も起こることなくその日の授業は終了し、ヒコはいつものように職員室に被服室の鍵を取りに行き、途中の廊下にあった姿見をのぞき込んで赤くなった頬を気にしつつ被服室に向かう。

 本当は部活動などする気分にもなれなかったが、現象が学校内に限定されている以上、帰るわけにもいかず、そして形だけでも何かやっていないと、顧問がのぞきに来た時、少々まずい。

 なのでヒコは、作業台に昨日と同じように作りさしのぬいぐるみのパーツと裁縫道具を並べ、制服のポケットに電源を入れた携帯電話を放り込む。

 そして……被服室を出た。

「さぁっ! どっからでもかかってらっしゃい!」

 叫んでどうにかなる問題ではないのだが。

 今のヒコは授業を何度も繰り返す疲労と憤りの為、かなり考えが回っていなかった。

 とりあえず、現象の起こった場所を見て回ろうと思い、まずヒコは職員室前に行こうと家庭科棟を出た。

 正面の本棟。その左手側の一階に、職員室が見える。先日割れた窓は、修理が終わっていないのか、窓枠ごと外されていて、そこだけぽっかりと開いていた。

 それを横目に見ながら本棟の扉に手をかけた。



「---え?」

 思わず声を上げそうになって、ヒコは口をふさぐ。

 目の前には、英語の教科書とノート。

 ちらりと見回せば。その他の生徒は机につき、教師の板書を眺めたり、退屈そうにあさっての方向を向いている。

(  戻ったんだ)

 そして、この授業内容からすると、約二時間前。五時間目の英語だ。

(で、この後の体育で、顔面にバレーボールを喰らったわけだ)

 やれやれ、と肩を落としかけて、ヒコは自分の馬鹿さ加減に頭を振る。

(じゃなくて、あいつは?)

 ヒコは教科書を立てて顔を隠しつつ、ちらりと斜め後方に視線を向ける。

(いたっ! あいつだ)

 廊下側の一番後ろ。

 普段は空席になっている席に、少年は座っていた。

 次いで時計を見ると、五時間目終了まであと十五分というところ。

(チャンスだっ!)

 ヒコはこそこそ鞄に手を伸ばし、ハンドタオルを取るように見せかけて携帯電話を隠し持つと、そっとポケットにしまい込む。

 そのまま授業終了まで、いらいらしながら待ち続ける。幸い、英語教師は授業を長引かせるタイプではないので、チャイムと同時に教科書を閉じた。

「起立、礼!」

 そしてヒコは、委員長の号令も聞かずに教室から飛び出した。

 背中に誰かの声がかかったが、当然無視。

 目的の転校生は、チャイムが鳴った途端に席を離れ、すでに視界のどこにもその姿は見受けられない。

 廊下に勢いよく走り出たヒコは、階段の前でうなる。

 ヒコの教室は、出て右手側がすぐに階段になっている。相手が階段の方向に向かって行ったところまでは、席に座った状態でも見えたが、さらにその行き先……階段の上か下か、すでにそれすらもわからない。

