アダルトチルドレンのカメラロール
子供が撮る写真が好きだ。
タブレットを渡せば勝手にカメラロールに写真が増えている。
ソファの上に並べたぬいぐるみだとか、大人の足とか、近すぎる子供の鼻の写真だとか、そんなとのばかりなのだけれど。
大人の腰の高さほどの視界から撮られる世界はまるで別世界で、こんなものが見えていたのか──見えているのかと愛おしくなる。
*
娘が年長さんになる頃、離婚した。
パート勤めだったが生活のためには正社員にならざるをえなかったし、優先して正社員として登用してくれた会社のためには甘えたことは言ってられなかった。
──だから娘にも、強いることになってしまった。甘いものはお菓子だけ。
「唯ちゃん、ママ夕方に戻ってくるから一人でお留守番できるかな?」
休憩時間を幼稚園のお迎えにあてた。職場を中抜けして許された時間は──あと二十分。
「わかった。ゆい、待ってる」
歳の割に利口な娘だと思う。……一人で留守番をしてくれるくらいに。
「ママのタブレットで遊んでていいからね」
娘が生まれる前に買った古いタブレットは、子供向けの動画アプリやゲームアプリのみにしてある。
生まれる前に小学生になるまで浴びせまいときめていたブルーライトが、今はもう母がいない時間を照らす大切なライトになっている。
「キッチンは入っちゃだめよ、水筒とおやつはテーブルの上に置いておくからね」
生まれる前は毎日おやつに果物を剥いてあげようと思っていた。今はそんな時間も余裕もない。
公園でスナック菓子を食べる幼い子供を白い目で見ていた過去の自分と目が合わせられない。
──過去の自分に合わせる顔がない。
「わかったよ。ママ、いってらっしゃい」
幼いなりに色々察しているようだった。我慢させているのなんてとうに分かっている。
それでも働くしかなかった。
小さな娘が手を振る玄関の鍵を閉めて、慌てて職場に舞い戻った。
ベビーシッター? ファミリーサポート?
すべて予約制で先着順。頼もうと思っていた時には埋まっているし金額も高い。
福利厚生は予約制。優しさは順番待ち。支援の手は平均七十センチの腕の長さ。
しょうがない。娘を置いていくのは忍びない。
けれどそれ以外にしようがない。
職場に戻るとちょうど休憩時間の終わりだった。
本来ならお昼にとる休憩時間をお迎えの時間にずらしている。──今日も昼食を取り損ねた。そわなのもうささいかなことだ。
慌ただしく仕事に戻った私に、ご両親は? と最近異動してきた課長に聞かれた。
遠くに住んでて、と答えた。つきなれた嘘は淀みなく出てくる。
「親は頼れないんですよね」
頼りにならなかったから。──なんて本当の言葉だけが舌の根まできて飲み込んだ。
定時になって慌てて帰る。帰ったら夕食、お風呂、明日の準備。今日の宅配食材キットは何を頼んでいたっけ。
帰宅すると娘は教育番組を見ながらお菓子を食べていた。
おかえりなさい、と言ってくれた頬に頬擦りする。……寂しくさせて、ごめんね。
娘に寂しい思いをさせまいと思っていた。
だから幼稚園の時間に合わせたパートとして勤務していたのに、これでは自分の親と同じだ。
フライパンで焼くだけの食材キットを焼きながら、テレビを見る娘の後ろ姿を見る。
──これならお惣菜を買ってきて、話す時間に当てた方がよかったかもしれない。
共働きの両親の帰宅を待つ、一人で寂しかったあの日の幼い私だったら──きっとそっちの方が嬉しかった。そう知っていたのに。
*
娘を寝かしつけてから、娘が遊んでいたタブレットの画面を点けた。使用履歴の確認だ。
ネット検索など制限しているし、カメラや子供用アプリの動画、ゲームしか使えないと分かっているが、各々の起動時間の確認だ。
たいてい動画試聴時間が四十分、ひらがな学習アプリ十分、教育教材のアプリが二、三十分。
一時間以上はタブレットが子守をしてくれている。それ以外の時間はお人形遊びかお絵描き。
私も幼い頃はお人形遊びが好きだった。だから家にはぬいぐるみが多くある。
娘の寝息を聞きながら、タブレットの使用状況を確認する。
動画試聴時間二十分、ひらがなアプリはやってなくて、教育教材のアプリが十分。
……いやに短いな?
そのわりに自由帳のページが埋まっていたような気はしない。
カメラロールを確認する。身長の低い娘の視点から撮れる写真は面白く、娘の自撮りがあった日には、自分のスマホに送信するのが日課だった。
その日のカメラロールは、違和感があった。
──こんなぬいぐるみ、あったっけ?
