第1話 逃げ続けた先に
魔装少女の秘匿術式
「はぁっ……はぁっ……もう! なんであたしばっかりこんな目に遭うのよ!」
少女の悲鳴にも似た叫びが、森に響いた。
冷たい風が木々の隙間を駆け抜ける。陽の明かりさえ殆ど届かない深い森の中を、一人の少女が息を切らしながら駆けていた。
肩まで伸びた黒髪を揺らしながら悪態をつく少女――レンリアラ・サクラライト。
年の頃は十四、五歳。大きな蒼い瞳が印象的な小柄な少女だ。黒と紺を基調とした魔術師の装束はところどころが裂け、白いブラウスには土埃が付着している。
誰がどう見ても、満身創痍だった。
「二日よ!? 二日も追いかけ回す!? 普通、途中で諦めない!? 魔族ってそんなに暇なの!?」
もちろん返事などない。
代わりに返ってきたのは、背後から響く耳障りな咆哮だった。
『――ギギギギィッ!!』
次の瞬間、木々の間から白い糸が飛来する。
「うわっ!」
レンリは咄嗟に身体を捻った。
白い糸は背後の大木へと絡みつき、そのまま表面を凍らせていく。
パキパキと不気味な音を立てながら、大木は一瞬のうちに氷の彫像へと変わり果てた。
「うげぇ……」
思わず顔を引き攣らせる。
少しでも避けるのが遅れていたら、自分がああなっていたのだろう。
「だから虫は嫌いなんだよ! 特に蜘蛛はね! 大きいし、気持ち悪いし、糸まで吐くし!」
そう叫びながらも、レンリの足は止まらない。
追ってきているのは、冷気を操る蜘蛛の魔族。
本来であれば、この辺りに生息するような魔族ではない。だが、二日前に偶然出くわしてしまって以来、執拗に追い回されているのだ。
「っていうか、そんなにあたしのこと好き!? もう少し可愛い女の子を探しなさい!」
『ギギィィッ!!』
「いや、そこで嬉しそうに返事しなくていいから!」
もちろん、ただ偶然狙われているわけではない。
レンリは、自分が魔族に狙われる理由を知っている。
昔から、それは変わらなかった。
奪おうとする者。利用しようとする者。そして、喰らおうとする者。
だからこそ、レンリは逃げ続けてきた。
もっとも、その理由を他人に語るつもりはない。
少なくとも、こんな化け蜘蛛相手に語ってやるようなことではなかった。
蜘蛛の魔族は、獲物を逃がすまいと再び白い糸を吐き出す。
レンリは振り返ることなく右手を掲げた。
「防御術式――展開!」
淡い蒼色の魔法陣が宙に展開される。
直後、飛来した氷の礫が半透明の障壁へと激突し、甲高い音を立てて弾け飛んだ。
障壁は傷一つついていない。
だが、その代償は決して小さくない。
「っ――!」
魔術を発動した瞬間、身体の奥が焼けるように軋む。
流し込まれた魔力が身体の内側を無理やり駆け巡り、鋭い痛みとなって全身を貫く。
レンリは、強い魔力に身体が耐えられない。
物心ついた頃から、それは変わらない。
魔術を使えば使うほど、その身は悲鳴を上げる。
それでも、使わなければ生き残れない。
「っつぅ……!」
レンリは顔をしかめながらも、足を止めない。
攻撃魔術は苦手。火球一つまともに飛ばせない。
だが、防御魔術だけは一流だった。
どれほどの攻撃であろうと受け止める堅牢な障壁。幻惑や封印といった搦め手の魔術。そして、魔力によって道具を生み出す魔装術。
それが、レンリアラ・サクラライトという少女の戦い方――いや、逃げ方だった。
『ギギギイッ――貴様ァ――黒髪のくせに――魔術を――ッ!!』
蜘蛛の魔族が、人語を織り交ぜながら憎々しげに叫ぶ。
まるで、それが許し難い冒涜であるかのように。
「ったく! 確かに黒髪は魔力を持たないってのが世の中の常識だけどさ――物事には例外ってものがあるんだよ!」
この世界において、黒髪は魔力を持たない存在だと言われている。
魔術師になれるのは、生まれながらに魔力を宿した者だけ。
黒髪は、その例外なく魔力を持たないとされていた。
農夫となり、商人となり、職人となる。
それが、黒髪の生き方だ。
魔術師になる者など、存在しない。
だからこそ、レンリは異端だった。
膨大な魔力を持ちながら、攻撃魔術だけが使えない。
誰にも説明のできない、歪な魔術師。
「ほんっと最悪!」
レンリは再び森の奥へと駆ける。
正直、戦いたくない。
というより、戦えない。
防御はできる。逃げることもできる。だが、倒すことができない。
攻撃手段がない以上、レンリにできることは逃げ続けることだけだった。
「はぁっ……はぁっ……」
肺が悲鳴を上げ始める。
二日間追われ続けた身体は、とうに限界を迎えていた。
「もう無理……寝たい……お風呂入りたい……柔らかいベッドで寝たい……」
あまりにも切実な願いだった。
そんな少女の願いを嘲笑うように、木々の奥から蜘蛛の魔族がゆっくりと姿を現す。
その八つの紅い瞳は、獲物を逃がすまいと怪しく輝いていた。
「いやいやいや! 休憩くらいさせてよ!」
もちろん、魔族にそんな情けはない。
冷気を纏った白い糸が再び放たれる。
「鏡面複製!」
レンリは地面へと魔法陣を刻み込んだ。
淡い蒼色の霧が周囲へと広がり、その中に幾人ものレンリの幻影が映し出される。
『ギギッ!?』
蜘蛛の魔族が一瞬だけ動きを止めた。
「よしっ!」
幻惑魔術が通じた隙に、レンリは再び森の中へと駆け出す。
倒せないのなら、騙して逃げる。
それでも、生き延びてきたのだ。
「あと半日……あと半日だけ逃げ切れば、次の町が見えてくる……!」
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
木々の隙間に、ぽっかりと空いた黒い穴が見える。
「あれは――」
洞窟だった。
自然にできたものにしては、あまりにも綺麗な形をしている。
まるで、何者かが意図して造り上げたかのような洞穴。
レンリの蒼い瞳に、僅かな希望の色が宿る。
「もしかして……隠れられる?」
振り返れば、蜘蛛の魔族はすぐそこまで迫っている。
考えている時間はない。
「当たって砕けろ――いや、砕けるのは嫌だけど!」
レンリは洞窟へと飛び込んだ。
その奥で、永い時を眠り続けていた少女と出会うことを、この時の彼女はまだ知らない。
――一人は、逃げ続けてきた少女。
――一人は、永い眠りについた少女。
交わるはずのなかった二つの運命は、この時、静かに動き始める。