 誰かに尋ねるわけにも行かず、ヒコは目標を完全に見失ってしまった。

「ええいっ!」

 ヒコは自分の勘に任せ、一気に階段を駆け下りていった。



 そして、十分の休憩が終わり、六時間目開始のチャイムが鳴り響く。

「……見つからない……」

 ヒコはぜいぜいと息を切らしながら、家庭科棟一階女子トイレの個室にいた。

「上に行ったのかしら?」

 判断を誤ったかと、ヒコは焦りを覚える。

 相手が動くなら、いったん外に出ると思って下に降りたのだが、どうも考えが甘かったらしい。

 それにヒコは一気に一階まで駆け下りたが、ヒコのいた生徒棟は、二階に渡り廊下があり、本棟と、そして現在いる家庭科棟が一本に繋がっている。

 そう考えると、学校という空間は人を探すにはあまりにも不便な場所だ。

 探しに行こうにも、授業が始まっては校内をうろつくわけにもいかない。

 そして、この時点でヒコのエスケープは決定した。

「うぅ……あたしの皆勤賞を返して……」

 嘆いたところでどうしようもない。

 それに、残された時間はあとわずか。リツギの推測が正しければ、少年は巻き戻された時間の中にしか存在していないのだ。

 つまり、後一時間少々。

 そこまで考えた頃には周囲も静かになったので、ヒコはあたりを伺いながら、そろそろと女子トイレの個室から出て来る。

 さてどうしよう、と腕を組んで考え、ふと、窓外に視線が向かう。

 本棟の一階が見え、そのまま上に顔を上げ……

「  は……?」

 思わず、間抜けな声を上げてしまった。

 本棟の屋上に、人影が見えた。

 こちらに背を向けて、屋上の縁ぎりぎりに立っている。

 黒っぽい……恐らく、学生服を着ている。背を向けている為、こちらからその表情を伺う事はできない。

(あいつだっ!)

 探していた人物に間違いない。ヒコは反射的に確信する。

「でもっなんで、あんな所に!」 

 屋上は給水タンクなどの施設があるだけで、生徒は全面的に立ち入り禁止になっている。入り口も各階の最上階壁面にあるタラップを昇り、さらに鎖と南京錠でふさがれた入り口を開けなければならない。そして人が立ち入る事を想定して作られていないそこは、フェンスのような転落防止措置はとられていなかった。

 なのにその人物は、風のひと吹きで落下しそうな、それほどの際に立っているのだ。

「ち……ちょっ……と!」

 ヒコは慌てて女子トイレから飛び出すと、家庭科棟から走り出る。

 勢いのまま地面を蹴るように駆け抜け、本棟の前まで来ると顔を上げる。

 少年は、まだそこに立っていた。

 気づいているのは、やはりヒコだけなのか、周囲は静まり返っている。遠くでバレーボールを打つ音と、それに合わせて上がる声が微かに届くだけ。

 じっと、そのままの状態でヒコは硬直する。

 何かしなければと焦って周囲を見回すが、すぐに自分にできる事はないのだと気づく。

(どうしよう……よく、警察とかがやるみたいに、自殺なんてやめろって叫ぶべきかしら……)

 いやでも、そうじゃない、と。頭の中で思考はまとまらず、ぐるぐると堂々巡りを繰り返すだけ。

 と、見上げる首が痛くなってきた頃……少年がふっと動き、そのままゆっくりと傾く。

 背後に  さえぎるものも、つかまる場所もない空間に。

「ひっ!」

 ヒコは小さく悲鳴を上げ、目をふさぎかけた、そのとき

 屋上。少年の立っていた向こう側に、影が見えた……気がした。

 そして……影に気を取られ、ヒコは目を閉じる事はできず、非常にゆっくりと……実際は、ものの数秒でヒコの前に、少年が落下する。バウンドした身体は、二転三転して止まった。

 ヒコは呆然としたまま、その場に突っ立っていた。

 足が震え、かちかちと歯の根が合わない。

 少年の顔は、こちらから伺う事はできず、だらりと投げ出された手足はぴくりとも動かない。

「な、に……どうして……どうしてこんなことに。救急車? 警察? あたしは、どうすればいいのっ!」

 すっかり混乱したヒコに周囲を観察する余裕などなかった。

 そう、屋上にいた影がその場に立ち尽くすヒコを一瞬だけ注視し、そして消えて行った事を。

 そして……三階の屋上から叩きつけられたはずの少年が、血の一滴も流していない不可思議さ。

 と、少年の指が微かに動く。

「……っ!」

 思わずヒコは息を飲む。その眼前で、少年はじりじりと起き上がる。ゆっくりと腕を引き、肘をついて上半身を地面から持ち上げた。

 だが緩慢な動作の末、少年は再び傾き、倒れてしまう。

「あっ、大丈夫?」

 思わずその場から一歩踏み出し、ヒコははたと我に返る。

(あたしって……なんて間抜けなセリフだろ)

