星に願いを
失敗した、と思った。
新生児室にいる娘と目が合った気がした。
生まれて二日経って開けられた目を見て、ああこの子に幸せな人生を贈ることはできなかったな、と己の失敗を悟った。
私が産んだ娘は、私が好きではない顔の遺伝子をそっくりそのまま受け継いでしまった。
成長するほどに、娘は夫に──父親によく似た。
腫れぼったい一重瞼に大きくて上を向いた鼻。後退した顎までそっくりだ。DNAというのは働き者らしい。皮肉なことに。
夫は自分に似た娘を可愛がった。
私ももちろん可愛がった。
初めての離乳食をひっくり返された時は怒りが湧いたけれど、肉を裂き血を乳に変え、文字通り血肉を分け与えた娘だ。可愛くないわけがなかった。
けれど顔は可愛くなかった。
ピンクを着せても男の子に間違えられ、隣にいた赤子が「可愛いねえ」と通りすがりの老人に言われるのに、うちの娘は「あら大きめの子ねえ」としか言われない。
自分だって一応二重だが目は小さいし美人な方ではない。だからそんな顔の夫としか結婚できなかった。
そんな武器量な夫だったが、それ故に尽くしてくれる真面目な男だった。
どうせ私のような不美人な女は一番好きな男とは結婚できないだろうから、と妥協して結婚した。
まあ二重の方が優勢遺伝だし、せめて二重ならなんとかなる。
そう思っていたのに、娘はあまりに夫に似過ぎていた。
せめて武器を。
美しさが足りないのならば──せめて賢さを。
週一の幼児教室。週二の英会話。週一のベビースイミング。
本当は幼児教室は週二にしたかったが、夫の月収、年収は高い方ではない。なくなく諦めた。
家では動揺掛け流し。本によると九十分だけ英語の音楽掛け流しもいいらしい。
心がけて教えたのは挨拶と笑顔。おむつは二歳になる少し前に外れた。
愛嬌はある。と思う。
けれど顔は可愛くなかった。
幼稚園に入園が決まり皆同じ服を着るとそれはくっきりと分かった。
幼稚園に入った頃、夫が私をベッドに誘った。
「二人目、どうかな?」
何を言っている。
器量が悪い娘は、きっとこの先、人一倍苦労をする。
ブスな上にバカでは生きていけない。
せめて賢くさせないと。小学校受験も見越して教育費はかかる。
そうでなければ整形資金を貯めないと。悩んだ時にすぐに二重にさせてあげられるように。
「一人っ子でいいんじゃない?」
「けど昔、きょうだいの方がいい。二人育てたいって言ってただろ」
顔がよければな。
芋が二つ並んだところで美味しそうに見えない。調理後の姿を知ってるからじゃがいもは買われるのだ。せめて一つはフライドポテトにしないと誰にも手に取ってもらえない。
「うーん、もう娘で手一杯かな……とってもいい子だし」
「けどさ、きょうだいがいいって言ってたじゃん」
幼稚園に入園するまで、子育てが大変だからまたそのうち考えようとのらりくらりとかわしていた。
嫌だよもうあんたの子を産むのは。
だって遺伝子的にたかがしれてるじゃないか。
もちろんそんなことを言うわけがない。年収片手も満たない旦那でも、私は食わせてもらってるのだ。沈黙は金。
ちょっと体がしんどくて、更年期かな?
