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背筋が震えるのを感じる。
(それでは、兄上は……)
「しかし、アルフレッドも馬鹿な奴だ。シャーナは、既にあちらの手の中だと言うのに。今更出て行ったとて、蜂の巣になるだけだ」
「しかし……宜しいので? 援軍を出したとあれば、先の国との戦になりはしませぬか」
「良い。アルフレッドはわが国の〝逆賊〟。我の反対を押し切って勝手に出て行ったとでも言って置けば良い。もちろん帰って来た所で、あやつの運命は変わらん」
瞬間、サーマは自室に向けて走り出していた。
(おそらく兄上は、アルフレッドのいない隙に、アッシュ殿を攫うつもりだ)
そうしてアッシュの出自を何もかも明らかにして、アルフレッドを「逆臣」として裁判にかける気だ。
いや……。聡明なサーマは、そこまで考えて首を横に振る。
(裁判にかける気すら、ないのかもしれない)
先ほどの話から察するに、アルフレッドはシャーナの地で南の大国が遣わした軍勢と相見えるのだろう。そして、万一の場合はそこで命を落としても構わないと兄は考えている。
(どうする、どうすれば良い……)
必死にサーマは考える。
サーマは、あの年の離れた従兄弟が大層気に入っていた。
確かに気障で女性癖の悪い所もあるけれど、自分は、アルフレッドが大好きなのだ。
(とにかく今は、アッシュ殿の身を隠すことが先決だ)
「誰も、死なせはしない」
そう呟くと、ぎゅっと唇と目を閉じる。
再び目を開いた時「十二歳の少年」の姿はそこに無く、硬い決意を心に秘めた、騎士の姿があるだけだった。
「……静かに」
耳元で突然かけられた声に、アッシュはびくりと体を震わせた。
咄嗟の動きで寝ていたベッドから起き上がると、声とは反対の方向に飛びずさる。と、月夜に照らし出されたその姿に、アッシュは思わず大きな声を上げそうになった。
「オスロット!」
「しっ!」
〝オスロット〝と呼ばれた相手は、アッシュに素早く声を落とすように仕草で示すと、次の瞬間柔らかな笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、アッシュ。少しやつれたか?」
「馬鹿を言うな。……ところで、お前はこんな所で何をしている?」
至極当然のような問いかけに、故郷の友人は呆れたように笑った。
「おいおい。命を懸けて助けに来た友に対して随分な言い様だな」
「助けに来た?」
「ああ。お前とて、いつまでもこんな所にいるつもりもあるまい」
にやりと笑う相手は、大柄な体躯に立派なひげを蓄えている。そのがっちりした体から荷を降ろすと、アッシュの前に放り投げて寄越した。
「説明は後だ。とにかく着替えろ。そのような格好では、走るのもままなるまい」
微妙に視線を逸らしながら、アッシュに告げる。
ハッとしながら自分の姿を隠すと、アッシュは手元の荷を引き寄せた。
「俺は、あちらにいる。用意が出来たら、抜け出すぞ。早くしろ」
それだけ言うと、オスロットの気配が寝室から消えた。
良くは解らないが、どうやら自分はこの館を抜け出す絶好の好機を得たらしい。それは解っていても、アッシュはその荷を開けるのを躊躇った。
(もしこれを開けてしまえば、二度とアルフレッドと会う事は叶わない)
この館を出て自分の国へ戻れば、後はこのナポリアと戦になるしか無いのだろう。
あの笑顔をもう見ることは出来ない。あの抱擁を受ける事も。あの息もつまるようなキスを受けることも無いのだと気づいて、アッシュは自分の唇に指を押し当てた。
(私は……気付いてしまった。あの人を……アルフレッドを愛していると)
どうしようも無く、アルフレッドが愛おしかった。
この場にいないアルフレッドに会いたかった。
他の見知らぬ女性との接吻を見てしまっても、自分の思いはこんなにもアルフレッドの元にある。
「私は……あなたを愛している……アル」
己の顔に手を押し当てて嗚咽を殺しながら、他には誰もいないベッドの上で、アッシュはひとしきり涙を流した。
「あの人は……。あの方はどこです?」
サーマは目の前で呆けたように泣き崩れるエマの肩を強く揺さぶった。
「それが、それが、解らないのです! どうしていらっしゃらないのでしょう。アッシュ様、一体どこへお行きになってしまったの?」
取り乱すエマは、もはや半狂乱のように泣き崩れている。
夜が明ける前にアルフレッドの邸宅に着いたサーマではあったが、肝心のアッシュの姿が見当たらない。
「貴女は、少しも侵入者の影に気がつかなかったというのですか?」
「はい。私は、何も。ああ、アッシュ様、私のせいです。ああ、なんということ……!」
震えるエマの肩を抱きながら、サーマは思案する。
(まさか、兄上?……いや、そんな筈は無い)
兄ならば多くの官吏を連れ、「反逆者」である事を国民に示すように、無数の兵でこの館を取り囲む筈だ。
「では、一体だれが……」
状況は果たして好転しているのだろうか。
想像もつかなかった事態の前に呆然と佇むサーマ。その時騒がしい音がして、腹心の部下が走り寄ってきた。
「サーマ殿下。ラッカ公国が多数の兵を集めている由にございます!」
あまりにもタイミングの良い「ラッカ反乱」。
(もしかして、あの方は……)
ラッカの方角に目をやれば、ここからは見えぬ筈の火の手が、目の裏にぼんやり映るような気がした。