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第9話 見えざる視線




5月4日。


 都会の喧騒も田舎の静寂もない。良く言えば丁度良い、悪く言えば中途半端な町で、今日もバスは走っていた。


『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』


 今日も事故らず、終点まで無事着いた。

 いつも通りのアナウンスが車内に響く。


『お降りの際はお忘れ物……落とし物にはご注意ください』


 昨日の静寂が嘘のように、今日は車内に異様な気配が漂っていた。座席を確認すると、普段とは違う湿った空気が鼻をかすめる。忘れ物はあるのか。いや、単なる物理的な忘れ物ではない気がした。


「……また写真立て?」


 中ドアからすぐの座席に銀色の小さな写真立てが置かれていた。

 普段の忘れ物は雑で無造作なものが多いが、これは明らかに意図的に置かれ、こちらに見せるためのようだった。


 フレームの中には若い頃の今野智美と、まだ幼い沙希の姿。柔らかな笑顔で幸せそうに見える。しかしその笑顔はどこかぎこちなく微かに硬直しているように思えた。


 見ているだけで胸の奥がざわつく。


「……誰が置いた……」


 視線を巡らせても誰もいない。

 車内は静まり返り、窓から差し込む光だけが写真立てを浮かび上がらせる。手に取ると背後に冷たい風が頬を撫でた。


 誰かが立っているのかと思い振り返るが、そこには影しかない。


 写真立てを裏返すと黒いマジックで文字が書かれていた。


『見てるよ』


 荒々しい文字だが、明確にこちらを意識していることが分かる。自然に背筋が凍り、息が詰まる。手が震える。


「……誰が」


 声に出すと再び微かな囁きが耳元に届く。


『──あなた、本当はここにいるべき人じゃないでしょう?』


 座席の隙間に微かに動く気配。

 紙でも布でもない、確かな存在感がある。触れようにも何もない。視覚では確認できないが、確かに何かがいる。


 心臓が早鐘のように打ち、全身に汗が滲む。普段は楽しみの一つである忘れ物の確認が、今日は試練のように思えた。

 見えない視線がこちらを観察し問いかけてくる。言葉にならない恐怖が胸に押し寄せる。


「……どういうことだ……」


 座席の周囲を見渡す。

 忘れ物は他にない。

 しかし確かに目に見えない存在が潜んでいる。

 昨日の静寂より重く、今日の明るい日差しさえ遮る圧迫感。


 ふと窓に映る自分の影に目をやる。影だけが独自の意志を持つかのように微かに動く。


 目を逸らすと止まり、再び向けると変化する。まるでこちらの行動を追跡しているかのようだった。


「……俺は一体……」



 言葉が喉に詰まる。

 再び微かな紙の擦れる音。座席の隙間に小さな紙片が落ちている。手に取ると冷たく硬い感触。開くと黒い文字が並ぶ。


『あなたの目はごまかせない』


 読むたびに胸がざわつき吐き気を催す。

 昨日までの楽しみは失われ、ここにあるのはただ「見られている」という事実だけ。


「……誰なんだ……」


 背後から風が吹き肩を撫でる。振り返るも視界には何もない。座席の下まで目を凝らすが物理的存在はない。ただ影がわずかに動いた気配だけが残る。


 恐怖と好奇心が交錯する。手が再び写真立てに伸び、裏返すと文字が浮かび上がる。


『あなたに見せたかった』


 胸の奥がざわめき鼓動が耳に響く。視界の隅で何かが揺れる。影か存在そのものか。昨日までの日常とは明らかに異なる「何か」がここにいる。


 座席を何度何度も確認する。

 それでも忘れ物は見つからない。

 しかし確かに誰かが存在し監視している。触れることはできず、精神にだけ訴えかける存在。


「……明日も……ここに忘れ物はあるのか?」


 問いかけても返事はない。空気だけが微かに揺れる。

 落とし物は目に見えない形で存在し、しかし確かにそこにある。


 終点到着のブレーキ音が響き、空気が揺れる。窓の外は普段と同じ景色。バスは停車するが、重苦しい気配は残像のように居座る。


「……君は、誰なんだ」


 心の奥で呟く。

 答えはまだ返ってこない。

 

 しかし、この見えない乗客は確実に存在している。未来の忘れ物──いや、この空間の出来事に関わる重要な存在であることは確信できた。



 今日の終点で何も拾えなかった。しかし忘れ物以上の『何か』を拾ってしまった──そう直感するには十分すぎる日だった。


 座席を最後に振り返ると、影が少しだけ揺れる。息を呑む。まだ何かがこの車内に潜んでいる。忘れ物は形ではなく、存在感としてここにある。


 胸の奥に張りつくざわつき。視界の隅にちらつく影。音のない囁き。これらすべてが今日の終点の証拠だった。


 バスを降りる足が震える。だが目の前の空間を振り返ると、忘れ物のない静寂の奥に、確かに誰かがいる気配。


「……俺は一体……何を見ている……?」


 問いの答えはまだ得られない。

 だが、この不在の存在、見えざる視線こそが、明日以降の出来事の始まりであることは確かだった。


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