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ずるい女短編集  作者: すずき


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2/5

その後の物語


あなたはテレビを見ない。

あなたは漫画を読まない。

あなたは小説だけは読んでいた。


私の髪を時折撫でながら、真新しい紙の匂いがまだする本のページを巡っていた。

だから私はこんなものを書いているのだ。


誰にも知られてはいけなかった、私たちの恋を──誰もが知る物語にするために。

あなたに届けるために。



強羅駅を降りて続く坂道は、雪のせいで滑りやすい。

それでも走り出したくなるのは、この男のせいだ。

足早に進もうとして、滑りそうになった私の腰を隣にいた男がすぐに支えた。

持っていた観光パンフレットが音を立てて落ちた。


「大丈夫?」

「……大丈夫」


近くで見ても、やっぱり好きな顔の男だった。

「ごめん、浮かれちゃった」

そう言ってしっかりと一人だった私に拾ったパンフレットを持たせて、職場で見るのとは違う微笑みを浮かべた。

職場は一緒だが、職場では話さない。本来接点がそうそうある部署同士でもないので近くにもいない。


気をつけてよ、ほら、手、繋ごう。

そう微笑んでくれた顔を今でも思い出せる。

「ここなら知り合いもいないから大丈夫」

私を安心させるように言ったその言葉が──かえって痛かったなんてなあ。


……懐かしいなあ。

思い出して思わず目を細める。

私たちはそれから、手を取って雪の残る坂道を下っていった。


視界に広がる景色はあの頃と一緒。

それから、のそれからの話。

彼へのためのそれからの話。


私は一人で雪の残る坂道を降りて、一人で泊まるには少し敷居が高い旅館の方へ向かう。

パンフレットは見なくても場所は覚えている。


客室から見える中庭が綺麗なのだ。

──綺麗だったのだ。

旅館のフロントでチェックインの手続きをしながら、私はスタッフにその話をした。


「鯉の飼育をやめましてね、それに合わせて池はなくなりました」

なるほど、それは残念だ。

十年も経っているから、変わっていてもおかしくない。


また一緒にこようと言って、それから来られなかった場所は、こうして変わってしまっているのだろう。


あの頃は知らなかったそれなりの値段の旅館の夕食を食べ、一人で温泉に入って翌朝チェックアウトした。


さて、次は小田原だ。

箱根登山鉄道のひと車両しかない電車に乗って、箱根湯本で乗り換えて小田原駅に向かった。

近くでレンタカーを借りて少し東に走る。


隠れ家というには隠れ家すぎる、こじまんまりした個人経営のレストラン。

カップルや友人同士の来店が多い中、一人客は珍しいらしい。


「昔来たことがあるんです」

会計をしながら言った私の言葉に、店長は喜んだ。それから、誰と来たかと尋ねた。

「恋人です」

そう答えた私に、今日はなぜ一人かなんて、そんなことは聞いてこなかった。



夕方に帰宅すると、玄関にランドセルが置きっぱなしになっていた。

いつも片付けろと言っているのに、二年生になってまだ身につかない。

リビングに行くと息子はゲームをしていた。


「お母さんおかえりー」

「昨日の夜はお父さんとしっかり食べた?」

「食べた食べた! お母さんはおつかれさまー」


晩ご飯の支度をして、それからパソコンに向かうとテキストファイルに文字を打ち込んでいく。


──次の日は沼津に行った。



沼津駅から少し離れたところ。港町の海鮮丼が有名なお店の近くが穴場の駐車場だ。


海鮮丼のメニュー表は手書きのものではなかった。あの頃のメニュー表の達筆な書き手は、大将の奥さんが書いたものだと聞いて驚いたのに。


思っていた味と違ったし、大将も奥さんももういなくて、雇われの店長だけだった。

ただ店の前にいかすが合って、その中の魚だけはあの頃と同じ顔だった。


沼津の港町、商店街を一人で歩く。平日だが人通りは多い。外国人の姿も前に来たときより増えたのは為替のせいか。

看板を見上げてエピソードを思い出す。


──深海水族館は、家族で行った。

彼に行きたいと言ったら、子ども向けでしょ勘弁してよと断れてしまった場所だった。

彼の眉間に皺を寄せた顔を思い出して少し笑えた。

──そんな子ども向けでもなかったわよ。

大人でも楽しめた。

あの頃の彼に言ってやりたい気持ちが半分。

子どもが多い場所に行きたくなかった心がわかるようになったから、半分だ。



「あー、筋肉痛のせいだ」


愛鷹のゴルフ場。海に向かって落ちるような高い山のゴルフコース。

私から見ると見事なドライバーショットだったが、彼からすると不満の残るものだったらしい。


「筋肉痛?」

どうしたのと聞いた私に、しまったという顔をした。


彼の部署は営業。主に客先へは車で移動する。だからその筋肉痛は仕事のせいではない。

私は有給を取っているが、彼は客先へ営業を、と言って職場を抜け出してる。

今日は月曜日。昨日は?


