13:第二の部屋
土曜日の午後、俺は自分の部屋でぼんやりと過ごしていた。
平日は仕事に追われ、帰宅すれば食事を済ませて風呂に入り、眠るだけの毎日だ。職場では真面目だと言われるし、頼まれた仕事を途中で投げ出したこともない。困っている同僚がいれば手を貸すし、面倒な役目を押しつけられても、結局は引き受けてしまう。
別に、そうすることが嫌いなわけじゃない。ただ、仕事以外のことまで一生懸命になる気はなかった。
休日くらい、何も考えずに過ごしたい。
そんな俺の部屋は、必要な物だけが揃った、ごく普通の部屋だった。大きなテレビと、使い慣れた机、ベッドに本棚。家具を買い替えたいと思ったことは何度もあるが、今ある物が使えなくなったわけでもない。わざわざ高い金を払って買い直すほどのことでもないと思い、いつもそのままにしていた。
欲しい物がないわけではない。
むしろ、欲しい物ならいくらでもあった。
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欲しい物がないわけではない。けれど、今ある物がまだ使えるなら、わざわざ買い替える必要はないと思っていた。物によっては、値段を見て諦めることもあった。
そんな俺は、休日になると、特に予定も立てずに部屋で過ごすことが多かった。出かけるのも面倒だし、かといって、何かしたいことがあるわけでもない。結局、ソファでぼんやりしたり、スマホを眺めたりしているうちに、時間だけが過ぎていく。
その日も、何をするでもなく部屋で過ごしていた。ふと顔を上げたとき、クローゼットの横に置いてある姿見が目に入った。
何年も前に買った、ごく普通の全身鏡だ。出かける前に服装を確認するくらいで、普段は特に気に留めることもない。
俺は立ち上がり、鏡の前に移動した。
寝癖の残った髪に、少し伸びた無精ひげ。休日らしい、気の抜けた格好をした男が映っている。
当然、俺と同じ動きをしていた。
右手を上げれば、鏡の中の男も右手を上げる。首を傾ければ、向こうも同じように傾けた。
何の変哲もない、いつもの鏡だった。
俺は鏡の縁に手をかけた。
そのとき、指先が触れたはずのガラスに、妙な感触があった。
硬いものに触れた感触ではなかった。冷たく、わずかに弾力がある。水面に指を沈める直前のような、頼りない感触だった。
思わず手を引っ込め、もう一度触れてみる。
今度は、指先がほんの少し沈み込んだ。
「……なんだ、これ」
声に出してから、自分でも馬鹿らしくなった。疲れているのかもしれない。そう思って手を離そうとしたが、好奇心の方が勝った。
俺は鏡に向かって、ゆっくりと手を押し込んでみた。
指が入った。
次に手首が、肘が、肩が。
驚いて引き返そうとしたときには、もう遅かった。体が前に引かれるような感覚があり、俺はそのまま鏡の向こうへ倒れ込んだ。
床に手をついた。
痛みはなかった。
ただ、目の前に見慣れた自分の部屋があった。
俺はゆっくりと立ち上がり、辺りを見回した。ベッドも机も本棚も、さっきまでいた部屋と何も変わらない。窓から差し込む午後の日差しも、床に落ちた洗濯物も、そのままだった。
振り返ると、そこには姿見があった。
だが、鏡の中に俺の姿はなかった。
鏡には、俺がいたはずの部屋が映っていた。さっきまで俺が立っていた場所も見える。けれど、そこに俺はいない。
試しに手を振ってみたが、鏡の向こうに動く影はなかった。
俺はしばらく呆然としていた。
どうやって入ったのかも、どうすれば戻れるのかもわからない。だが、鏡の表面に手を当てると、入ってきたときと同じ感触があった。
押し戻すように体を動かすと、今度はあっさりと向こう側へ戻ることができた。
気がつけば、いつもの部屋に立っていた。
鏡には、当然のように俺の姿が映っていた。
何度か出入りを繰り返したあと、俺はようやく落ち着いた。
夢ではない。少なくとも、夢にしては床の感触も、鏡の向こうの空気も、あまりに現実的だった。
それに、戻ってきた部屋には何の変化もなかった。
俺はもう一度、鏡の向こうへ入ってみた。
今度は、さっきまで気づかなかったものが目に入った。
クローゼットの脇、普段なら家具の陰になって見えない位置に、小さな扉があった。
