第5話 黒いノート
4月30日。
都会の喧騒もなければ、田舎の静寂もない。良く言うと丁度良い、悪く言うと中途半端な日本のある場所で、今日もバスが走る。
『〇〇駅前……〇〇駅前……終点です』
今日も事故らず、終点まで無事着いた。
無機質なアナウンスが響く。
『お降りの際は、お忘れ物……落とし物にはご注意ください』
連休前のせいか、車内は普段よりも乗客が多い。スーツ姿の会社員、買い物袋を抱えた主婦、普段は見かけない学生たち。いつもの顔に紛れて、知らない声や匂いが混じると、妙に落ち着かない気分になる。
人波が降りていく中、ふと目に留まったものがあった。
「今日は……ノートか」
中ドアから右へ進み、段差を上った右手の席──そう、今野沙希がいつも座っている席に、それはぽつんと置かれていた。
大学ノート。表紙は無地で、名前すら書かれていない。落ちていたというより、わざと置き去りにされたかのように、座席の隅に横たわっていた。
恐る恐る開くと、目に飛び込んできたのは、びっしりと並んだボールペンの文字。
『母親なんて大嫌い』
『全部奪ってやる』
『笑顔は嘘、誰も信じない』
ページをめくるごとに、文字は次第に乱れ、線は歪み、紙を食い破る勢いでペンが走っている。最後の方には、黒々とした殴り書きで──
──見てよ私を
ただ、その五文字だけが残されていた。
息を呑む。心臓がどくん、と大きく脈打つ。
これは……ただの落書きではない。誰かに届いてほしい、いや、誰かに突きつけたい感情の断片だ。
俺の脳裏に、これまで耳にした噂がよみがえる。
──母親を助けるためにパパ活をしているらしい。
──无壙会に関わっているらしい。
それらの断片が、このノートの内容と重なった瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
「これは、ただの独り言なのか? それとも……」
呟きは、自分自身への問いかけだった。
沙希はいつも笑顔だった。誰にでも明るく挨拶し、席を譲ることも躊躇しない少女。だが、このノートに刻まれた言葉は、その裏側に潜む孤独と怒りを露わにしていた。
母への嫌悪、信じられない大人たち、壊れそうな心。
彼女はそれを、声ではなく文字にして吐き出していたのだろう。
俺はノートを握りしめながら、思わず想像してしまう。
学校で笑う沙希の横顔。
家に帰れば、母の影に押しつぶされるような日常。
そして、夜ひとりで、このノートに怒りや憎しみをぶつける姿。
目の前の文字は、彼女が必死に隠してきた「本当の顔」だった。
「……忘れ物で、いいのか?」
口にした瞬間、胸の奥がざらつく。
バスの中で出会う忘れ物は、ただの傘や本やポーチに過ぎないはずだ。だが、このノートは違う。これは持ち主の心そのものを丸ごと置いていったような、そんな異様な重さを持っていた。
このまま回収してしまえば、彼女の叫びは誰にも届かずに終わる。だが、だからといって俺が関わることなどできるはずもない。
結局、俺はノートを閉じ、そっと元の座席に戻した。指先にはまだ、殴り書きの黒いインクの感触が残っている気がした。
車内はすっかり静まり返り、エンジン音と俺の呼吸だけが響く。外の風景は夕方の光を浴びて橙色に染まり、窓に映る自分の顔がどこか知らない人間のように見えた。
「明日も……落とし物があると良いなぁ」
そう呟いた声は小さく、誰に届くわけでもない。
けれど俺の胸の奥には、確かに重たいものが残っていた。
忘れ物はただの物ではなく、誰かの秘密であり、心の断片だ。
そして今日、俺が触れたノートは──沙希という少女の苦しみを、誰よりも雄弁に物語っていた。