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婚約破棄されたので、迷宮で【領収書】を切ったら王家が詰みました

作者: 夢見叶

「ミレイ・アルシュ。君との婚約を破棄する」


夜会の中央、第三王子は杯を掲げたまま私を見下ろした。隣の令嬢は甘い香水をまとい、勝ち誇った笑みを浮かべている。周囲の貴族たちは、正義の断罪を見物する顔で息を潜めた。


ざわめきの中で、私は泣かなかった。泣けば、物語の負け役になる。胸の奥がすうっと冷えるのは絶望ではなく、帳尻が合った時の静けさに近い。


「……承知いたしました」


頭を下げると、王子の口元が僅かに歪んだ。欲しかったのは土下座か、縋りつく私だったのだろう。


「今夜のうちに退邸しろ。屋敷も使用人も、次の婚約者に譲れ」

「はい。ところで殿下」


私は微笑む。おかしいくらい、喉が渇かない。


「精算は、いつなさいます?」


会場が一拍遅れて静まった。次の瞬間、私の指先に白い紙片がひらりと現れる。触れていないのに、勝手に折り目がつき、文字が浮かび上がり始めた。


《支払い主:第三王子》


……あら。世界は、思ったより正直らしい。


背後で誰かが小声で囁いた。

「……監査局が来てる。今夜は監査官もいるらしい」

王子の笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。


「な、何だそれは」

王子が眉をひそめる。私は紙片をたたみ、扇子のように指で挟んだ。


「さあ。ですが殿下、これが“精算”のための紙なら、いずれ必要になるでしょう?」


笑いが起こった。私へではない。王子の顔色がわずかに変わる。私はその変化を、胸のどこかで数えた。涙ではなく、計算で。


私が数字を好むのは、父のせいだ。没落寸前だった伯爵家を、帳簿の穴を塞いで立て直したのは私だった。蝋燭の下で計算して、侍女に節約を頼んで、商会と交渉して。誰も褒めなかったけれど、家は生き延びた。


王子はそれが嫌いだった。派手な笑みと拍手が欲しい人だったから。


「君は数字ばかりだ。可愛げがない」

そう言われた夜、私は返事をしなかった。返事をしても、数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、人だけだ。


そして今、その嘘の支払い主が、紙に残った。


***


夜会を出た瞬間、冷たい夜気が頬を刺した。私は馬車に乗り込む。御者はいつもの男で、いつもの手綱さばきだったはずなのに。


次の瞬間、車輪が跳ねた。


「っ……!」


床板が外れ、暗闇が口を開ける。仕掛けられた罠だと理解するより早く、私の身体は落ちていた。空気が湿り、土の匂いが強くなる。耳の奥で、夜会の音楽が遠のいた。


衝撃。背中が痛む。けれど骨は折れていない。私は息を整え、周囲を確かめた。壁は石造り。苔。かすかな魔力の流れ。ここは……迷宮だ。


「婚約破棄の次は、迷宮落とし。ずいぶん分かりやすい」


自嘲が口から漏れた瞬間、掌が熱を帯びた。さっきの紙片と同じ白い紙が、今度は私の手のひらから滲むように現れる。驚く間もなく、文字が走った。


《品名:落とし穴の起動料》

《金額:金貨三枚》

《支払い主:第三王子》


私は笑ってしまった。痛みの代わりに、笑いが出る。


「……つまり、あなたは“支払い”の痕跡を残すのね」


紙はふわりと浮き、私の指先に従う。魔法の説明書などなくても分かった。これは、取引を固定する。誰が、何のために、誰に払ったか。世界が黙って誤魔化してきた部分に、白い線を引く。


ならば、勝ち筋は単純だ。


嘆くより先に、道を探す。


私はスカートの裾を裂き、簡単な縄にした。暗い通路を選ばない。風の流れ、湿度、足元の砂。迷宮は生き物みたいに息をしている。幼い頃、台所の米袋の重さで家計の残りを当てていた私にとって、迷宮の規則性は思いのほか親しみやすかった。


曲がり角で、骨の白い残骸を見つけた。冒険者のものか、獣のものか。胃が縮む。だが足は止まらない。怖いからこそ、数字に逃げる。私は紙片を一枚出し、手のひらで押さえた。