現実の部屋には、そんな扉はない。
近づいてノブを回すと、扉は抵抗もなく開いた。
向こうには、もう一つ部屋があった。
俺は思わず息を呑んだ。
そこは、見たこともない部屋だった。
いや、正確には、見たことがある物ばかりだった。
雑誌で見かけて気に入ったものの、値段を見て諦めた革張りのソファ。店頭で何度も眺めた、手の届かないオーディオ機器。広い部屋に置くのが夢だった、重厚な木製のデスク。
棚には、以前から欲しかった本が並んでいた。壁際には、いつか買おうと思いながら先延ばしにしていた照明が置かれている。
どれも、俺が欲しいと思ったことのある物だった。
ただ、何でもかんでも置かれているわけではない。店で一瞬いいなと思っただけの物や、すぐに忘れてしまった物は見当たらなかった。
ここにあるのは、諦めたあとも、心のどこかに残り続けていた物ばかりだった。
俺はソファに腰を下ろした。
座り心地は、想像していた以上によかった。
立ち上がって棚の本を手に取る。以前、書店で見つけたときには値段を見て諦めた本だった。ページをめくると、見覚えのある表紙も、紙の手触りも、記憶に残っていたとおりだった。
もちろん、こんなことが普通に起こるはずはない。
鏡の向こうに、もう一つの部屋がある。そこには、自分が欲しいと思いながら諦めた物が揃っている。
考えれば考えるほど、わけがわからなかった。
けれど、わからないことを考え続けたところで、答えが出るとも思えなかった。
それに、ここは誰にも邪魔されない。
現実の部屋と同じように静かで、好きな物に囲まれていて、何もする必要がない。
俺は本を閉じ、もう一度ソファに深く座り直した。
しばらく、ここで過ごしてみよう。
そう思った。
*
それから、俺は休日になると鏡の向こうへ入るようになった。
初めのうちは、何かの拍子に入れなくなるのではないかと気になっていたが、そんなことはなかった。鏡に触れれば、いつでも向こうへ行けた。
第二の部屋で過ごす時間は、思った以上に快適だった。
読みたかった本を読み、座りたかったソファでくつろぎ、好きな音楽を聴く。欲しい物はそこにあるし、誰かに気を遣う必要もない。
現実の部屋と違うのは、ここでは何も我慢しなくていいということだった。
もっとも、部屋にある物を現実へ持ち出せるかどうかは、試したことがなかった。
最初に手に取った本を持って帰ろうとしたことはある。だが、鏡を通って現実へ戻るときには、いつの間にか手ぶらになっていた。
そこで俺は、そういうものなのだろうと考えることにした。
ここで楽しめるなら、それで十分だった。
何度か通ううちに、部屋の中にある物にも慣れてきた。初めて見たときには驚いた家具も、今ではずっと前からそこにあったような気がする。
どうしてこんな部屋があるのか。
なぜ、欲しかった物が揃っているのか。
疑問がまったくなかったわけではない。
けれど、考えたところで何かが変わるわけでもない。少なくとも、今のところは何も困っていなかった。
俺は、その部屋を自分だけの場所として扱うようになっていた。
ある日のことだ。
現実の世界で、俺は駅前の時計店に立ち寄った。
特に買うつもりがあったわけではない。以前から気になっていた腕時計が、その店に展示されていると知ったからだった。
店のショーケースの中には、黒い文字盤に銀色の針をあしらった腕時計が並んでいた。その中の一つに目が留まった。
以前、雑誌で見かけて気に入った時計だった。
店員に声をかけ、ケースから出してもらう。手首につけてみると、思っていた以上にしっくりきた。
重さも、文字盤の大きさも、金属の質感も申し分ない。
しばらく眺めていたが、値札を見て我に返った。
俺の給料からすれば、絶対に買えない金額ではない。少し節約すれば、手が届かないこともないだろう。
だが、そこまでして必要な物なのかと考えてしまう。
今使っている時計だって、まだ十分に使える。
「少し考えます」
そう言って店を出た。
帰り道、もう一度買おうかと考えたが、結局はいつもどおり諦めた。
それでも、あの時計のことは頭から離れなかった。
次の休日、俺は鏡の向こうへ入った。