気分を下げるためにわざとそんな風に言って断った。夫と二人きりにならないように注意して過ごした。
娘と夫。同じ顔なら愛せるのは娘だけだ。
それから娘が年長さんになった。
最後のお遊戯会。年長さんは、合唱とダンスだけではなく劇をやるらしい。
ちょっと難しそう、そう言いながらも娘は積極的だった。
「主役やりたいなあ」
どうやらお姫様が主役の劇らしい。
顔は可愛くないが、友達には優しいと聞いている。
フラッシュカードのおかげか平仮名も覚えしっかり書けるようになった。なんならローマ字でも名前が書ける。
私の教育は間違いではなかった。この子はとりあえず大丈夫。愛嬌でうまくやれる。
きっと主役になれると思った。
賢い娘だから、セリフを覚えて演技をすることができるだろう、と。
主役になったのは違う女の子だった。
町一番のお金持ちの家に住む、町一番の可愛い五歳児だった。
その子は私が週二で通わせたかった幼児教室に週二で通いながら、小学受験の専門の塾にも行っているらしい。
名前がもう漢字で書けるらしい。
ずるい。
可愛いならせめて頭が悪くあってほしかった。
現実は、天は二物あるところに三物も四物もさらに与える。──お前なら持てるだろうといわんばかりに。
最後のお遊戯会。
魔女の役をする娘を見て思った。
──いくら教育をしたところで、本来持っている素材には敵わない。
悟ってしまった。
そんな折、同窓会の誘いが来た。
快く送り出されたのは女子高だったからだろう。
集まればすぐに学生時代に戻った。
誰もシミを消すのに一番いい化粧水の話なんてしない。部活帰りに食べたアイスクリーム屋の話とか、あの頃ハマっていた芸能人の話とか。
会がだいぶ盛り上がってきた時に、遅れました、と人が入ってきた。
女子高の同窓会。現れたのは背の高い筋肉質の中年の男。
「コーチ」
久しぶり、と私たちに手を振った男は、私たちの部活に指導しにきてくれていた外部のコーチだった。
*
初恋ではなかった。けれど忘れられない恋だったのは伝えられなかったからだろう。毎朝相性占いを見ていたからだろう。
今でもこの男の生年月日をすらすら言える。
私より十個年上の冬生まれの男だ。
一通りの生徒と話し合えてから、同じ部活の者同士で固まっていた私たちのテーブルにコーチが座った。
「元気だったか」
ありきたりな言葉なのにかけられると胸が弾む。雄弁は銀。この男の髪にチラチラ見える白髪が、店の照明のせいで銀色に見える。
「コーチはお元気でしたか」
突然現れたゲストに私たちは女子高生の頃のように悲鳴をあげた。
顔の整ったこの男は、ただでさえ男っ気のない花園に飛び込んできた蝶だった。
だからみんなして見上げていた。
──こんなイケメンに顎クイされたいよね、なんて少女漫画を見ながら。
ああ、まあな。
そう答えられて、他の女子にコーチと話題を取られる。……ああ女子というには私たちはもうトウが立っているか。
隣の女子と話しながらコーチを横目に見る。
あの頃より目元の笑い皺が濃くなったか、当たり前だが記憶の中のコーチよりも老けている。
それでも精悍な顔立ちは変わっていないし、体も引き締まったままだ。老けた、というよりは成熟したような大人の男性。
今はもう、見上げていただけの女性とではない。私も大人の女性ではある。
好きだった。
他に男を知らなかったとかじゃない。憧れとかじゃない。子供だったけれど幼い恋じゃない。
確かに好きだった。
困らせたくて忘れ物をした。
困らせたくなくて早めに行った。
話したくて同じタイミングで水道に行った。
話したくて親に迎えの時間を遅めに言った。
触れたくてペンを渡した。
まわってきた色紙と返されたペンには、みんなと同じメッセージが書かれていて、私の恋と学生時代は幕を閉じた。
「コーチのところのお子さんはもういくつになったんですか?」
聞こえた声に回想から揺り戻された。
コーチが笑いながら答えている。
……結婚したと聞いたのは何年前だったか、誰からのメールだったか。
私が結婚するよりも前だった。だいぶ昔の話だ
いつからそんな相手がいたのかさえ知らない。卒業後関わりがあったわけではなかったから。
今事実なのは──この男の遺伝子を受け継いだ子供がこの世にいるということだ。
羨ましい。
彼に愛される女が。
妬ましい。
彼の子を産める女が。
浅ましい。
そんなことを思う私が。
同窓会が終わりという頃に二次会の話になった。
大抵既婚者子持ちだ。二次会の出席率は低い。
帰るのが当たり前という空気感。
コーチが手を降って私たちに背を向けた。
私も挨拶をそこそこに背を向けて、人混みに消えた彼の背中を追った。
あの頃はできなかった大胆さだ。
「コーチ」
見つけて呼びかけたら振り向いた。
私の名前をあの頃と同じように読んで笑った。
「おお、どうした?」
いい年になった私に、まるで学生の頃のような気やすさだった。
今しかない。
もう今さら。
──好きです、あの頃から。
そう言おうとして口を噤んだ。
それじゃ女学生のやり方だ。
今の私は違う。
「二軒目、いきませんか?」
……二人きりになりたいんです。
小声でそう言えばいい。そんなテクニックを覚えた一人前の女だ。
躊躇いながらも二軒目の誘いに乗ったコーチに喜びと、ほんのわずかな絶望。
それでやっと、卒業できた気がした。
その後は酒の力を借りた。
こんなに簡単だったのか、この男と体を重ねることは。
やっぱり絶望した。それでも確かに救われた。──あの頃私が。
好きな声だ。好きな顔だ。好きな匂いだ。
私はこの男が好きだった。
私はこの男が好きだ。今も尚。
触れればあの日の空を思い出すほどに。
「コーチ」
せがんで願った。
ねだれば答えてくれた。
男らしい浅はかなところは初めて知った。
朝帰りになって得られたこの結果に私は満足した。
──排卵日じゃないのが残念だった。
とりあえずこれで繋がりはできた。
スマホには手に入れたコーチの連絡先。
……一度結ばれれば、二度目は簡単にできる。
「ただいま、パパ。行かせてくれてありがとう」
やっぱ女子校って男の視線がないから羽目を外してしまったわ、なんて。
言い訳は雄弁だった。
二度目の誘いも私からだった。
わりと仕事は融通がきくらしい。
「客先に訪問って言って出てきた」
スーツ姿のコーチはそう言ってスーツを脱いだ。
娘が幼稚園に行っている間に逢うことができた。
ねだって精を与えてもらった。
ほしがりな私にコーチは嬉しそうだった。
──旦那は?