《目的:生存》

《対価:冷静さ》


冗談みたいな文言に、少しだけ肩の力が抜けた。


迷宮の奥から、ひゅうと風が吹いた。湿り気の中に、鉄臭さが混じる。私は足を止め、壁に耳を当てる。遠くで、水滴が規則正しく落ちている音。規則がある。なら、出口もある。


私は小石を拾い、通路の分岐ごとに置いた。戻るためではない。迷わないためだ。迷うと、人は嘘を信じたくなる。迷わなければ、嘘は要らない。


途中、小さな魔獣が現れた。兎ほどの大きさで、牙が鋭い。私は後ずさりし、鞄を探る。護身の短剣は夜会に持ち込めなかった。代わりに出てきたのは、夜会で配られた砂糖菓子の包み紙。


「……こういう時に限って、甘いものは役に立たない」


その瞬間、紙片が現れた。


《取引提案:砂糖菓子》

《対価:通行の許可》


私は目を瞬いた。魔獣は砂糖の匂いに鼻をひくつかせ、私の足元に寄ってきた。私は包み紙をそっと差し出す。魔獣はそれを奪い、通路の奥へ消えた。


「……許可、取れたのね」


胸がどくんと鳴る。怖かった。けれど、私は生きている。生きていれば、精算できる。


***


どれほど歩いたか分からない。ようやく微かな灯りが見えた。迷宮の入口だ。鉄格子の向こうに、人の声と火の匂いがする。


「おい、誰か落ちてきたぞ!」

「女だ。貴族の服じゃないか?」


格子が開き、屈強な冒険者が手を差し伸べた。私はその手を取る前に、条件を口にした。


「助けていただけるなら、対価を払います。領収書を切ります」

「りょうしゅう……何だ?」

「取引の証明です。あなたが私を助け、私はあなたに返す。それを紙に残す」


彼らは顔を見合わせ、やがて笑った。


「面白え。いいぜ、嬢ちゃん。とりあえず外に出な」


外気が肺に入った瞬間、涙が出そうになった。けれど私は、すぐに唇を噛む。泣くのはあとでいい。まずは生きる。


迷宮入口の広場は、簡易なテントと荷車で賑わっていた。冒険者の補給、回復薬、縄、乾パン。商人たちの声が飛び交う。私はその雑踏を見て、胸の奥がすうっと整った。


ここなら、働ける。


私は落ちてきた穴の管理小屋の軒先に、小さな布を張った。拾った木箱に、商人から安く仕入れた乾パンと水袋、簡単な薬草茶を並べる。代金は少し安め。代わりに、必ず領収書を切る。


