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婚約破棄されましたので、王太子殿下の護衛任務を終了いたします

婚約破棄されましたので、王太子殿下の護衛任務を終了いたします――なお暗殺組織は傘下に入れます

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/27

王立学院の卒業夜会。


「イルゼ・ハルデベルク。君との婚約、今日で終わりにするよ」


王太子フェリクは、ずいぶん穏やかな声でそう言った。


楽団の演奏が止まり、大広間にいた貴族子女たちの視線が一斉にこちらへ集まる。


けれど、言った本人には誰かを断罪しているという意識すら薄いようだった。


怒鳴るでもない。責め立てるでもない。


ただ、長く続いた関係を終わらせる。


そんな口調だった。


イルゼは一度だけ瞬きをした。


「承知いたしました」

「……驚かないんだね」

「多少は」


まったく予想していなかったわけではない。


ここ半年ほど、フェリクの視線が自分から外れていることには気づいていたし、その行き先も知っている。


フェリクの隣に立つ子爵令嬢、ミーナレス。


小柄な少女だった。


百七十を少し超えるイルゼとは違い、フェリクの肩より少し低い。淡い栗色の髪に、柔らかそうな頬。


身体つきも、イルゼとはずいぶん違っていた。


イルゼ自身、女性として痩せすぎているわけではない。胸もあるし、腰もある。


ただし、全身が締まっている。


肩から背中、腹、脚。幼い頃から鍛え続けてきた身体には余分な肉がほとんどなく、長身で姿勢もいいため、ドレスを着れば細身という印象が先に立つ。


対するミーナレスは、小柄な身体に豊かな丸みを持っている。


並べば違いは明らかだった。


「ミーナレスの方が、ちゃんと僕を見てくれてる気がするんだ」

「左様でございますか」

「君はいつも、僕じゃないところを見てるだろう?」


イルゼは少し考えた。


確かにそうかもしれない。


フェリクの顔を見ている時間より、その背後を見ている時間の方が長かった。


窓や扉。給仕や近衛。二階回廊と人の流れ。


誰がどちらの手で杯を持ったか。誰が何度こちらを見たか。誰の歩幅が途中で変わったか。


王太子の隣に立つというのは、イルゼにとってそういうことだった。


「それにさ」


フェリクは少し言いにくそうに笑った。


「ミーナレスは柔らかいんだ。心も、身体も」


一瞬だけ間が空き、大広間が妙に静かになった。


ミーナレスが頬を赤らめ、フェリクの腕へ少し身を寄せる。


イルゼは彼女を見て、それから自分を見下ろした。


なるほど。


胸がないわけではない。むしろ仕立屋からは、細い腰との釣り合いを取るのが難しいと言われる程度にはある。


だが、柔らかいかと問われれば少々困る。


腹部にはうっすら筋があり、腿も締まっている。背中も肩も、女性用の礼装を仕立てるには少々厄介らしい。


抱き心地というものを評価基準にされるなら、おそらくミーナレスには勝てない。


「……身体については、否定いたしません」


フェリクが困ったように笑った。


「そういうところだよ、イルゼ」

「と申しますと」

「何でもそうやって冷静に考えるところ」

「はい」

「怒ったり、泣いたりもしない」

「必要がございましたら」

「必要があるからするものじゃないだろう?」


それはそうなのだろう。


イルゼにも、その程度のことは分かる。


ただ、王太子の隣にいるとき、感情を優先する余裕などなかった。


十二歳の春。


イルゼはフェリクの婚約者になった。


王家とハルデベルク公爵家の結びつきを強めるため。


そう公には説明されたし、間違いではない。


ただ、それだけでもなかった。


ハルデベルク公爵家は代々、王家の表に出ない警護を担ってきた。


近衛が剣を抜く前に、剣を抜こうとする者を見つける。


毒見役が倒れる前に、毒が混ぜられる経路を断つ。