 屋上から落ちておいて、大丈夫も何もないだろうに。

 自己嫌悪に陥りながらも、ヒコは少年の元に駆け寄ろうとして……そこでぱちりと全身に痛みを覚える。

「っ!」

 静電気に似た感覚。

 首を傾げるヒコの前で、少年はまた起き上がろうとして、再び倒れる。

 今度は、そのまま動かなくなった。

「え、ちょ、ちょっと待ってよっ!」

 痛みに足を止めたヒコだが、もう構っていられないと走り出す。

 しかし数歩も行かないうちに、再びぱちぱちと全身に走る静電気。

「いっ……。いた、痛い痛いっ!」

 悲鳴を上げながらもヒコは少年に近づこうとする。

 こうなっては意地だ。ヒコは腕を顔の前で交差するようにして、一歩ずつ進む。歩みの度に足は重くなり、全身に突き刺さる痛みも鋭く、時折弾けるような激しい音がする。さらにヒコを押し返してくる力も加わり、まるで少年と自分の間に見えない壁でもあるようだ。

 後二メートル……

 音が弾け、さらに火花のような発光体が散る。服が焼けるのではないかと危惧したが、焦げるような匂いはない。それでも針で全身をくまなく刺されているような痛みが走り、服が焼ける前に全身から血が噴き出しそうだ。

 後一メートル半……

 その時  少年が顔を上げた。弾ける光に気づいたのだろう。それと同時にヒコの姿を見つけ、驚愕に目を見開く。

 何事か叫んだようだが、聞こえない。

 だが、少年はヒコに自分の意図が伝わっていないとわかると、今度は何か意を決したように、ヒコに向かって手を伸ばす。

 押し寄せる圧力に、ヒコの動きはもはや歩みとも呼べない。

 じりじりと、数センチずつ足を動かすだけ。

 はいずるような動きで、少年もまた近づいて来る。

「っ、手、を……!」

 ヒコは腕を伸ばし、指先まで力を込める。

 見えない壁の圧力に、喉がつぶされたように呼吸がままならない。

 それでも……

「今、そこに行くからっ!」

 ヒコは地面を蹴って跳躍する。

 倒れ込むように突き出された互いの指先が触れあい……その間で空気が弾け、世界が白く染まる。

 何かが砕けるような音が、ヒコの耳に微かに届いた。



 強い風にあおられ、ヒコは後ろに倒れた。

 と、空が目に入る。

 灰色の分厚い雲に覆われているそれに、ヒコは首を傾げる。

 今日は、快晴といってもいいくらいの天気だったはず。

 そして、倒れた地面の冷たさに身震いする。

 慌てて起き上がり、制服に付いた土埃を払い落としながらあたりを見回し……その手が止まる。

「あれ?」

 周囲の景色が変わっていた。

 いや、そんな生易しいレベルではない。

「ここ……どこ?」

 荒涼とした世界。

 赤茶けた砂地。同色の石が、ごろりと無造作に転がっているだけの風景が、延々と地平線の向こうまで続いている。

 重苦しい色に染まった空は、陰気な雲がたれ込め、のしかかってきそうな圧迫感を覚える。

 学校の敷地内ではない。

 それどころか、近所にこんな広大で荒れ果てた土地もなかったはずだ。

(て、いうか……なんで、いきなり場所が変わっているわけ?)

