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第2話 「その笑顔、減点対象だぞ」

 朝は、鐘の音で始まった。


 ——ゴォン……ゴォン……。


 低く重い音が、石造りの屋敷を震わせる。


 薄いカーテン越しに差し込む朝日。

 暖炉の残り香。磨かれた床。


 そして。


「ルシアン様、お目覚めのお時間でございます」


 静かな声と同時に、扉が開いた。


 入ってきたのは初老の執事だった。


 黒い燕尾服。寸分狂わぬ姿勢。

 昨日の晩餐にもいた男だ。


 ルシアンの感情がわずかに動く。


 緊張ではない。


 警戒だ。


(え、お前、執事に警戒してんの?)


 ——アルヴェルトは父上付きだ。


(だから?)


 ——つまり、この屋敷で最も「油断してはならない」人間だ。


(怖ぇよ貴族社会)


 その間にも、身体は自然に動いていた。


 ベッドから起き上がる。


 洗面。


 着替え。


 すべてが異様に洗練されている。


 いや、洗練されすぎている。


 シャツ一枚羽織る動作まで綺麗だ。


(お前、人生ずっと撮影されてんの?)


 ——貴族とは、常に見られる職業だ。


(アイドルかよ)


 ——あいどる?


(気にすんな)


 すると執事アルヴェルトが、ネクタイ——いや、この世界ではクラバットか——を整えながら言った。


「本日は午前に神学。午後に舞踏作法。その後、ベルンハルト家との茶会がございます」


 ルシアンの感情が、露骨に沈んだ。


(嫌なんだ)


 ——ベルンハルト家の娘が来る。


(昨日の赤いドレス?)


 ——ああ。


(婚約者候補だっけ)


 ——候補ですらない。政治だ。


 その瞬間。


 鏡越しに、自分——いや、ルシアンの顔が映った。


 銀髪。


 整った輪郭。


 青灰色の瞳。


 少女漫画みたいな美形である。


(うわ、顔いいなお前)


 ——当然だ。


(即答すんな)


 しかもコイツ、自覚がある。


 だいぶ嫌なタイプだ。


 するとアルヴェルトが言った。


「本日の茶会、笑顔はお控えください」


(は?)


 思わず声が漏れた。


 もちろん内心で。


 だがルシアンは平然としている。


「承知している」


(いや待て待て。“笑顔禁止”って何?)


 ——ベルンハルト家は、こちらに娘を強く押し込みたがっている。


(うん)


 ——そこで好意を見せれば、“前向き”と判断される。


(え?)


 ——婚約交渉が加速する。


(ええ……)


 意味が分からない。


 笑っただけで?


 するとルシアンが、心底呆れたように言った。


 ——貴族の笑顔は貨幣より重い。


(重すぎるだろ)


 ——だから管理する。


 怖い。


 感情が外交資源扱いされている。


 その時だった。


「あと、決して紅茶を先に飲まれませんよう」


 アルヴェルトが続ける。


(またルール増えた!!)


 ——ベルンハルト家は南方貿易で財を成した家系だ。


(うん)


 ——茶葉への誇りが異常に強い。


(うん?)


 ——先に飲めば、“味の確認も待てぬ田舎者”と受け取られる。


(めんどくせぇ!!)


 ——待ちすぎれば、“警戒している”と見なされる。


(詰んでるだろそのゲーム)


 ルシアンは完全に慣れた様子だった。


 だが俺には分かる。


 こいつ、これを毎日やってる。


 食事。


 会話。


 視線。


 笑顔。


 沈黙。


 全部に意味がある。


 SNSどころじゃない。


 人生そのものが常時査定だ。


(お前よくメンタル壊れないな)


 一瞬。


 ルシアンが黙った。


 そして、静かに答える。


 ——壊れても、続けるんだ。


 その返答だけ妙に重かった。


 そこで初めて、俺は少しだけ理解する。


 こいつは高慢なんじゃない。


 この世界で生き残るために、“そう振る舞っている”。


 その時。


 廊下の向こうから、小さな足音が聞こえた。


 軽い。


 速い。


 子供の足音だ。


 直後、扉が勢いよく開いた。


「兄様!」


 飛び込んできたのは、十歳ほどの少女だった。


 蜂蜜色の髪を揺らしながら、一直線にこちらへ走ってくる。


 だが。


 ルシアンの感情が、一瞬で凍った。


(……え?)


 少女も、それに気付いたらしい。


 ぴたりと足を止める。


「……お、おはようございます、兄様」


 一気に声が小さくなる。


 空気が変わった。


 さっきまでの無邪気さが消えている。


(何だこれ)


 ルシアンは数秒沈黙した後、静かに口を開いた。


「廊下を走るな、エミリア」


「……はい」


 少女——エミリアは俯いた。


 小さな肩が縮こまる。


 その姿を見て、俺は反射的に思った。


(いや怖っ!! もっと優しく言えよ!!)


 ルシアンが即座に返す。


 ——甘やかせば舐められる。


(妹だろ!?)


 ——侯爵家の令嬢だ。


(小学生くらいじゃねぇか!)


 ——だから教育する。


 価値観が違いすぎる。


 するとエミリアが、おずおずと箱を差し出した。


「兄様に、その……焼き菓子を……」


 手作りらしい。


 少し歪だ。


 でも丁寧に包まれている。


 だがルシアンの感情は曇った。


 警戒。


 困惑。


 そして——ためらい。


(お前まさか、受け取らない気か?)


 ——今ここで親しげにすれば、使用人たちが誤解する。


(何を!?)


 ——“次期当主が妹派閥を重視している”とな。


(派閥!? 家族だろ!?)


 ——貴族にとって家族とは、最も近い政治単位だ。


 もう嫌だこの世界。


 するとエミリアが不安そうに俯く。


 たぶん、慣れているのだ。


 兄が冷たいことに。


 そこで俺は、思わず言った。


(……受け取れよ)


 ルシアンは黙る。


(その顔、泣きそうじゃん)


 ——。


(政治がどうとか知らん。でもそれ、今断ったら一生覚えてる顔だぞ)


 長い沈黙。


 そして。


 ルシアンは、ほんの僅かに息を吐いた。


「……置いていけ」


 エミリアの顔が、一瞬で明るくなる。


「はいっ!」


 花が咲いたみたいだった。


 少女は箱を机に置くと、嬉しそうに部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 静寂。


 そして。


 ルシアンが低く呟いた。


 ——お前。


(ん?)


 ——余計なことを。


(でも受け取ったじゃん)


 ——……。


(お前、妹には弱いな)


 するとルシアンは、珍しく言葉に詰まった。


 その反応が、少しだけ人間臭くて。


 俺は初めて、


 この高慢な貴族のことを、

 ちょっと面白いと思い始めていた。


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