王族が襲われてから守るのではない。


襲われる前に終わらせる。


そして婚約者という立場は、王太子の最も近くにいても不自然ではなかった。


食事に同席できる。私的な予定を知ることができる。馬車にも乗れる。夜会でも隣に立てる。王太子宮にも自由に出入りできる。


婚約して一年ほど経った十三歳の春、最初は菓子だった。


王宮厨房から運ばれる途中、焼き菓子の一つに毒が仕込まれた。


イルゼが気づいた。


十四歳の秋には、狩猟会の木立の奥からフェリクを狙う弓兵を見つけ、矢が放たれる前に捕らえた。


十五歳のときには、王都へ向かう馬車の車軸に細工がされていることを見抜き、出発前に交換させた。


十六歳では夜の王太子宮へ忍び込もうとした男を捕らえ、十七歳ではフェリク付きの近衛騎士が買収されていることを突き止め、翌朝には配置から外させた。


どれもフェリクは知らない。


知らせなかったからだ。


王太子は王太子の仕事をすればいい。


その背後にあるものを処理するのが、イルゼの仕事だった。


だから彼女は、いつもフェリクではなく、その向こう側を見ていた。


毒を入れる手を。


武器を隠す袖を。


逃げ道を。


死角を。


「まあ、そういうわけだから」


フェリクは話を戻した。


「婚約は終わりにしたい」

「承知いたしました」


イルゼは裾をつまみ、正式な礼をした。


六年間の婚約だった。


王太子妃となるため、歴史を学んだ。法を学んだ。外交を学んだ。財政を学んだ。礼法も、舞踏も、語学も。


その一方で、剣を学び、短剣を学び、毒を学び、尾行を見抜く方法を学んだ。


建物へ入れば最初に出口を見る癖を身につけ、人と話せば利き手を見る癖がついた。


五年間、フェリクを守った。


婚約者であることと、護衛であることの境目など、いつの間にかほとんどなくなっていた。


それも今日で終わる。


異論はなかった。


ただし、一点だけ確認しておかなければならない。


「殿下」

「何だい?」

「婚約の終了に伴い、婚約者として付与されていた職務および権限も、本日をもってすべて終了する。その認識で相違ございませんか」


フェリクは少し首を傾げた。


「もちろん」

「王太子妃候補としての公務への同行」

「ああ」

「王妃府より委任されている調整業務」

「それも」

「殿下の私的日程および移動予定への閲覧権限」

「全部だよ」

「承知いたしました」


イルゼは頷いた。


ならば、最後の一つ。


「殿下の身辺警護に関する任務も、同様に終了ということでよろしいでしょうか」

「……身辺警護?」


フェリクが瞬きをした。


隣のミーナレスも、きょとんとしている。


「はい」

「君が?」

「正確には、ハルデベルク公爵家が王家より受けております非公式任務の一部を、わたくしが担当しております」

「僕の護衛なら近衛がいるだろう?」

「おります」

「だったら、君がする必要なんてないじゃないか」

「左様でございますね」


イルゼはそれ以上説明しなかった。


近衛が気づくより先に見つける。


近衛が剣を抜くより先に終わらせる。


それがこちらの仕事だ。


三年前、学院の時計塔に弓兵が潜んでいたこと。


二年前、王都地下水路で誘拐計画が進められていたこと。


昨年だけで四度、王太子宮への侵入経路が探られていたこと。


今日の午後にも、夜会で使われる葡萄酒の樽を一つ廃棄させたこと。


言う必要はない。


今日までは、それを知らせないことまで含めて仕事だった。


フェリクは軽く肩をすくめた。


「まあ、婚約者じゃなくなるんだから、それも終わりでいいよ」

「承知いたしました」

「そんなことまでしてたなんて知らなかったな」

「知られないようにしておりましたので」

「そう」


フェリクはそれだけ言った。


少しだけ肩が軽くなった。


明日からは、フェリクがどこへ行くか確認しなくていい。食事の前に給仕の顔を覚えなくていい。窓の位置を確認しなくていい。屋根の上を見なくていい。背後から近づく足音を数えなくていい。


