第1章
カイロ・シェンが最後に覚えているのは、バスルームの床だった。
タイルの冷たさではない。胸の痛みでもない。それはあまりにも巨大すぎて、むしろ礼儀正しいとさえ感じられた。ノックをしてから入ってくる客のように。違う。最後に覚えているのは、においだった。揚げ油と食器用洗剤、それから毎週木曜日に使っている安物の合成レモンの洗浄剤のにおい。便器に片手をついて膝をつき、今夜こそモップをかけなければと心から思った瞬間、世界はただ、スイッチを切られたように消えた。
光のトンネルはなかった。走馬灯もなかった。両手を広げて迎えてくれる故人もいなかった。あったのはバスルームの床と、嫌いなレストランのにおいと、それから何もなかった。
そして、これだった。
鳥の声。それが最初だった。
大阪のレストランの裏口でタバコの吸い殻をついばんでいる、あの痩せこけた疲れたスズメではない。違う種類の鳥だった。大きく、重なり合い、そして足元に倒れている男のことをまったく気にとめていない。人間に静かにしろと言われたことが一度もない鳥が、そんなふうに鳴くときの声で鳴いていた。
カイロはゆっくりと目を開けた。それから閉じた。もう一度開けた。なぜなら脳は、たとえ非常に賢い脳であっても、受け入れがたい情報に直面したとき、二度目の試みが必要なことがあるからだ。
木々。途方もなく巨大な木々だった。彼がこれまで隣に立ったことのある何よりも古い木々。暗い土から押し上げてくる埋もれた巨人の腕のような根。樹冠を抜けてゆっくりと差し込む琥珀色の光の柱。それぞれが漂う塵と時おり通り過ぎる怠惰な虫とともに。空気は緑のものと湿った土と、名前のつけられない微かな甘さの匂いがした。
森の中に倒れていた。
そして、三秒後に気づいたことだが、完全に裸だった。
「ああ」とカイロは誰にともなく言った。声は錆びついていた。長い間使われていなかったドアのように。両手で身体を起こし、自分の手を見下ろした。自分の手だった。十七歳のとき割れた瓶でできた左の拳の傷跡も。二年間皿を洗い料理を運んでできた手のひらの豆も。自分の手だ。腕につながっている。大阪のバスルームの床で二十六歳で死んだ身体についている。
「ああ」ともう一度言った。状況に対してとりわけ知的な反応ではなかった。だが、正直だった。
立ち上がった。足は動いた。それはよかった。森を見回しながら、ゆっくりと一回転し、いつも難しい状況を処理するときの丁寧なやり方でいくつかの事実を確認した。一、周囲の植物をひとつも知らない。二、これほど大きな木の種類はどんな本にも出てこなかった。木の本はずいぶん読んだはずなのに。三、道もなく、小道もなく、建物もなく、人の気配もない。四、落ち葉が数センチ積もっているが、日本でも、彼が調べたことのある世界のどこでも、葉がこんな色になることはなかった。
日本ではない。
地球でもない、おそらく。
その考えと一緒にしばらく立っていた。鳥が頭上の枝に止まり、片目でちらりと彼を見て、飛んでいった。それ以上調べる価値はないと判断したようだった。カイロはほぼ同意した。
「そうか」と静かに言った。「死んで、これか。せめてメモを残しておいてくれれば」
最初の一時間は、ひたすら恥ずかしさをやり過ごすことに費やした。
服なしで森の中に存在することに、気品のある方法などというものはなかった。すぐにそれがわかった。地面はでこぼこしていて、鋭い意見に満ちていた。足の下で枝が折れるたびに、露出の電流が背筋を駆け上がった。空気は充分に暖かく、寒さで死ぬ危険はなかった。それは、この状況に自分を引き込んだどんな宇宙かからの最低限の、しかし本物の親切だとカイロは考えた。
根と岩の間をゆっくりと進み、呼吸を落ち着けた。こんな完全な方向感覚の喪失に直面するのは初めてではなかった。十六歳のとき、夜の路地で四人の男に囲まれたことがある。暗闇の中で、唇を切って、パニックについての教訓を学んだ。パニックはエネルギーを使い、何も買えない。まず考える。次に動く。パニックは、しない。少なくとも終わるまでは、誰も見ていないときまで。