私は笑うだけで答えない。
──そうね悪いのは旦那よ。
子供がほしいって言ったから。
だから私は今作ってあげてるの。
娘と格差ができてしまうかもしれない。態度が変わってしまうかもしれない。
けれどそれでも。
──愛した男の子をほしいと思うのは悪いか。
悪いだろう。それが結婚相手じゃないのだから。
けれど結婚相手が愛した男じゃないからしょうがないだろう。いや愛してた時もあると思う。ただ変わってしまっただけだ。
感情が劣化しただけだ。
情はあるが愛情ではない。
私の劣情はこの男にしか抱けない。
──この男の子供がほしい。
命懸けで一度出産した。
なら愛した男の子を。より優秀な子を。
そう望むのは悪か。悪でいい。
今時は悪役もハッピーエンドになれるだろう。
命懸けで産むなら、好きな男の子供がいい。
星は願いを叶えてくれなかったが、放たれた精が願いを叶えてくれた。
妊娠検査薬で確認して笑った。──思ったより短い期間で叶ったな。
分かってから夫に抱かれた。
「子育て大変って言ってなかった?」
「……あの子、いいお姉ちゃんになると思うの」
数回抱かれた。
コーチの肌と比べて、声と比べて、匂いと比べてどうしてもつらかった。
そう思うようになったのはどうしてか。もう思い出せない。
結婚生活は悪いものではなかった。
生活は保証され、大切にされていた。
けれどやっぱり不満だった。
子供の容姿。
それと──私の人生が、愛した子の男を生まずに終わるのかということが。
それでも、きっかけはあなただ。
夫が言ったからだ。願ったからだ。──二人目がほしいと。
ならばそれに私の願いを乗せてもいいだろう。
命を懸けるんだから。
そして私の青春の想いは、人生を賭けた恋になった。
バレたら終わりだ。
それでも。──それでもだ。
夫の前でも検査薬を試して婦人科に行った。
どうせ母子手帳を見るわけではない。
早めに生まれたと言って誤魔化そう。
あまり頭がいい男ではない。言いくるめられるから結婚した。そんな男としか結婚できなかったけれど、結果としてそれが良かった。
コーチの連絡先は消した。
お腹に手を当てて思う。
──この子がいれば、いつでも思い出せるから。
こうしてやっと、私の恋は終わることができた。
夫の願いも叶った。
よかったね、と久しぶりにベビー用品店に家族で行きながら思う。
ほしがってた二人目の子よ。
この子はきっと地頭がいいから幼児教室はいかなくていいし、見目もいいから整形貯金はしなくてよさそう。
散々相性占いをしたから覚えている。コーチの血液型は私と一緒。
成功した。
私はこれでやっと女としての願いを達成できた。
この子のためなら──この子たちのためならなんでもできる。
きっとこの子は主役になれる。
私が主役にしてみせる。
「ママ、楽しみだね」
「そうね、よろしくねお姉ちゃん」
新しく買うベビー用品を手に取り娘と手を繋ぎレジに向かう。夫が財布を取り出した。
「あら、パパにそっくりですね」
娘の顔を見た店員が私たちに笑いかけた。
夫が私に笑いかけた。
「きっとお腹の子はママに似るよ」
私は両手を握りしめて、爪が食い込む痛みを飲み込んで笑顔を作った。