六年間の婚約。


五年間の護衛。


どちらも、今夜で終わる。


イルゼは改めて一礼した。


「それでは、本日をもちまして」


王太子ではなくなった婚約者をまっすぐ見た。


「王太子殿下の護衛任務を終了いたします」


フェリクは小さく笑った。


「うん。ご苦労さま」

「ありがとうございます」


それで終わった。


そして、本当に何も起こらなかった。


爆発もしなかった。


悲鳴も上がらなかった。


誰も剣を抜かなかった。


卒業夜会は予定通り続き、楽団は再び演奏を始めた。


イルゼは父の迎えた馬車に乗ってハルデベルク公爵邸へ帰り、久しぶりによく眠った。


翌朝。


王太子フェリクの朝食に毒が入った。


毒見役が倒れたため、フェリク本人は口にしなかった。


午前十一時。


王宮から学院へ向かうフェリクの馬車へ二本の矢が飛んだ。


一本は車体へ。もう一本は窓を貫き、フェリクの頬をかすめた。


午後四時。


王太子宮の裏手で、使用人に扮していた男が捕らえられた。懐から短剣が二本見つかった。


そして夜。


イルゼは自室で紅茶を飲んでいた。


「お嬢様」


侍女が入ってくる。


「何でしょう」

「王宮から使者でございます」


イルゼはカップを置いた。


父の執務室へ向かうと、王家の紋章をつけた騎士が待っていた。


顔見知りだった。


フェリク付きの近衛副隊長。


「ハルデベルク嬢」

「ごきげんよう」


副隊長の顔は明らかに疲れている。


「本日の件は聞いているか」

「朝食、馬車、王太子宮」

「そこまで?」

「王都で王太子の馬車が射られれば、隠す方が難しいかと」

「なら話が早い」


副隊長は一歩出た。


「殿下の警護へ戻ってほしい」


イルゼは首を傾げた。


「なぜでしょう」

「なぜって……!」

「昨夜、任務終了について殿下ご本人から了承をいただきました」

「事情が変わった!」

「変わっておりません」


副隊長が言葉を失う。


「昨日までと同じです」


イルゼは静かに続けた。


「違うのは、わたくしが処理していないことだけです」


副隊長の表情が止まった。


「……今日の三件は」

「多くありません」

「何?」

「一日三件でございましたら、少ない方です」


今度こそ完全に黙った。


父まで額を押さえる。


「イルゼ」

「はい」

「そこまでだったのか」

「平均して、一週間に八件から十二件ほどです」

「私はそこまで聞いていないぞ」

「報告する必要のあるものだけ報告しておりましたので」


父まで黙った。


しばらくして、副隊長がかすれた声で尋ねた。


「それを五年?」

「はい」

「一人で?」

「協力者はおります」


情報屋。


毒物に詳しい薬師。


街の御者。


王宮の古参使用人。


ハルデベルク家の人間。


ただし、最終的な判断はイルゼがしていた。


「だから戻ってくれ」

「お断りいたします」

「殿下が死ぬかもしれないんだぞ!」

「でしたら近衛の皆様がお守りください」


副隊長の顔が歪んだ。


イルゼは責めるつもりはなかった。


近衛が無能という話でもない。


近衛には近衛の役割がある。


目に見える脅威から王族を守る。王宮を警備する。公務先で周囲を固める。


イルゼがしていたのは、そのさらに外側だ。


暗殺を依頼した者。


依頼を仲介する者。


毒を仕入れる者。


武器を渡す者。


逃走路を用意する者。


そこまで辿る。


仕事が違う。


「わたくしには、もはや殿下の予定を閲覧する権限も、王宮内部の人員配置に口を出す権限もございません」

「権限なら戻す!」

「任務を戻すということですか」


副隊長が止まった。


それを決められるのは彼ではない。


そして昨夜、フェリク自身が切った。


イルゼは立ち上がる。


「王太子殿下の護衛任務は終了しております」

「イルゼ!」


父が低い声を出した。


「フェリク殿下を見殺しにするつもりか」


イルゼは父を見る。


「いいえ」


少し考える。


「ただし、守るつもりもございません」


その違いは大きい。


イルゼは別に、フェリクの死を望んでいるわけではない。


だが、自分の時間も命も能力も、無期限に彼へ差し出す理由はなくなった。


「昨夜、殿下には確認いたしました」


副隊長は俯いた。


「……分かった」


そして帰っていった。


イルゼは紅茶の続きを飲もうと、自室へ戻った。


その途中、廊下の窓から庭を見る。


庭師が二人。馬丁が一人。荷物を運ぶ商人。門衛。


いつもの癖で確認してしまう。


やめようと思った。


もう必要ない。


そのとき、商人が右手で荷を持ち替えた。


イルゼの足が止まる。


掌と指の付け根に硬い部分がある。


剣だこ。


商人の手ではない。


視線が合った。


男が走った。


こちらへではなく、厩舎へ。


イルゼは窓を開ける。


二階。


高さはある。


階段を使えば逃げられる。


少し考え、窓枠へ足をかけた。


飛ぶ。


下にある庇へ着地して衝撃を膝で殺し、そのまま地面へ下りた。


「お嬢様!?」


庭師の声を無視して男を追う。


厩舎へ入ると、馬が嘶いた。


「止まりなさい」


男が振り返る。


懐から短剣。


やはり。


「何者です」

「……」

「黙っていても構いません」


イルゼは腰の剣を抜いた。


今日はドレスではない。薄手の乗馬服なので動きやすい。


「捕まえてから聞きます」


男が踏み込む。


速い。


短剣が喉を狙う。


イルゼは半歩だけ身体をずらし、手首を取った。


男が逆の手を出す。


もう一本。


