第8話 忘れ物のない日
5月3日。
都会の喧騒も、田舎の静寂もない。
良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。
当たり前のことのはずなのに、アナウンスの声がどこか遠く響き、耳の奥でこだまする。
まるで録音された音声ではなく、「誰か」が直接囁いているように。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
アナウンスが告げるその瞬間、胸の奥がちり、と痛んだ。
忘れ物──それはこの数週間、俺にとってただの日課であり、退屈な仕事をわずかに彩る出来事であった。
しかし今日は違った。
車内を見渡す。
ゴールデンウィークの真っ只中。
普段なら、遊びに出かける家族連れや、駅前のショッピングセンターへ向かう若者たちで、車内は賑やかなはずだった。
だが、今日の乗客は不自然なほど少なく、しかも全員が途中で降りてしまっていた。
いつの間にか、終点に到着する頃には、俺ひとりしか残っていなかった。
笑い声も話し声も、紙袋の擦れる音すらも消え去り、残されたのは空席と沈黙だけ。
窓の外を見れば、眩しいほどの青空が広がり、街路樹が揺れている。
舗道を歩く人々の姿もある。
だが、車内だけは別世界のように時間が止まっていた。
「……今日は、何もないか」
終点に着くと、俺はいつものように忘れ物を探す。
傘、カバン、財布、ポーチ、ノート。
昨日まで、必ず何かが落ちていた。
だが今日は、座席をひとつずつ確認しても、何もない。
すべての席が整然とし、ポケットも床も、完璧に片付けられている。
異常なまでの「無」だった。
まるで誰も物を落とさないように、見えない力が働いたかのように。
だが、その「何もない」こと自体が、不気味さを増幅させていた。
普段は、忘れ物があることこそが「人がここにいた」証拠になっていた。
だが今日は、証拠が一切残されていない。
まるで最初から誰も乗っていなかったかのように。
──背中に冷たいものが走る。
ふと、車内の後方から微かなざわめきが聞こえた気がした。
誰かの息遣い。布の擦れる音。
振り返る。
だが、そこには誰もいない。
差し込む光に照らされた空席が並ぶだけ。
「……気のせいか」
自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし胸の鼓動は早まり、呼吸が浅くなる。
そのとき──
『──あなた、何者ですか?』
耳元に囁きが落ちた。
心臓が跳ね、体が硬直する。
慌てて振り返る。
だが、誰もいない。
がらんどうの車内に、俺の荒い呼吸音だけが響いた。
「っ……!」
視線を走らせる。
空席、窓、吊革、床。
そこに異常は見つからない。
……はずだった。
一瞬、視界の端に黒い影が揺れた。
座席の隙間に、人影のようなものが立っていた気がしたのに、次の瞬間には消えていた。
「誰、だ……?」
震える声で呟く。
返事はない。
だが、「見られている」感覚だけは確かにあった。
窓に映る自分の姿を見る。
だが、その表情はわずかに歪んでいた。
笑っていないはずなのに、口角が上がっている。
そんなはずはないのに──瞬きをした途端、元の顔に戻っていた。
「……幻覚か?」
理性で否定する。
だが直感は囁く。これは幻覚ではない、と。
──カサリ。
紙の擦れる音。
視線を落とすと、座席の隙間に一枚の紙があった。
さっきまで何もなかったはずの場所に。
拾い上げると、黒いインクで文字が書かれていた。
『あなたが見ている時、私もあなたを見ている。気づいていますか?』
読み進めるごとに、胸の奥に冷たい棘が刺さる。
紙が手の中で震え、文字が滲むように揺れて見えた。
「……誰が?」
問いかけても、答えは返ってこない。
だが車内の空気が重く沈み、濁った水の底に沈んでいくような感覚が全身を包む。
紙を握り潰そうとした瞬間──
『──あなた、本当はここにいるはずの人じゃないでしょう?』
再び声が響いた。
今度ははっきりと、耳元で。
「……っ!」
慌てて振り返る。
だが、誰もいない。
それでも「存在」だけは確かにそこにあった。
視線の奥に、こちらを見据える何者かの気配。
圧迫感に耐えられず、紙を床に落とす。
カサリと音を立て、白い紙が裏返った。
その瞬間、車内の影がわずかに揺れた。
──足音。
コツ、コツと、誰かが近づいてくるような気配。
振り返る。
だが、そこには空席しかない。
心臓の鼓動が耳の奥を叩き、息が詰まる。
「……明日も、落とし物があるのか……?」
思わず零れた言葉。
だが声は空間に吸い込まれ、残響すら残さなかった。
ブレーキの音。
終点に着いた。
だが、今日だけはいつものように「忘れ物を確認する」ことができなかった。
最初から「忘れ物がない日」だったから。
──本当に、そうなのか?
窓に映る自分の姿が、ゆらりと揺れる。
それは確かに俺の顔のはずなのに、見知らぬ誰かの笑みに見えた。
「……何者、だ」
答えのない問いを口にする。
返事はない。
だが確かに、この車内には「忘れられない何か」が落ちていた。
それを拾うことが許されるかどうか──まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、今日という「忘れ物のない日」が、すべての始まりであるということだった。