第7話 写真立ての微笑み
5月2日。
都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。
良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。
車内に響くアナウンスは、淡々と、どこか義務的に流れる。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
連休の真ん中だ。
本来ならば遊びに出かける若者でにぎわっていてもおかしくないのに、なぜか終点に近づくほどに車内は静けさを増していった。
先ほどまでのざわめきが嘘のように消え、残像だけが座席の隙間に漂っている。
「今日は……バッグか」
後方の座席に、黒いナイロンのリュックがぽつんと置かれていた。
持ち主を示すタグもなければ、飾りもない、ごく普通のリュックだ。だが、手にした瞬間から妙に胸がざわつく。
中を開けると、まず目に飛び込んできたのは化粧ポーチ。
次に大学の教科書。そして底には、小さな写真立てが仕舞われていた。
「……沙希さんのか」
写真立てには、まだ幼い沙希と、その隣で笑顔を浮かべる今野智美の姿。
普段の沙希からは想像できないほど、あどけない笑顔がそこにはあった。
だが、その笑顔はどこかぎこちなく、硬直しているようにも見えた。
さらにリュックの奥を探ると、折り畳まれた一枚のプリントが出てきた。
紙を広げた瞬間、背筋が冷たくなる。
『无壙会・青少年プログラム 参加申込書』
記入欄には『今野沙希』の名前。
そして保護者署名の欄には、はっきりと──『今野智美』の文字があった。
「……無理やり、なのか?」
呟いた声が、がらんどうの車内に吸い込まれていく。
これは沙希が自ら望んだことなのか。
それとも、母の智美に強制されたことなのか。
考えれば考えるほど、答えは見えない。
ただひとつ確かなのは、このリュックが「母と娘の関係の重さ」をそのまま運んできたということだ。
化粧ポーチのファスナーを開けると、淡い香水の香りが漂った。
それは若い沙希の匂いでもあり、同時に母の影を感じさせるような、複雑な残り香だった。
母の影響が、娘の生活にまで沁みこんでいるのだと実感させられる。
教科書のページには、授業のノートが几帳面に書き込まれていた。
普通の学生としての顔。
だが、その隣に「无壙会」の申込書が並んでいるという事実が、強烈な違和感を放っていた。
このリュックには、彼女の二重の人生がそのまま詰め込まれている。
写真立てをもう一度見つめる。
無邪気な笑顔がそこにあるはずなのに、どこか不自然で、張り付いたように思える。
笑顔の裏に、言葉にできない感情が押し込められているのではないか。
そう考えると、額縁に収まった一枚の写真が、途端に恐ろしい証拠品のように見えてきた。
俺はリュックをそっと閉じ、膝の上に置いたまましばらく動けなかった。
これはただの忘れ物ではない。
母と娘、二人の人生の断片であり、互いに絡み合う影をそのまま形にしたようなものだ。
どんな事情があるのか、俺には知る術もない。
だが、このリュックを通してだけは、日常の裏側に確かに「深い影」が存在するのだと理解できた。
やがて、俺はリュックを元の席に静かに戻した。
誰のものでもない、ただの忘れ物として扱うしかない。
どんなに思考を巡らせても、胸のざわめきは消えない。
車内に満ちる静けさが、かえってそのざわつきを増幅させていく。
終点の車内には、俺とリュックが残した余韻だけが漂っていた。
忘れ物は確かに、日常の外側にある痕跡を俺に触れさせた。
今日の忘れ物は、これで終わりだ。
だが明日もまた、別の誰かの秘密が運ばれてくるのだろう。
そう思いながら、俺は重い足取りでバスを降りた。