二刀。


イルゼは腕を離して後退した。


刃先が胸元をかすめる。


そのまま男は距離を詰めてきた。


三撃。四撃。


すべて急所。


訓練されている。


暗殺者だ。


イルゼは馬房を背にした。


男が笑う。


追い詰めたと思ったらしい。


短剣が突き出される。


イルゼは避けなかった。


直前で上体を捻る。


刃が脇を抜けた瞬間、男の腕を抱え込んだ。


そのまま馬房の柵へ叩きつける。


鈍い音。


短剣が落ちた。


肘を背中へ押しつけ、膝裏を蹴る。


男を床へ伏せさせた。


「ぐっ……!」

「質問いたします」


イルゼは男の手首をさらに捻る。


「誰から依頼を受けましたか」

「知らねえよ」

「では、どこの組織です」

「……」


もう少し捻った。


「折れますよ」

「灰鼠だ!」


止める。


聞いたことがある。


王都南区を中心に活動する密輸組織。


ただし、暗殺を専門にはしていない。


「灰鼠が、なぜわたくしを」


男が笑った。


「知らねえのかよ」

「何をでしょう」

「昨日から王都の裏じゃ、お祭り騒ぎだ」


イルゼの眉がわずかに動く。


「続けて」

「王太子の番犬が消えた」


イルゼの手が止まった。


「誰のことでしょう」

「てめえだよ」


男が顔だけ振り返る。


「五年も邪魔しやがって。毒を流しゃ潰される。弓を用意すりゃ先に押さえられる。人を買収すりゃ翌日には消えてる」

「……」

「王都の裏じゃ有名だったぜ。殿下を狙うなら、まずあの女をどうにかしろってな」


初耳だった。


イルゼは、自分が裏社会でどの程度認識されているかなど調べたことがない。


必要がなかったからだ。


「で、昨日だ」


男が笑う。


「婚約破棄」


噂が広がるのは早い。


まして卒業夜会には、貴族子女が百人以上いた。


「護衛も辞めたって話まで、夜中には回ってた」

「随分と早いですね」

「情報は金になる」


なるほど。


だから今日一日だけで三件。


増えたわけではない。


これまでイルゼに潰されていた連中が、一斉に動き出しただけだ。


「では、なぜわたくしを狙ったのです」

「邪魔された恨みがある奴は多い」

「それだけですか」


男が黙った。


イルゼが手首へ力を加える。


「待て待て!」

「どうぞ」

「帳簿だ!」

「何の」

「お前が昔、潰した連中の帳簿!」


イルゼは思い出す。


三年前の地下水路での誘拐計画。


二年前の毒物密輸。


昨年の近衛買収。


証拠は王家へ提出している。


「王家が持っております」

「写しがあるだろ」

「ありますね」


男が舌打ちした。


「それを欲しがってる奴がいる」

「誰です」

「知らねえ」


イルゼはため息をついた。


本当に知らないのだろう。


使い捨てだ。


「灰鼠の根城は」

「言うと思うか?」


十五分後。


男は言った。


王都南区。


染物工房を装った倉庫。


イルゼは父へ報告した。


父は頭を抱えた。


「王宮へ引き渡せ」

「そのつもりです」

「お前は行くなよ」

「どこへでしょう」

「灰鼠だ」


イルゼは返事をしなかった。


父が顔を上げる。


「イルゼ」

「はい」

「行くな」

「考えておきます」

「それは行く奴の返事だ」


その日の夜。


イルゼは灰鼠の倉庫の屋根にいた。


行かない理由がなかった。


フェリクを守るためではない。


自分が狙われた。


ならば別件だ。


屋根瓦を一枚外して中を見る。


八人。


奥にもう一人。


計九人。


短剣と棍棒。弩が一つ。


裏口は二つ。窓は四つ。屋根裏へ上がる梯子もある。


五年前なら、ハルデベルク家の人員を使っただろう。


今日は使わない。


これは家の任務ではない。


イルゼは窓から入った。


物音に男が振り返る。


「誰だ!」

「こんばんは」


イルゼは床へ着地した。


「ハルデベルク公爵家のイルゼと申します」


全員が固まった。


一人が叫ぶ。


「てめえ!」

「本日、そちらの方に暗殺者を一名派遣いただきましたので」


剣を抜く。


「お礼に参りました」


九人が一斉に武器を取った。


最初の男が踏み込む。


剣を弾き、腹へ肘を入れる。


横から棍棒。


避けながら手首を斬る。


奥では弩を構える男がいた。


イルゼは近くの棚を蹴り倒す。


木箱が崩れ、射線を塞いだ。


放たれた矢が箱へ刺さる。


背後から足音。


振り向かず一歩ずれる。


短剣が空を切った。


その腕を掴み、勢いのまま床へ投げる。


「殺すな!」


奥の男が叫んだ。


「こいつは高く売れる!」


イルゼが止まった。


「わたくしを?」


男が笑う。


「元王太子妃候補だ。買う奴はいくらでもいる」


イルゼは少し考えた。


「なるほど」


次の瞬間、木製の椅子が男の顔面へ飛んだ。


「がっ!」

「今の発言で、交渉条件が悪くなりました」


残りも十分ほどで終わった。


九人。


死亡者なし。


骨折三人、脱臼二人、気絶四人。


イルゼは奥にいた男を椅子へ座らせた。


「あなたが責任者ですね」

「……殺せ」

「殺しません」

「何だと」

「質問がございます」


机の上に帳簿がある。


イルゼはそれを開いた。


密輸品。


薬。


武器。


そして、人。


イルゼの目が止まった。


「人身売買まで?」

「……俺たちは運んでるだけだ」

「その言い訳は嫌いです」


帳簿を閉じる。


「王都の暗殺依頼は、どこへ流れます」

「知らねえ」


イルゼは、先ほど倒した男の指を一瞥した。