いつものように第二の部屋へ向かい、ソファに座ろうとしたとき、机の上に小さな箱が置かれていることに気づいた。
近づいてみると、見覚えのあるデザインだった。
開けてみる。
中には、あの腕時計が入っていた。
「……こんな物まであるのか」
思わず笑ってしまった。
現実では諦めたはずの時計が、ここにはある。
もちろん、現実の店で見た物とまったく同じなのかどうか、確かめる術はない。それでも、文字盤の色も、針の形も、ケースの細かな仕上げも、記憶していたとおりだった。
俺は時計を手首につけてみた。
やはり、よく似合う。
しばらくそのまま眺めていたが、やがて時計を外し、机の上に置いた。
どうせここでしか使えないのなら、ここで楽しめばいい。
そう思った。
その日は、いつもより長く第二の部屋で過ごした。
帰るとき、俺は時計を手に取った。現実へ持ち出せないことは、以前の経験でわかっていた。それなのに、なぜかその日は、手放すのが惜しかった。
時計を持ったまま鏡を通り、現実の部屋へ戻った。
気づいたときには、時計は俺の手の中にあった。
「……え?」
俺は立ち止まり、手の中の時計を見つめた。
第二の部屋にあった物は、持ち出せないはずだった。
もう一度鏡に触れ、向こうへ戻ってみる。机の上には、時計がなかった。
時計を持って現実へ戻る。やはり、手の中にある。
何度か確かめたあと、俺は考えるのをやめた。
もともと、説明のつかないことばかり起きているのだ。持ち出せる物もあるのかもしれない。
俺は時計を机の上に置いた。
翌日、出かける前にその時計を手首につけてみた。鏡に映る自分の姿を見ながら、思わず口元が緩んだ。
悪くない。
ただ、こんな高価な時計を突然つけて職場へ行けば、同僚に何か言われるかもしれない。そう思い、結局いつもの時計に戻した。
高級な腕時計は、机の上に置いたままにした。
*
週明け、職場で同僚の佐々木が、何気ない調子で話しかけてきた。
「そういえばさ、この前の日曜日、駅前にいた?」
「え? 日曜日?」
「いや、お前にそっくりなやつを見かけた気がしたんだよ。駅前の通りでさ」
「俺? いや、先週の日曜は家にいたよ」
「だよなぁ。見た場所が高級腕時計の店の前だったからさ。お前、そういう店に行くイメージなかったし」
「なんだよ、それ。俺だって腕時計くらい見るよ」
「ははっ、そりゃそうか」
佐々木は笑いながら、別の話題に移った。
俺もそれ以上は気にしなかった。
似ている人間など、どこにでもいる。佐々木が見間違えたのだろう。
ただ、その日の帰り道、ふと時計店のことを思い出した。
俺が見に行った店と同じだったのだろうか。
そう考えたが、すぐに忘れた。
次の休日も、俺は鏡の向こうへ入った。
第二の部屋で過ごす時間は、相変わらず快適だった。現実では手に入らない物に囲まれて、何も考えずに過ごせる。ここにいる間だけは、仕事のことも、人付き合いのことも、すべて忘れていられた。
俺は、少しずつ現実の生活よりも、この部屋を楽しみにするようになっていた。
それから数日後、職場の休憩室で、テレビのニュースが流れていた。
『昨日、駅前の高級腕時計店で、展示されていた腕時計が盗まれました。警察は防犯カメラの映像を公開し、犯人の行方を追っています』
何気なく画面を見た俺は、手にしていたコーヒーを止めた。
映し出された映像には、店内を歩く男の姿があった。
画質はそれほど鮮明ではなかったが、顔ははっきりとわかった。
俺だった。
髪型も、顔立ちも、体格も、見慣れた自分の姿と同じだった。
画面の中の男は、ショーケースの前で立ち止まると、周囲を確認するように視線を動かした。そして、展示されていた腕時計を手に取り、そのまま店の外へ出ていった。
俺は、画面から目を離せなかった。
あの日、俺が店で見た時計だった。
「……嘘だろ」
声が漏れた。
俺はあの日、時計を見ただけだ。買ってもいないし、盗んでもいない。
それなのに、映像に映っているのは、どう見ても俺だった。
「おい、大丈夫か?」
隣にいた佐々木が、俺の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ。なんでもない」
そう答えたものの、胸の鼓動は収まらなかった。
数日後、警察から連絡があった。
