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それは、全くの偶然だった。
物資の流通を主とする商店が軒を並べる路地。ある賊が、その一軒に押し入った。
賊は金目の物だけで無く、何か面白い情報は無いかと、手近な場所にあった重要と思しき紙束をもごっそり持ち去って行った。
結果、被害届のあった店から賊は捕縛された。しかし、官吏が盗賊の持ち物を吟味したのも偶然ならば、その書類の中に、自分の良く知る名前を見つけたのも、まったく不幸な偶然だったのだ。
気になった男は自分の上司へとそれを報告し、ひいては王の知る所となる。
そこにはこう記されていた。
「〝リュート〟――アルフレッド・某」
「あら、やっとお戻りになりましたの?」
ヴィルから聞いてはいたものの、扉を開けた瞬間漂ったきついローズの香水に思わず眉を潜めそうになるのをなんとか押し留め、アルフレッドは口元を僅かに上げるだけの笑みを零した。
「これは、美しきキャロライン。今日はどうされたのですか?」
彼女の訪問の意図など百も承知ではあるが、務めてさりげなく問う。そのさりげなさから「興味の無い」事を彼女が感じてくれれば、と密かに願ったがどうやら彼女には通じなかったらしい。
彼女は綺麗にカールされた髪を軽く撫でると、宝石をあしらったネックレスを拗ねるように持ち上げた。
「だって……アルフレッド様、最近ちっとも来て下さらないのですもの」
そう言って下から媚びる様にアルフレッドの顔を覗き込む。
それはあからさまな媚態であって、アレフレッドにとってはあまり好ましいものでは無い。
アッシュの何にも屈しないまっすぐな瞳に魅入られてからは、そのような女性の「媚」を何よりも疎ましく思うようになっていた。
しかし、面と向かってそのような事を告げることもできず、アルフレッドはすいと視線を逸らし、己の執務机の上にあった書類に目を通す。
「……申し訳ありません。近頃、公務のほうが忙しく、〝どなたの所にも〟伺ってはいないのですよ。お父上であられる大臣も、さぞお忙しいことでしょう?」
殊更「どなたの所にも」という部分を強調する。
まったく彼女達ときたら、アルフレッドの訪なう回数でその気持ちを量りたがるのだから、困ったものだ。……最近は、もっとも傍にいたいと思う女の所には、殆どいられないというのに。
「嘘」
「なぜです?」
思いがけず強い声で否定されて、アルフレッドは少なからず驚いた。振り返れば、疑惑と怒りをない交ぜにした彼女のシルバーの瞳がある。
「ハンナの所にも、スージーの所にもおいでになったでしょう? どうして、私の所には来て下さらないの?」
……その口やかましさが、自然と足を遠のかせる原因なのだとは思ったが、顔に出す訳にもいくまい。アルフレッドは内心でどうしたものかと考え込む。
真実を告げて、この場でサヨナラするのも一つの手ではある。しかし、気位も爵位も高いキャロラインの父を敵に回すような真似は、現在の状況ではしたくなかった。
暫し考えてーアルフレッドは一つの言葉を口にした。
「強いて言えば、〝貴女から来て欲しかった〟という所でしょうか?」
「え?」
瞳に期待の色を浮かべ始めた彼女の背に手を当て、部屋のドアを開ける。いぶかしむように見上げてくる彼女に綺麗に微笑むと、アルフレッドは中庭に続く廊下へと彼女を案内した。
「……まあ」
思わず彼女が感嘆の声を上げる。
そこには、何十本という大輪のバラが色とりどりに咲き乱れていた。
「これをあなたに見せたかったのですよ。バラをお好みの恋人のために、ね」
「アルフレッド様……。だから、私に内緒で?」
「ええ。もちろん」
その言葉は真実ではない。
このバラは、ほとんど室内から出る事の出来ないアッシュのために、少しでも気が紛れることがあればと彼女がこの館に来てから揃えたものだ。
『私の国には、バラの花は一色しか無いんだ』
アッシュの言葉が蘇る。
初めて見る色鮮やかな花々が気に入ったようで、アッシュは良く二階の自室の窓からこの花を眺めていた。
だからこの時、僅かな予感がなかったと言えば嘘になる。
「アルフレッドさま……」
請うように見上げてくるキャロラインの濡れたような眼差し。
逡巡したのはほんの一瞬で、アルフレッドは僅かに口の端を持ち上げると、ピンクのルージュがひかれたその唇に、そっと自分の唇を重ねた。
そのままの姿勢で、数十秒。
開かれた上階の窓から、永遠とも錯覚しそうなほどの衝撃で、アッシュが見つめていた事は、アルフレッドにとっては「予測」の範疇だったのだ。
これが二人の別離のきっかけになるとは、さすがのアルフレッドも予知出来ぬことではあったけれど。