15
「はい。どいて下さいませ。どんどん料理が運ばれて参りますよ」
「今日は祝宴。アッシュ様もそのような所においでにならないで、うんと召し上がって下さいませ」
数々の豪勢な食事や様々な銘柄のワインが、明るい炎の灯された広間に、次々と運ばれて来る。
楽団は既に調律に入り、実に久方ぶりになる美しい音色を響かせようと、最後の練習に余念が無い。
長い間留守にした夫や恋人を迎える女達はめいめいに着飾り、思い思いに顔を紅潮させている。
(皆……明るい顔をしている。そうだ。わが国はやっと自由を取り戻したのだ)
その年に起きたラッカの独立戦争は、明らかな勢の優劣にもかかわらず、三ヶ月を見ないうちにその終局を見た。
(よくぞあの兵力で、数に勝るナポリアを打ち崩したもの)
アッシュは広間の一角で、騎士たちと談笑を交わすオスロットを見つめる。
(オスロットも、腕を上げたものだ。あれだけの奇襲を駆使するなど、到底私には真似出来ない)
ナポリアのアルフレッドの自宅から抜け出したアッシュは、王宮で王を始めとする王族の警備に当たっていた。
(王宮の警備に当たるしか出来ないとは、私もすっかり実践の勘が鈍ったな)
当人はもちろん最前線に立つ事を望んだが、長く実践から離れていた事もあり、オスロットや父である王の説得の末、しぶしぶ王宮に残ることを頷いたのであった。
「さあさあ、そろそろ皆様お集まりになりますわ」
「新しい英雄殿をお迎えせねば」
そっとオスロットから視線を外しながら、アッシュは視線を窓から遠くに向ける。
(私は、帰ってきたのだー)
男性の正装を身に纏った己の姿を見下ろしながら、ひとり思う。
(嬉しいはずだ。ずっと私は祖国に帰ることだけを願っていたのだから)
……そう思うのに、心は一向に晴れない。それどころか思うのはたったひとりの男の顔。
(アルフレッド……)
結局彼がどこに出掛けたのかも解らぬまま、自分は彼から遠く離れてしまった。
ナポリアに戻った彼は、自分のいない館をどう思っただろう。少しでも悲しんだり狼狽してくれたりしただろうか。
(馬鹿なことを)
アッシュはひとり自嘲気味に笑う。そんな筈は無い。自分は、彼にとってひと時のおもちゃのようなもの。
きっと新しいおもちゃが見つかれば、すぐに忘れ去られてしまう。
それが当然と思いながらも、アッシュの心はますます曇っていくばかりだ。
少し新鮮な空気でも吸おうと、中庭に面した廊下まで歩いていく。そこにはアルフレッドの館と同じように、沢山のバラが植えられていた。
あの日、アッシュのために沢山のバラを用意してくれたアルフレッドの顔を思い出す。純粋にアッシュが喜ぶ顔が見たいのだと言ってくれた時のアルフレッドは、確かに二十一歳の若者の顔をしていた……。
「本当にこの国は、赤いバラしか無いのか」
後ろから掛けられた声に、瞬間アッシュは全ての物事が停止してしまったような錯覚に襲われた。
振り返りたいのに、振り返る事が出来ない。
カツン、カツンとその足音は段々に近づいて来る。
「アンタ、やっぱりその格好のほうが似合ってるみたいだな」
一歩、二歩。
自分に彼の影が重なる。
(なぜ、なぜ、そんな事が……)
「おい、返事は無いのか? 返事が無ければ……抱きしめちまうぞ?」
それは、彼のいつもの口調だった。
それでも、アッシュは振り返る事が出来ない。
それが、幻のようだと思ったからだ。
(私が振り向いたら消えてしまうかもしれない。それは、嫌だ、絶対に嫌)
ぎゅ、と強く目を瞑ったとき、後ろからするりと大きな腕がアッシュを包み込んだ。そのまま、逃がさないとばかりに強く抱きしめる。
息も止まりそうなアッシュのうなじに強く唇を押し当てると、アルフレッドは低く笑った。
「やっと会えたな……」
そのどこかほっとしたような呟きに、アッシュは瞬間的に振り返ると、アルフレッドの首に腕を回して抱きしめ返していた。
(暖かい)
懐かしいアルフレッドの腕。
アッシュは今、躊躇いも戸惑いも全て捨て、愛おしい男の腕に抱かれる幸福に酔っていた。
夢じゃない。幻でもない。
自分を包み込んでくれる腕がここにある……。
消えてしまうのが怖くてずっと閉じたままだったまぶたに、アルフレッドの優しいキスが降りてくる。
目を開けるよう促す動きに恐る恐る目を開ければ、いたずらっぽいグリーンの瞳とぶつかった。
「逃げないのか?」
まっすぐに問いかけられて、返答に詰まる。
咄嗟に抱きしめ返してしまったが、今までが今までだ。どう彼に接して良いか解らない。
それでも、今ここで逃げるのは嫌だった。せっかく会えたのだ。もう、この手を離すことなど出来る筈も無い。アッシュは躊躇いを振り捨てた。
「……逃げない」
まっすぐに見つめ返して告げれば、驚いたようにアルフレッドの瞳が大きくなる。日頃は怜悧な色を見せる瞳に動揺が浮かんだのが嬉しくて、アッシュはまっすぐに見つめ返す瞳を決して逸らさなかった。
やがてその瞳を見つめていたアルフレッドがふう、と息を吐く。
「ああ。アンタは最初からそうだったな。いつでもまっすぐに俺を見つめていた。初めて会ったとき……自分が殺されてもおかしくないような状況でさえ、アンタは俺から目を離さなかった」
「あれは……」
必死だっただけだ。自分の肩には祖国がかかっていた。実際は、ふるえが来るような緊張感だったのだ。
「だから俺も、いつからかアンタから目を離せなくなった。片時も離れたくなくて……でもアンタはいつだって俺には笑ってくれなくて……。だから俺は、いっそアンタから離れようとした」
「……!」
思いがけぬ言葉に、アッシュは咄嗟に反論を試みようとする。しかしそれを指一本で抑えたアルフレッドは、構わず続けた。
「おかしな話だろ? あんな一方的にアンタを自分のものにしておいて、アンタの心がそこに無い事にイラついてばかりいた。俺はアンタに何一つしてやれ無かった。でも、これでアンタにひとつ、返してやれたな」
「……?」
訝しげに見返すアッシュに笑いかけながら、アルフレッドは口を開いた。
「俺を大嫌いなブラドリー王が、俺に罪を着せて永遠に葬り去ろうとしたんでな。裏をかいてやった」
「裏?」
「ああ。……ラッカの独立、思うより上手く行っただろう?」