「…………ああ、野球ね」

わざと言った。

彼は私の目を一度見て、それからすぐに背けた。


「レディースティーはここだって」


いくら歳の差が片手以上でも、わざとらしく変えられた話題に抵抗するほど幼くはない。

ありがとう、と言って芝にティーをさす。


──昨日は息子さんと野球をしたのね、なんて。

そんなことは思っても言わなかった。



さすがに一人でラウンドを回る気にはならず、ゴルフ場に向かう道をレンタカーで通るだけにした。

くねくねした道はそれだけで運転する彼の左腕に触れる理由になった。

高い山から見える海は、目を煌めかせる理由になった。

帰り道の夕日は、目を閉じたくなる理由になった。


──今日は一緒に泊まりたいな。

そうやって甘えると、ラウンドを回って疲れた彼は大抵首を縦に振ってくれた。


国道を走れば大抵会員カードを持っている系列のラブホテルがある。


彼がここで選ぶボディーソープは知っているけれど、彼がいつも使っているボディーソープは知らない。

エレベーターホールにあるアメニティのシャンプーを選ぶコーナーで、私はわざと匂いの強いシャンプーを手に取っていた。


今は私は、彼があの頃選んでいたボディーソープを使っている。


家の浴室には、夫が使っている清涼感のあるボディーソープと、肌に優しい子供用、そして私のボディーソープと、三人分並んでいる。


私が十年間ずっとこのボディーソープを使っているのは、匂いが好みだからという理由だけではない。

泡だったボディーソープの中に、彼の顔を思い出す。


──あの男は。


結ばれないと思っていても離れたくない男だった。

結ぼうとまではしてくれないのに、私を離さない男だった。

ずるい男だ。最愛だった。

この泡のようにすぐに弾けた恋だった。



せいぜい共に夏を迎えたのは二度程度。

秋なんて曖昧なものを、一緒に三回は見ていない。

恋人というには短い期間で、不倫相手としては長く続いた方じゃないのか?