防犯カメラの映像に映っていた男について、話を聞きたいという。
俺は警察署で、当日の行動を説明した。
日曜日は家にいたこと。時計店には別の日に立ち寄ったこと。映像に映っているのは自分ではないこと。
だが、警察は納得しなかった。
「映像の人物は、あなたと非常によく似ています」
「似ているだけです。俺は盗んでいません」
「では、当日の行動を確認できるものはありますか?」
俺は言葉に詰まった。
日曜日は、鏡の向こうの第二の部屋にいた。
けれど、それを証明する方法はない。
誰かと会っていたわけでもない。買い物をしたわけでも、外出したわけでもない。部屋にいたと言っても、それを裏づけるものは何もなかった。
結局、その日は何度も同じ質問をされ、解放された。
帰宅してから、俺は机の上の腕時計を見つめた。
あの店で盗まれた時計と、同じデザインだった。
俺は時計を手に取り、裏側を確かめた。
小さな刻印があった。
ニュースで見た映像の中に、同じ刻印があったかどうかはわからない。だが、俺が手にしている時計が、あの店で見た物とよく似ているのは確かだった。
どうして、ここにあるのだろう。
第二の部屋にあったから。
そう考えれば説明はつく。だが、盗まれた時計が、なぜ俺の手元にあるのか。
俺は時計を机に戻した。
考えたくなかった。
*
その後、警察から何度か連絡があった。
俺は何度も、自分が盗んだのではないと説明した。しかし、決定的な証拠は見つからなかった。
映像に映っているのは、俺と同じ顔をした男。
それだけで、周囲の目は少しずつ変わっていった。
職場でも、以前のように気軽に話しかけられることが減った。誰かが会話を止めるたびに、俺は自分のことを話しているのではないかと考えてしまう。
佐々木も、あの話題には触れなくなった。
何も言わないことが、かえってつらかった。
俺は、何度も鏡の前に立った。
鏡には、いつもどおりの自分が映っている。
手を上げれば、向こうも手を上げる。顔を近づければ、向こうも同じように近づいてくる。
何も変わらない。
あの映像に映っていたのは、本当に俺だったのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は鏡の表面に手を当てた。
向こうへ行けば、少しは落ち着ける気がした。
第二の部屋なら、誰も俺を疑わない。何も聞かれない。何も説明しなくていい。
俺は鏡を通り抜けた。
向こうの部屋は、いつもと同じだった。
ソファも、棚も、机も、何ひとつ変わっていない。第二の部屋に入ると、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ薄れていく気がした。
俺はソファに腰を下ろした。
ここにいる限り、何も考えずに済む。
そう思った。
俺は、どうすればいいのかわからなかった。
盗んでいないと訴えても、信じてもらえるだけの証拠はない。あの日、自分がどこで何をしていたのかさえ、誰かに証明することができなかった。
いくら考えても、答えは見つからなかった。
俺は立ち上がり、現実の部屋へ戻ることにした。
鏡の前に立ち、手を伸ばす。
向こう側には、いつもの部屋が見えていた。
机も、ベッドも、窓も、何も変わっていない。
だが、鏡を通り抜けようとした瞬間、俺は動きを止めた。
机の前に、誰かがいた。
男が一人、机に手をついて、肩で息をしていた。
見覚えのある服だった。
俺が普段、休日に着ている服と同じだった。
男は何度も振り返り、部屋の外を気にしているようだった。やがて、手にしていた物を机の上に置いた。
それは、見るからに高価そうな品物だった。
袋にも入っていない。包装もされていない。まるで、そこらに置いてあった自分の物を、適当に置くような仕草だった。
男は荒い息を吐きながら、額の汗を拭った。
その横顔を見て、俺は息を止めた。
俺だった。
顔も、髪も、体つきも、何もかもが俺と同じだった。
男は机の上の品物を眺め、満足そうに小さく息をついた。
そして、顔を上げて鏡の方を向いた。
俺と目が合った。
俺は鏡の向こうから、声も出せずにそいつを見つめていた。
そいつは、俺を見て、ゆっくりと笑みを浮かべた。