娘のお人形と並ぶぬいぐるみ。
それは確かに熊っぽいのだけれど、なんというかデザインが稚拙。まるで子供が考えたような星やらハートやらがつけられた、やけに目がイキイキとしたぬいぐるみ。
娘のお人形とあまりに普通に並んでいるそれの前には、おままごとの食べ物が置かれている。
その景色に溶け込んだ様子に、少し首を傾げながらも納得する。
──こんなぬいぐるみ、あったのかもしれない。
リサイクルショップで頻繁にぬいぐるみを買うことが多い。一個百円や二百円。スーパーの近くにあるリサイクルショップで、その時娘が気に入ったものを。
貧乏なのに? と思われるだろう。
短絡的な金の使い方かもしれない。
それでも取り急ぎ寂しさを凌がないと、寒さで凍ってしまうのだ。マッチ売りの少女だって、ヒーター買えるのならヒーター買ってだろう。マッチしか手に入らないんだからああするしかなかったのだ。
まあそれはともかく。
タブレットよりもお人形遊びが多かったようだ。
珍しい。
……一人で寂しいよね。
長いまつ毛の寝顔を見ると胸が擦られるようだった。
ベビーシッターの予約サイトを見るが、近日はなかなか埋まっている。
──もうしばらく。
一ヶ月もすれば予約が空いている。
ごめんね、ファミサポとかも今月は予約が取れなかったけれど、来月はきっと大丈夫だから。
だからごめん。
そして私は次の日もタブレットを渡して幼い娘に留守番をさせる。
──カメラロールには、その日も知らないぬいぐるみが写っていた。
*
妙に既視感がある姿形だった。
その日もカメラロールには知らないぬいぐるみが映っていた。
この前映っていたものとはまた別だ。当たり前に家のソファに、娘お気に入りのぬいぐるみの横に座っている。
私が覚えていないだけで、かなり前に買ったぬいぐるみかも。
妙に既視感があったからそう思っていた。
タブレットのアプリの使用時間は短く、カメラロールには知らないぬいぐるみと遊んでいる写真。
ぬいぐるみはどこかの企業の商品といより手作りのような、そんな垢抜けないデザインばかりで──なんだろうな、この違和感。
ただ嫌な感じじゃない。
既視感と未視感。
違和感と懐かしさ。
「ゆい、寂しくさせてごめんね」
「だいじょうぶ、いい子にしてるよ」
いい子でいなくても愛されると伝えようにも、今の私では説得力がない。
相変わらず一人で留守番をさせてしまう。
いい子だから甘えてしまう。
カメラロールに知らないぬいぐるみが映る。
それはどれも不器用な人が作ったような、歪な形でデザインの稚拙なぬいぐるみ。
カメラロールの写真の増え方が、過ぎていく日々と比例する。
「あんなぬいぐるみあったっけ?」
「もう! ママのお友だちでしょう?」
確認すれば、そう言われた。
まあ確かな買ったぬいぐるみは娘の友達であり、娘に付き合って遊ぶ私の友達でもあることになるのだが。
嫌な気分はしなかった。
そもそも写真はぶれていることが多く、ぬいぐるみの判別もつきにくかったりする。
ぬいぐるみをお友達と言って遊んでくれる。可愛いじゃないか。
その日の夜もタブレットの使用状況を確認する。
アプリの起動時間は少ないままだ。
カメラロールを見る。今日はどんなぬいぐるみと遊んだだろうか。
その日はぬいぐるみが映っていなかった。
その代わりに映っていたものを見てゾッとした。
隣で娘が寝息をたてていることも忘れて叫びそうになって、慌てて口を塞いだ。
──知らない子供の後ろ姿だった。
既視感のある未視感のあるぬいぐるみを持っている。その黒髪の子は──娘と同じくらいの年齢だろうか。
分かりやすい女の子の服装。
……家には誰も入れないと約束している。
そもそも夕方に、幼稚園児が遊びにくるわけがない。
散々考えて眠れない夜になった。
私の息遣いが娘のまつげを揺らした。──落ち着こう、朝に聞こう。
「昨日お友達が家に来た?」
「いつもおともだちと一緒だよ?」
人形とぬいぐるみを抱きながら言う娘に聞いても要領を得なかった。
写真を見せて、これは誰、と聞いた。
「ママ知らないの? 変なの」
なんで知らないの?
そればかりで、やぱり要領を得なかった。
その日の仕事は落ち着かなかった。
なんで仕事してるんだろう。
生活のため娘のため。娘は今何をしてる?