責任者の顔が青くなる。


「待て」

「何もしておりませんが」

「その目をやめろ」

「では、お話しください」


王都には、大きく五つの裏組織があるらしい。


密輸を担う灰鼠。


毒物と薬を扱う銀瓶。


情報と偽造を扱う黒羽。


用心棒や誘拐を請け負う夜犬。


そして、暗殺を専門とする赤針。


互いに協力することもあれば、争うこともある。


固定された統率者はいない。


依頼ごとに組む。


だからこそ厄介だった。


イルゼはようやく納得した。


これまで一つ潰しても終わらなかった理由。


毒物の経路を切れば、別の密輸屋が運ぶ。


暗殺者を捕らえれば、別の組織が人員を出す。


情報屋を潰せば、別の仲介人が生まれる。


「非効率ですね」


灰鼠の男が呆然とした。


「何が」

「あなた方です」

「は?」

「指揮系統が存在しない」


イルゼは帳簿をめくる。


「縄張り争い。二重契約。依頼人の重複。報酬の未払い。情報の横流し」

「……」

「よくこれで商売になりますね」

「何しに来たんだ、てめえ」


イルゼ自身も少し考えた。


最初は、自分を狙った理由を知るだけのつもりだった。


だが、目の前に五年間悩まされ続けた原因がある。


王都の裏側には、全体を見る者がいない。


管理者もいない。


責任者もいない。


だから同じ王太子へ、別々の経路から何度も暗殺依頼が流れてくる。


一つ止めても別が動く。


イルゼは帳簿を閉じた。


「灰鼠を、わたくしの傘下に入れます」


沈黙。


男が瞬きをした。


「……は?」

「聞こえませんでしたか」

「聞こえたから聞いてんだよ!」


イルゼは椅子を引いて座った。


「拒否なさいますか」

「当たり前だ!」

「では、王都警備隊へこの帳簿を提出いたします」

「てめえ!」


男が立ち上がろうとした。


背後に剣を突きつける。


座り直した。


「選択肢は二つです」


イルゼは指を一本立てる。


「一つ。組織を解散し、全員が法の裁きを受ける」


二本目。


「二つ。わたくしの管理下へ入り、今後こちらの定める規則に従う」

「裏社会を何だと思ってやがる」

「管理されていない事業体です」

「事業体」

「利益が出る以上、構造は同じでしょう」


男はしばらくイルゼを睨んだ。


「……規則って何だ」

「まず、人身売買をやめてください」

「いきなりそこかよ」

「当然です」

「儲かるぞ」

「だから何でしょう」


男が黙る。


「次に、一般市民を巻き込む仕事は禁止」

「暗殺屋に言え」

「あとで言います」

「あとで?」


イルゼが立ち上がった。


「今夜中に残り四つを回ります」


男の顔が引きつった。


二件目。


銀瓶。


薬屋の地下に、毒を扱う老婆がいた。


「お前かい。五年も商売の邪魔をしてくれた小娘は」

「お世話になっております」

「こっちは世話になった覚えなんざないよ」


老婆が棚の瓶を投げる。


イルゼは横へ跳んだ。


床で瓶が割れ、白い煙が広がる。


息を止め、布で口元を覆った。


老婆は奥へ逃げる。


イルゼは追わない。


入口を閉じ、そのまま建物の外へ出て裏口へ回った。


三分後。


老婆が咳き込みながら飛び出してくる。


そこにはイルゼが待っていた。


「なっ」

「ご自身で作った毒煙の中へ戻りますか?」


老婆が歯を食いしばる。


「……何が望みだい」

「銀瓶を傘下に入れます」

「頭がおかしいね!」

「よく言われます」


言われたことはなかった。


だが、今日から言われそうだった。


三件目。


黒羽。


情報屋だった。


こちらは戦闘にならなかった。


「お待ちしておりました、ハルデベルク様」


痩せた男が紅茶まで用意していた。


「来ると分かっていたのですか」

「灰鼠と銀瓶が二時間以内に黙りましたので」

「情報が早いですね」

「仕事ですから」

「では話も早いです」

「ええ。ご用件を」

「傘下へ」


男が紅茶を吹いた。


交渉には四十分かかった。


四件目。


夜犬。


酒場の地下。


ここが一番荒れた。


「女一人に従えるか!」


大男が斧を振り下ろした。


イルゼが避ける。


卓が真っ二つになる。


「では、力で決めますか」

「上等だ!」


六人。


狭い。


剣を振るには向かない。


イルゼは剣を鞘へ戻した。


「舐めやがって!」


最初の拳を避け、腹へ一発。


二人目が首を取ろうと腕を回してくる。


その下を抜け、肘を入れ、膝を蹴る。


三人目を壁へ叩きつける。


四人目の蹴りだけは受けた。


痛い。


だが倒れない。


足を取り、そのまま床へ投げた。


最後に残った大男が斧を構える。


一撃。


二撃。


三撃。


卓が壊れ、椅子が飛ぶ。


イルゼは壁際へ追い込まれた。


大男が笑った。


「終わりだ!」


斧が振り下ろされる。


イルゼは壁を蹴って横へ飛んだ。


刃が床へ食い込み、抜けなくなる。


大男が力を込めた。


その顎へ膝を入れる。


一撃。


二撃。


三撃。


大男が倒れた。


イルゼは周囲を見る。


「……まだやりますか」


誰も立たなかった。


夜犬も傘下へ入った。


残るは一つ。


赤針。


暗殺専門。


五年間、イルゼが最も多く潰してきた相手だった。


ただし、拠点が分からない。


黒羽の情報屋が教えた。


「場所は固定されていません」

「では、どうやって依頼を」

「連絡役がいます」

「呼んでください」

「今から?」

「はい」

「もう夜明けですよ」

「今日は予定がございません」