「はい。品名、乾パン二つ。金貨一枚。支払い主、あなた。用途、迷宮攻略」

「用途まで書くのかよ」

「ええ。使い道が明確だと、揉め事も迷子も減ります」


最初は笑われた。だが三日も経つと、領収書が“揉めない”ことに気づいた者たちが戻ってきた。値切りの喧嘩も、釣り銭の誤魔化しも、紙が一発で止めた。


ある日、若い冒険者が血相を変えて戻ってきた。仲間が迷宮で怪我をしたという。私は薬草茶を濃く煮て渡した。彼は金を払おうとしたが、手が震えて落とした。


「今は払わなくていい。預りにします」

「でも……」

「領収書を切るから。嘘にならない」


紙が現れる。


《品名:薬草茶》

《金額:金貨二枚》

《支払い主:後日》

《期限:生きて戻った日》


彼は泣き笑いをして、深く頭を下げた。翌日、彼らは怪我人を支えながら戻ってきて、私の店の前で声を張った。


「この嬢ちゃんの紙は、命を返してくれる!」


噂が広がるのは早い。


『迷宮入口に、変な嬢ちゃんがいる。紙一枚で、取引が綺麗になる』

『揉め事も、嘘も、減る』


その“綺麗”が、私にとっては何よりの救いだった。


***


四日目の夕暮れ。店先に、一人の男が立った。黒い外套。目立たない服なのに、立ち方だけで場が締まる。視線は冷たいのではなく、測るように静かだった。


「乾パンを一つ」

「はい。金貨半枚です」


差し出された手袋の指先は、きちんと磨かれた革。戦場の手ではない。だが紙を受け取る瞬間、微かに躊躇があった。


「……領収書を」

男が低く言う。


私は紙片を出し、さらさらと書く。書くというより、書かされる。文字は自然に浮かび、最後の行で止まった。


《支払い主:レオン・ヴァルド》

《所属:王国監査局》


息が一拍遅れた。


「監査官、ですか」

「名を知っているなら話が早い。君が切った領収書を見せてほしい」


声は淡々としている。威圧ではない。だが拒めない圧がある。私は笑わず、紙を揃えた箱を引き寄せた。


「見せる代わりに、条件があります」

「条件?」

「私を守ってください。相手は王子です。私はもう、夜会の見世物に戻りたくない」


レオンと名乗った男の視線が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「守る。それが私の仕事だ」

「仕事?」

「不正を正すことも、命を守ることも」


彼は言い切った。私はその言葉の硬さに、逆に安心した。甘い慰めより、手続きの約束が欲しい。


「では契約を。私は領収書で証拠を残す。あなたは公的に私を保護する。その代わり、回収した金の一部は迷宮入口の整備に回してほしい。ここは危険すぎる」

「……交渉が上手いな」

「家計簿が趣味でしたから」


初めて、彼が小さく口元を動かした。笑ったのかもしれない。


その場で彼は、私の店の屋根を補強する手配をした。雨漏りの箇所を指で示し、釘の本数まで数えている。監査官は人の心も数えるのだろうか、と一瞬考えた。


「水の樽も増やす。迷宮では水が足りなくなる」

「そんなことまで」

「必要だからだ」


必要。その二文字が、胸の奥で温かく灯る。私が欲しかったのは、同情ではなく必要とされることだったのかもしれない。


***


その夜、レオンは私に新しい寝具と暖炉の薪を手配した。無駄がない。必要なものだけが、必要な順で届く。護衛も二人ついた。名乗らないが、動きで分かる。騎士だ。


「ここまでしていただくと、借りが大きすぎます」

「借りではない。契約だ」


レオンは小さな書類束を机に置いた。署名欄の横に、私の名がある。公的な保護証明。これがあれば、誰も私を“勝手に”連れ戻せない。


「……ありがとう」

思わず漏れた言葉に、彼は頷くだけだった。


翌日から、レオンは毎夕、店の前を通った。乾パンを買う日もあれば、買わずに周囲を見回る日もある。私が眠れるように、迷宮入口の灯りの位置まで変えた。彼は何も言わない。言わないからこそ、行動が目立つ。


その六日目。金貨の袋が置かれた。封蝋には王子の印。笑えるほど露骨だ。


『黙って迷宮にいろ。必要な金は払う』


紙片が勝手に現れ、文字が浮かぶ。


《品名:沈黙の対価》

《金額:金貨百枚》

《支払い主:第三王子》


私は袋を持ち上げ、軽く振った。金属が鳴る。私の心は鳴らない。


「受け取れば、負ける。でも、捨てれば証拠が消える」


私は袋の上に領収書を置き、別の文言を追加した。指が勝手に動く。魔法が、こちらの意図を汲む。


《取引形態:預り金》

《返金条件:公開検分にて不正が否定された場合》

《期限:三日》

《未返金時:全額没収、支払い主の不正を公示》


「……効くわね」


背後で布が揺れた。レオンが現れる。呼んでいないのに、いつも必要な時にいる。


「王子からか」

「ええ。沈黙の対価だそうです」

「預り金にしたのは正しい。彼の金であって、彼の金ではない」


レオンは袋に触れず、紙だけを見る。視線が鋭くなる。


「三日で公開検分を行う。王城でだ」

「王城……戻るのですね、私」

「戻る。ただし一人ではない」


彼は外套を外し、私の肩にかけた。夜の冷え込みから守るように。布の重さが、守られている実感を連れてくる。


「あなたは冷徹だと噂でした」

「噂は領収書で精算できない」

「なら、何で精算できます?」

彼は一瞬だけ言葉を探し、短く言った。

「行動だ」


その直後、店の裏から足音がした。男が一人、影から出てくる。王子の手の者だろう。笑いながら袋に手を伸ばした。


「坊ちゃんの金だ。返してもらうぜ」

「返す条件は書いたはずです」

「紙切れが何だ!」


男が紙を掴もうとした瞬間、護衛の騎士が一歩前に出た。剣は抜かない。ただ、体の角度だけで相手の腕を止める。レオンは男を見ずに言った。


「触れるな。それは証拠だ」

「証拠?」

「盗みに手を出した時点で、お前の名前も領収書に残る」


男の顔色が変わる。私の掌に白い紙が現れかけ、彼は慌てて手を引いた。逃げていく背中に、私は小さく息を吐く。怖かった。けれど、怖いと言う暇がなかった。守りが、先に動いたから。


