9
既に癖になってしまったように、今日もアッシュは時計を見上げ、ひとつ溜息を吐く。
もう、宵も深まり、辺りには静寂が満ちている。
それでも何故かベッドに入る気にはなれず、先程から読み続ける書物は、既に残りのページを少なくしていた。
「アッシュ様、そろそろお休みになってはいかがですか?」
幾分心配げな顔つきのエマが遠慮がちに声を掛けて来る。その声にはエマを心配する気持ちと、どこか労わるような色が見えて、アッシュは己の置かれた立場の情けなさに今更ながら涙を堪えた。
「……そうだな」
「はい。……今宵はもう、アルフレッド様はおいでにならないでしょうから」
務めて注意深くそう告げると、エマはランプまで歩いていく。消して良いのかと目だけで尋ねるエマに無言で頷くと、エマは灯りを小さく落とした。
「早く、お休み下さいませね」
「ああ。ありがとう。エマ。あなたも休むと良い」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げて出て行くその姿を見送りながら、先程のエマの言葉を頭の中で反芻する。『今宵はもう、アルフレッド様はおいでにならない』エマはそう言った。
(そうでは、無い)
正しくは、エマはこう言うべきであった。
「今宵も〝また〟、来ないのだな」
幾分自嘲気味に呟くと、アッシュの瞳が暗く翳った。本を膝の上に置いて、目を瞑る。アルフレッドが姿を見せなくなって、もう、何日経つだろうか。
(政務が忙しいという訳ではないのだろう。……夜毎に忙しいのは、どこか女性の元へ出かけるためか)
最初はまたいつもの気まぐれか、政務が忙しいのだろうと思っていた。
しかし陽が落ちてからも館に彼の気配は無く、彼が夜毎にどこかへ出かけているのは明白だった。
エマも大層気にしているのだろう。アッシュの事を慕ってくれる彼女は、アルフレッド付きのヴィルに事の次第を尋ねたに違いない。
ヴィルの返答が思わしくないものであったのだろうことは、最近のエマの様子で見当がついていた。
(エマは嘘の吐けない子だ。逆に、申し訳なくなるな)
恐らくアルフレッドは、近頃別の女性の元へ足繁く通っているのだろう。
彼が以前からいくつもの浮名を流している事は知っていた。
(あの容姿だ。ましてや家柄も、知性も申し分ない。あれでは女性が放ってはおく筈もない)
無意識の内に、アッシュの指が本の扉をなぞる。表紙に刻まれた文字を辿りながら、もの思いに耽る。
自分は知っている筈だ。彼がどれほど冷たく、誰かを傷つける事の出来る人間かを。それでも、それでも自分はー。
そこまで考えて、ハッとアッシュは自分の胸を押さえた。
認めたくない。自分が、傷ついているなどと。
しかしあそこまで自分を踏みにじった人間に裏切られたと思うことが、なぜ、こんなにまでも苦しいのだろう。
自分は彼より五つも年上で、このように男のような形で、少しも彼の事を大事にしてはいない。
彼が自分よりも優しく、女らしい丸みと温かみを持った女性に惹かれるのは当然では無いかー。
そう思いながらも、アッシュは胸の奥がキリキリと痛むのを止められない。膝の上で本がガサリと音を立てる。
今更ながらその音に驚いた時、急いだようなノックの音がした。
「はい?」
「アッシュ様、たった今、アルフレッドさまがおいでにございます! お通ししても宜しいですか?」
「……」
否、という言葉が喉まで出かかった。しかし今の自分がそのような事が言える立場にないのは、既に解っていた。
(あの人の気まぐれがどんなに酷く自分を傷つけようと、自分はそれに従うしかないのだ……)
「どうぞ」
自分でも驚くほど無気力な声が出た。不機嫌に限りなく近いその声が聞こえたのだろう、入ってきたアルフレッドの顔もまた、苦りきったものだった。
「歓迎してもらえるとは思っていないが、そこまで嫌そうな顔をされるとはね」
アッシュはその瞬間、アルフレッドにそのような顔をさせた自分を心中で罵った。結局自分は、アルフレッドを不快にさせるだけの存在なのかもしれない。
「あまりにも久しぶりだから、驚いただけだ」
そこにある拗ねたような響きに気付いたのだろうか。アルフレッドの顔が、何かに期待するように輝いた。それでも彼は瞬時にその顔を消すと、口角を吊り上げ、からかう様にアッシュの顔を覗き込む。