婚約者ではなくなったので。


一時間後。


王都北区。


閉鎖された劇場に、男が一人現れた。


黒い外套。


細身。


年齢は三十前後。


「イルゼ・ハルデベルク」

「初対面ですね」

「俺は何度も見ている」

「そうでしたか」

「仲間を何人捕らえたと思っている」


イルゼは考える。


「正確な数は覚えておりません」


男の口元が引きつった。


「四十三人だ」

「そんなに」

「そんなに、じゃねえ」


イルゼは少し申し訳なく思った。


「それで」


男が短剣を抜く。


「何の用だ」

「赤針を傘下に入れに参りました」


男は動かなかった。


数秒。


「……今、何と言った」


本日五回目だった。


「灰鼠、銀瓶、黒羽、夜犬はすでに了承しております」

「嘘だ」

「ご確認ください」


男が背後へ目をやる。


暗闇から別の者が現れ、耳打ちした。


男の顔が変わる。


「本当なのか」

「はい」

「お前、一晩で何をした」

「交渉を」

「夜犬の酒場が半壊したと聞いたぞ」

「少々難航いたしました」


男が額を押さえた。


「目的は何だ」


初めて、まともな質問だった。


イルゼは答える。


「管理です」

「王太子を守るためか」

「いいえ」


即答だった。


男が眉を上げる。


「では、なぜ」

「昨日、王太子殿下の護衛任務を終了いたしました」

「知ってる」

「その結果、本日だけで殿下への襲撃が三件。そして、わたくし自身にも一件」

「そりゃ恨まれてる」

「迷惑です」


イルゼは劇場を見回した。


「今後、王都の裏社会が無秩序に動くたびに、わたくしやハルデベルク家へ火の粉が飛んでくる可能性があります」

「だから支配する?」

「はい」

「普通は警備隊へ任せるんだよ」

「五年間任せて改善しませんでした」


男が言葉を失う。


「赤針が拒否したら」

「潰します」

「一人で?」

「必要なら」


男は短剣を弄びながら、イルゼを見た。


「四十三人だぞ」

「はい?」

「お前に取られた人間だ。五年間で四十三人」


イルゼは少し考えた。


「やはり多いですね」

「感想を聞いてるんじゃねえ」


男の声から、先ほどまでの軽さが消えた。


「それだけ潰されても、赤針は残った」

「存じております」

「分かってねえな」


男は短剣をしまった。


「俺たちは灰鼠や夜犬とは違う。倉庫も縄張りもいらねえ。仕事を失えば別の街へ行く。拠点を潰されれば散る。人を捕らえられれば補充する」

「……」

「赤針って名前が使えなくなりゃ、別の名前になる。それだけだ」


イルゼは黙って聞いた。


「警備隊が一度潰したこともある。三年前だ」

「存じませんでした」

「半年で戻った」


男が笑う。


「お前が俺たちを潰しても同じだ。十人残れば、また始める。五人でもいい。二人でも仕事はできる」

「でしょうね」

「それでも潰すか?」


イルゼは首を横へ振った。


「いいえ」


男の眉が動く。


「ですから、傘下に入れに参りました」


沈黙。


男がイルゼを見る。


イルゼも見返す。


「潰しても戻る。散らしても別の場所で始める。名前を変えても仕事は同じ」

「……」

「でしたら、潰し続ける方が非効率です」

「またそれか」

「はい」


イルゼは淡々と続けた。


「赤針そのものを管理下に置きます。人員も、依頼も、報酬も、すべて把握する」

「俺たちは暗殺屋だぞ」

「存じております」

「飼えると思ってるのか」

「飼うつもりはございません」


イルゼは少し考えた。


「管理いたします」

「同じだろ」

「違います」


男はしばらく黙っていた。


やがて、乾いた笑いを漏らす。


「……気に入った」


短剣から完全に手を離した。


「条件を聞こう」


翌朝。


正確には、ほとんど昼だった。


イルゼが公爵邸へ戻ると、父が玄関で待っていた。


「どこへ行っていた」

「散歩です」

「王都南区から北区まで?」

「長めの散歩でした」


父のこめかみが動く。


「イルゼ」

「はい」

「何をした」

「少々、組織再編を」

「何の」


イルゼは靴を脱ぎながら答えた。


「王都の裏社会です」


父は何も言わなかった。


聞かなかったことにしたらしい。


その日の午後。


イルゼは十二時間眠った。


起きると、机の上に紙が五枚置かれている。


灰鼠。


銀瓶。


黒羽。


夜犬。


赤針。


それぞれからの報告書だった。


仕事が早い。


イルゼは読み始めた。


まず、全組織へ共通規則を出した。


人身売買禁止。


子供を使った犯罪禁止。


無差別な毒物使用禁止。


一般市民を巻き込む襲撃禁止。


依頼人の確認を必須とする。


同一対象への複数契約は中央で統合。


縄張り争いは事前申請。


勝手な殺しは禁止。


五組織から一斉に抗議が来た。


イルゼは却下した。


二日目。


規則に違反した灰鼠の一班を潰した。


三日目。


銀瓶の毒物在庫をすべて台帳化した。


四日目。


黒羽が持っていた貴族の弱みを整理した。


五日目。


夜犬の用心棒業務を再編した。


六日目。


赤針の依頼一覧を確認した。


そこで、イルゼの手が止まった。


王太子フェリク。


現在契約、七件。


依頼人は三系統。


金額は高い。


「多いですね」


赤針の男が向かいに座っていた。


名前をラウルといった。


「お前が消えたからな」

「わたくしは消えておりません」

「護衛から消えたって意味だ」


イルゼは依頼書を見る。


外国商会。


国内貴族。


匿名。