 はて、と首を傾げたが、それでどうにかなるものでもない。

 どうしよう、とうろたえるヒコに、声が聞こえた。

 背後から聞こえた呻き声に顔を向けると、少し離れた砂地に少年が転がっている。慌てて駆け寄ろうとして、ヒコは反射的に踏み止まる。先ほどの痛みを思い出したからだ。おずおずと右手を伸ばしてみたが、そこにはもう何の壁もなく、衝撃はこなかった。

 そのことに安堵の息を吐くと、ヒコは少年の元に駆け寄り、側に膝を突く。

 上からのぞき込んだが、少年は意識がないのか目を閉じている。少し長めの前髪が汗で額に張り付いていた。

 漆黒の学生服を着た少年。

 名札はついていない。学年章や校章もそこには見受けられなかった。

 そして、ヒコの見知った相手ではない。

 そこまでざっと考えを並べたところで、少年が気づいたのか、わずかに身じろぎする。

「ねぇ……」

 声をかけると、彼は目を開けた。

「あなた、大丈夫? それと……ここはどこなわけ?」

 問いかけに応えず、少年はヒコの顔を凝視している。

 じっと驚いたように目を見開き、真っ直ぐ向けられる視線にヒコはどうにも居づらくなり、もぞもぞと無意味に動いて視線をそらす。

「---お前か……」

 不意に聞こえた声は、少年から発せられたものではなかった。

 背後からかかった声に、ヒコが振り返り、その格好のまま硬直する。

 ヒコの背丈ほどの赤茶けた岩の上に、何者かがいた。

 いや、何者、と呼べるのかもわからない。

 とりあえず、人型をしている事はわかるのだが、全体的なシルエットが崩れ、ぶくぶくと膨れあがっている。妙に白っぽく、のっぺりした皮膚。鯨のように大きく広がった口。眼は一応、口の上に乗っかっているのが見えた。

 カエルのような格好で、岩の上に座り込むそれは、ぐふぐふと奇妙な笑声を漏らす。

「な……なに?」

 それはヒコを上から下まで眺め、ふぅむと首を傾げる。そんな仕草は妙に人間くさかった。

「お前が、輪を壊したのか?」

 言って、のろりと動く。立ち上がったその巨体に、ヒコは小さく身を震わせる。

「こ、来ないでよっ!」

 後ろに下がろうとして、そこに少年が倒れたままだった事を思い出して踏み止まる。ちらりと背後を伺うと、少年はすでにヒコを見ていなかった。

 倒れた格好のまま、それでも巨体を視界に据えた途端、表情を変える。

 驚愕から、怒りに。その顔にははっきりと、相手に対する憎悪の色があった。

 白い巨体は怒りに震えながらもじりじり起き上がろうとする少年の様子に、またあの奇妙な笑声を漏らす。

 その口が、不意に言葉を漏らす。

「-----」

「え……?」

(な、に。何を言ったの?)

 ヒコは思わず白い巨体を見返す。

「……カ……」

 歪んだ唇が、言葉というより、息が漏れるような音を発する。

 ヒコは相手の言葉を完全に聞き取れたわけではなかったが、ひとつだけ音として耳に届いた単語があった。

 -----シ・ン・カ……。

 そう、確かに白い巨体はそう言った。

「シンカ……?」

 その単語が何を意味するのか。ヒコは記憶にある言葉にそれと合致する物がないかどうか探す。

 そして



「---おいっ!」

 ヒコは、目を開けた。

 きれいに晴れた空。まぶしさに思わず眼を閉じてしまうと、途端に身体を容赦なく揺さぶられる。

「え、え……?」

 突然の事にヒコは戸惑い、再び目を開けると明るすぎる陽光が眼を焼く。先ほどまで寒気を感じるほどだったというのに、うってかわってこの暖かさはどうした事か。

「おい、大丈夫か十河!」

(なんか、この声、聞き覚えが……)

 まるであの厳しい数学教師のようだ。

 あれ、と首を傾げながらヒコは起き上がる。ようやく目も慣れてくると、白っぽい光の中にある景色は見知った物で、ヒコは驚愕に眼を瞬く。

 そう、そこは元いた本棟前だった。

 周囲には、数人の教師が心配そうな顔をして立っている。

 ヒコは唐突な状況の変化に戸惑い、動悸が激しくなる。

「あたし……」

「倒れていたんだ。覚えているか?」

 ちらりと周囲を伺うと、その場に少年の姿はなかった。

 ここは赤茶けた荒野ではない。そして、白く不気味な巨体も、どこにもいない。

(あれは、夢だったわけ?)