***


三日目。王城の監査会議室。夜会の華やかさとは違う、石と紙の匂いがする場所だった。長い机の向こうに、王族の代理と重臣たちが座る。私はレオンの隣に立つ。足が震える。だが逃げない。


扉が開き、第三王子が入ってくる。昨日までの余裕の笑み。私を見る目は、怒りと侮蔑が混ざっていた。


「監査官よ。こんな小娘の戯言で私を呼びつけるとは」

「戯言かどうかは、証拠が決めます」


レオンが淡々と言う。机の上に、白い紙が積まれていく。落とし穴の起動料、迷宮素材の購入、商会への支払い、沈黙の対価。さらに、夜会で王子が令嬢に贈った首飾りの領収書まで。


「それは……!」

令嬢が声を上げる。王子は咳払いで黙らせた。


「こんなもの、いくらでも書ける紙切れだろう」

王子が笑う。


レオンは私を見る。私は頷き、掌を開いた。白い紙が一枚、勝手に現れる。私は何も書かない。ただ、差し出す。


紙が机に触れた瞬間、淡い光が走った。室内の誰もが息を呑む。文字が自動で浮かび上がり、支払い主と金額が刻まれる。


《支払い主:第三王子》


「……魔法だと?」

重臣の一人が呻く。


レオンが続ける。

「領収書魔法は取引の真実を固定します。偽造は不可能。さらに、これらの支払いは王家の金庫から出ている」


王子の顔から血の気が引く。隣の令嬢が遅れて青ざめた。


「違う! 私は知らん! 私は迷宮の管理を……!」

「管理? では、この支払いは何の管理費ですか」


レオンは一枚の紙を指で押さえた。品名欄には、迷宮の希少素材の名。用途欄には、出荷。支払い先には、私の家が長年取引していた商会の名があった。


胸が痛む。父の商会だ。王子は、私の家の取引先まで踏み台にしていた。


私は一歩前へ出る。震える指を握りしめた。喉が渇く。けれど声は思ったより澄んでいた。


「迷宮素材の横流しです。王子は迷宮の希少素材を私的に売り、得た金で宝飾品を購入しました。支払い先と品名は、ここに。支払い主は、すべて殿下」


「黙れ!」

王子が机を叩く。

「婚約破棄された腹いせだろう!」


「腹いせなら、もっと下品なことをします」

私は淡々と言ってしまい、重臣たちの眉が動く。私は続けた。

「これは精算です。奪った分を返す。それだけ」


令嬢が悲鳴を上げた。

「ち、違います! 私は、殿下に愛されて……」

「愛は領収書に残りません」

私は静かに言い、次の紙を出す。

「残るのは、支払いです」


王子が私の方へ身を乗り出した。護衛が一歩前に出る。剣は抜かない。ただ視線が、王子の足を止めた。


レオンの声が初めて低く沈んだ。

「本日付で、第三王子の出納権を停止。関連資産を凍結し、没収の手続きを開始する」


王家代理が公示文に印を押す。乾いた音。王子の叫びは、石の壁に吸われた。重臣たちは動く。令嬢は泣き崩れ、王子は白い顔で立ち尽くす。


夜会のざわめきではない。手続きの音だ。


私の胸の奥が熱くなる。泣きたい。けれど今度は、負け役の涙ではない。息を吸い、吐く。迷宮の湿気より、ずっと軽い。


「ミレイ」

レオンが私の名を呼ぶ。短い一言なのに、驚くほど救われる。

「もう大丈夫だ」

「……はい」


私は笑った。小さく、でも確かに。


会議室を出た廊下は冷たかった。けれど、夜会の廊下とは違う。背後で聞こえる囁きが、もう“哀れみ”ではなく“計算”になっているからだ。


「あの令嬢、王子を落としたのか」

「いや、落としたのは紙だ」

「監査官が味方についたら、もう逆らえん」


私は足を止めずに歩いた。噂が怖くなくなったわけではない。ただ、今の噂は私の足を絡め取らない。領収書が、私の背中に一本の柱を立ててくれている。


角を曲がったところで、レオンが水の入った杯を差し出した。いつ用意したのか分からない。けれど、私が喉を痛めていたのを見ていたのだろう。


「飲め」

「命令ですか」

「勧告だ。声は資産だ」


私は笑って水を受け取った。冷たい水が喉を通る。資産。なんて色気のない言葉だろう。でも、その無骨さが好きだと思ってしまった。


***


その夜、私は王城の客室で湯に浸かった。熱いお湯が肌を包み、迷宮の湿気と夜会の香水の匂いがほどけていく。侍女は最低限の世話をして、静かに下がった。レオンの手配だ。必要以上に触れない、でも足りなくならない。