──不倫の平均期間を知らないけど。


私も彼も慎重に慎重を期していたから、住んでいる都内で逢瀬をすることはしなかった。


──熱海サンビーチは、夏と違って冬は全然人がいない。


彼がネットで調べていたラーメン屋で食事を終えた後、私たちは整備された通路に座っている。

彼が近くの自販機で買ってきたドリンクを私に手渡した。

冬の乱暴な海を見ながら、私たちはプルタブを開ける。


「去年もここでホットココア飲まなかった?」

「俺はコーンポタージュ缶だった」

よく覚えてるね、と言って笑った。


強い風で乱れた私の髪を、私が一番好きな顔の男が撫でた。

「覚えてるよ。大事なデートだから」

ずるい。

こんなことを言うのだ。

「来年は、おしるこにしよっか」

一番不確定要素の男が、そんな風に、未来を夢見ることを言うな。


──私は一人で未来ここに来た。

冬の海の波が砕ける音。容赦なく顔を叩く冷たい風。サンビーチの整備された通路から降りて、砂浜に立って思い出していた。


──会いたい。

他の男と結婚しても。

他の男の子を産んでも。

十年経っても。十年会えなくても。


──あなたと行った場所をなぞるくらい、私はあなたの思い出が恋しい。


十年と言う年月は重い。

だんだんと砂浜の字が消えていくように、忘れたくなかった横顔に砂がかかって見えづらくなっていく。


だから思い出したくて、少しでも彼を感じたくて──こうしてアルバムに残せなかった景色に足跡をつけにきている。


一週間会えないだけで泣いていた頃の私はもういない。

ヤケになって連絡先を消してしまった私はもう大人になった。


ああそうだ、もうイイトシだ。

あなたも立派なおじさんだろう。

それでもきっと、あなたは私の好きな横顔で運転しているのだ。


思い出せる。思い出せない。

思い出したい。思い出せない。

あなたの顔を思い出したいのに、離れた年月が邪魔をする。



「ただいまー、遅くなってごめんね」


都内のマンションに帰ると、玄関を入ってすぐいい匂いがした。

先に帰宅した夫がカレーを作ってくれていたようだ。息子の帰宅がスイミングスクールで遅いからと油断していた。


「全然大丈夫だよ」

台所で子供と立つ夫の姿は、理想の家族像そのものだ。

──なのにどうして私は、この顔を心から愛せないのだろう。

黙って経っている私に、カレーを混ぜる子供が子供が言った。


「お母さん遅いよ〜お腹空いたよ〜」

ああごめんね、と。私が言う前に夫が諌めた。

「こらこら、お母さんは今新しい小説の取材をしてるんだから、忙しいんだよ」

返事は笑うだけに留めて、手を洗いに行った。


子供が好きな泡で出るハンドソープの匂いにまだ慣れない。


アルバムに写真も残せなかった。

携帯電話に番号も残っていない。

もう顔も思い出せなくなってきていた。

だから、その前に。


私は彼の物語を書いて、あの頃の彼に会いに行くのだ。


洗ったばかりの手からするハンドソープの濃い匂いに、私は思わず顔を歪めた。



その日の夜、初稿を書き上げてメールを送った。


次の日の昼。

私が送った初稿を読み終えた編集担当が、パソコンの画面越しに感想を言った。

「あとがきまで一つの作品って感じですね」


それから簡単な制作内容とスケジュールの話をする。これから来る春の終わりの夏の前。


「あとがきの『夏のあなたの誕生日、今年こそ万葉公園で一緒に蛍を見ましょう』が意味深でいいですね」

私が頷くと、画面の中にいる編集担当が手元にある持っている紙束を捲った。


「主人公は特に慰謝料請求されたりとか、今時流行りのザマァはないんですか?」


「だって」

身をもって知っている。

「悪役って、その後も平和に過ごしてるじゃないですか」


勧善懲悪なんて、フィクションの話ですよ。

私がそう言うと、担当編集は「確かにそうですね」と納得したように頷いた。


「不倫のその後の話。二人で行った場所を巡りながら主人公が旅をして振り返るのはいいコンセプトだと思うんですが、ちょっと読者に不親切かなと」


確かにそれは否めない。筆が乗りすぎて読者を置いてけぼりにしてしまったかもしれない。


「なので冒頭に不倫相手との最初の出会いとかを入れてほしいですね。……どんな出会いをしたか加筆してほしいです」

分かりました、と私が頷くと、紙束を捲りながら編集担当は私に聞いた。


「この二人はどんな出会いだったんですか?」

「職場があるビルが同じで、受付係だった女性に彼が声をかけてたのがきっかけですね」

「…………先生って、作家一本にする前……仕事辞める前はなんのお仕事をなさってましたっけ?」


「ビルの受付係ですよ」


「……この話、フィクションですよね?」

「ええ、フィクションの小説です」


だって彼は、小説を読まない。

テレビを見ない。

ただ、漫画だけは読む男だった。


だから私はこんな物語を書いている。

不倫のその後の物語。

純愛に変えに行く。



それから夏が来て、私は一人で電車に乗った。

温泉で有名な湯河原は冬に行くのもいいが、初夏は湯かけ祭り、真夏はやっさ祭りなど、汗ばむ季節も気持ちよく過ごさせてくれる街だ。


夏の夕方の重い空気が、風通しのいい湯河原駅のホームで心地よく流れる。


湯河原駅で降りて、すぐ目の前のバス停からバスに乗る。

降りるとすぐ万葉公園はある。町営の大きな公園で、集会所にもなるテラスがあり、奥に進めば滝があり川が流れる広い場所だ。公演というよりもはや山。園内散策はちょっとしたハイキングだ。