 座り込んだままだったヒコは、思わずその場の砂利をつかむ。陽光に暖められた、白く乾いた砂。あの芯まで凍えそうなほど冷たく、そしてなんの生気も感じない乾ききった大地とまったく違う。

「立てるか? 保健室に行ってちょっと寝ておけ」

 困惑した様子のヒコを、教師はどう思っているのか、普段の厳しさとはうってかわって心配そうな響きがそこにこもっている。

 だがヒコはそんな気配りに気づく余裕すらなく、治まらない鼓動に痛みすら感じて胸を押さえる。

 そしてヒコは、教師の言葉に従って、ふらつきながらも保健室に向かった。



 ヒコは一緒についてきた数学教師が養護教諭に事情を説明する間も、ぼんやりとして上の空。養護教諭に保護者に連絡するか? と聞かれ、大丈夫です、とだけ答えた。数学教師は不安そうな顔をしたが、担任には連絡しておくと言って出て行き、ヒコはそのまま空きベッドに倒れ込んだ。

 そこでふと思い立ち、上着だけでも脱ぐべきかと思って服に手をかける。と、ポケットに硬い手触りがあった。

 入っていたのは携帯電話。

 ヒコは場がカーテンでしっかり仕切られている事を確認すると、ごそごそとベッドに携帯電話を持ったまま潜り込む。

 上掛けをきっちりかぶると、ヒコは重く思考のままならない頭でメールを打ち、送信を確認したあと、ぱたりとそのまま眠りに落ちた。

 眠ったというより、力尽きたと表現する方が正しいかも知れない。

 とにかく、疲れ切った頭脳は休息を要求していた。ヒコの脳内はめまぐるしく情報を整理しようとし……その分ヒコは、浅い眠りの中で何度も断片的な夢を見て、その度に覚醒しかけ、また眠るという行為を繰り返す。

 どれほどの時間が経過したのか。

 ヒコはぱちりと目を開け、周囲がすっかり薄暗くなっている事に驚く。

 どうやらいつの間にか寝入っていたらしい。

 頭は霞がかかったようにぼんやりとしているが、とりあえず先ほどまでの負荷は、眠っているうちにずいぶん解消されたらしい。

 白っぽい、それでもところどころに染みの浮いた天井を見ているのにも飽きたヒコは、ゆっくりとあたりを伺う。

 ベッドの上にかかっている時計は、五時を回っていた。

 さすがにもうここから出るべきだと判断し、上掛けに手をかけると、保健室の扉を開ける音がした。

 入ってきた生徒が養護教諭と小声で何やら喋っているのが聞こえる。

「では、こちらで待たせてもらいます」

「そうね……。でも、そろそろ起こした方がいいかしら」

「もう遅いですからね」

 その声にヒコは跳ね起き、ぐしゃぐしゃになった制服を直すのも忘れ、仕切ってあるカーテンを勢いよくひるがえす。

「リッちゃん?」

 そこには突然出て来たヒコに目を丸くする養護教諭と、逆に驚きもせず立っているリツギがいた。

「おぉヒコ。貧血で倒れたそうだな」

「なんでリッちゃんがここにいるわけ?」

「失敬な、自分で呼んでおいてそれはなかろう」

 ヒコは眠る前にメールを入れた事を思い出す。送信相手はリツギだった。

「あ……そうだったね」

「鞄はもう取ってきたからな。動けそうならもう帰るぞ。じきに日も暮れる」

 言って、リツギは抱えていたヒコの鞄を突き出す。

 養護教諭が何やら書類を書いている間にヒコはすっかり皺がいってしまった制服を何とか伸ばし、上着を肩に引っかける。

「じゃあ、これ、保健室にいた証明書だから、帰りに担任の先生に渡してから帰ってね」

 ヒコは、そんなものがあるのか……と、変に感心しながら保健室を後にする。そして職員室で担任に証明書を渡し、二三小言と、そして最後に健康に気をつけるようにと念押しされた。