湯上がりに、机の上に手袋が置かれていた。柔らかな革。指先の縫い目が丁寧で、冷えやすい私の手に合わせたような細さだ。


扉がノックされる。

「入って」

レオンが入室した。いつも通りの無表情。けれど視線は、私の手袋に一度落ち、すぐに逸れた。


「……領収書を」

彼が言う。

「何のですか」

「手袋の。私が勝手に用意した。君のものになった以上、取引として残すべきだ」


真面目すぎて、可笑しかった。私は笑い、紙を出した。文字が浮かぶ。


《品名:手袋》

《金額:金貨零枚》

《支払い主:レオン・ヴァルド》

《用途:手を冷やさないため》


「零枚?」

「贈与です。だが帳簿上は、君の承認が必要だ」


私は紙の余白に指を置く。

「なら条件を。次は私が、あなたに何かを返します」

「返済は必要ない」

「必要です。対等でいたいから」


レオンが一瞬だけ目を瞬かせた。そして、頷いた。


「対等、か」

「ええ。あなたが守ったのは命だけではありません。私の名誉も。だから私は、あなたの孤独を守ります」


言ってしまってから、頬が熱くなった。甘い言葉を言うつもりはなかったのに。けれど一度口にしたら、引っ込められない。領収書みたいに。


レオンは何も言わない。代わりに、机の上に小さな札を置いた。迷宮入口の管理札。新しい文字が刻まれている。


《迷宮監査局 出張所》


「君の店を、公的な窓口にする。守るための盾だ。君が望んだ整備費も、没収金から回す」

「……勝手に決めましたね」

「契約だった」


淡々とした返事。でも私は気づいた。彼の“勝手”はいつも、私が怯えないための準備だ。


翌朝、王城を出る私の荷物に、湯たんぽと乾パンが追加されていた。余計な手紙はない。代わりに、護衛の配置図が一枚。危険箇所が丸で囲われ、最短の安全路が引かれている。恋文よりずっと、心臓にくる。


迷宮入口に戻ると、店の上に新しい看板がかかっていた。誰も勝手に触れないよう、監査局の印付きだ。冒険者たちが口笛を吹く。


「嬢ちゃん、出世したな!」

「出世じゃないわ。……仕事が増えただけ」


そう言いながら、私は笑っていた。笑える自分が、戻ってきた。


夕暮れ、レオンが現れる。いつもの黒い外套。けれど今日は手に、紙袋がある。中身は、甘い焼き菓子だった。


「迷宮の魔獣は甘い匂いに弱い。君の話を聞いた」

「……聞いていたのですね」

「必要な情報だ」


必要。彼の言葉はいつも、そこに帰ってくる。


私は紙を一枚出した。今度は、魔法に任せず自分で書く。震えない字で。


《契約形態:婚約》

《当事者:ミレイ・アルシュ/レオン・ヴァルド》

《条件:対等》

《期限:なし》


レオンは紙を見つめ、ゆっくりとペンを取った。署名の瞬間、紙が淡く光る。領収書魔法とは違う、もっと静かな光だ。


「……支払いは?」

彼が小さく言う。

私は手袋の指先を見つめ、顔を上げた。


「あなたが差し出した手が、もう受領印です」


その時、遠くで鐘が鳴った。夜会の始まりではない。明日が始まる合図だ。


迷宮入口の小さな店で、世界を精算しながら、私たちは恋を積み上げていく。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


「精算」は罰じゃなくて、自分を守るための線引き。

そして、手を差し出す恋は言葉より先に始まる……そんな物語でした。


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― 新着の感想 ―
なんか、ちょっと不思議なお話だなぁと思いました。 意味がよくわからない、何が言いたいのかよくわからないなぁ、と思いながら読み進めて、最後まで読んでしまいましたが、 読後感としては、「なんか、よくわ…
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