月曜日(2)何がどうなってこうなった
最寄駅で電車を降りたわたしは、いつものように自宅を目指してゆるい上り坂を歩き始めた。もうあと一週間ほどで十月。ついこの間までアスファルトがとろけそうだったのに、今では地面が日陰に覆われて、夏の間にたまった熱はどこかへいってしまった。途中から人気のない脇道に入ると、ひんやり肌寒いくらいになって、右手にひっそりとした地蔵堂が見えてくる。
こんもりした植え込みにオレンジ色の小さな花は見えないけれど、かすかにキンモクセイが香っていた。わたしはなんとはなしにこの場所が好きで、今日はお昼に食べ残した早生のみかんを小さなお地蔵さんにお供えした。残りものだったけど、ほの暗い祠に置いたみかんのくっきりした黄色は、小さな灯りみたいに映えていた。
まさかとは思うが、残り物が悪かったということはないだろう。そのとき突然、坂の上の方から「おいっ、どけどけっ、どけよそこっ!」のように声が叫んで、一台の自転車が真っすぐにわたし目がけてつっこんできた。ここでうまくよけるほどわたしの反射神経はよろしくない。
自転車にまたがった同級生、原口准多の必死の形相が見えて、スローモーションのように確かに目が合ったというところで記憶がいったんぷっつりと落ちる。次に気がついたときにはこの通り、いかんともしがたい状況、になっていたのでしたよ。
呆然の度合いを測るものがあるならば、それは准多の方が高かったものと思われる。どういうわけかわたしは、かの有名な「おれがあいつで(以下略)」事件が今この身に起こったとその時点で確信していたから。
目の前には、高校の制服を着て倒れこんでいる見慣れたわたしの姿。ソレを見ているこちらは、中身だけわたしで体は男子高校生。地面に足を投げ出して座っているような状態だが、目線がいつもより高く、足先にひっかっている見慣れない汚れたスニーカーのサイズは推定28cmだ。
当たり前だが状況をまったく把握できないらしい、目の前にいる女子高生の姿をした「わたし」の白い靴下が妙にまぶしく見えた。
自転車は茂みに逆さに突っ込んで、進むこともできないのに車輪だけジージーまわってる。倒れたはずみにめくれあがったらしい目の前の「わたし」の制服のスカートをなおしつつ、わたしはなんとか渾身のひとことを口にした。
「さて、どうしよっか?」
自分の喉から出た低い声にはやはり、ぎょっとする。スカートをはいた方の「わたし」は、その問いには答えようとさえせず、
「ドッケルぺンガー?」
なんて細い声で言いながら喉のあたりを触っている。残念ながら、それを言うならドッペルゲンガー、と突っ込む気力もありはしない。
不思議なことに、体は二人ともかすり傷程度で無事なようだった、入れ替わったことを除いては。
先ほど自転車でつっこんできた人、つまりわたしと入れ替わったらしい准多の家も、わたしの家も、ここから徒歩5分程度の距離にある。小学生の時には同じ学区だったので、准多とは同じクラスになったこともあった。
入学した高校の同じクラスにこの顔とこの名前を見つけたときは、あれ、と思ったけれど、中学時代は特に接点もなかったし、幼馴染というほどの濃い関係もまったく、ない。同じクラスになった今でも、あいさつ程度の会話しかしないくらいの間柄だ。それが、なぜ、どうして、この人と自分が入れ替わってしまったのか。
そして当面の問題として、今の状況をわたしからこの呆けてる人に説明しなきゃならないんでしょうか。
わたしは目の前に転がっていた自分のかばんを探り、ケータイを取り出した。こういうときに頼ってしまうからダメなんだよね、と思いつつ、兄の理人にメールする。もちろん一番面倒な状況説明はふせたまま、現在地と自転車とぶつかったことだけ知らせた。
返信はすぐにかえってきたが、こちらに向かうという内容の短い文面から放たれる隠しようのない不機嫌さが、マイナス10度の冷気のようにわたしを襲う。
周囲に重度のシスコンと噂されるこの兄に、わたしは頭があがらない。いや、頭があがる人の方が少ない気もするから、そんなに悲観しなくてもよいのだろう。それでもあの白く整った顔立ちを思い出しつつ、げんなりせずにいれらない。二人無言のまましばらくすると、制服の腰のポケットに手を突っ込んだ兄が歩いてきて、急にまわりの気温が下がった気がする。
あちらの方向から手ぶらの制服姿で歩いてきたということは、ちょっと前に家に着いたところを折り返してきたのだろう。
もうすぐ見納め、夏服の白シャツがよくお似合いです。しかしいかんせん、もうちょっとだけ、やさしげな表情をうかべることはできないものか。
地蔵堂のみかんをちらっとみやると、
「高校生女子が供え物するってどうなんだよ」
とかつぶやいている。なにゆえバレたのか。いや、悪いことをしたわけではないはずだけど。
「で、何この状況?」
呆けた表情で固まっている、見た目は妹で中身は原口准多、をさらりと無視して、見た目は原口准多、中身はこの兄の妹であるところのわたしに尋問を始める。わたしはつっかえつっかえ、実際に起こったできごとと、起こってしまったと推測される突拍子もない出来事について話した。