「このまま帰るのか?」

 職員室前の廊下で、ヒコの鞄持ちをして待っていたリツギを見つけると、彼女は有無を言わさぬ勢いでその腕をつかんでずんずん歩き出す。

「どうした、貧血ならもう少しゆっくりとだな……」

「そんなことどうでもいいの、早く学校から出ないと!」

「白い化け物が襲って来る、と」

「……っ、そうよ」

 ぼんやりしていたので、リツギにどこまで正しくメールで事の内容を伝えられたのか自信はなかったが、補足説明なら後でもできる。

 今はとにかくこの学校から一刻も早く出て行きたかった。

 リツギの推測通りなら、あの繰り返し現象は学校内でしか発生しない。

 そして今日はもう、そんな目には遭いたくなかった。

 リツギが着いてきているかどうかも確認せず、ヒコは走るような勢いで歩を進め、学校を出るとそのままの勢いで歩き続ける。五分ほど歩くと公園に出た。そこは住宅街の真ん中にある場所で、グラウンドのように何もない場所と、階段の下にもうひとつ、こちらは子供向きの遊具がある公園が併設されている。その階段と併走するように長大な滑り台がいくつも作られているのが特徴で、ヒコも小学生だった時分はよく滑りに来たものだ。

 しかし今日は滑り台を楽しみに来たわけではない。ヒコは足を止めると、くるりと振り返る。

「リッちゃん、聞いてよ! 飛び降り自殺があって、なんかいきなり砂漠で、白いのがこう、がーっとねっ!」

「……わけがわからんぞ、ヒコ」

 そこでヒコはリツギを見つめたまま、数秒間考え込んだ後、再び機関銃のような勢いで言葉を吐き出す。

「えーと。六時間目に例の転校生を探してうろうろしてたら、そいつが飛び降り自殺して、手を貸そうとしたら急にどっかに移動しちゃって、そこが砂漠でなんか白い化け物がいて、気がついたら元の場所に戻っていて貧血扱いよっ!」

「…………一気に喋るな。ちょっと詳しく言ったところで説明が穴だらけだぞ。僕が疑問に思ったところを突っ込む。だからゆっくり時間を追って話してくれ」

「ごめん……」

 ヒコは悄然と項垂れる。

 リツギはヒコの話を辛抱強く聞き、あるいは質問して補足を促し、話をむやみに逸脱させることなく彼女の体験した事柄を概ね理解した。

 それでもすべてが終わる頃にはすっかり日も落ち、公園の各所に設置された水銀灯が白っぽい光を放つ。

「……それで、現在に至る、と」

 やれやれ、とリツギは足を組み替える。

 さすがに長時間立ち話もできないので、二人は適当に間を見て近くのベンチに移動していた。すぐ隣にある水銀灯が、二人の周囲だけをぼんやりと照らし出している。

「うん……。正直、もう何がなんだかわかんない。どうしてこんな目に遭うのか、どうやったら終わるのか見当もつかないわけ」

 むしろ、こんな話を隣の青年が本気で信じているのかどうかも疑わしい。それでも、リツギがそんな態度を微塵も感じさせない事が、今のヒコにはありがたかった。

 その青年は、すまなさそうな顔をする。

「ふぅむ、何度も同じ事を言ってすまんが、そいつは僕にもわからんな。ただ……こんな怪奇現象じみた事がいきなりなんの原因もなく始まるとは思えない。きっかけがあって、それらは始まった。そして何らかの原因を取り除けば……恐らく事態は収束に向かうはずだ」

