子どもの頃から
「よく見直せって、何度も言ってるだろう!?」
社長がそう怒りながら差し出した書類を見て、私は目を見張らせた。…自分がさっきまで何度も見なおした箇所が全く違う文字になっている…。まるで誰かが作為的に打ち直したかのようだ。
…だが、それはない。パソコンで入力し、仕上げた書類を社長に渡したのは自分だけだ。そして社長もパソコンは操作していない。
「すいません。」
「ゆっくり見直せばいいと言っただろう?どうして、君はいつもこうなんだ。さっきの話も理解できていないだろう?」
「…?…」
「とにかく、打ち直せ。ゆっくりでいいから見直すんだぞ。」
「はい。」
私はパソコンの前に座り、間違った箇所を打ち直し始めた。…涙が溢れ出てきた。
……
元々、自分で小学校の時から「頭が悪い」とは自覚していた。人が10分で理解できることを、自分は20分かかる。そのため、どんな勉強も人の倍努力しないと、普通の点数が取れない。神経も常に使っていないと、うっかりミスが多々出てくる。
『自分はアホなんだから』
ずっとそう思い、人一倍努力してきた。…その努力をやめたのは、中学2年生の頃だったと思う。もうしんどかった。別に点数が全てじゃないなどと、逃げの気持ちが起こり、その頃から人一倍の勉強をしなくなった。
高校に入ってもそうだった。留年しない程度の勉強しかせず、エスカレーター式で短大に上がった。そこでも留年しない程度の点数を取り卒業した。
20代はそれでもまだ若かったので、神経をさほど尖らせなくとも、普通に仕事が出来ていた。
顕著に「痴呆」のような症状と、激太りが始まったのは、2人目の子どもを産んで1年程経ってからだろうか。
ただその時は「やっぱり30超えたら、頭もぼけるよなぁ」としか思っていなかった。ミスが続き、社長に怒られ始めたのもその頃だ。
『またアホの症状が出てきたか。』
そう思い、人一倍神経を尖らせる日が続いた。そんなある日、健康診断で自分でも驚いた結果が出た。
血圧が異常に高いのだ。
上が「140」で、下が「120」というとんでもない数字だった。看護婦さんも驚いている。
若い頃は低血圧で、下が測れないほどだったのに、いつ、どうしてこうなってしまったのかわからない。
また「肥満」と言われた。それは元々感じていた。新陳代謝が落ちただけだと思っていた。
食べる量は若い頃よりも減っているのに、どんどん体重が増える。ただアルコールを飲む量が増えた。尖っている神経を抑えるのに、煙草を吸えない代わりにアルコールの力を使った。のちに「アルコール依存症」と診断された。
そして離婚した。
離婚してしばらくしてから、体重が勝手に落ちてきた。アルコール依存症も解消された。一気に10kg痩せた。
(ストレスだったんだ)
そう思った。ただ血圧は簡単には下がらなかった。そして、その後また体重が増え始めた。自分では(安心太りかな)と思っていた。
朝から夜中まで働く日が続いた。元主人から養育費を多分にもらっているにも拘わらず、働けるうちに働かなければと必死だった。
40歳になって、急性腸炎で初めて倒れた。
その日から下痢が毎日続くようになり、肉、油ものが全く食べられなくなった。またスナック菓子や甘いものを食べると、何故か頭痛が起こるようになった。ひと口くらいなら大丈夫だが、それ以上食べると下痢か頭痛を起こす。そのため、食べる量は減った。その分、お腹持ちをよくしようと、炭水化物ばかり食べる日が続いた。…体重はどんどん増加していった。
周囲に運動不足じゃないかと言われ、立ち仕事を始めた。1日、ほぼ8時間立っている仕事である。
…だが、異常に疲れるだけで、全く痩せなかった。それどころか、太っていく…。
そのうちに、また入力ミスが増えていった。
非常に困るのは、何度見直しても自分では正しく入力しているように見えてしまうことだ。
例えば、数字を「123456」と入れたとする。何度見なおしても「123456」としか見えない。なのに、社長に怒られてからその数字を見ると「325624」などと、めちゃくちゃな数字が入っているのである。何度も見直したのに、自分ではまったくミスに気付かない。
私生活でもおかしなことが起こり始めた。
コーラのペットボトルのジュースを何度も見直して買ったのに、家に帰ったらそれがオレンジジュースに変わっている。誰かが入れ替えたのかとも思ったが、そんなことはない。自分が見間違えているのである。
こんな風に、何度も何度も見直しているにもかかわらず、自分がこうだと思い込んだものに見えてしまう…。「アホ」が進化しているにもほどがある。
そして、あまりにミスが続くので、社長が知り合いの看護婦さんに話をしてくれた。すると、その看護婦さんは「すぐに病院に行かせるように」と社長に言ったそうである。
「心療内科に行かせなさい。…それで何もなければ、脳神経の異常かもしれない。放置すると2、3時間、記憶が飛んでしまうなんてことになる。いまのうちに病院に行かせなさい。」
それを社長さんから聞き、とりあえず心療内科に行った。…脳神経の病院に行くのは怖かった。…入院となったら、仕事をやめなくてはならなくなる。母子家庭で、子どももまだ未成年だ。入院なんかしてられない。
心療内科では丁寧に症状を聞いてもらえた。
そして、こう言われた。
「甲状腺ホルモンの異常かもしれません。血液検査をしましょう。」
結果は…本当は翌日でもわかるのだが、祝日が重なったりして仕事を休められず、1週間後に病院に行くことになった。…その日まで、なんとかミスをしないように神経を使わなければならないかと思うと、気が重くなった。