──本は売った。

私にできることはやった。


山道というには緩やかで、それでも坂道というには優しくない自然豊かな川のほとりの道を進む。

暗くなりかけた足元と、小さな足元の灯り。


ヒールで坂道を登る若い女とその男の横をすれ違う。

その軽装から、景色の良い観光スポットとして気楽に来たのだろうと分かる。ミニスカート生足、虫に刺されそうだ。


通りすがって俯いて薄く笑う。──私もかつては。


重ねた年月は十年。二の腕は太くなって、生足なんか見せられない。それどころか未だに産後太った下半身を隠すことに必死だ。今日も古い形のボトムを履いている。

小皺もできたしシミも消せなかった。

だからもう、愛してもらえるかもわからない。

けれどまだ、愛されていると信じてる。


だってあの日々は嘘じゃなかった。

──通りすぎた葉の上で蛍が光った。

彼には家庭があったけれど、私は愛されていた。

私たちは愛し合っていた。



「子供の頃、平井川によく蛍見に行ったんだよね」

蛍が見られると知らずに来た、昼間の万葉公園。

十年前、彼は私に言った。

「年々見られる場所も減ったよなあ」

公園と聞いていたのにこんな山道だとは思わなかった。ミニスカートの私は、そうだね、と返事をする。


「十年後もここの蛍は生きてるかなあ」


──十年後、なんて。

一緒に見られないなら、蛍なんて生きてても死んでても同じだし、むしろ死んでてほしい。

彼と見られないなら何の意味もない。


答えない私に、彼が言葉を続けた。

「さすがに十年後には俺も離婚してると思う。……十年後、一緒に蛍を見るような間柄でいたいな」

飛び上がりそうになった。

それを隠した。

「何言ってるの、十年も待つわけないでしょ。私の方が結婚してるよ」

余裕かます彼が悔しい。最後の言葉は負け惜しみに近い。

惚れたら負け。既婚者相手なんてボロ負けだし戦いにすらなってない。


「捨ててよ」

この男は、そんなことを言う。

「俺が一番好きでしょ?」

私が一番好きな顔で。


わかってることを言うのだ。



広い園内を進んで滝のほとりに着くと、背の高い人影がひとつあった。

飛び回る蛍を見上げるその後ろ姿。髪の毛のクセ。腰回りは少し太くなったか──けれど肩幅はよく知っている。


振り向いたその顔を見て、駆け出した。不安定な足元で転ぶことも怖くなかった。


「会いたかった」

どちらの声だったか分からない。重なっていたからもしれない。


随分容姿は変わったと思う。それでも一瞥だけでわかった。一瞬であの頃に戻った。

抱き合えば知っている感触だった。背中の肩甲骨の位置は記憶通りだ。


ここだったら照らし出されてもいい。蛍、お願い、もっと光って。暗い森の中で浮かび上がる彼の輪郭を私に見せて。

──彼の顔を照らし出して。


そう願った私の顔を照らし出すように、強い光が私たちを切り取った。

「え!?」

蛍の光なんて優しいものではなかった。突然な強烈な閃光は、カメラのフラッシュ。


「都内から出て、わざわざこんなところで会ってたのね」


「お前、なんで……」

聞いたことない声色だった。

その表情と言葉で分かった。

──ふいに現れたカメラを持つ女性は、彼の奥さんなのか。

私より年上なのに、ここにスカートを履いてこられるような女性だった。


先ほどまで歓喜に震えていた体が硬直する。

何も言うことができない。


「あの頃は掴めなかった証拠を掴めました。ご丁寧に今までの記録までありがとうございます」

その女性は、つい最近発売されたばかりの私が書いた本を持っていた。


「十年以上前、あなたは生活費を全然渡してくれなくて苦労したわ。問い詰めても答えないし浮気を疑ってたけど全然尻尾を出さなかった」


うまくやってたわね。

奥さんは言った。

その壮絶な顔から目が離せず、彼の顔が見られない。


「探偵費用も尾行の距離に応じて高くなるのよ、知ってた? あの頃は家計のやりくりで困ってたからとうとう尻尾を掴めなかった──やっと、やっと」


机の上に大事に置いていたわね、と言われて示される私の本。


「これね」


ペンネームは──彼の苗字を使った。

結婚できないのならば。あなたの苗字を勝手にもらうと名前の上につけた。


「……ねえ知ってる?」

そう言った奥さんの肩に蛍がとまった。


「不倫の時効はやった日からじゃなくて、不倫の事実と相手を知った日からなのよ……」


やっと相手がわかったわ、と奥さんはカメラを持った。


「だから、慰謝料をたっぷり請求するわね。それに離婚はしないわ。──有責のあなたの方から、離婚はできないからね?」


奥さんの唇が動いた。

その形は『ざまあみろ』だ。


「不倫のその後、めでたしめでたし幸せに暮らしてました……? そんなの許すわけないでしょう。悪役が幸せでいるのはフィクションで十分なのよ」


──これはフィクションだ。


こんな物語を書いてはいけなかった。

──悪役の話を知ってほしいなんて思ってはいけなかった。


きっと奥様と探偵は話していたに違いない。

──犯人は現場に戻ってくるっていいますからね、と。

これは純愛の物語ではなかったのかもしれない。



あとがき


あなたの誕生日に、万葉公園で一緒に蛍を見ましょう。

会いたかった。

十年間ずっと、会いたくてたまらなかった。

誰よりあなたを愛してる。


会えたら何もかも捨てて一緒になりたい。


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