表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第8話 忘れ物のない日


 5月3日。


 都会の喧騒も、田舎の静寂もない。

 良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。


『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』


 今日も事故らず、終点まで無事着いた。

 当たり前のことのはずなのに、アナウンスの声がどこか遠く響き、耳の奥でこだまする。

 まるで録音された音声ではなく、「誰か」が直接囁いているように。


『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』


 アナウンスが告げるその瞬間、胸の奥がちり、と痛んだ。

 忘れ物──それはこの数週間、俺にとってただの日課であり、退屈な仕事をわずかに彩る出来事であった。

 しかし今日は違った。


 車内を見渡す。


 ゴールデンウィークの真っ只中。

 普段なら、遊びに出かける家族連れや、駅前のショッピングセンターへ向かう若者たちで、車内は賑やかなはずだった。

 だが、今日の乗客は不自然なほど少なく、しかも全員が途中で降りてしまっていた。


 いつの間にか、終点に到着する頃には、俺ひとりしか残っていなかった。

 笑い声も話し声も、紙袋の擦れる音すらも消え去り、残されたのは空席と沈黙だけ。


 窓の外を見れば、眩しいほどの青空が広がり、街路樹が揺れている。

 舗道を歩く人々の姿もある。

 だが、車内だけは別世界のように時間が止まっていた。


「……今日は、何もないか」


 終点に着くと、俺はいつものように忘れ物を探す。

 傘、カバン、財布、ポーチ、ノート。

 昨日まで、必ず何かが落ちていた。


 だが今日は、座席をひとつずつ確認しても、何もない。

 すべての席が整然とし、ポケットも床も、完璧に片付けられている。


 異常なまでの「無」だった。


 まるで誰も物を落とさないように、見えない力が働いたかのように。


 だが、その「何もない」こと自体が、不気味さを増幅させていた。


 普段は、忘れ物があることこそが「人がここにいた」証拠になっていた。

 だが今日は、証拠が一切残されていない。

 まるで最初から誰も乗っていなかったかのように。


 ──背中に冷たいものが走る。


 ふと、車内の後方から微かなざわめきが聞こえた気がした。

 誰かの息遣い。布の擦れる音。


 振り返る。


 だが、そこには誰もいない。

 差し込む光に照らされた空席が並ぶだけ。


「……気のせいか」


 自分に言い聞かせるように呟いた。

 しかし胸の鼓動は早まり、呼吸が浅くなる。


 そのとき──


『──あなた、何者ですか?』


 耳元に囁きが落ちた。

 心臓が跳ね、体が硬直する。


 慌てて振り返る。

 だが、誰もいない。


 がらんどうの車内に、俺の荒い呼吸音だけが響いた。


「っ……!」


 視線を走らせる。

 空席、窓、吊革、床。

 そこに異常は見つからない。


 ……はずだった。


 一瞬、視界の端に黒い影が揺れた。

 座席の隙間に、人影のようなものが立っていた気がしたのに、次の瞬間には消えていた。


「誰、だ……?」


 震える声で呟く。

 返事はない。

 だが、「見られている」感覚だけは確かにあった。


 窓に映る自分の姿を見る。

 だが、その表情はわずかに歪んでいた。

 笑っていないはずなのに、口角が上がっている。

 そんなはずはないのに──瞬きをした途端、元の顔に戻っていた。


「……幻覚か?」


 理性で否定する。

 だが直感は囁く。これは幻覚ではない、と。


 ──カサリ。


 紙の擦れる音。


 視線を落とすと、座席の隙間に一枚の紙があった。

 さっきまで何もなかったはずの場所に。


 拾い上げると、黒いインクで文字が書かれていた。


『あなたが見ている時、私もあなたを見ている。気づいていますか?』


 読み進めるごとに、胸の奥に冷たい棘が刺さる。

 紙が手の中で震え、文字が滲むように揺れて見えた。


「……誰が?」


 問いかけても、答えは返ってこない。

 だが車内の空気が重く沈み、濁った水の底に沈んでいくような感覚が全身を包む。


 紙を握り潰そうとした瞬間──


『──あなた、本当はここにいるはずの人じゃないでしょう?』


 再び声が響いた。

 今度ははっきりと、耳元で。


「……っ!」


 慌てて振り返る。

 だが、誰もいない。


 それでも「存在」だけは確かにそこにあった。

 視線の奥に、こちらを見据える何者かの気配。


 圧迫感に耐えられず、紙を床に落とす。

 カサリと音を立て、白い紙が裏返った。


 その瞬間、車内の影がわずかに揺れた。


 ──足音。


 コツ、コツと、誰かが近づいてくるような気配。

 振り返る。

 だが、そこには空席しかない。


 心臓の鼓動が耳の奥を叩き、息が詰まる。


「……明日も、落とし物があるのか……?」


 思わず零れた言葉。

 だが声は空間に吸い込まれ、残響すら残さなかった。


 ブレーキの音。


 終点に着いた。


 だが、今日だけはいつものように「忘れ物を確認する」ことができなかった。

 最初から「忘れ物がない日」だったから。


 ──本当に、そうなのか?


 窓に映る自分の姿が、ゆらりと揺れる。

 それは確かに俺の顔のはずなのに、見知らぬ誰かの笑みに見えた。


「……何者、だ」


 答えのない問いを口にする。

 返事はない。


 だが確かに、この車内には「忘れられない何か」が落ちていた。


 それを拾うことが許されるかどうか──まだ分からない。


 ただ一つ確かなのは、今日という「忘れ物のない日」が、すべての始まりであるということだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