「その原因が、全然わかんないわけ。やっぱりあの転校生をふん捕まえて聞くのが早そうだけど、これが案外難しいのよ」

「その転校生だが、何かわかった事はあるのか?」

「もう、お手上げよ。うちの中学校とは違う学生服を着ているってだけで、他は名前もわかんないわ。あ、でも……」

 ヒコはそこで一度言葉を切る。

 ヒントになるのかはわからない。それでも、もしかすると……

「どうした?」

「白い化け物が、言ったの。……シンカって」

「シンカ?」

「うん。それだけしか聞き取れなかったけど、きっと何か意味があると思う」

「シンカ……。ふむ、僕も調べてみよう。では、今日はもう帰ろうか」

「てか、あたし明日も学校に行くのね……」

「早く原因を究明する為にも、ここで嫌がっているわけにはいかんぞ」

「そうだけど……」

「僕もリフレイン現象について考えてみる。だからそう落ち込むな」

「落ち込むわよ。……ん? そのリフレインって、何のこと?」

「繰り返す、という意味だ。適当な名前が思いつかなかったからな。ひとまず仮だ」

「本当に名前を考えていたんだ……」

 どんな時でも彼は彼である。そう思うと、ヒコは肩の力を抜いた。

 そう、彼の言う通り、ここで文句を連ねていても何も変わりはしないのだ。学校を避ける事ができない以上、自分もこの辺で覚悟を決めねばならない。

(それにリッちゃんも何のかんの言って手伝ってくれてるしね)

 ヒコは、諦めと、そして安堵の混じった息を吐いた。



 一時間目。

 国語の授業中、ヒコは教師が著者の心情について語っているのを聞き流しながら、がりがりとノートに書き込みをしていた。

 教師の言葉を写しているのではない、今まで起こった現象をヒコなりにまとめている最中で、最初から授業を聞くつもりなどない。

 はっきり言うと、ヒコは国語が嫌いである。

 朝の最初に国語があるのも、特に憂鬱だった。

 とにかく眠いのだ。

 作者がそのセリフを書いた時に何を思ったかなど、ヒコにとってはどうでも良かった。それに、そんなこじつけのような真似をして、本当に事実と合っているのかどうか疑わしいものだ。数学のように、公式から得られる答えが一定なのは納得できるが、読んだ時の感想など、人それぞれであって、教師の模範解答から逸脱した物はすべて不正解という考えが気に入らない。

 漢文や古文も、あの一を見て十を知れ的な内容について行けず、定期考査での成績は振るわない。

 なので国語の授業中はとにかく睡魔と戦う事に必死だった。

 しかし今は別の意味で必死なのだが。

(……そうよ、大体何であたしなのよ。意味わかんないし、いい加減にして欲しいわけ)

 ばき、とシャープペンシルの芯が折れる。一体何度目なのかもう覚えていない。

 ヒコは下手な一覧表を前にうなる。

(いきなりこんなことになって、あたしが何したってのよっ!)

 ペンシルの頭を押したが、何度押しても芯が出て来る気配がない。ヒコはそこで少しだけ肩の力を抜くと、筆箱から新しい芯の入ったケースを取り出す。

 そして芯を入れながら、我ながら見難い表を見返す。

 それは五日前から始まっていた。

 ソフトボールが窓ガラスを割り、そこから繰り返しは始まった。

(そう、ここからよ。転校生もその時見たし……)

 すっかり彼女の中で、例の少年は「謎の転校生」という名称になっていた。

(あれ、でも……)

 ヒコはそこで首を傾げる。

 確かに、あの時窓の向こうに転校生を見た。だが、よくよく考えてみればそれが初見ではない。ヒコが彼に注意を払ったのも、「どこかで見た」と思ったからだ。

 あれは、どこだったのか……

 ヒコは少しばかり記憶をたどる。

(……そう、事務室前の廊下だ)

 場所は思い出せたが、一体どれほど前だったのかはわからない。正確な日時まではすっかり忘れてしまっていた。

 今思えば、あれも「現実」だったのか、それとも「繰り返し」の中だったのか。

(そうか……そうだったんだ)