頭の中で状況を確認した。武器なし。食料なし。水はまだだが、左手に小川らしきものの音がする。服なし。自分がどこにいるか、どんな言語が話されているか、どんな社会構造か、どんな危険があるかの情報なし。完全な不利。立ち止まって泣くような出発点だ。
カイロが大人になってから泣いたのはただ一度、雨の中、彼女の葬儀で、誰にもわからないところで泣いた。あのリソースは使い果たした。もう残っていない。
小川を見つけた。冷たく澄んでいて、何の味もしなかった。水が味わえる最善のことだ。両手のひらをすくって飲み、岩の上に座って水が流れるのを見ながら、何も持たず失うものも何もない男の集中した落ち着きで、次に何をすべきかを考えた。
服が必要だった。服には人が必要だ。人には言語が必要だ。言語には情報が必要だ。情報は、彼がこれまで実際に手に入れられた唯一の通貨だった。
近くの植物から大きくて丈夫な葉を一枚引きちぎり、かぶれを引き起こすものがないか確認してから、この先の生涯において誰にも絶対に話さないと決めた決断をした。
音が聞こえてから、姿が見えた。
足音。軽く、慎重で、訓練ではなく必要から静かに動くことを覚えた人のもの。籠を置く音。誰かが小川のそばにしゃがむ音。彼が身を潜めた木から二十メートルほど上流。その木は男を隠すには充分な幅があったが、自分がどれほどおかしな格好をしているかをよくわかっている男を隠すには充分ではなかった。
幹から身を乗り出して覗いた。
若い女だった。おそらく二十歳、あるいはそれより少し下。黒い髪を簡単に束ね、何本かの毛が軽い風に揺れていた。粗く染めていない布の質素なワンピースを着ていた。実用的で裾が擦り切れていた。貧しさではなく、快適でもないという種類の服装だった。何千回もこなして、これからも何千回もこなす予定の作業の効率で、小川から素焼きの壺に水を汲んでいた。
それから彼女は顔を上げた。
カイロは動いていなかった。確かだった。だが彼女は、注意を研ぎ澄まして生きることを報われてきた世界で磨かれた本能で、彼が身を隠している木を真っすぐに見た。頭を傾け、壺を置いた。武器ではなく、腰のベルトの小さなナイフに手が動いた。小さなナイフが必要な場所に暮らす人の反射だった。
「誰ですか」と彼女は言った。
言葉はわからなかった。知っているどんな言語にも似ていなかった。だが意味は疑いようがなかった。世界中のどんな話し言葉も、あの問いにはほぼ同じ音楽を使う。
カイロは木の陰から踏み出た。
彼女の表情は何段階もの変化を素早く駆け抜けた。驚き。困惑。警戒に近いもの。それから目が彼の全体を見渡し、大きく浅黒い明らかに異国の、完全に裸の男が自分の森に立っているというその組み合わせに、彼女の表情は彼が予想しなかったところに落ち着いた。
憐れみだった。
彼女は彼の手を見た。足を見た。一時間近く裸で森の下生えを歩いてきた男の全体的な状態を見た。それから彼の顔を見て、彼の表情の中に、恥ずかしいと感じるエネルギーを使い果たした男の特有の疲れを読み取り、何かを知ったようだった。
もう一度話しかけてきた。今度は違う言葉で、ゆっくりと、穏やかな問いのように。何度か繰り返される短い上がり調子の音がある。逃亡した、逃げ出した、あるいは奴隷、そういう意味合いの言葉だとわかった。
意味はまだわからなかった。だが問いの形はわかった。服もなく、名前も通じず、一人で森にいる男。彼女の中に生まれた想定の輪郭が見えた。
逃亡奴隷だと思われている。
動かなかった。彼女の顔を見た。ナイフから離れた手を見た。目から消えない憐れみを見た。そしてほとんど思考として認識されないほど速い計算をした。
何も言わなかった。視線を伏せた、安全なときに視線を伏せることを学んだ男のように。彼女が思っていることを、そのまま思わせておいた。
弱いからではない。未知の世界に、裸で、情報も仲間もいない状態で立っていて、この若い女性はナイフと籠と、この場所で目覚めてから初めて出会う親切心への傾きを持っているからだ。
カイロ・シェンは二十六年間、いつ黙るべきかを正確に知ることで生き延びてきた。
今がその時だった。
彼女は籠から毛布を取り出して渡してくれた。