帰宅して家に届いてた食材キットをフライパンに入れる。いい匂いが漂ってきて気がついた──惣菜でもいいと思っていたのに。
つい惰性で宅配を止めるのをやめていた。
繰り返す日常と癒えない疲労は思考を鈍らせる。
──これじゃだめだ。
けど誰も、頼れない。
ベビーシッターの予約はまだとれない。
ファミリーサポートは予約が埋まってる。
近くに住んでいる自分の親には頼りたくなかった。
ごめんね、もうちょっと頑張って。
一人で過ごすの頑張って──なんて子供に強いる辛さを自分が一番知っている。
夜。タブレットのカメラロールを見る。
切り取られた場面。一枚の写真。あの見知らぬ少女が、今にも振り返る後ろ姿だった。
心臓が跳ねた。──これはだめだ。
ゾッとした。血の気が引いた。
家にいるこの子は──誰? いやむしろ、何?
幽霊だのなんだのを信じているわけではなかった。心霊現象などテレビの中の出来事だと思っていた。
けれど今手元の画面によく分からない子供が映っている。
危ない、と思った。
なんだか分からないものは怖い。
娘の寝息は規則正しい。
──ごめん。
一人にさせてはいけないと、その写真を見てやっと思った。
*
幼稚園のお迎えをする。
「ママ、お仕事行ってらっしゃい」
そう言ってきた娘は、一人になることが当たり前になっている。母を見送ることが──素直にいってらっしゃいと言うことが強制されている。
そんな風に泣かないように矯正させてしまったのは私のせいだ。
「今日はね、お仕事休んだの。ママと一緒にいてくれる?」
「大丈夫なの?」
まず心配した娘に胸が締め付けられた。
ごめん。
そんな心配させたくなかった。
「大丈夫。もう寂しくさせないようにするからね」
抱きしめた体は小さい。
──この体にどれだけ寄りかかっていたことか。
職場には頭を下げた。
ベビーシッターとファミサポの予約が来月やっと取れたので、どうかしばらく半休にしてほしい。
無理を言った。嫌な顔をされた。
それでも今はそうするべきだと思った。
貯金は削った。
削ると言ってももともと多くはない貯金だ。
それでも削るのは今だろうと思った。
いつか進学時のためにと思ってはいたが、そもそも進学させるためにはまず今しっかり手をかけて育てないといけない。
惣菜でもいい。お菓子でもいい。
手をかけるところは、その細い髪を梳くために、抱き上げるために。笑ってもらうために。
別にタブレットだって使わせていい──けれど顔を上げた時に、目を合わせて笑えるようにしたい。
しばらく幼稚園終わりは、そうして親子で過ごして、それからやっとファミリーサポートの予約をしていた日になった。
それからやっと、ベビーシッターなど、とれるときにと交互に予約をとっていたスタッフが家に来てくれるようになった。
福祉の手が届いた。順番が来たおかげでやっと夕方まで仕事に行けるようになった。
娘の一人の時間は終わった。
カメラロールに写真は増えない。
お金はかかるが安心を買ってる。
そう思ってしばらくした朝。
ベビーシッターから連絡が来る。
──風邪を引いてしまい、明日はキャンセルさせてください。
申し訳ありませんと締め括られた一文に、謝って済むならいいよなあと笑えてしまった。
風邪をひいたシッターは悪くない。むしろ体調不良で子供と接さない管理された衛生面に安心する。
しばらく半休を続けたことでもう迷惑はかけてしまった。職場にこれ以上の迷惑はかけられない。
ファミサポは当日予約できない。
また娘を一人にする?
仕事をしながら考える。
──カメラロールの写真に、次はどんなものが映り込む?