 ヒコの中で何かが揺れた。いや、気がついたのだ。

 繰り返し現象は、あの日から急に起こった事ではない。ずっと以前から、緩慢に事態が進行していたのを、ヒコが気づかなかっただけ。そしてようやく彼女にもはっきり知覚できるような事態に陥ったとなれば……原因となるべき出来事は、もっとずっと以前の話になる。

 だがしかし。

(ちょっと待ってよ……)

 そんな以前の出来事など……覚えていない。

 印象的な事ならともかく、今まで気づかなかったとなると、その原因やきっかけに相当する出来事は、本当にささいな事だったのだろう。

(どうしよう……早く思い出さないと……)

 焦燥に身もだえしていたヒコを追い立てるように、一時間目終了のチャイムが鳴った。



 当日の授業が終了する頃には、ヒコは目に見えて憔悴していた。昨日の貧血騒ぎを知っている担任が、それとなく体調を気遣って声をかけてきたが、今のヒコにはその気遣いすらも煩わしくて、上の空で適当に返事をする。そんなヒコに、担任は不安そうな顔をしていたが、彼女は必要以上は答えずに教室を後にした。

 今のヒコには余裕がないのだ。

 ちりちりと、首筋が痛い。

(何かに、見られている)

 気のせいだ。何度そう言い聞かせても、まとわりつくような視線を感じる。

 授業中も、ただ座っていることが苦痛でならなかった。幾度も教科書を放り出し、叫んで暴れ出したい衝動にかられた。

(こんなことしている間に……)

 気づけば、鞄を抱えたまま職員室の前まで来ていた。無意識のうちに身体はいつものコースをたどっていたようだ。

 ヒコは扉の前で小さく息を吐くと、被服室の鍵を借りに職員室へ入る。

 今回は顧問の教師がいた為、いつもの小言につきあわされたが、ヒコが言葉を素通りさせているのに気づいたか、さっさと行けと追い出す。

 そして廊下に出た彼女は、小さく身を震わせた。

 ヒコは振り返る。

 この感覚……覚えがある。

 一歩がひどく重く、まるで自身が引き延ばされているような、奇妙な現象。

 まただ。とヒコは思った。

 振り返った先には、例の少年がいた。

 だが今度はヒコに気づくと、必死の形相でこちらに向かって走って来るではないか。

 叫んでいる。

(……何を言っているの?)

 少年はヒコを……いや、その後ろを見ている。

「え?」

 そして、ふっと自分の上に落ちてくる影に気づき、ヒコは恐る恐る顔を上げる。

「ひっ!」

 思わず、息を飲む。

 喉が圧迫されたように息が詰まり、悲鳴を上げる事もできない。

 白い巨体が自分を見下ろしている。

 頭は天井をかすめるほどで、それは窮屈そうにやや上体を曲げている。

「お前か……」

 白い怪物は、全身を震わせるようにして言葉を吐き出す。

 じんわりと漂ってきた冷気に、ヒコは身を震わせる。

「お前が、輪を壊した……。綻びから、漏れてしまう」

「な、何いって……」

「シンカ……。逃げてしまう……」

「逃げろぉっ!」

 後ろから少年がヒコの肩をつかみ、無理矢理引きずるようにして、ヒコは化け物の足下から離れる。

 つかまれた肩が痛い。

 それでも……ヒコは眼前の光景から、すっかり現実感を喪失していた。

(これは、夢……?)

 そう思いながらも、どこかで強く否定する声が上がる。

 夢ではない、これは現実。

 だから……逃げなくてはならない。

 ヒコが我に返ると、自分の腕をつかみ、引きずるようにして走る少年の背が見えた。

「待って!」

 ヒコは少年に向かって空いている腕を伸ばす。

「ねぇ、どこへ逃げるの? あなたは一体誰なわけ!」

「説明してる暇なんてない!」

 叩きつけられる声に反発するよりも先に、背中で何かの気配が膨れあがり……ヒコの上に濃い影が落ちる。

 途端、ぱしりと静電気に似た感覚が走り---周囲が白く染め上げられる。



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