古くて煙のにおいがした。それでも彼はそれを、二つの人生を通じて、どんな物に対しても感じたことのない感謝とともに受け取った。それを肩に巻いた。たった今見知らぬ人の前に裸で立っていたわけではない男を演じながら。それが今できる唯一の品格だったので、徹底的に使った。
彼女はゆっくりと話しかけてきた。どんな言葉を共有しているかわからない人に話しかけるように、彼の顔を見ながら。彼は聞いた。話そうとはしなかった。ただ聞いた。言葉としてではなく、その下にある構造として。パターン。繰り返し。最も多く現れる音とその位置。彼は教師なしで図書館の本から経済学を独学した。政治システムの理論も同じやり方で。言語もひとつのシステムだ。システムには規則がある。規則は学べる。
まだ話さない。言う価値のあることができるまでは。
彼女は自分を指差した。ひとつの言葉を言った。もう一度言った。カイロは理解した。その音を丁寧に繰り返すと、何かが彼の発音に彼女を驚かせ、それから予想外に、ほとんど笑顔に近いものが浮かんだ。
セラという名前だった。
初めてちゃんと彼女の顔を見た。そして素早く視線を外し、表情を注意深く保った。なぜなら彼女の顔は、一年近く胸の中に石のように抱えてきた顔に似すぎていて、ただ普通に呼吸するだけで精一杯だったから。
自分を指差した。名前を言った。彼女は繰り返したが、母音がうまくいかなかった。彼は一度うなずいた。
何かを決めたようだった。彼女の目の奥でそれが起きるのが見えた。籠と壺を持ち上げ、その口調と指した方向から明らかについてこいという意味の言葉を言った。
彼はついていった。
三歩後ろを歩いた。それが習わしらしかった。歩きながら森をよく見て何でも記録した。光の種類、木の密度、斜面の方向、虫の声が午後とともにどう変わるか。彼女の足音と自分のそれを聞き比べ、もっと静かになるよう動きを調整した。進んでいる道を頭に刻んだ。
毛布と自分の頭だけを持って、未知の世界を歩いていた。
以前、もっと少ないものしか持っていなかったことがある。
母は十九歳のときに死んだ。父はその前。弟は去年の冬、カイロが暖める余裕のなかった部屋で咳をしながら死んだ。彼女はそこにいた。笑っていた。それからいなくなった。世界は、気にしない世界が持つ特有の残酷さで続いた。十二時間働いて余り物を食べて運べるだけの本を読んで、一度も、誰にも助けを求めたことはなかった。
今更始めるつもりはなかった。
前方で木々が薄くなった。端が見え、その向こうに低く集まった建物の輪郭と、夕方の空気に上がる炊事の煙が見えた。村だった。小さい。そこに住む人だけが使う名前しか持たないような場所。
セラは木の端で立ち止まった。振り返って彼を見た。何かを言った。表情は真剣で、注意深く、何かリスクがあるとわかった上でそれでも続けようと決めた人の顔だった。言葉はわからなかったが意味はわかった。近くにいろ、黙っていろ、あとは私に任せろ。
一度うなずいた。
彼女は村に踏み込んだ。彼は三歩後ろを歩いた。毛布を肩に、表情は中立に、黒い目はすべてを観察しながら。
この世界の名前はまだわからない。規則も、権力も、歴史も、言語も、地図も。正さなければならない男たちの名前も、解放しなければならない人々の名前も、辛抱強く精密に解体すべきシステムも、まだ何も知らない。そのシステムの構造をどんな建物も建てられるように作られているかを、人生の前半をかけて学んだ男の忍耐と精度で。
何もわからない。まだ。
だが温かかった。呼吸していた。見ていた。そして悲しみと疲労と、エプロン姿で死んで森で目覚めるという超現実的な馬鹿馬鹿しさの下のどこかで、古くて静かな何かが胸の中で動き始めていた。
希望ではない。貧しすぎて希望を持つ余裕がなかった時期が長すぎて、今更始めることはできない。
目的だった。注意を払う価値のある何かを見つけた男の、特有の前のめり。
村が周囲に閉じていった。視線が集まった。子供が見つめた。柵のそばの男が、毛布を肩にかけた見知らぬ者を商人の娘に連れられて来るのを眉をひそめながら見た。
カイロは誰も見返さなかった。
もう考えていた。