匿名。


国外。


教会関係者。


そして、先ほどと同じ国内貴族。


「重複しておりますね」

「だから普通は別々に受ける」

「非効率です」

「またそれか」


イルゼは七枚の依頼書をまとめた。


「すべて停止してください」


ラウルが片眉を上げる。


「王太子を守らないんじゃなかったのか」

「守りません」

「じゃあ何で」

「赤針は今、わたくしの傘下です」

「そうだな」

「わたくしの管理下にある組織が、勝手に王族暗殺を請け負うことを許可しておりません」


ラウルが笑った。


「それ、結果的に守ってるぞ」

「違います」


イルゼは冷静に返した。


「管理しているだけです」


同じ日の午後。


王宮から再び使者が来た。


今度はフェリク本人だった。


公爵邸の応接室。


目の下に隈がある。


隣にはミーナレス。


こちらも少し疲れているようだった。


「イルゼ」

「ごきげんよう、殿下」

「……元気そうだね」

「よく眠れましたので」

「僕は婚約を終わらせた翌日だけで、二回は死にかけたよ」

「存じております」

「知ってるんだ」

「王都の情報は入ってまいります」


フェリクが深く息を吐いた。


「戻ってきてほしい」


イルゼは首を横へ振る。


「お断りいたします」

「即答だね」

「すでに確認済みですので」

「うん」


フェリクは俯いた。


以前なら、そこで終わっていたかもしれない。


だが今日は違った。


「僕が馬鹿だった」


イルゼは瞬きをする。


「君が何をしてたのか、本当に知らなかった」

「知られないようにしておりましたので」

「でも」


フェリクは顔を上げた。


「知らなくていいって意味じゃなかったんだと思う」


イルゼは少し黙った。


それは自分にも思うところがある。


完璧に守る。


何も知らせない。


王太子には王太子の仕事だけをさせる。


その結果、フェリクは自分が守られていることすら知らないまま十八歳になった。


「それについては、わたくしにも反省すべき点がございます」

「君にも?」

「はい」


フェリクが少しだけ笑う。


「そこは全部僕が悪いって言ってくれてもいいのに」

「事実ではございませんので」

「そういうところだよ」


懐かしい言葉だった。


ミーナレスが小さく吹き出す。


フェリクが彼女を見る。


「笑った?」

「少しだけ」


イルゼもわずかに笑った。


「ただ」


フェリクが真面目な顔へ戻る。


「戻るつもりはないんだね」

「ございません」

「分かった」


思ったよりあっさり引いた。


「じゃあ、もう一つだけ」

「何でしょう」

「最近、襲撃が急に止まった」


イルゼは黙る。


「昨日も今日も、何もない」

「よろしゅうございました」

「近衛が捕まえたわけじゃない」

「そうでしょうね」

「父上も何もしていないらしい」

「左様ですか」


フェリクが目を細める。


「イルゼ」

「はい」

「何かした?」

「少々」

「何を」


イルゼは紅茶を一口飲んだ。


「王都に存在する主要な暗殺組織を含む五つの裏組織を、傘下へ入れました」


フェリクが止まった。


ミーナレスも止まった。


壁際の侍女まで止まった。


「……何を?」

「傘下へ」

「いや、聞こえた」

「では何でしょう」

「意味が分からない」


イルゼは説明した。


灰鼠。


銀瓶。


黒羽。


夜犬。


赤針。


一晩で五組織。


現在はすべて、イルゼの管理下にある。


フェリクは途中から額を押さえていた。


「つまり」

「はい」

「僕を殺そうとしてた連中を」

「はい」

「捕まえたんじゃなくて」

「一部は捕らえました」

「残りを」

「傘下へ入れました」

「なんで!?」


イルゼは首を傾げる。


「潰しても別の組織が生まれますので」

「そういう問題なの!?」

「五年間で学びました」


フェリクが天井を見た。


ミーナレスがおそるおそる尋ねる。


「それで……殿下への暗殺が止まったんですか?」

「赤針には、王族を対象とした依頼を無断で受けないよう命じました」

「やっぱり守ってるじゃないか!」


フェリクが指をさした。


「守っておりません」

「守ってるよ!」

「違います」


イルゼはきっぱり言った。


「王都で、わたくしの許可なく暗殺を行うことを禁じただけです」


沈黙。


フェリクはしばらく何も言わなかった。


「……何で僕、こんな人と六年婚約してて気づかなかったんだろう」

「イルゼ様は殿下ではなく、その後ろばかりご覧になっていたからでは?」


ミーナレスが言った。


フェリクが彼女を見る。


「それ今言う?」

「だって、本当ですもの」


イルゼはミーナレスを見た。


やはり彼女は柔らかい。


心も。


身体も。


ただし。


思っていたより、芯はあるようだった。


「イルゼ」


フェリクが立ち上がる。


「ありがとう」

「今回は何についてでしょう」

「僕を守ったことじゃない」


少し考えてから言った。


「僕を守るのをやめてくれたこと」


イルゼは初めて答えに迷った。


「君がいなくなって、初めて分かった」


フェリクは笑う。


「王太子って、思ってたより危ない仕事なんだね」

「かなり」

「知ってた?」

「五年前から」

「先に教えてよ」

「申し訳ございません」

「本気で謝ってる?」

「多少は」


フェリクが笑った。


それからミーナレスの手を取る。


「今度は僕もちゃんと見るよ」

「何をでしょう」

「自分の周り」


イルゼは頷いた。


「それがよろしいかと」


