第6話 献金の財布
5月1日。
都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。
良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。
アナウンスは相変わらず無機質で、感情の欠片もない。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
連休に入ったせいか、車内はいつもより混んでいた。
観光客らしき親子、重い荷物を抱える学生、そしていつもの常連客たち。
けれど今日は、ただの人混み以上の重苦しさを感じた。ざわめきの下に、何か見えない膜のようなものが張り付いている──そんな空気。
「今日は……財布か」
前扉から二つ目の座席に、黒い革の長財布が置かれていた。
ぱっと見はどこにでもあるような代物だ。だが、手に取った瞬間から、妙な緊張が走る。
財布を開く。
中に現金は、ほとんど入っていない。千円札が数枚と小銭。
だが、その代わりに、ぎっしりと領収書や銀行振込の控えが詰め込まれていた。
「……无壙会への寄付金?」
そう記された控えの文字を見て、思わず声が漏れる。
何十万円もの金額が、同じ口座へ繰り返し振り込まれている。
紙に印字された数字の列は、冷たく無機質なのに、どれも人間の血肉を削いで吐き出されたものにしか見えなかった。
目に留まったのは、領収書の宛名。
繰り返し記されているのは──「今野智美」。
「……智美さん?」
そう、沙希の母親だ。
普段は地味で、目立たぬ主婦に見える彼女が、これほどの金額を動かしているとは思いもしなかった。
家庭を切り盛りし、娘を育てるだけでも苦労は絶えないはずだ。なのに、なぜここまで。
財布を持つ手が、じっとりと汗ばむ。
これはただの忘れ物じゃない。
重さは紙の分量以上に、彼女の「選択」と「執着」が詰め込まれているように思えた。
「集めてるのか……それとも、差し出してる側なのか……」
考えれば考えるほど、霧の中に迷い込む。
智美は誰かの上に立って献金を集めているのか。
それとも、自分自身の生活を削ってまで金を差し出しているのか。
どちらにしても、この財布がその証拠を物語っていた。
頭の中で、智美の姿を思い浮かべる。
バスに乗り込むときの控えめな仕草。降りるときに見せる、曖昧な笑顔。
その奥に潜んでいたものが、この財布によって白日の下にさらされている気がして、ぞっとした。
もしこれが警察に渡れば、もし沙希が見てしまえば──。
そう想像するだけで、背筋が冷たくなる。
俺は財布を閉じ、膝の上でしばらく握りしめたまま、動けなくなった。
「忘れ物を確認する」という日課の範囲をはるかに超えている。
ただの紙切れが、なぜこんなにも胸をざわつかせるのか。
やがて、深く息を吐いて、財布を座席に戻した。
俺には、彼女の人生に介入する権利も力もない。
結局、これはただの「忘れ物」として扱うしかないのだ。
「でも……俺には関係のない話だ」
そう口にした言葉は、自分自身への言い訳にしか聞こえなかった。
忘れ物を確認するのは義務ではない。ただの習慣だ。
けれど、この財布は俺に、他人の『選択』と『罪』を突きつけてきた。
窓の外を見る。
初夏の風に揺れる木々の葉が、眩しい陽射しを受けてきらめいていた。
外の世界はあまりに明るい。だが俺の胸の奥には、黒い財布の影が張り付いたままだ。
「明日も……落とし物があると良いなぁ」
呟きは小さく、エンジン音にすぐかき消される。
けれど今日の忘れ物は、確かに俺の中に重く残った。
これは物ではなく、智美という一人の人間の「秘密」を乗せた証拠だったのだ。