背筋が粟だった。不安や想像、信じていなかったオカルト話が泡のように思い出されて弾けた。
──娘を一人にさせたくない。
昼休みにスマホを取り出して電話をかける。
繋がれば随分久しぶりの会話になる。
発信音。すぐに途切れて、息遣いが聞こえた。
「もしもし? お母さん?」
お願いがあるんだけど。
内容を伝える前から、電話口で何度も頷く気配がした。
*
「ママ! おかえり! ばあばといっぱい遊んだの!」
娘が玄関先まで私を迎えに来た。後ろから玄関先に現れたのは、随分久しぶりににあった私の母。
夕食も作ってあった。娘と作ったそうだ。
「今度は遊びにおいで。あんたにとっては居心地がいい場所じゃなかったかもしれないけど」
娘が生まれてからはおろか、社会人になってから寄り付かなくなった実家。
母親は言った。
──それでもあの頃、居心地良くしようと足掻いてたのよ。
母はそう。私が母になってやっと、そう言い訳をしてくれた。
幼い頃、共働きで一人の時間が多かった。
過干渉は精神を殺すが、無干渉は感情を殺す。
だから母には頼むまいと必死になっていた。
けれどあの、幼い娘が撮ったカメラロールの謎の写真を見て考えが変わった。
当時の私は寂しくて、親への感情を殺していた。
子育てを通して、娘に自分を重ね、寂しい想いをさせまいとしていたのに──離婚して必死になって働くうちに見失っていた。
*
それからファミサポやベビーシッターを頼りつつも、無理な時は母に子守りを頼んだ。
娘は喜んだ。
夜に見る古いタブレット内のカメラロールの写真は、私が知る人たちの顔になった。
娘に不意打ちで撮られた大人たちの表情は、私が見ることない顔で、笑ってしまった。
写真に映るぬいぐるみは、私も見覚えのあるものばかりになった。
掃除や洗濯をしながら確認したが、娘一人の時に撮影していたぬいぐるみはなかった。
*
年の暮れに実家に帰った。
あの頃一人で広く感じてたリビングは物が溢れてもはや狭く感じる。
あの頃一人だったリビングで、娘と遊ぶ。
母が台所で料理をしている。生活音が充分なBGM。テレビは点かなくてもよさそうだ。
あの頃一人で菓子パンを食べていたテーブルで、母が作った料理を食べる。世代の違う女三人の話題は、娘が提供してくれるおかげで尽きることがなかった。
食後に母が言った。
──そろそろ実家じまいを考えてるのよねえ、と。
「あんたの本棚とか机全部そのままだから、とっときたいものとか、片付けしてちょうだいね」
「わかった。唯、ばあばと遊んでてね」
はあい、と言った娘が、お気に入りの人形を抱いて母を遊びに誘う。
瑞々しい膨らんだ小さな手が、皺の刻まれた母の手を掴んだ。
その様子を見てから、二階の自室に上がった。
階段は上段に行くほど埃が重なっている。
ああ確かに、手が回らないのだろう。……実家じまいはあながち遠い話ではないのだな、と実感する。
階段を登って二階の自室に入った。
積み重なったノート。古い落書き帳もあった。
おえかきちょう、と表紙に書かれたものは──もう三十年モノだ。
よくとっておいたな、と苦笑してしまう。
私が今の娘ぐらいの頃か。
しっかりものの娘とか過去の自分を比較したくておえかきちょうを手に取って開く。
──既視感。
少し黴臭い開いたノート。クレヨンの線。
描かれていた熊のようなキャラクターは星やらハートやらが散りばめられた……幼い私が考えた大好きなデザイン。
やけにイキイキとした目だった。
目が合って思い出した。
ああこれは──私の友達だ。
娘が言っていた言葉を思い出した。
ノートの他のページを見る。
カメラロールで見たキャラクターたちがそこにいた。
思い出す。一人で留守番をしてクレヨンを握っていた頃を。
ああこれは、寂しかった私が考えた友達だった。
イマジナリーフレンドとでもいうのだろう。
幼い私は自分で考えたキャラクターを描き出して遊んでいた。
この子はおままごとが好きで、この子は──。
キャラクターを考え一緒に遊んだつもりになり、そうやって孤独を慰めていたのだ。
ああ──じゃあきっと、やっぱりきっと。
カメラロールにあった知らない子供の後ろ姿の写真を思い出す。
女の子だとすぐにわかった後ろ姿と洋服。
──もしも。
もしもこれがドラマのような話なら、きっと死んだお姉ちゃんとか家族とかが霊になって現れて娘と遊んでくれていた、なんて感動的な終わり方なのだろうけれど、私にはお姉ちゃんもいないし死んでいる家族もいない。
今日不在の父はゴルフに行ってるだけだし、さすがに曽祖父母は死んでるけど正直縁は薄かった。
だから。
あれは、私だ。
孤独で幼かった私だ。
思い出して胸の中に抱えていた冷たいわだかまりが溶けていく。溶け出して涙になる。
一人じゃなかった。孤独じゃなかった。
周りに助けられて気付いた。
何より──私が私を救っていた。
私が私の最大の味方だった。
娘と遊んでいてくれたのね、幼い私。
幼い私と遊んでくれたのね、私の娘。
助けてくれてありがとう。
救われた、と思う。
娘ではなく。なにより、過去の自分が。それを通して今の自分が──一人じゃなかった。
何より自分の味方は自分だった。
それに気づけたのは、味方でいてくれる周囲のおかげだった。
*
おえかきちょうを手に持って降りると、リビングでは母と娘が遊んでいた。
私は二人に向かって声をかける。
「写真撮らない?」
古いタブレットは家に置いてきてしまっていた。
だからカメラは私のスマートフォンだ。
それでも今の私なら──今なら。
私たち以外が映る写真を撮れる気がした。