二人が帰ったあと。


侍女が尋ねた。


「お嬢様」

「何でしょう」

「本当に裏社会を支配なさったのですか」

「支配というほどでは」


イルゼは机の上を見る。


五組織から届いた報告書。


申請書。


収支表。


苦情。


新しい規則への異議申立て。


裏社会でありながら、なぜか書類が増えている。


「管理しております」

「それを世間では支配と呼ぶのでは」

「そうでしょうか」


翌月。


王都の犯罪件数が少し減った。


人身売買は大幅に減り、毒物による無差別事件はなくなった。


縄張り争いによる死者も減った。


代わりに、裏社会では奇妙な噂が広がった。


仕事を受ける前に確認しろ。


子供に手を出すな。


一般人を巻き込むな。


帳簿をつけろ。


利益を誤魔化すな。


そして。


判断に困ったら、ハルデベルクへ回せ。


ある夜。


王都南区の地下酒場。


五組織の代表が集まっていた。


イルゼは最奥の椅子へ座る。


灰鼠の頭。


銀瓶の老婆。


黒羽の情報屋。


夜犬の大男。


赤針のラウル。


全員がいる。


「今月の報告を」


黒羽が書類を出した。


「密輸収益、前月比七パーセント減」


灰鼠が不満そうに舌打ちする。


「人を運べなくなったからな」

「合法品を増やしてください」

「裏組織に合法を求めんなよ」

「利益は出ます」


銀瓶の老婆が笑った。


「この娘、本気だから諦めな」


夜犬が腕を組む。


「東区の連中がまだ従わねえ」

「明日伺います」

「一人で?」

「はい」


五人が同時にため息をついた。


ラウルが笑う。


「なあ、お嬢」

「何でしょう」

「最近、みんながお前のこと何て呼んでるか知ってるか」

「存じません」

「裏の女王」


イルゼの眉が寄った。


「やめさせてください」

「無理だな」

「なぜです」

「俺たち五人まとめて頭押さえつけてる女なんざ、他に何て呼べばいい」

「管理責任者で結構です」

「長えよ」


銀瓶の老婆が笑う。


「女王様でいいじゃないか」

「嫌です」

「女王陛下」

「もっと嫌です」


全員が笑った。


イルゼはため息をつく。


六年前。


王太子の婚約者になった。


五年前。


王太子を守る仕事を始めた。


そして一月前。


その両方を辞めた。


自分には何が残るのだろう。


少しだけ、そう思った。


何も残らないのではないかと。


実際には逆だった。


王太子一人の向こう側を見続けて身につけたもの。


人を見る目。


危険を読む力。


情報を繋ぐ力。


組織を動かす力。


それらは、フェリクの隣を離れたからといって消えなかった。


使い道が変わっただけだ。


「では、次の議題です」


イルゼは書類をめくる。


「北区で新しい暗殺組織が活動を始めたとのことですが」


ラウルが笑った。


「どうする、女王陛下」


イルゼは顔を上げる。


「まず話を聞きます」

「従わなかったら?」

「そのとき考えます」


夜犬の大男が笑う。


「相手、かわいそうだな」

「なぜでしょう」


誰も答えなかった。


翌朝。


王太子フェリクのもとへ、一通の報告書が届いた。


王都北区で活動していた新興暗殺組織が、一夜にして活動を停止。


構成員二十七名。


死者なし。


負傷者十一名。


翌日から、別名義で護衛業へ転向。


フェリクは報告書を閉じた。


「……イルゼだな」


隣でミーナレスが紅茶を飲んでいる。


「イルゼ様でしょうね」

「絶対そうだよね」

「はい」


フェリクは窓の外を見る。


以前なら、そこに誰か潜んでいないかなど考えもしなかった。


今は見る。


屋根も。


庭も。


給仕の手元も。


自分で。


少しだけ。


そして王都のどこかでは、もう自分だけを見ていない女が、もっと広い場所を見ている。


婚約は終わった。


護衛任務も終わった。


それでよかったのだと思う。


その頃。


イルゼ・ハルデベルクは、新しく傘下へ入った二十七人へ規則を説明していた。


「最後に一点」


全員が姿勢を正す。


「王都内で暗殺を請け負う場合、必ず事前に申請してください」


一人がおそるおそる手を挙げた。


「……王太子殿下は?」

「原則不許可です」

「やっぱり護衛してるんじゃ」


イルゼは首を横へ振る。


「違います」


書類を閉じた。


「王太子殿下の護衛任務は、すでに終了しております」


そして微笑む。


「これは、わたくしの縄張りの話です」

護衛任務を終了した結果、なぜか王都の裏社会を管理することになりました。


今回はそんなお話です。


潰しても次が出てくるなら、まとめて管理すればいい。


たぶんイルゼにとっては、それだけの話なのでしょう。


王太子の護衛は終わりました。


でも、縄張りの管理は別件です。


お読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
前作の1人を守るのやめたら結果全員守ってたも面白いなと思ってましたが、今回は飛んでくる火の粉を(盛大に)払った結果なぜか裏の女王になってて笑いましたwオイタが過ぎるととんでもないお仕置きされるから結果…
>ハルデベルク公爵家は代々、王家の表に出ない警護を担ってきた。 王太子教育にはこの辺の情報含まれてなかったのかな? 今回は婚約者だったけど、代々侍女や侍従として身辺警護してたんだろうなと。 それにし…
後ろ暗い貴族(元依頼主達)はそれはもう慌ててそう
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